Web版 有鄰

561平成31年3月10日発行

志ん生を聞いてごらん – 1面

岡崎武志

「いだてん」の語り手・古今亭志ん生

今年始まったNHK大河ドラマ「いだてん」は、「東京オリムピック噺」と副題で銘打つ通り、日本がオリンピックに初参加した1912年ストックホルム大会から、64年東京オリンピックまでを扱っている。ここで、物語の牽引役として登場するのがビートたけし扮する古今亭志ん生だ。志ん生自身の明治末年から昭和の人生も並行して描かれるとあって、重要な役どころ。これをチャンスと、テレビ、雑誌で特集が組まれ、関連書籍の再刊、CDの発売など、ちょっとした志ん生ゴールドラッシュが起きている。

石原裕次郎も美空ひばりも手塚治虫さえ知らない世代に、この不世出の落語家を知ってもらうとすれば、いい機会だ。生きかたそのものを乗せた自在の語り口、逸話だらけの破天荒な人生は、現在で言えばこういう人と比較できる対象がいない。ワン・アンド・オンリーとは、この人のためにある言葉ではないかと思う。

そういう私だって、1957年生まれの大阪育ちで、志ん生の生前を知らないし、生の高座も聞いたことがない。落語そのものは好きだったが、もっぱら桂米朝、桂枝雀、笑福亭仁鶴など上方に限られていた。90年春に上京し、ようやく江戸落語に触れ、親しむことになる。東京生まれのオールド落語ファンに言わせれば、それでは話にならない、と言われても仕方がない。しかし、テープ、レコード、CDで志ん生に触れ、2冊の自伝や数々の志ん生を論じた本を読むことで、私は救われた。落語そのものが素晴らしく可笑しいのはもちろん、常識を大きくはみでた志ん生という存在を知ると、一言で言えば、まあ、細かいことはどうでもいいじゃないかという気分になれたのである。悩み苦しみ、つらいことがあった時、高邁な哲学書や宗教書を読むより、それは効果があった。私は本気でそう思っているのだが、志ん生を知っていると知らないのとでは、人生そのものに大きな差が出来るはずだ。死にたいと思っている人の1割ぐらいは、志ん生を聞くことで救えるのではないか。

その生涯を小説化した結城昌治『志ん生一代』の冒頭にこうある。

「五代目古今亭志ん生、本名美濃部孝蔵、命名には親孝行をして蔵のひとつも建ててくれという願いがこめられていた。

しかし、孝蔵は十五歳のとき家を飛び出したきり両親の死に目にあうこともなく、生涯借家住まいのまま八十三歳でこの世を去った。昭和四十八年九月二十一日、家人も気づかないうちに、とろとろと眠るような往生であった」

これだけ読むと、お伽話のような一生に思えるが、とんでもない。地を這うような苦節や苦難が続き、落語家としてスポットライトを浴びたのは満州から帰国した昭和22年以降、57歳ぐらい。男性の平均寿命が80を超える現代の話ではない。昭和22年では50歳。戦死者が多いことを差し引いても、60目前は晩年に近かった。また、本名が美濃部孝蔵というのが、何とも笑わせる。名は体を表すというが、まったく表していない。美濃部の本家は幕府直参の旗本であったと聞けば、仰々しい名前に納得もいくが、硬い一方の名前のイメージとは正反対の人物だ。とてつもない、いい加減な男でもあった。結城は別の文章で指摘する。聞き書きの自伝『なめくじ艦隊』『びんぼう自慢』を精査すると、自分が生まれた日付から両親の名前まで間違っていると言う。「こういうのはさすがに珍しい」と書く結城の筆が、どこかうれしそうだ。いかにも志ん生らしい。そうあって欲しい、そのままの人だ。

人物像の造形に長けた唯一無二の落語

志ん生を語る時、必ず比較として名前が出てくるのが八代目桂文楽。長嶋と言えば王、というようなものか。2人はまったく違ったタイプの名人として同時代を生きた。演芸評論家・矢野誠一の評が、2人の特徴、違いをよく捕らえている。

「桂文樂が、一点一画をおろそかにしない、楷書の藝で落語を構築してみせれば、古今亭志ん生の藝は、まさに草書であった。なにを、どうしゃべっても落語になってしまうし、また、しておおせる落語家というのは、このひと以外いなかった」

言葉でいくら説明しても、この違いの本当のところは、2人の落語をCDでもユーチューブでも聞いてもらわないと分からないだろう。言えることは、文楽の芸は継承されて、また同様の名人を生む可能性を残すが、志ん生においては、到底考えられないということだ。いや、絶対にありえませんね。志ん生が、もう1人出てくるなんて。

