阿川大樹氏
横浜・黄金町に、狭い間口の建物が立ち並ぶ一帯がある。神奈川県警による集中摘発が2005年に行われるまで、800人以上の外国人女性が営業する風俗エリアになっていた。本書は、2009年から黄金町に事務所を構える阿川大樹さんが、五年暮らした経験をもとに描いた長編小説だ。
「20年前に横浜に越してきて、あちこち歩き回りました。ある夏の夕方、大岡川沿いを歩いていて、変わった場所に出くわした。売春エリアだとひと目で分かり、21世紀になろうという時代に驚くべき場所だなと思ったのが最初の印象でした。やがて警察の集中摘発が行われたと知り、それからの町の変化に関心を持っていました」
違法店舗が一掃され、アートによる町づくりが行われることになった。空き家の活用にアーティストを誘致する「アーティスト・イン・レジデンス」もその一環で、入居者の募集に応募した。
「2007年に発表した『D列車でいこう』で、主人公の一人が京浜急行に乗って黄金町を通るとき、昔の彼女のことを思い出すシーンを書いていたし、そこに入居者の募集があって、町に呼ばれた感じがしたんです。仕事場を構えた2009年当時、町はがらんとしていました。当初は”空っぽになったアンダーグラウンドな町”と思っていたのですが、住むうちにそれが本来の姿ではないと分かってきた。すると、黄金町を暗黒街ととらえる小説は書けない。町の人々が、平穏で安心な暮らしを奪った売春産業から、自分たちの町を取り戻す物語を書くことになりました」
物語は2007年、市立高3年の坂本志織が、風変わりな町と出会う場面から始まる。小さな間口のカフェや定食屋が並び、警官が見回りをしている。カフェのマスター・山名智英は、自分のことをアーティストだと名乗る。
「黄金町と出会ったときの僕自身の驚きを込め、町の外の人の視点を入れようと、志織を登場させました。戦争前からの町の変遷を知る徳さんも、架空の人物です。住んでいると知り合いが増えますが、事実に引きずられると書きにくくなる。虚構を乗せる空白をあけておきたくて、むしろ具体的な取材はしないようにしていました」
角にある店名から、通称パフィー通りと呼ばれる風俗街が、小学生の集団登下校ルートの中にある……。危ぶんだPTAや町内会の意見が少しずつ集まり、環境をよくするための協議会が立ち上がる、大きな流れになっていった。
「人はそれぞれに選択を積み重ねて生きていて、町というのは、そこにいる個人個人の選択の総意で動く。黄金町の場合は、自分たちの町を取り戻す方向へ、人々の総意が揃っていったケースだったと思います。住民たちの”総意”という勢力が、アンダーグラウンドの勢力を押し切った。一方、外国人女性にとっても黄金町は生活の場だっただろうし、通りすがりに挨拶を交わせばそこに人間関係が生まれるものです。町をめぐる、あらゆる立場からの視点を取り込みたかった」
1954年、東京生まれ。東京大学在学中、野田秀樹らと劇団「夢の遊眠社」を設立。電機メーカー技術者、シリコンバレーの半導体ベンチャーを経て、1999年「天使の漂流」で第16回サントリーミステリー大賞優秀作品賞。2005年『覇権の標的』で第2回ダイヤモンド経済小説大賞。主著に『フェイク・ゲーム』『幸福な会社』『あなたの声に応えたい』など。
「小説家になりたいと中学生の頃から思いながら、エンジニアの仕事も面白くて、熱中しました。高校の同級生が40代で事故死したとき、平均寿命と個人の人生には何の関連性もないのだと強烈に意識して、シリコンバレーの会社を閉め、小説家志望者専業になりました」
現在、「黄金町バザール2014」が開かれている(11月3日まで)。狭い間口の建物がさまざまにリユースされ、常に変わり続ける町の中にいて、アーティストの生き方に刺激されている。
「腹が据わって、自分のアイデンティティを肯定していられたら、人間は幸せなんじゃないかと思います。幸せの種類は一つだけじゃない、人生って結構楽しいし、生きているっていいよねという幸福の多様さを、小説を通して伝えたい。会話ではすぐに反論されるから、フィクションの中のリアリティとして、さまざまな幸福の形を見せていきたいと考えています」
(青木千恵)