Web版 有鄰

526平成25年5月1日発行

98歳、現役報道写真家 – 2面

笹本恒子

96歳になる年に年齢を公表して「恒子の昭和」展を開催

96歳になるまで、わたくしは自分の年齢を公表していませんでした。「その年齢で写真が撮れるの?」といった先入観を持たれたくなかったからです。問われると、「ごめんなさい、わたくし、歳はございません」と答えていました。76歳から始めた明治生まれの女性たちの取材では、3つ、5つほどしか違わない方に「あなたはまだお若いから」と言われて、「実はそんなに変わらないのに……」と内心で思っておりました。


笹本恒子氏 撮影・小西康夫

そうするうちに、「あら、数えてみればもうすぐ100じゃない。もう、年齢を明かしてもいいかしら」と思い始めました。平成22年(2010)4月、都内のギャラリーで開かれた「小西康夫写真展」にうかがい、久しぶりに会った方々と楽しく話すうち、何の気なしに初めて年齢を明かしました。するととても驚かれて、わたくしのお誕生日に写真展を開く企画が生まれました。

同年9月、「恒子の昭和」展が開かれ、「96歳の現役報道写真家」と全国紙で報じられて、わたくしの生活は一変しました。取材や講演の依頼が相次ぎ、現在、大変な忙しさです。


文楽の説明を聞くヒトラーユーゲント/昭和15年(1940)/撮影・笹本恒子

急に年齢が注目されて、正直なところ「困ったな」とも思います。わたくしはずっと仕事を続け、”明治の女性たち”シリーズなど、本を何冊も出版してきました。フランスへ、アメリカへ、年齢を気にせずに海外取材もしていましたから。

とりわけ健康に気を遣ったり、若く見せようと派手なものを身につけたりしたわけでもなく、普通だと思います。強いて挙げるとしたら、毎晩欠かさずにグラスに1杯の赤ワインをいただくことでしょうか。食事は三食を自分で作ります。夕食は170ccの赤ワインをいただく分、カロリーを考えて主食はとりませんが、おかずはお肉が多いですね。たまのお魚は生が好きで、白身のお刺身をいただき、残りは野菜とマリネにして翌日の副菜にします。先日は大きな牡蠣を買ってきて、フライにしたら美味しかった(笑)。ジュウジュウいっている揚げたてのカキフライに、レモンを少し絞っていただいたら最高に美味しい。

化学調味料が苦手で、だしも昆布や鰹節などから手作りします。父が「食べ物を倹約すると、人間性が貧相になる」とよく言い、子供の頃から食べることをとても大事に育てられました。

昼は洋裁 夜は絵画研究所に通った10代

もともとは絵描きになりたくて、10代のとき、昼は洋裁を勉強し、夜は絵画研究所に通いました。研究所の生徒は男子ばかりで、女子はわたくし1人。わずか4か月足らずでしたが、ここで出会った人が素晴らしい方たちで、「ドストエフスキーが面白いよ」と翻訳物を薦めてくれるなど、大きな影響を受けました。その頃の学生は、文庫や単行本を何冊もベルトで束ね、教科書のほかに必ず何かの本を持って歩いていましたね。

わたくしも子供の頃から本が好きで、寝る時間になっても寝たふりをして、母が照明を落として子供たちの部屋から出て行った後、こっそり、本の続きを読んでいました。女学校ぐらいになると岩波文庫を持ち歩き、目録に印をつけては、ツルゲーネフやジイドなどを読んだものです。有島武郎の『生れ出ずる悩み』を読んだときはとても感動しました。絵を描きたいと一途に志す人物が登場していて、とても印象的でした。

