Web版 有鄰

545平成28年7月10日発行

初代宮川香山 歿後100年を迎えて – 2面

小井川 理

初代宮川香山と横浜

2016年は、1916(大正5)年に初代宮川香山が歿して100年目にあたります。明治初期に横浜に眞葛焼の窯を開き、「マクズ・ウェア」と呼ばれて高く評価される数多くの作品を生み出し、明治陶芸を牽引した陶芸家、初代宮川香山(1842~1916)については、近年、明治期の美術工芸への関心の高まりとともに注目が集まっています。本紙では、第289号(平成3年12月号)に座談会「横浜の陶芸―真葛焼と良斎焼」、第403号(平成13年6月号)座談会「横浜真葛焼―幻の名窯」が掲載され、地元横浜からも現在の研究に繋がる発信がなされています。

初代宮川香山(虎之助)は、天保13年(1842)京都で陶業を営む眞葛長造の四男として生まれました。青木木米に就いて製陶を学んだ父の下で学び、父や兄の死去により、万延元年(1860)家業を継ぎます。幕府の御用を勤めるほか、請われて備前虫明(岡山県瀬戸内市)へ赴いて作陶指導にあたるなど、陶工として実績を重ねています。

明治3年(1870)薩摩藩御用達の商人梅田半之助に請われ、父長造が生前抱いていた江戸での開窯の志を酌み、開港後の横浜で海外にも通用する作品を制作して国利に寄与せんとの思いから、決意して横浜に移住、野毛山(西区老松町)に窯を築きます。翌4年(1871)には太田村不二山下(南区庚台)に窯を移し、本格的に陶磁器制作を開始しました。明治、大正、昭和にわたり横浜に花開いたやきもの「眞葛焼」の始まりです。

図1『横浜諸会社諸商店之図』
図1『横浜諸会社諸商店之図』
「陶器製造所 眞葛香山」
神奈川県立歴史博物館

『横浜諸会社諸商店之図』のうち「陶器製造所眞葛香山」には、坂に面した傾斜のある敷地にロクロ場、絵付場、登窯などの作業場に加えて二層の家屋もある窯場の様子を見ることができ、眞葛窯が陶磁器制作のための施設を完備した本格的な窯場であったことがわかります〔図1〕。

横浜の窯業と眞葛窯

安政5年(1858)にアメリカなど5カ国と締結された修好通商条約により、翌6年(1859)に開港した横浜では、明治元年(1868)以降、漆器や陶器といった美術工芸品が輸出市場に登場しています。特に陶磁器は、明治4・5年頃から輸出品として計上されるようになり、明治10年代には著しい成長を見せ、横浜港からの輸出額が全国の陶磁器輸出額の半分を占めるまでになりました。

日本の陶磁器は、既に明治前夜から博覧会への出品などを通じて世界的に高い評価を得ており、単なる産品としてではなく、伝統産業に支えられた高い技術力と日本特有の美意識とが集合した、日本という国の文化を諸外国に示す存在として期待されていました。こうしたことが横浜港での陶磁器取引を増進させ、横浜には、デザイン、技術ともに高い水準の芸術的な陶磁器が集められ、国内外の商人の取り扱いを経て世界中に紹介されていきました。さらに横浜には、素地を他所から仕入れて絵付を行い小規模な窯で焼き上げて仕上げる、絵付専門の工房も集まるようになります。製品の輸送が近距離で済む利便性や、輸送中の破損のリスクを避ける上でも、港に近い立地で製品を仕上げられることは大きなメリットで、本町通や弁天通のあたりには絵付専門の小規模な窯や、製品を取り扱う商人の店舗が並ぶようになりました。有田、九谷、薩摩などの諸窯業地の職人が腕を請われて横浜に移り、目の肥えた商人たちの注文に高い技術で応えて多様な陶磁器を新たに生み出していく、熱気溢れる「やきものの町」横浜。そうした場で、初代香山は眞葛焼を開窯し、高い技術と、伝統と革新に溢れた美意識を発揮していくこととなります。

一方、窯場を描いた絵図で見るように、眞葛焼の窯場は作陶のための設備を備えた本格的な窯場でした。各地から集まった絵付専門の諸窯が、錦窯などの小規模な施設で作品を仕上げる業態だったのに対し、素地制作から行うことのできる設備を備えた眞葛窯は、多彩な作陶を支える基本的な体力を備えた窯であったといえます。その体制が、陶磁器が輸出品目としての役割を終えた後も、地域に根ざして作陶を続けることのできた背景にあるのです。

