Web版 有鄰 第597号 マグリットの空と私/長谷部 愛

第597号に含まれる記事 2025/3/10発行

マグリットの空と私

長谷部 愛

ルネ・マグリット「大家族」(宇都宮美術館所蔵)

ルネ・マグリット「大家族」(宇都宮美術館所蔵)

気象予報士になってから、見方が180度変わった作品があります。それは、ルネ・マグリットの《大家族》です。正直に言うと、学生時代にはダリやマグリットを代表とする一見しただけでは分かりにくいシュルレアリスムの作品にはあまり興味がありませんでした。しかし、この《大家族》だけは特別でした。鳥の形に切り取られた美しい青空は日本の初夏のような爽やかな雲と空を思わせ、背景に広がる荒れた海やくすんだ色の雲とのコントラストがとても魅力的でした。しかし、気象予報士になってから再びこの作品を眺めると、マグリットの描く青空が写実的なのに個性がなく、非常に気味悪く感じられるようになりました。

雲の描かれ方の歴史や空の地域性

まず、雲の描かれ方の歴史を紐解くと、西洋絵画において雲は古くから地上と天上をつなぐ役割を果たしてきました。宗教画では神々と共に雲が描かれています。その後、オランダの画家たちが空に浮かぶ雲をそのまま描くようになり、風景画が徐々に確立されていきました。気象条件によって雲の形が変わることなどを意識した科学的な見方を交えて空が描かれるようになったのは18世紀頃。J・M・W・ターナーやアレクサンダー・カズンズ、ジョン・コンスタブルなどがはじまりでしょう。偶然にもアマチュアのイギリス気象学者ルーク・ハワードが現代にもつながる雲の分類を作った時期とも重なっています。コンスタブルはルーク・ハワードの資料を読み、気象学を学んだと言われています。また、《雲の習作》として、その時々の雲をスケッチし、時間や風向き、天気を書き加えた作品を100点以上も残しているのです。このように描かれた雲は写実的で、天気の移り変わりや風、季節も感じられるような生き生きとした質感になります。その後の時代には、時間や季節で変わる風景の雰囲気を表現する印象派も登場します。その絵画から私たちは晴れや曇り、雨とコロコロと変わる天気だったり、豊かな四季があったりするヨーロッパの空を感じることができるのです。

また、空の色にも地域の特性は現れます。どんよりとした空に覆われることが多く太陽光が弱いイギリスのターナーやフランスのクロード・モネなどは、イタリアに行き、明るすぎるほどの光を感じて感動し、作品に残しています。実際に、オランダやイギリス、フランスの北部よりも、イタリアの空を描いた絵画は、透明感のある青や水色になっていて、まばゆい光を感じられるものが多いのです。この他にも、例えば、フィンセント・ヴァン・ゴッホで言えば、初期はオランダ、その後にパリ、最後には南仏に移り住んでおり、緯度が低くなるにつれて、だんだんと作品の中の空の色も明るくなっていくことが分かります。ゴッホは精神的な影響や空を明るく描く傾向のある印象派の影響があるので、一概に決めつけられませんが、並べてみると住む地域の日照時間や緯度と絵画の明るさの因果関係は少なからずあったと言えるでしょう。

マグリットの空の特徴

しかし、マグリットの描く雲や空には、天気の表情や地域性がありません。雲の並ぶ青空はマグリットの数多くの作品に登場していて、雲は積雲、わた雲と言われる初夏や夏を代表する雲です。雲の発達具合やほどよい厚みなどを感じられ写実的ではあります。ただ、その雲は不自然なほどに同じような形が何個も連なっており、自然物であるはずなのに一つ一つの雲の個性が全く感じられないのです。あえて言うなら、私たち日本人にとっては、青空の割合に対して雲が少々多いと感じることでしょうか。ただ、ヨーロッパでは雲が多く見られるため、青空のスタンダードも日本よりも若干雲の割合が多いとも考えられます。マグリットの青空がヨーロッパに住む人々にとって違和感のない典型的な青空なのかもしれません。また、青空に積雲というのは天気が崩れることがないため、大気の安定した青空を表現していて、移り変わりのない、時間をあまり感じさせない空を象徴しているかのようです。季節を伴った表現も見られません。さらにマグリットはベルギーで過ごしたのですが、ベルギーの空の色というには非日常的な明るすぎる鮮やかな青や水色が使われている作品が多いのです。空の色だけで言えば、晴れが多い南仏やイタリアなどヨーロッパでも緯度の低い所に住む画家のように思えます。

人は何気なく絵を描くと、その地域の空や天気の特性が自然と表れるものですが、マグリットの空にはそれらが無いのです。むしろ、故意に消し去っているとしか考えられません。そのため、日頃から自然の空やそれを表現しようとして描かれた風景画に親しんでいる私にとって、マグリットの描く空はとても気味悪く感じられました。

マグリットの空の狙いとは

そうなると、青空と曇り空の意味、さらには「大家族」というタイトルが何を象徴しているのかという所が気になり、自身の体験が呼び覚まされました。親に連れられて訪れた海辺でみた美しい青空や悪天候で急遽キャンプが中止になったこと。また、晴れた日には希望や喜びを感じ、曇りや雨の日には体調の不調や憂鬱さを覚えるといった天気の変化が私たちの感情に影響することを気象予報士として日々実感しています。こうしたことに紐づいて、古くから天気は希望や困難の比喩としても使われているので、好天と悪天が家族の空模様、家族が直面する紆余曲折を表現しているのではないかなどと様々に思い至りました。

これがマグリットの狙いだったと理解したのは、その後。美術書からマグリットは、好天と悪天という同時に存在しないものを隣り合わせにしたり、容易に想像できないタイトルをつけたりして、見る者に思考を促すことを意図していたことを知りました。ありふれた意味を持たない青空を描くことで、晴れの空にまつわる各々の価値観や思い出を呼び起こし、天気が人間の感情や関係性に与える影響を視覚的に表現しているのでしょう。天気予報では、例えば心地よい陽気というように気持ちに寄り添ってから、今後の天気や体感がどうなるのか明確に伝えることが求められるので、全く逆の発想でした。マグリットの様々な作品で空がモチーフになり得るのは、空という一つの要素が人々に大きく深く影響しているからこそだとも思い至りました。

一枚の絵からこれほど多くのことを考えさせられ、知らず知らずのうちにマグリットの狙いにはまっていたのです。マグリットにとっては、いい鑑賞者だったわけですが、意図を知る前だったからこそ自分なりに考えを広げることができたのではないかと思います。空の意味の広さや文化的価値をじっくりと考える機会にもなりました。現在では、調べてから教えてもらってからと、知識を蓄えて鑑賞することが多くなっていますが、芸術は自由に見て、さまざまな感情や思考を紡ぐことが醍醐味であることに改めて気づくことができました。私にとって、マグリットの《大家族》の鑑賞は時を超えたこれ以上にない豊かな時間でした。また20年後にはどんなことを感じるのか、楽しみです。

長谷部 愛(はせべ あい)

1981年神奈川県生まれ。気象予報士。東京造形大学非常勤講師。著書『天気でよみとく名画』 中公新書ラクレ 1,100円(税込)など。

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