Web版 有鄰 第599号 うみのめぐりのめあて パポちゃんと深く、物語の海へ /中島加名
うみのめぐりのめあて――パポちゃんと深く、物語の海へ
中島加名
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- かこさとし/中島加名『くらげのパポちゃん』
講談社刊
祖父かこさとしの文章に絵をつける
祖父の遺した文章に向き合い、それに絵をつける作業を進めれば進めるほど、私自身が、私の描く海の色のなかに溶けて、漂っていくような、そんな不思議な感覚があった。
『くらげのパポちゃん』は出会いの物語である。それはたんに海の生きものたちと出会うと言うに留まらない。海のぜんたい――色、温度、生態系、記憶といった海のすべての「あやめ(文目)」と出会うことにまつわる物語である。か弱いミズクラゲのパポちゃんが、海のなかのさまざまな個性に出会う道すがら、海の温度や美しさにも敏感に反応しているようすは、文章にもよく示されている。だからトビウオのトビちゃんの背に乗って海上へ飛び出すシーンでも、目線は空に向けて描いてある。化けものカニへの恐怖や急展開への戸惑いよりも、初めて目にする空への驚きが勝るだろうと考えたからだ。
こうした世界の模様にどれだけの情報を読みこめるかは、物語に向き合う者の想像力にかかっているが、『パポちゃん』という物語のばあい、富吉くんという少年を取り巻く「願い」がそれぞれに表明されるところから、この物語はまず始まっている。
「な、富坊、町へいったら、死んだ甚吉さんのぶんまで
しっかりやるんだぞ」
「富吉がおかげでこんなに大きくなって、
働きにでかけてくれることを
お父にひとこと知らせてあげることができたらねえ」
この願いはそのまま富吉くんのものでもあるだろう。そして、父のない少年が離島という閉域から旅立つとき、彼が未来に寄せる想像力にたいして、次の想像力が思いがけず応答する。
「じゃ、富吉くんのお父さん、いまも海に沈んだまま、いるかもしれないね。
そうだといいんだけどなあ」
「うん、ボクさがしてみよう。
そして富吉くんのこと、知らせてあげるんだ」
たったこれだけの動機なのだ。だが、たったこれだけの動機だからこそ、かえってこのふたつめの願いは重い。口々に述べられる願いを目の当たりにしたことへの純粋な応答といえるからだ。
こうして文字どおりくらげのようにふわりと冒険を始めてしまうパポちゃんは、加古里子そのひとの引き写しだったのかもしれない。20代から30代にかけて、川崎の工業地帯で働きつつセツルメント活動に勤しんでいた加古は、目前に触れる子どもたちや社会にたいしてなんとかして応答し勇気づけたかったのではないか。仕事のあいま水辺に浮かぶくらげを眺め、物思いに耽ることもあったろうと加古の長女の鈴木万里は述べている。(『パポちゃん』「あとがき」)プカプカと浮かぶくらげのようすに、目の前の子どもたちだけでなく、自分の姿も重ねていたのかもしれない。二度と出会うことのできないものに、もういちど出会いたい――そうした願いの束に応えてこの物語は作られたのかもしれない。
その意味ではこれは、もう会えない祖父に私がふたたび出会おうとする想像力の物語でもあった。祖父との思い出を訊かれても、適当なエピソードを述べられずに悲しくなることがある。祖父の事績を知ったのも亡くなったあとからが大半であるし、なにより私にとってはただの家族だったから、あえては特別なやりとりはしなかった。哀しくも私が彼と向き合うためにできることは、想像することだけである。彼が何を見たのか、何をしようとしたのか、何ができなかったのか――この海を深く潜るときにめあてとなったのは、願いを、その不履行と、他の誰かによる代行まで含めて信じてやることだった。
ここでは想像力が入れ子になっている。富吉くんの見ることのできない世界でパポちゃんは彼の代わりに父を見つける。パポちゃんの見ることのできない世界で加古里子は、彼の代わりに子どもたちに物語を語る。加古里子の見ることのできない世界で私は彼の代わりに物語に絵をつける。この入れ子がひとつ増えるたびに、そこには新しい世界が加わる。
パポちゃんで描かれた日常
私にとっての新しい要素は『パポちゃん』の裏表紙だった。全体の作画作業がひととおり終わったあとに、「パポちゃんが冒険から帰ってきて身近な仲間たちと談笑するようすを」と編集に請われて描いたものだ。文章にはそこまでは書いていないからと思って、はじめはあまり気乗りがしなかった。旅に出たまま帰ってこないところにこの物語のおもしろさがあるというのが、この物語にたいする第一印象だったからだ。パポちゃんが旅から帰ってきて談笑する場面を描くということは、パポちゃんに友達がいるかどうか、または友達付き合いのできる性格なのか否かという問題に、ある程度の正解を与えてしまうことになる。そうした解釈は読者に委ねたほうがよいと思ったのだ。
だがいまにしてみれば、裏表紙を描いてよかったと思う。物語の外側を描かなければいけないとはつねづね考えていたのだが(当初の構想には島の町並みがわかる絵を冒頭に入れるというものもあった)、紙幅や私の能力の問題でなかなか実現できずにいたというのが理由のひとつではある。絵と言葉とがふたつながらにあって絵本が成り立っているのだから、言葉に表しきれていないことを絵で補い、絵に表しきれていないことを言葉で補う、というのは祖父がよく口にしていた絵本論でもある。しかしもっとも大きな理由は、パポちゃんの日常を描くことにあったといえる。先へ先へと送られていく入れ子の物語の端緒は富吉くんの願いにあったが、ここへきてこの構造が立ち戻るべきは、その願いのさらに手前にある物語――日常だからだ。
富吉くんが離島で暮らした日常。パポちゃんが仲間たちと語らった日常。加古里子が子どもたちと向き合った日常。私が過ごした祖父との日常。それぞれの日常のなかで少しずつ想像力は形づくられてゆく。祖父のよく口にしていた「賢い人間に育ってほしい」という願いは、その意味ありきではなかったか。他人に判断を委ねず、みずから考える力を彼は求めていた。冒険が始まるまえの、日常のなかで養われた想像力があったからこそ、パポちゃんは富吉くんの願いに応えなくてはならないという衝動に駆られたのだ。
『パポちゃん』が長らく世に問われなかった不遇な帰趨も、その解釈ではかえって一理ある。感情に衝き動かされることこそを加古は反省し忌避したはずなのに、パポちゃんはあまりにも純粋に目前の願いに応答してしまっているからである。そこでその自家撞着への折り合いとして、激情型の物語ではない方法で子どもたちと向き合いたいと考えたから、加古はそれ以降、科学絵本や遊びの研究に注力するようになったのではないだろうか。これは『だるまちゃん』シリーズを見ても明らかなように、そこで繰り広げられるのはただただ「子どもが出会って遊ぶだけ」というものである。もちろん「ワルモノをやっつける」型の物語もあるが、そこでは知恵や機転が物語の鍵となることが多い。賢さという人間の「あやめ(文目)」のうえに成り立つ基準を、絵本のテーマに据えたかったのだろう。
以上のようなことを、私は『パポちゃん』に絵をつける作業のなかでぐるぐると堂々めぐりをしながら考えていた。はたして、このうみをめぐる本当のめあては、祖父とともに過ごしそして今へと続く日常にあった。人間の賢さが測られるのは争いにおいてではなく、日常においてであるべきだと加古は考えたのだろう。争いを入れ子の玩具に包みこんでおくための想像力は、日常でこそ試される。
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