Web版 有鄰

557平成30年7月10日発行

虫の楽しみ – 1面

養老孟司

虫も見ないで人生なにが面白い

虫が好きで、年中虫を見ている。幼いころ母親によく言われた。

「どこが面白いのかねえ、虫なんか見て。」

いまでも多くの人の感想は、これではないか。でも虫の面白さを説明しようとすると、言葉に窮する。そこでアッと思う。人生、言葉にならないことが、じつはいちばん面白いんじゃないか。懸命に生きているって、そういうことでしょ。その当座は夢中だから、言葉にしている余裕なんかない。ただひたすら、面白いというしかない。

身体を動かす楽しみには、多かれ少なかれ似た面がある。スキーの面白さを言葉で伝えることは結局できない。自分でやってみるしかない。ネットやフェイスブックの世界から、時々は出てみたらいかがですか。私は80歳の爺さんだけど、先日ラオスで1週間、虫採りをして帰ってきた。それで自転車に乗ったら、いつも危ないなあと自分で思うんだけれど、なんとまったく怖くない。体が思うように自由に動く。いかに日常が運動不足か、それを痛感した。

虫の楽しみの第1は、外に出て虫を探すことである。無理に探さなくても、虫は勝手にいることはあるが、探せばもっといる。虫のいる場所はじつにさまざま。森や野原は当然だが、河原、池、海辺、要するにいたるところ。凝ってくると、外国にまで出かける。野球やサッカーのようなスポーツと違って、場所の制限がない。どこでもいい。だからいまでは意地悪な人がいて「ここでは虫を捕ってはいけません」などと言う。虫を捕らないことで、虫を大切にしているつもりらしい。虫が減る理由は、客観的には明瞭である。環境破壊に決まっている。1台の車が廃車になるまで、何匹の虫を殺すか。高速道路を走って、フロントグラスを見たらわかるでしょ。タイヤでも踏んづけているしね。

執筆者の標本箱

執筆者の標本箱

まあ、そういうやかましい話は置くとして、次は見つけた虫を持って帰って、飼育する、標本にする。これが第2段階の楽しみ。知り合いに日がな1日、標本を作って飽きないという男がいる。会社も辞めてしまって、ひたすら標本作成。それじゃあ食えないだろう。本人もそれを心配して、なんとかしてくれという。そう言われたって、こちらも困りますわ。でも気持ちはわかる。この人に標本の清掃を頼んでいるから、私の標本はピカピカ、きれいなものである。先日は丸2日を掛けて、私の標本箱を全部磨いてくれた。

そこで第3の段階。虫の標本を並べて、比較して、あれこれ考える。ここまで来ると、かなり病気が進行しており、もはや後戻りはない。世間では新種の発見などというけれど、虫によっては新種の方が多い。まだ人間が名前を付けていないのが新種で、だれもよく調べていないグループなら、新種だらけである。私の家にも、おそらく何百というゾウムシの新種があるはずである。たまに名前を付けたりするが、面倒くさいから、おおかたは放置状態。

この標本を見るという楽しみ、これはなかなかのものだけど、この段階まで行けば、いちおう大学院クラスである。ここから先はほとんど専門家の世界になる。

「虫なんか見て、どこが面白いの」。話はそこから始まったが、楽しみを順繰りに数えていくと、話が逆転する。「虫も見ないで、人生、なにが面白いの」である。友人の池田清彦がオーストラリアに虫留学していた時のこと。平日の朝っぱらから、虫採りの友人が虫採りの誘いにやってきた。「人生は短い、虫を捕らないで働いている暇なんかない」。それが誘い文句だったらしい。

虫の仲間は日本中にいるし、世界中にいる。ロンドンの自然史博物館で、ロシア人の専門家と出会った。2人で中華料理を食べに行った。数日後に同じ店で、関係のない日本人に「ロシア人と一緒だったでしょ、なにを話していたんですか」と尋ねられた。その人の旦那さんはイギリス人で、ロシア問題の専門家だという。たまたまその人が同じ中華レストランにいて、日本人とロシア人の組合せが熱心に話をしているのを見て、好奇心に駆られたらしい。残念ながら007に出てくるような話にはなりませんよねえ。たかが虫なんだから。その後もイギリスとロシアはなにかと揉める。詳細はわからないけれど、古い表現をすれば、諜報の世界も大変なのであろう。アンテナをいつも張っているらしい。それに私が引っかかっただけのこと。