数ある十八番のなかで、私が好きなのは「火焔太鼓」「黄金餅」「たぬさい」「妾馬(めかうま)」といったライン。つまり滑稽噺である。特に志ん生演じる「妾馬」が好き。何度聞いても飽きないのだ。それはこんな話。

長屋の大家が、博打好きの八五郎を呼んで話をする。大名に見初められて輿入れをした八五郎の妹・お鶴が男の子、つまりお世継ぎを出産した。ついては、祝賀のため、兄の八五郎を屋敷へ呼ぶという。難しい言葉に四苦八苦する八五郎と、威張った側用人・三太夫とのやりとりがあって、大名・赤井御門守とお鶴に対面。これを機に、職人だった八五郎が取り立てられて出世をするところから「八五郎出世」という別題がついている。

私は、最初の大家と八五郎の会話がたまらなく好きだ。八五郎に、「お前の妹、お鶴がお世取りを生んだ」と言うと、「へえ、そいつはオレのせいじゃない。因縁だねえ。鳥なんぞ生んじゃっちゃあしょうがねえ」と、まるで話が通じない。以下、やりとりが続く。

「鳥じゃない。およとり」
「みみずく?」
「男の子をお産みなさったんだ」
「へえ、カッパ野郎」

と、この畳み掛けるようなギャグの応酬が素晴らしい。もの知らずで、ぞんざいな職人の風情が、志ん生の手にかかると、じつに生き生きとしてくる。志ん生得意の枕に、吉原へ女郎買いに行くカエルの話があるが、どうも小動物をネタにすると、独特のおかし味がかもしだされるようだ。ただ、当人は「特に動物は好きじゃない」と発言しているようだが……。博打、酒好きのどうしようもない人物は、落語の世界ではヒーローとなる。志ん生は、そんな人物像の造形に長けていた。

苦難を乗り越え落語家として大成した晩年

というのも、志ん生の人生そのものが、まるで落語のようだったからである。これは有名だが、最初の芸名・三遊亭朝太に始まって、古今亭志ん生を名乗るまでに、なんと16度も改名している。ひどい例は、昭和元年。4月に「古今亭馬生」に改名したのを、すぐに「ぎん馬」にして、柳家三語楼門下に入り、柳家東三楼に改めている。さすがにこれはやりすぎだ。客が名前を覚える暇がないではないか。それだけ名が売れていなかったのと、借金取りから逃れるために改名をしたケースもある。師匠から預かった羽織を質に入れて飲んでしまう。結婚した翌日に、もう吉原へ女郎買いに行く。家賃がいらないというから、なめくじが大量に発生する貧乏長屋に住む。いずれも、そのまま落語に出てきそうなエピソードではないか。

こんな話も私は好きだ。親交のあった宇野信夫が書いている。東京では寄席に出られない志ん生は、名古屋の寄席へ行く。「文長座」は、売れない落語家をよく引き取って、高座へ上げた。その名古屋から珍しく、宇野のもとへハガキが来た。志ん生からだ。そこにはこう書いてあった。

「毎日することがないので銭湯へ行き、一日中お湯につかっています。名古屋城の金のシャチホコのウロコ一枚とる工夫ありませんか」

向うへ行けば酒が飲めるという理由で、すでに戦況悪化の一途をたどる昭和20年5月に、志ん生は円生と満州へ渡る。死ぬような思いをして、昭和22年1月に帰国。ガリガリに痩せて、57歳になっていた。高座に戻った志ん生は、見違えるような芸人に変貌していた。以後、昭和36年12月に脳溢血で倒れるまで、快進撃が始まる。黄金期が60近くになってから、というのが凄い。私が知る志ん生は、この黄金期だ。「満州での苦労が、人間をひと回り大きくし、それが芸の幅をひろげたのだ」と見るのは小島貞二。小林信彦は「志ん生の、明るく、荒涼としたユーモアがニヒリズムに裏づけされている」と評している。「負」の札を、全部揃えて、最後に「正」へ裏返したとも言える。

志ん生は、いかにも彼らしい川柳を多数残している。

耳かきは月に二三度使われる

気前よく金を遣った夢をみる

干物ではさんまは鯵にかなわない

言訳をしているうちにそばがのび

ビフテキで酒を飲むのは忙しい

三助が着物を着ると風邪をひき

下らないと言えば、あまりに下らない。俳味まで至らぬ滑稽が、野方図で、どこか悲しい。とにかく、古今亭志ん生を聞いてごらんと、心の底からそう思うのだ。

岡崎武志氏
岡崎武志(おかざき たけし)

1957年大阪府生まれ。ライター。
著書『人生散歩術』芸術新聞社 1,800円+税。『人と会う力』新講社 1,600円+税 他多数。

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