Web版 有鄰

535平成26年11月10日発行

翻訳に魅力を感じた瞬間 – 1面

寺西のぶ子

言葉を置き換えただけでは成立しない翻訳

NHK連続テレビ小説『花子とアン』を見ていると、村岡花子さんは原書を目で追いながら日本語の訳文をすらすらと声に出して読んでいきます。翻訳を仕事にしている人はみんな、そういうことを日々やってのけているのだと、日本中の人が思ったかもしれません。そんな超人的な能力が自分にも備わっていればいいのにと思いますが、残念ながら私にはありません。四苦八苦したあげく、1日かかって1パラグラフしか訳せないことも、しょっちゅうあります。この著者はいったい何を考えてんの?この人の頭のなかはどうなってんのかしら?覗いてみたいものだわ!と呪ってばかりで、時間がどんどん過ぎていくというありさまです。

翻訳というと、とかく華やかでスマートな仕事だと受け取られがちですが(もちろん、実際に華やかでスマートな翻訳者さんは大勢いらっしゃると思います)、私の場合はお世辞にもそうはいえません。自宅が仕事場なので、一日中パジャマに毛の生えたようなハウスウェアですごすことはザラですし、時間に追われるプレッシャーからなのか、つまみ食いが止まりません。お恥ずかしい次第ですが、私の日常は世間のイメージとはかけ離れた本当に恐ろしいもので、それがほぼ毎日、お正月から大晦日まで繰り返されていきます。

とはいうものの、こんなにむさ苦しくて冴えない(としか思えない)仕事をわざわざ選んだのは、それなりにわけがあってのことです。遠い昔のことですが、学生時代に外国書講読という講義がありました。経済学の専門書を原書で読む授業です。手抜きが得意な私は早速邦訳版を手に入れて、さも原書を読んだふりをしようと謀ったのですが、この邦訳版の内容が、何が何だかさっぱりわからない。しかたなく辞書と首っ引きで原書と格闘してみると、なんと、当時は今以上に英語力のなかった私でも、原書に書いてあることの方がよく理解できる…。つまり邦訳版を読んで意味がわからなかったのは、もちろん経済学を理解する力が自分に足りなかったせいではあるけれど、邦訳の文章があまりこなれていなかったせいでもあるかもしれない、翻訳とはただ言葉を置き換えただけでは成立しないものなのだ、とそのとき気づきました。

その発見は私にとって少し魅力的で、そのときの経験が、その後翻訳を自分のライフワークとしたきっかけのひとつであることは間違いありません。そして、そのときの発見が、原文を読んで浮かぶシーンと訳文を読んで浮かぶシーンが完全に一致するように訳す、それぞれのシーンが映画のようにつながるように訳す、という私なりの大きな目標、今なお達成できそうでできない目標につながっていることも確かです。

何も考えずにボーッとすごしたい、心おきなく映画三昧、芝居三昧したいと願いつつも、これっぽっちもかなわぬまま仕事を続けてきましたが、気がついてみれば初めての本が刊行されてから20年近くが経過しています。

その間に訳した本には、それぞれに忘れられない思い出やエピソードがあり、当然愛着もあり、内容についての自負も多少はあるのですが、販売実績の点では健闘したものの爆発的というにはまるで至らないというか、残念というか、ごめんなさい、という結果ばかりです。私が訳す本は大ヒットする類の本ではないと、心のなかに無意識のうちに引いた枠が次第に濃く太くなっていくのがわかりました。

『英国一家、日本を食べる』と『英国一家、ますます日本を食べる』亜紀書房:刊
『英国一家、日本を食べる』と
『英国一家、ますます日本を食べる』亜紀書房:刊

現代の日本の食を家族とともに探訪した『英国一家、日本を食べる』は、ふたを開けてみると想定外の大ヒットとなりましたが、もともと私のなかではそれまでと同じ延長線上にあった本で、異文化交流、あるいは日本の食に興味がある一部の読者には喜んでもらえるとしても、比較的個性が強く、単純なものをわざわざ小難しく書いているだけに、この本のおもしろさを幅広く受け入れてもらうのはなかなか難しいだろうと感じていました。イギリス人特有のひねりの利いたユーモアも、受け取りようによっては嫌味でしかありません…。

抱腹絶倒の連続と直感した原書 “SUSHI AND BEYOND”

“SUSHI AND BEYOND”と初めて対面したのは2010年の初め、海外書籍の出版権を取り扱う会社のオフィスでした。独特のイラストが描かれた表紙に目が釘づけになり、手に取って冒頭の部分を読んだ瞬間、この本は絶対におもしろい、抱腹絶倒の連続に違いないと直感しました。もちろん、いくら私がおもしろいと思っても、その感覚を日本の出版社の方が共有してくださらなければ話は前に進みませんし、売れるか売れないか、出版する価値があるかないかについても、判断するのは出版社です。