甲虫類の中で最も種類が多いゾウムシ

私が調べているゾウムシは、きわめて種類が多い。じつは生きもののグループの中で、昆虫がいちばん種類数が多い。その昆虫のなかで、甲虫類がいちばん種類が多い。その甲虫の中で、ゾウムシがいちばん種類が多い。なんだかわからなくなった。そういう人もいるかもしれないが、ともかくゾウムシは種類がむやみに多いのである。

なぜそうなったか。つまり住んでいる環境が広い。あっちにもこっちにもいる。森にもいるし、原っぱにもいるし、砂漠にもいる。池にもいる。落葉の下にもたくさんの種類がいる。枯木、朽木につくものも多い。お米につくコクゾウムシなら、古い人は知っているはずである。いまはコクゾウムシが付いたお米なんて、有機で育てた産地直送のお米でないと、お目にかかれない。

コクゾウムシはオサゾウムシというグループの1種である。日本では2種類が知られるが、じつはもう1種類、世界中に広がっているのがいて、これが日本で見つかると、公表しないでくれと言われると聞いた。べつに気にすることなんかないのに。コクゾウムシが付いた米は毒でもなんでもない。コクゾウムシが元気に育っているんだから、食品としての安全証明みたいなものである。見えない農薬なんて、いくら食べさせられているか、知れたものではない。はっきり言うけど、現代人はその意味ではほとんどバカである。見えない農薬なら平気、見える虫だとキャッと叫んで逃げる。

先年、ブータンに行った。たまたま建物の白壁に小さな黒い点がたくさんついていたので、近寄ってよく見たら、コクゾウムシ。その家はお米屋さんだった。コンクリートの水槽みたいな入れ物に、大量のお米を入れている。ブータン人は殺生をしないので、コクゾウムシも殺さない。だから米屋の壁にコクゾウムシがたくさんついている。こういう国が私は大好きなんですよねえ。

普通に知られているゾウムシと言えば、あとはクリシギゾウムシであろう。栗の実に入っている虫である。秋ごろに落ちている栗の実を拾うと、中にクリシギゾウムシの幼虫が入っていることが多い。この虫もクリだけを食べているんだから、べつに虫ごと人間が食べても問題はない。虫が付いた作物はダメだなんて、だれが決めたんですかねえ。虫の食べ残しが気に入らないなら、虫ごと食べてしまえばいいのである。

ラオスに行くと市場で虫を売っている。どういう虫かって、ありとあらゆる虫である。ある時、見たこともない大きめのゾウムシを何匹もまとめて売っていたので、買ってしまった。まだ十分に調べていないが、どうも新種のような気がする。コオロギだのカメムシだのは常連で、糞虫すら売っている。アリだって売ってますよ。どうやってあんなもの売るのかって、巣を売るんですけどね。じゃあ地面を掘るのか。違います。葉っぱを束ねて巣にするアリがいるんですよ。説明が面倒くさいから、ラオスに行って、自分で見てくださいね。

日本でも信州なら、好んで虫を食べるのは、ご存知であろう。イナゴやハチは当然のメニューである。タンパク質の補給だなどと、理屈を言うけれど、ハチの子やゾウムシの子はおいしい。当り前だが、おいしくなければ食べませんよ。

自然とのつながりを感じさせてくれる存在

若者にいつも言うことがある。田んぼや畑は将来の君だよ。田んぼに稲が育って、コメという実がなり、それをあんたが食べる。あんたの始まりは、直径たった0.2ミリの受精卵ですよ。それが何十キロという大きさになる。その何十キロはどこから来たのか。たとえば田んぼでしょうが。魚を食べれば、海があんたの一部になる。それなのに、田畑も海も、俺と関係ない。そう思っているのが現代人である。そういう人たちに、虫と自分のつながりを説くのは、面倒くさい。

虫もあなたも、同じ生きもので、祖先から連続してつながっている。実感としてそう思えないのは、都市化が進んで、野山も田畑も生活から遠くなったから仕方がない。でも時にはいわば「我に返って」、世界を考え直してみてくださいね。そうした自然とのつながりを身近で感じさせてくれるものとして、虫ほどいいものはない。あちこちにいて、何をしているのやら、よくわからないけれど、なんだか必死で生きている、という感じがするじゃないですか。

生きるとはどういうことか、私はそれを虫や動物から学んでいる。思えば現代人は、仕方がないから行きがかりで生きている、という感じがしないでもない。まあそれでもいいけれど、必死で生きている生きものの姿は、本当に美しいんですよ。

養老孟司氏
養老孟司 (ようろう たけし)

1937年神奈川県生まれ。東京大学名誉教授。著書『バカの壁』新潮新書 680円+税、『半分生きて、半分死んでいる』PHP新書 860円+税 他多数。

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