Web版 有鄰

547平成28年11月10日発行

『吾輩は猫である』と漱石の俳句 – 2面

復本一郎

作品中の句の作者は漱石!

夏目漱石(1867~1916)

夏目漱石(1867~1916)
県立神奈川近代文学館提供

夏目漱石の代表作『吾輩は猫である』の本文の中に、漱石の親友正岡子規が本名(俳号)で登場していることは、人々の記憶の中にあまりないかもしれない。

一番最後の章、11回目である。理学者寒月君がやっとの思いで手に入れたヷイオリン(バイオリン)の、下宿先での「隠し所」を「国を出る時御祖母さんが餞別に呉れた」その「つゞら」に決めた、その報告を苦沙弥先生の家の客間に集まっている東風君と迷亭先生に語る場面である。迷亭先生の反応の言葉からはじまる。「つゞら」に収まったヷイオリンについてである。

「調和はしないが、句にはなるよ、安心し給へ。秋淋しつゞらにかくすヷイオリンはどうだい両君」

「先生今日は大分俳句が出来ますね」

「今日に限つた事ぢやない。いつでも腹の中で出来てるのさ。僕の俳句に於ける造詣と云つたら故子規子も舌を捲いて驚ろいた位のものさ」

「先生、子規さんとは御つき合でしたか」と正直な東風君は真率な質問をかける。

「なにつき合はなくつても始終無線電信で肝胆相照らして居たもんだ」と無茶苦茶を云ふので東風先生あきれて黙つて仕舞つた。寒月君は笑ひながら又進行する。

評論家の小田切進氏は「苦沙弥先生は漱石自身がモデルになっているこというまでもないが、迷亭も漱石の分身と見られている」と述べている。右の場面など、まさしくそんなところであろう。この少し前の場面で、迷亭先生は、〈かい巻に長き夜守るやヷイオリン〉の一句をも披瀝している。そんなこともあっての東風君の「先生今日は大分俳句が出来ますね」との発言である。いうまでもなく、

かい巻に長き夜守るや
ヷイオリン

秋淋しつゞらにかくす
ヷイオリン

の二句、作者漱石の作品である。従来、漱石の俳句として認定されていないが、当時の最先端の文明の利器である「無線電信」で冥府の子規子(子規の俳号の一つ。「子」は謙遜の意というよりも、ホトトギスの子、といった洒落であろう)と交信しても及第点がもらえたのではなかろうか。

子規は、生前、漱石を、随筆『墨汁一滴』の中で、

我俳句仲間に於いて俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率ゐるにも厳格を主として不規律に流るゝを許さず。……之を思ふに真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能ふ者にやあるべき。

と評している。この子規の漱石評は、先の二句においても十分に首肯されるであろう。

子規が見抜いた漱石俳句の「滑稽趣味」

ところで、先の『吾輩は猫である』、最初は、虚子が発行人であった俳句雑誌「ホトトギス」に連載されたのであったが、その後、上・中・下の三分冊で単行本として出版されている。上編が明治38年(1905)10月、中編が明治39年11月、下編が明治40年5月に大倉書店、服部書店の二書肆合版で出版されている。その中編の序で、漱石は、明治35年(1902)9月19日に数え年36歳で没している子規を、子規の手紙をそのまま引用しながら悼んでいる。その中に、

子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云ふか知らぬ。或は倫敦消息(筆者注・「ホトトギス」に掲載された漱石のロンドン便り)は読みたいが「猫」は御免だと逃げるかも分らない。

との一節が見える。漱石は、作品中に子規を登場させていることからも窺えるように、『吾輩は猫である』を執筆しつつ、どこかで常に子規を意識していたように思われる。漱石の若き日の房総紀行の記録『木屑録』に子規が付した評価の言「如吾兄者千萬年一人焉耳」(雅兄のごときは千万年に一人の逸材である)が、なお、漱石の耳底に残っていたのであろう。そして、子規ならば『吾輩は猫である』をどのように読むであろうか、ということが大いに気になっていたのであろう。中編の序は、次のごとき一文で閉じられる。

子規は死ぬ時に糸瓜の句を咏んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称へ、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作つた時に

長けれど何の糸瓜とさがりけり

と云ふ句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。

どつしりと尻を据えたる南瓜かな

と云ふ句も其頃作つたやうだ。同じく瓜と云ふ字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄だらう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈だ。そこで序ながら此句も霊前に献上する事にした。

正岡子規(1867~1902)

正岡子規(1867~1902)
県立神奈川近代文学館提供

この序、明治39年11月に記されたものである。中の二句、子規が「我俳句仲間に於いて俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり」と評した、その面目躍如とする作品と言えよう。両句とも漱石が言っているように10年前、明治29年の作。これも『吾輩は猫である』の中に、

要するに主人(筆者注・苦沙弥先生)も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜の如く風に吹かれて超然と澄し切つて居る様なものゝ、其実は矢張り娑婆気もあり慾気もある。

との一節があるが、そんな逸民趣味とでもいったものを形象化したものが、〈長けれど〉の一句であり、〈どつしりと〉の一句であろう。要するに「糸瓜」や「南瓜」は、気ままな生活を志向している漱石の分身ともいうべき存在である、との思いを込めての作品と見てよいであろう。そして、そんな生き方と対蹠的な生き方をしたのが子規であった。漱石は、子規の没後、子規を下のごとく評している(「子規の画」)。

子規は人間として、又文学者として、最も「拙」の欠乏した男であつた。永年彼と交際をした何の月にも、何の日にも、余は未だ會て彼の拙を笑ひ得るの機会を捉へ得た試がない。又彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さへ有たなかつた。

もちろん、子規が「糸瓜仏」と呼ばれることになったからこそ手向けた二句であったことは、漱石が述べている通りであろうが(子規のことを「糸瓜仏」と呼んだ例、咄嗟に思い浮かばないが、他にあるであろうか)、自らの生き方とは異なる生き方をした子規に、敢てささげてみたくなったということでもあったのではなかろうか。短かくも凝縮された交流を偲んでの二句ということである。

実は、子規は、はやくに漱石俳句の中に「滑稽趣味」(「趣味」は、味わい、感覚の意)を見抜いていた。子規が明治30年(1897)に執筆した「明治29年の俳句界」の中に次のごとく記されている。漱石は、碧梧桐、虚子、露月、紅緑、霽月に続いて、第6番目に注目すべき俳人として「漱石は明治28年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠に於て句法に於て特色を見はせり。其意匠極めて斬新なる者、奇想天外より来りし者多し」と述べた後で、「漱石亦滑稽思想を有す」と記し、作品四句を示しているが、その中の一句が〈長けれど〉の句だったのである。

復本一郎  (ふくもと いちろう)

1943年愛媛県生まれ。国文学者、神奈川大学名誉教授。
著書『歌よみ人 正岡子規』岩波書店 2,300円+税、『俳句と川柳』講談社学術文庫 920円+税ほか多数。

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