Web版 有鄰 第596号 蔦屋重三郎とその時代 /田中優子
第596号に含まれる記事 2025/1/1発行
蔦屋重三郎とその時代
田中優子
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- 二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木 三代目坂東彦三郎の鷺坂左内
東洲斎写楽筆 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp)
田沼意次と松平定信の時代を生きる
10月末に、『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』を、文藝春秋から刊行した。それまでも蔦屋重三郎については断片的に書いてきたが、まとめてみると、時代の節目をまたいだ人であることがわかってくる。
蔦屋重三郎は、二つのかなり違う時代を生きた。前半は1772年から1786年の老中・田沼意次の時代で、後半は1787年から1793年の老中・松平定信の時代である。たまたまこの二人の老中は、正反対の経済政策をおこなった。田沼意次は、町人から税金を取ることにした。大きなお金が商人たちのあいだを動いていたにもかかわらず、幕藩体制は農民の年貢だけで支えられていたからである。しかしそもそもそういう仕組みがない。そこで株仲間を作らせ、その仲間から、さまざまな許可を取引材料にして運上金をとった。商業は活性化した。しかし独占を認めることになる。そこに天明の飢饉による経済問題が重なり、田沼政権の信頼度は揺らいだ。息子の田沼意知が暗殺され意次は老中を罷免される。
松平定信の時代とは、寛政の改革の時代である。倹約令、統制令、農業復興、公金貸付や武士の借金の帳消しなど、商業の時代を、また農業中心の時代に戻すことだった。あいだに天明の飢饉という大事件が挟まるのだから、いたしかたがない。
ところで、田沼意次の時代を象徴する文化は、ひとつは平賀源内や蘭学者の活躍であり、もうひとつは「天明狂歌」という文学運動であった。田沼意次はロシアの南下を見据えた北海道調査を開始し、幕府主導の開国を目論んでいた。その道を探っていて反対派につぶされた可能性が高い。
『吉原細見』から洒落本、狂歌集、黄表紙へ
そしてまだ独立した版元でも絵草紙屋でもない若き蔦屋重三郎は、『吉原細見』の編集・小売業者として平賀源内と知り合った節がある。編集をした細見に源内の序文をもらっている。そのすぐ後で、蔦屋重三郎は独立する。源内が高く評価して出版界を賑わせることになった大田南畝は「天明狂歌」の中心人物となる。さらに蔦屋重三郎は、吉原遊廓の年中行事や遊女たちの文化的な価値を、その書籍によって次々と世の中に出し始めた。『青楼美人合姿鑑(せいろうびじんあわせすがたかがみ)』は、164人もの吉原遊女を、その茶の湯や音曲や香道や和歌のたしなみといった文化とともに、美麗に描いた本である。『名月余情(めいげつよじょう)』は、吉原の秋の祭「俄」を徹底取材して詳細な絵による記録にした本である。洒落本『娼妃地理記(しょうひちりき)』は、吉原を地図つきの観光地に仕立て、遊女を名所に見立てた本である。
やがて蔦屋重三郎の刊行した本は、当時影響力をもっていた大田南畝の評判記(批評書)『菊寿草(きくじゅそう)』に取り上げられるようになり、大田南畝と知り合う。そして狂歌集、狂詩集も出すようになった。まだ田沼意次が老中を務めていた1785年、山東京伝の『江戸生艶気蒲焼(えどうまれうわきのかばやき)』が刊行される。本を読んで恋の道にまっしぐらに進むことにした男を主人公にしたお笑いの黄表紙(漫画)である。すでに出版界で知られるようになっていた山東京伝と、蔦屋重三郎はしっかりつながりをもったのである。
時代の変化と人物画、風景画、美人大首絵
次の年の1786年、蔦屋重三郎は喜多川歌麿の最初の絵入狂歌本『絵本江戸爵(えどすずめ)』を、さらに次の年の1787年には『絵本詞の花』を出している。同時に代表的な狂歌集『吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょうかぶんこ)』その他を次々に出している。天明狂歌のピークであった。同時に、狂歌を使うことによって、浮世絵の幅がぐっと広がった。それまで人物一辺倒だった浮世絵の世界が、名所を描くようになったのだ。これがのちに北斎、広重の浮世絵風景画を呼び出すことになる。さらに、山東京伝が洒落本の傑作『通言総籬(つうげんそうまがき)』を刊行した。蔦屋重三郎がその本領を発揮したのが、この時期である。
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- 『画本虫ゑらみ』より 赤蜻蛉・いなご
国立国会図書館デジタルコレクション
この年代に注視してほしい。いよいよ、田沼時代が定信時代に切り替わる、ぎりぎりの時だ。翌年の1788年、喜多川歌麿は、浮世絵史上に残る絵入狂歌本の傑作『画本虫撰(えほんむしえらみ)』と、これも春画史上の最高峰と言われる『歌まくら』を出した。歌麿の才能が開花し、それを受け止めた彫師、摺師の技量がピークを迎えた。これらのプロデュースはすべて蔦屋重三郎である。
この年から、雲行きが怪しくなってきた。秋田藩士の朋誠堂喜三二が秋田藩から止筆を命じられ、駿河小島藩士の恋川春町が黄表紙を理由に呼び出されてそれに応じず、亡くなった。まだ武士に謹慎が求められる段階だった。しかしいよいよ町人作者にまで及んだ。1791年の『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』『錦之裏』『仕懸文庫(しかけぶんこ)』の三作の洒落本で、蔦屋重三郎は身上半減、京伝は手鎖五十日の刑となったのである。
それまでは時代設定を変えれば遊廓を舞台にした洒落本も刊行できたが、定信はそれでも好色本は許さない、と命令を厳しくした結果だった。これが定信時代に起こったことである。しかしここからが面白い。
まず、山東京伝は洒落本をやめた。そしてさっそく翌年から黄表紙(漫画本)に集中した。それも、遊廓を舞台にするのは中止し物語にした。
それがやがて長編化して「合巻」という絵入りの新ジャンルとなり、絵のほとんど入らない読本とともに、これらのジャンルが山東京伝の得意分野となった。この流れがあって、曲亭馬琴が出てくるのである。
一方、蔦屋重三郎も翌年すぐ、歌麿の「美人大首絵(おおくびえ)」をプロデュースする。
それまでにない顔へのクローズアップによって、浮世絵は別次元に入った。遊女だけでなく、高島おひさ、難波屋おきたなど一般の女性たちが、浮世絵を手にした人々の目の前に現れるのである。とにかく切り替えが早い。そして新たなジャンルをすぐに開発してしまう。
美人大首絵の発明は、次に向かった。1794年、蔦屋重三郎は写楽を発見する。どのようにみつけたのかは分からない。写楽は誰にも弟子入りをしていない素人である。その人に十か月の間、洪水のように役者絵を描かせた。どれも個性的で、それまでにない迫力である。歌舞伎の舞台を見続けてきた者の視線だ。
このように、蔦屋重三郎は自由な時代と取締の時代を生きたのだが、どちらでも新ジャンルを開発し、どちらも文化史上に残ったのだった。
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