とにかく何とかおもしろさをわかってもらえるようにレジュメを作り、複数の出版社の編集部の方に見ていただきました。結果は、撃沈に続く撃沈。おもしろそうですね、という言葉さえありません。何がいけないのか、レジュメの書き方が悪いのか、と悶々とする日が続きましたが、偶然にも亜紀書房さんとご縁ができて、幸いなことに、ぜひ出版しましょうと言っていただきました。

SUSHI AND BEYOND
“SUSHI AND BEYOND”
Photo by N.Teranishi

亜紀書房で正式に企画を通していただき、ようやく出版の見通しが立っていざ翻訳に取りかかってみると、まず、とても大きな問題、ボリュームの問題を解決する必要に迫られました。ご承知のように、日本ではあまり分厚い本は好まれません。分厚い本は、おのずと価格も上がり、ますます敬遠されます。“SUSHI AND BEYOND”は原文でおよそ300ページあり、すべてを翻訳すると400ページを軽く超える本になってしまい、千円札2枚でおつりがくるような価格で販売することは不可能になります。編集部の方との相談で3割から3割5分程度割愛することになり、読者の方が飽きずに最後まで読んでくださるように、特におもしろい章、興味深い章をピックアップして、全体の7割方で収まるようにしました。

残りの章をどうするかについては、その時点では全く未定で、よほどのことがない限りはそのまま放置される運命にありました。何しろ私は、いい本だけど地味な本といういつものレッテルをこの本にも勝手に貼っていましたから、正直なところ、後のことはさほど深くは考えていませんでした。著者のブース氏にしてみれば、勝手に削ることなどまかりならん、と言いたいところでしょうが、事情をメールで伝えたところ、残念だけれど理解するという返信をもらいました。

実際の翻訳作業は、予想よりもはるかに難航しました。楽しい文章の裏にある著者のとても深い知識や考え、鋭い観察が圧倒的な存在感を持って迫ってきます。また、日本の食や文化について書かれているだけに、たとえ翻訳であってもいいかげんな言葉や情報を記すわけにはいきません。結局、納得のいく訳文を仕上げるためには、店舗や施設の名前や場所や雰囲気はもちろんのこと、日本酒や味噌の作り方、調理師学校、クジラ、ラーメン、昆布等々、本文に出てくるあらゆるものについて一つ一つ調べて確認しなければなりませんでした。おかげで膨大な時間がかかってしまい、編集部の方々と著者のブース氏をやきもきさせる結果となりました。

トップ10に入る想定外の大ヒットで補完編が

ブース氏から突然メールが来たのは、翻訳作業を開始する直前だったと思います。「やあ、きみが僕の本を訳してくれるんでしょ。わからないことがあったら遠慮せずに何でも聞いてよ」というような、フランクな内容でしたが、原著者としては非常に珍しいタイプではないかと思います。これまで、原著者と直接メールをやり取りして親しくなったことはありませんし、ましてや出版後に何度も、それも日本で会えるなんて、当初は想像すらしませんでした。何度かメールを交わした後、大阪で初めて会ったのは刊行を待つばかりとなった冬のことですが、実際のブース氏は本に登場するマイケルそのもので、私にしてみればよく知っている友人と再会したみたいな感じで、初対面というのが嘘のようでした。

マイケル・ブース氏
マイケル・ブース氏
フードジャーナリスト

ブース氏は、邦訳版の刊行後、日本のAmazonのウェブサイトで毎日欠かさずランキングをチェックしているとのことですが、瞬間的にではありますがトップ10に入ったときは、信じられない思いでポカンと画面を見つめたそうです。私も同じです。売れてもソコソコだろうと思っていた本が次々と版を重ねていく事態となり、ただ驚きをもって見守るしかありませんでした。しかも、一度は葬られたはずの割愛した部分が、『英国一家、ますます日本を食べる』として復活したのですから、これほど嬉しいことはありません。『英国一家、ますます日本を食べる』の方は、最初の本に収録しなかった部分を拾って並べ、そこに全く新たな章と、著者から日本の読者に宛てたメッセージをプラスしてまとめた、続編というよりは補完編のような存在です。1冊目のヒットがなければ、生まれていませんでした。

今回、自分の訳した本が思いがけなくヒットして、日本の読者の皆さんの底力を知った気がします。これからも初心を忘れずに、地味で良い本を訳していきたいと思っています。

寺西のぶ子 (てらにし のぶこ)

1958年京都府生まれ。翻訳家。
訳書『輸血医ドニの人体実験』河出書房新社 2,800円+税、『ニュートンと贋金づくり』白揚社 2,500円+税、ほか多数。

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