乙川優三郎
このところ日本語について考える機会が多い。物書きの端くれとして文章を磨きたいこともあるが、その前に恐ろしく便利で厄介な日本語の柔軟さを検証しなければはじまらない気がする。能がないので、画一的な英文と比べてみたりしている。
そもそも変幻自在な言葉である日本語に手本とすべき構文があるのかどうかすら分からない。しかし現実に美しい文章は存在し、日本語ならではの流麗な表現もある。文体の多い和文に比べると無個性に近い英文にもやはり佳い文章と拙い文章があり、傑作も駄作もある。ただし、どちらも主語は省かない。
日本語の場合、固有名詞であれ代名詞であれ、主語の多出する文章は読みづらく、見苦しいとされている。省略しても読めるからであろう。
「山椒魚は悲しんだ」
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
日本人ならすっと入り込める「雪国」の冒頭の文章には主語がなく、あとを読まなければ英訳のトレインという主語は引き出せない。仮に無理に想像するなら、主語は徒歩の人間か車かもしれないからである。
対照的に井伏の「山椒魚」の冒頭は英語の構文そのもので、続く文章にも代名詞が続出する。日本語を学ぶ英語圏の人が読みやすいのは「山椒魚」であろうし、いわゆる見苦しい日本語ということにもなるが、私にはそうは思えない。どちらも佳い文章であり、優れた作品であることに変わりない。
会話文の前後でも井伏は主語を明記するが、川端はよく省略する。主語ばかりか、会話前の読点でとめている地の文に続くはずの文章まで省き、少ない文字数で読者に同じ情景を伝える。他言語に直訳して分かりやすいのは井伏の文章で、川端のそれは翻訳者が手を加えなければ読めるものにならない。その結果、「雪国」の冒頭は「汽車は長いトンネルを出て雪国へ入った」という「国境」の抜け落ちた英文に化けてしまう。むろん「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の方が日本人には美しく響く。センサーは島村の視線であり、冒頭からすでに読者の追体験がはじまっている。導くのは汽車ではない。
他言語では表現しきれない文章が、得てして日本語としては美しいということになろうか。しかし「山椒魚は悲しんだ」という単文のインパクトも捨てがたい。小説の最終部分は「雪国」の激しくも美しい描写に対して「山椒魚」は少し古い英語小説に多く見られる話し言葉だが、欠かせない一行でもある。もしこの一行を間違えていたら駄作に終わっていたかもしれない。そういう文章を摑むのは日本語に限らずむずかしい。たとえ摑んだとしても、使いようで名文にもなれば駄文にもなる。
つらつら思うに、言葉も生きている。
(作家)