Web版 有鄰 第595号 ヴォイスパフォーマンスの深淵 /巻上公一
第595号に含まれる記事 2024/11/10発行
ヴォイスパフォーマンスの深淵 – 海辺の創造力
巻上公一
フィルが会場の向かいのオープンカフェでしおれている。「ひさしぶり、どうしたの?」と声をかけると、会場のアートギャラリーが想像していたものより、かなり小さかったのだという。バンクシーの生まれ故郷であるブリストルで、ぼくたちは声のデュオをする。
会場のエトワールスタジオは、300人で満杯である。バルセロナの大きな美術館で公演をしてきたばかりのフィルには、楽屋より小さな会場を見て、ぼくに申し訳ないと思ったようだ。会場を取ってくれたマットは、古くからのフィルの友だちでギターを弾き、主にノイズを出す。
フィルもぼくも楽器は持っていない。声だけのパフォーマンスである。叫び、囁き、歌い、喋り、笑い、唸る。声のあらゆる可能性を使ってのものだが、言語を遠くに遠ざけている。つまり声の音響にフォーカスしている。非言語的であるがゆえに、多くの地球人に通じるユニバーサルなものであると言える。
言ってみれば、赤ちゃんの豊かな遊戯が、知性でカタチになったような。音楽とも音楽でないともいえる曖昧な領域に位置する形態。それがヴォイスパフォーマンスなのである。
フィルことフィル・ミントンは、83才のイギリス人で、南西部トーキーの出身。いまはバースに住んでいる。マイク・ウェストブルックのビッグバンドでは、ウィリアム・ブレイクの詩『毒の木』を素晴らしいバリトンで歌い上げていて、歌手としての活躍もめざましい。『新しい人よ眼ざめよ』を書いた大江健三郎に聴かせたら、なんというだろうか。
ヴォイスパフォーマンスは、1960年代にフリーインプロヴィゼーションと共にイギリスで生まれたものである。デレク・ベイリーによれば、フリーインプロヴィゼーションは「記憶のない演奏」であり、ジャズのイディオムを持たない自由な直感に基づいている。ヴォイスパフォーマンスも然りである。
1920年代前後にはじまったフーゴー・バルやシュビッタースなどダダイストの音響詩と比べることもできると思う。ただし音響詩はあくまで書かれたものの朗読であり、即興性はなく、変わった声は出すだろうが、特別な声の発明をする必要はない。
ヴァイオリンはキーンからギコギコと、ピアノは弦に紙やネジが置かれ、ギターはテーブルの上で叩かれる。
このような演奏をする横で、歌い手は、何をしたらいいだろうか。楽器たちが通常の奏法を逸脱しているのに、声だけが安全地帯に安住していていいのだろうか。
ヒューマンビートボックスは、リズムボックスを口で模倣するところからはじまり、そのテクニックを競うものとして発展した。ヴォイスパーカッションやボティパーカッションはその流れの中にある。とにかく模倣である。
一方、ヴォイスパフォーマンスは、謎だらけである。自由に過ごせばいいのだから、正解もなければ、競うこともない。ラップみたいに言葉を紡ぎ、韻を踏むこともない。プリミティブでオリジナルな発想を重視する。
ぼくはフィルが企画しているferal choirをとても気に入っている。日本語で「野生の聖歌隊」と呼ぶ。10人ほどの参加者の声をフィルが3日間の稽古で野生に引き戻す。誰もが社会の中で、うまく生きるために声の制約を受けている。そのタガをはずして心身を解放するのが「野生の聖歌隊」だ。野生の鳥が籠に飼われ、ふたたび野生に帰る、というイメージだという。
さて、フィルとのデュオは、気心がしれているせいか、痺れるような展開で、声が自由に世界を探求してくので、いつまでも続けたかった。
(超歌唱家・詩人)
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