穂村 弘
昔の文学者と今の文学者の違いはいろいろあるけれど、そのうちの一つは写真の数だと思う。顔出しNGの人を除けば、今の作家や詩人はたくさんの写真が出回っているし、インターネットで声を聴いたり、動画を見ることだってできる。それに対して、昔の人は写真が少ない。もちろん動画なんて存在しない。たった1枚の不鮮明な白黒写真で、そのイメージが決まっていることも珍しくない。例えば、夏目漱石の写真といえば誰もが知っているあれ、宮澤賢治といえばあれ、芥川龍之介といえばあれ、樋口一葉といえばあれ、そして中原中也といえばあれだろう。ビジュアルが限定されていることが、逆に彼らのイメージを高めているようにも感じる。
その中でも、中也の写真のインパクトは強烈だ。黒いマントとソフト帽、そして少年のような表情と大きな目の光。なんだかわからないけど特別な人間って感じがする。加えて、中原中也という名前も印象的だ。
日本には伝統的な詩人のイメージというものがある。少年のように澄んだ目をしていて、幼い頃は神童と呼ばれるほどの天才なのに文学に魂を奪われて、詩と酒と恋に生きて、周囲の人々にさんざん迷惑をかけるけど、神様に呼ばれるように早く亡くなった後は、みんなに「流れ星のような奴だった」と云われるのだ。改めて考えてみると、それってほとんど中原中也そのものじゃないか。石川啄木と萩原朔太郎のイメージも少し混ざってるかもしれないけど、誰か1人と云われたら中也だと思う。彼こそは日本における詩人のイメージの源なのだ。
以前、山口県は湯田温泉の中原中也記念館で中也の生原稿を見たことがある。その中にダーシというのか縦の線引き記号があった。目を近づけてみると、作者がその線の太さを指定しているのがわかって驚いた。線の長さならまだわかる。でも、太さなんてせいぜいコンマ何ミリかの微差でしかないだろう。それを敢えて指定するということは、中也には自分自身の詩のヴィジョンがそこまで厳密に見えていたことを意味している。詩人の目というものの怖ろしさを感じた。
そんな中原中也の詩には、ほんのワンフレーズで人の心を惹きつける力があった。幾つか例を見てゆきたい。
恋を知らない
街上の
笑ひ者なる爺やんは
赤ちやけた
麦藁帽をアミダにかぶり
ハツハツハツ
「夢魔」てえことがあるものかその日蝶々の落ちるのを
夕の風がみてゐました思ひのほかでありました
恋だけは――恋だけは
「想像力の悲歌」
やはりダーシを含んだ「恋だけは――恋だけは」という文法的に破格のフレーズが、素晴らしい効果を上げている。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
「汚れつちまつた悲しみに……」より
有名な「汚れつちまつた悲しみに」というリフレインは、一読して心に残る殺し文句である。本作は七五調で書かれているから、このフレーズは普通の書き手なら「汚れちまつた悲しみに」となるところだろう。にも拘わらず、敢えてもう一つの「つ」を入れてリズムを変則にしている。それによって、甘えたような不思議な情感が生まれている。
幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました幾時代かがありまして
今夜此処での一と殷盛り
今夜此処での一と殷盛りサーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ頭倒さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋のもと
ゆあーん ゆよーん ゆや ゆよんそれの近くの白い灯が
安値いリボンと息を吐き観客様はみな鰯
咽喉が鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆや ゆよん屋外は真ッ闇 闇の闇
夜は劫々と更けまする
落下傘奴のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆや ゆよん
「サーカス」
一方、こちらの詩では逆に七五調の定型順守への拘りが見られる。1行目が「幾時代かがありまして」ときたら、2行目は普通なら「茶色い戦争がありました」だろう。ところが中也は「茶色い戦争ありました」と「が」を省いている。同様に、4行目も「冬は疾風が吹きました」ではなく「冬は疾風吹きました」。それによって七五調の定型リズムを守ろうとする意識の表れだろう。
本作で注目されるフレーズは「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という有名なオノマトペだが、これにも不思議な点がある。「サーカス小屋」の空中「ブランコ」は、現実には「ゆあーんゆよーんゆあーんゆよーん」と一定のリズムで動くものではないか。だが、中也は「ゆあーんゆよーん」の後に「ゆやゆよん」と書いている。ここにも「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」を七五調の枠内に収めようとする意識が感じられる。現実のリズムよりも定型詩としてのリズムが重視されているのだ。
歌人の高野公彦はこのオノマトペを本歌取りして、次のような歌を作っている。
ミサイルがゆあーんと飛びて一月の砂漠の空のひかりはたわむ
描かれているのは空中「ブランコ」とはかけ離れた湾岸戦争の「ミサイル」である。ここでの「ゆあーん」は不気味な印象を生み出している。
このように中也の生み出した殺し文句の射程距離は長く、他ジャンルの文芸作品や昭和の歌謡曲にまで大きな影響を与えた。
思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ
「頑是ない歌」より
「思へば遠く来たもんだ」というフレーズが印象的だが、これを本歌取りした「思えば遠くへ来たもんだ」(武田鉄矢作詞)という歌は昭和期のフォークグループ海援隊の代表曲になった。
いかに泰子、いまこそは
しづかに一緒に、をりませう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。
「時こそ今は……」より
この詩の「いかに泰子」というフレーズと「鳥」のイメージを生かして、次のような優れた短歌が生まれている。
いかに泰子 その前日はわけもなくただもうわれは雲雀であった
福島泰樹
さらに形式そのものに類似性を感じる例もある。例えば、こんな歌詞はどうだろう。
あれは二月の寒い夜
やっと十四になった頃
窓にちらちら雪が降り
部屋はひえびえ暗かった
愛と云うのじゃないけれど
私は抱かれてみたかった
「ざんげの値打ちもない」より
作詞家阿久悠の代表作「ざんげの値打ちもない」だが、この作品では、一番に描かれた「雪」のイメージの「十四」から始まって、二番以降では「十五」「十九」「二十」と年齢を重ねてゆくのだが、その独白の形式が中也の「生ひ立ちの歌」を連想させる。
幼 年 時
私の上に降る雪は
真綿のやうでありました少 年 時
私の上に降る雪は
霙のやうでありました十七――十九
私の上に降る雪は
霰のやうに散りました二十――二十二
私の上に降る雪は
雹であるかと思はれた二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……
「生ひ立ちの歌」より
同じ形式の中で「ありました」「ありました」と続いたら、その先もそうかなと思う。ところが次は「散りました」、さらには「思はれた」「みえました」とランダムに変化して、最後は「なりました……」。この「……」にまで、中也の思いは込められているのだろう。