Web版 有鄰 第597号 『セルフィの死』本谷有希子 ほか - 有鄰らいぶらりい

第597号に含まれる記事 2025/3/10発行

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『セルフィの死』

地下鉄の乃木坂駅を出てソラとの待ち合わせ場所に向かいながら、私(ミクル)はSNSのフォロワー数をチェックした。出がけに家で見たときから、数字は全く変わっていない。予定変更で入ってみたケーキ店は、老舗の隠れた名店だった。遅れて着いたソラとテラス席に行き、SNSに投稿するための自撮り写真の撮影を始めると、周囲からの迷惑そうな視線が険しくなっていく。私たちはパンケーキと撮影できないと死んでしまう種族なのだった。

インスタグラムで目にした写真を拝借し、自分のアカウントに載せた私は、元の投稿者を怒らせて対面での謝罪を求められる。謝罪の日、慣れない満員電車に乗って遅刻しそうになり、さらに激しい非難を浴びた。一段落して、私は生まれ変わったような解放感を覚えるのだが……。

フォロワー数が気になる毎日に疲れた私は、ふとスマートフォンを手放す。〈スマホを失ってみて初めて、自分はものの5分の待ち時間も自力で潰すことすらできない空虚の塊だったとわかる〉。投稿が“バズる”日が訪れ、一連の出来事から知る真実とは? スマホを手に七転八倒するミクルの姿を通し、“私たち”の自意識と承認欲求をあぶり出す。冴えたブラックユーモアと観察眼で、読者を引き込む長編小説である。

『セルフィの死』
本谷有希子:著 / 新潮社:刊 / 1,870円(税込)

『恋じゃなくても』

新居も決まり、結婚間近だった29歳の会社員・結木(ゆうき)凪(なぎ)は、婚約者に浮気され、途方に暮れていたところを一条(いちじょう)芙蓉(ふよう)に拾われる。78歳の芙蓉は、東京の下町に所有する小さなビルの4階に、凪を住まわせてくれた。

そのビルには芙蓉の亡夫が創業した「ブルーバード」という結婚相談所があり、芙蓉は相談役を務めていた。「真剣交際」していた藤原(ふじわら)裕樹(ゆうき)からプロポーズされ、藤原家代々の婚約指輪をもらったのに、なくしてしまったという31歳の水野(みずの)沙良(さら)。できる経験はしておきたいから、結婚を考え始めたという、とてもモテそうな34歳の平井(ひらい)勇人(ゆうと)。結婚にまつわる悩みを抱える人々が芙蓉のもとに訪れ、彼らの姿を見ながら、凪は元婚約者との破局を振り返り、自分はどう生きていきたいのかを考える。

〈正確に言えば、元婚約者のことは、好きでした。そうじゃなきゃ、結婚しようなんて思いません。でもそれが恋かと聞かれると、よくわからない〉。ずっと一人でいるのは寂しそう。一人の経済力で一生を終えられるか不安。親に結婚を促される。恋じゃなくても一緒に生きていけるのだろうか? やがて凪は、芙蓉の秘密を知る。恋愛だけではない、さまざまなつながりを問いかける、優しい読み心地の長編小説。

『恋じゃなくても』
橘もも:著 / 双葉社:刊 / 1,870円(税込)

『孤城 春たり』

江戸時代末期、備中(びっちゅう)松山(まつやま)藩の剣術指南役で、藩一番の剣豪を自認する熊田(くまた)恰(あたか)は、ある男を斬ろうと考えていた。男とは、藩主の板倉(いたくら)勝静(かつきよ)により藩の財政を司る「元締(もとじめ)兼吟味役(ぎんみやく)」に抜擢された、山(やま)田(だ)方谷(ほうこく)のことである。藩校・有終館(ゆうしゅうかん)で学頭を務め、私塾・牛麓舎(ぎゅうろくしゃ)を営む山田は、商家出身の学者に過ぎない。大抜擢を妬む者は多く、闇討ちに遭っても怪しむ者はいないだろう。恰は山田に近づくが――。

〈人が人に至誠を尽くすことを諦めれば、天下はますます乱れ、人心は荒れるばかりだ〉。先代藩主の時代に財政が大きく傾き、十万両の借財を抱えた備中松山藩で、山田方谷は無用なものを廃し、有用なものを取り入れる改革を進めた。財政はわずか7年で持ち直し、十万両の蓄財に変わる。板倉勝静は幕政に復帰し、老中首座として将軍慶喜を補佐したが、次は藩を取り巻く世情が混迷を極めていく。大政奉還後、朝敵とされた松山藩を支えたのも、方谷と門弟たちだった。

財政を建て直し、多くの人材を育てた山田方谷をはじめ、実直な熊田恰、牛麓舎塾頭の三島(みしま)貞一郎(ていいちろう)(中洲(ちゅうしゅう))、牛麓舎唯一の女性門人・お繁(しげ)、方谷の養子・山田(やまだ)耕蔵(こうぞう)ら、小藩の人間模様を描く。激しく移り変わる時代の中で、懸命に生きる人々を活写した、著者初の幕末群像劇である。

『孤城 春たり』
澤田瞳子:著 / 徳間書店:刊 / 2,420円(税込)

『綱を引く』

綱引きといえば運動会の種目を連想するが、実はオリンピックの正式種目だったこともあるスポーツ競技だ。競技綱引きは体重制で、8対8で引き合い、最後部の選手はアンカーと呼ばれる。

東京・蒲田の三栄(さんえい)通り商店会には、競技綱引きの強豪で、かつては東京代表として全国大会に出ていた「プルスターズ」というチームがあった。チームスポーツの綱引きで盛り上がる、商店会結束の象徴として活動していたが、選手の高齢化と長引く不況、さらにコロナ禍により、休眠状態になっている。ある日、留学生のケリー・オキーフが小学校の体育館で綱を見つけたことで、プルスターズ再起動の機運が生まれる。

蒲田で機械製造会社を営み、全盛期のプルスターズでアンカーを務めていた53歳の真島(まじま)晃生(あきお)が、2つ下の古参選手、田代(たしろ)圭介(けいすけ)とともに再起動に尽力する。真島の心に火をつけたケリーがアイルランドに帰って離脱する一方、女子の綱引きチームに入っていた朱音(あかね)が離婚をして真島家に戻り、新監督に就任した。長年チームを支えていたオーナーが入院、真島が腰を痛めて引退する波乱が続く中、若き逸材が現れる――。

スポーツ小説の名手が、競技綱引きを題材にしたスポーツ&人情小説。手練の筆致でぐいぐい読ませる物語だ。

『綱を引く』
堂場瞬一:著 / 実業之日本社:刊 / 1,980円(税込)

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