そんな記憶を振り返ると、人間が知識をとてもよく吸収するのは、10代から20代前半のことなのだなと思います。3年ほど前、『ドルジェル伯の舞踏会』の中で覚えていた文章を書き、本と照らし合わせてみると違っていました。わたくしがその文章を読んだ当時、昭和初めの訳を調べると、覚えていた通りの文章でほっといたしました。このときにつくづく思ったのは、「勉強が大事」だということ。10代から20代前半にかけての記憶力は凄い、たくさん吸収しておくことですよと、若い人たちに言いたいですね。その時期を過ぎてからでもいいから、本を読み、ものを書いて、自分を養い育てること、努力することは大切です。

1日1行でも三行でもいいから、日記を書くといい。その日にあった出来事と、自分はどう思ったかの感想を書いておく。自分で考え、意見を持つ習慣がないと、すべてがお仕着せになってしまいます。今、「やることがない」と多くの方がおっしゃり、付和雷同してしまうのは、既製品が増えたからだと思います。昔は今ほど世の中が便利ではなく、皆さん、知恵を絞って生活していました。辛く苦しい戦争を乗り越え、「生きていこう」と体いっぱい働いて、焼け野原を復興させたのは戦前に生まれた人々です。

わたくしは、布を見ると、どんな洋服を作ろうかしらと、頭を働かしたくなる。ものを生み出す、作るとは、頭と手を働かせることです。それをしないで、「できない」「才能がない」と諦める人が多い。才能というのは、磨くものです。お習字をしたり、絵を描いたり、「こうしたいな」「やってみようかな」と何かを思いついたら、まずはやってみること。あわてなくてもよくて、自分が「これをしたい」と思ったら、どれだけ回り道をしてでもいいから、先を目指してマスターするのが大事ではないかと思います。

明治生まれの女性たちの気骨と仕事を写真で表現

およそ20年のブランクを経て、昭和60年(1985)に写真展「昭和史を彩った人たち」を開催し、わたくしは再び仕事を報道写真家一本に絞りました。71歳のときです。平成2年(1990)の春から、明治生まれの女性たちの取材を始めたのは、女性でありながら、小説、絵画、音楽、あらゆる分野において立派な仕事をされた方が、明治生まれの方々の中にすでにいた事実に感銘を受け、その気骨を取材し、撮影して伝えたいと思ったからでした。佐多稲子さん、三岸節子さん、加藤シヅエさん……。明治の女性たちの努力を考えると、女性のバイタリティは凄い、もっと女性の進出が目立ってもいいと思います。振り返ると、50代、60代は人生の爛熟期です。人間のいろいろな知識が熟成して、いちばん充実するときでしょう。

わたくしの母は、昭和15年(1940)3月、数えの60で亡くなりました。一昨日、お墓参りに行って、ああ、お母さんが亡くなって73年、わたくしがカメラを手にして73年――と、思いました。母は、家族全員の着物をちくちく縫ったり、布団の綿入れをしたり、男子ばかりの絵の研究所に、父に内緒でわたくしを通わせてくれました。そういう点を思い返しても、母を裏切ることはできないと、ずっと思っています。

笹本さん著作
最新刊 『笹本恒子の「わたくしの大好き」101』 宝島社:刊

いまは思わぬ忙しさになりましたが、有名、無名にかかわらず、いいお仕事をされている方々に会い、写真を撮りたい。写真と文章によって伝えたい、残したい。わたくしの頭の中には、その意識がいつもあります。ジャーナリストのむのたけじさんは、戦争が終わったときに記者として責任を感じ、朝日新聞を退社したという気骨のある方です。ひとつ若い1915年生まれと聞き、お会いしたいなあ、と思う。会いたい方々、関心事がいっぱいで、わたくしは80、90歳を過ぎてから、急に欲張りになりました。欲張りだから生きていられるのかもしれませんね。なんとなく食べて、寝て、という生活をしていたら、飽きてしまいますでしょう? (談)

(インタビューをまとめたものです。聞き手・文責/青木千恵)

笹本恒子 (ささもと つねこ)

1914年(大正3)東京生まれ。日本写真家協会名誉会員。
著書『お待ちになって、元帥閣下』毎日新聞社1,600円+税、『恒子の昭和』小学館1,800円+税、ほか多数。

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