窯場は、昭和20年(1945)の横浜大空襲で壊滅し、現在は一般の住宅地となっていて残念ながら窯場があった頃の様子をうかがうことはできません。しかし、急傾斜の道を登り台地の頂上に立つと、市街地の向こうに眞葛焼と世界を繋いだ海をわずかに望むことができます。

初代香山の作風

横浜に移り窯を開いた当初は、作陶に必要な材料の調達にも困難があり、また作品の方向性を決めるための研究を重ねる日々でしたが、そうした試行錯誤の日々の中から初代香山は「高浮彫」という技法を生み出すにいたります。「高浮彫」は、器物の表面に立体的で写実的なモチーフを施していく独創的な技法で、国内外の博覧会・展覧会で賞賛を浴び、眞葛焼の名を世界に知らしめることとなりました。「高浮彫」は後にヨーロッパの陶芸にも影響を与えることになります。

図2「釉下彩山水図花瓶」
図2「釉下彩山水図花瓶」
神奈川県立歴史博物館

一方、明治10年代半ば頃から、香山は釉薬と釉下彩の研究に取り組むようになります。釉下彩をはじめ、中国清朝の磁器にも学び、青華、青磁、窯変、結晶釉など、さまざまな技法の作品を世に出し、眞葛焼の主力を磁器へと切り替えていきました〔図2〕。そして、釉薬研究の成果として獲得した高い技術力と、優美で多彩な作風によってさらなる評価を受け、明治29年(1896)帝室技藝員に任命されます。

初代香山は、その生涯の中で、陶器と磁器、高浮彫と釉下彩という、全く異なる素材と技法を、他の追随を許さないほどの高みで実現してみせました。まさしく「天才」という言葉に相応しい名工です。その名工を育てたのは、日本と海外が出会い、そして自らの美意識に向き合う緊張感を宿した、明治という時代、横浜という場であったとも言えるかもしれません。

節目の年、再びの出会い

歿後100年を記念して、今年は春先から初代香山の仕事に注目した展覧会が各地で開催されています。

3月から5月には、横浜に移る前に招かれ作陶した虫明での活動に注目した展覧会「世界を魅了した陶芸家 宮川香山―没後100年虫明焼と明治の陶芸―」が岡山県立美術館で開催されました。また、香山作品を長年にわたり蒐集してきた吉兆庵美術館のコレクションを紹介する展覧会が、2月に東京で、その後6月まで岡山・吉兆庵美術館で開催されました。

そして、2月にサントリー美術館で開催された「没後100年 宮川香山」展は、大阪市立東洋陶磁美術館(7月31日まで)、次いで瀬戸市美術館(10月1日~11月27日)へ巡回します。この巡回展は、本紙第403号(平成13年6月号)掲載の座談会「横浜真葛焼―幻の名窯」に登場された田邊哲人氏のコレクションを中心に構成されています。この巡回展でも、初代香山を代表する作品として「高浮彫」技法の作品が数多く紹介され改めて多くの人々を魅了していますが、実はこれら「高浮彫」作品はその殆どが海外に渡っていて、昭和時代までは日本国内で見ることのできる作品は限られていました。田邊氏をはじめとする人々の尽力により、海外に渡った作品が「里帰り」を果たし、釉下彩の作品などとあわせて、初代香山の作陶全体を実作品から考えることができるようになってきた――そうした中で巡ってきた「歿後100年」なのです。

著名なコレクション、処々に所蔵されるさまざまな作品が集う――このことが、記念の年に開催される展覧会の醍醐味と言えます。初代香山の生涯や人となりを伝える記録もありますが、何より彼の仕事、哲学を表しているのは、彼が手がけた作品です。初代香山がどのようなものを作り、そこにどのような美意識を込めたのか、多彩な表情の実作品と直接向き合い観ずることのできる、またとない機会が訪れています。かつて横浜に花開いたやきもの文化に思いを馳せつつ、現代を生きる眼で初代香山の作品に出会い、その技と心意気に再び魅せられる、そんな節目の1年をぜひ味わっていただきたいと思います。

小井川 理  (こいかわ あや)

1978年宮城県生まれ。神奈川県立歴史博物館学芸員。

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