Web版 有鄰

554平成30年1月1日発行

次代を見据える「襲名」 – 2面

犬丸 治

平成30年歌舞伎座の幕開けは高麗屋三代襲名披露

高麗屋三代襲名披露『口上』/右より、松本幸四郎改め二代目松本白鸚・市川染五郎改め十代目松本幸四郎・松本金太郎改め八代目市川染五郎

高麗屋三代襲名披露『口上』
右より、松本幸四郎改め二代目松本白鸚
市川染五郎改め十代目松本幸四郎
松本金太郎改め八代目市川染五郎
撮影:篠山紀信

歌舞伎座では、正月2日から、2ヶ月に亘る「高麗屋」三代襲名の盛儀の幕が開ける。九代目松本幸四郎が二代目松本白鸚を、長男の七代目市川染五郎が十代目幸四郎を、孫の四代目松本金太郎が八代目染五郎を、それぞれ襲名するのである。

正月は、「忠臣蔵」と並ぶ「三大名作」のひとつとされる「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」で新白鸚が、「車引」で新幸四郎が松王丸を、歌舞伎十八番「勧進帳」では、高麗屋の当り芸・武蔵坊弁慶を新幸四郎が、義経を新染五郎が演じ、新白鸚の弟である中村吉右衛門が関守・富樫左衛門で華を添えるほか、昼夜に人気狂言がずらりと並ぶ。「口上」では、三人が市川團十郎家と縁戚であることを示す、髷がピンと立った「鉞」と呼ばれる鬘に柿色の裃という出で立ちで、幹部俳優一同が祝いの言葉を述べる華やかな幕になる。

ほかにも国立劇場・新橋演舞場・浅草公会堂・大阪松竹座でも初芝居の幕が開く。私が初めて歌舞伎を観始めたのは1971年からだが、歌舞伎座ですら毎月歌舞伎が掛かっておらず、新派や三波春夫で埋めていた頃を思うと、隔世の感の盛況ぶりである。この五座の顔触れを眺めていけば、今の歌舞伎の地図がわかる。

「襲名」と「追善」が意味するもの

「歌舞伎の真髄は、『襲名』と『追善』と見つけたり」というのは十七代目中村勘三郎の至言であるが、確かに去年1年を観ても、1月新橋演舞場で市川右近が三代目右團次を襲名している。5月歌舞伎座は「團菊祭」といって、明治の名優九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の遺徳を偲ぶ恒例の興行だ。これ自体一種の「追善」であるが、今年は戦後歌舞伎を牽引した七代目尾上梅幸の23回忌、十七代目市村羽左衛門の17回忌を兼ねて、十七代目の長男八代目坂東彦三郎が初代楽善、その子亀三郎が九代目彦三郎、亀寿が三代目亀蔵を襲名、孫の亀三郎が初舞台を踏んでいる。

歌舞伎がなぜこれほど「襲名」と「追善」にこだわるのかと言えば、先人の名跡を継ぐこととその芸を偲ぶこととは、元々表裏一体だからである。歌舞伎に限らず、日本の古典芸能の演者は、自己の肉体を「個」ではなく、先人の「芸」を受け継ぎ、次代に渡していく「器」として捉える。そこには、自分の芸など所詮先人には及ばない、という謙譲と畏れが常にある。それでは縮小再生産ではないか、といわれようが、そうではない。先人に及ばぬなら、せめて先人の「忘れ物」はないか。そうした創意が、歌舞伎を旧くて新しいものとして再生させてきた。

「襲名」も、「名を襲ねる」の意である。十代目岩井半四郎がこの久しく絶えていた女方の大名跡を復活したとき「襲名したらお墓が9つ付いて来ました」と苦笑したというが、これは単に祭祀を継承するというだけではなく、「岩井半四郎」という代々の名優が築いてきた芸、イメージを自らの「器」に襲ねあわせることを指す。

「松本幸四郎」という名跡の持つ歴史

では今回、高麗屋三代がそれぞれに襲ねあわせる先人の芸とは何であろうか。

「松本幸四郎」は、元禄から享保にかけて活躍した初代を始祖とするが、その名跡を一躍大きくしたのはその養子二代目幸四郎が二代目市川海老蔵(前名・二代目團十郎)の養子となり、四代目團十郎を継いだことによる。二代目團十郎は「荒事」を洗練大成し、「助六」を初演するなど「役者の氏神」と呼ばれた江戸の守護神だったが、一説には幸四郎はその庶子だったという。「国崩し」と呼ばれる謀反人などを得意とした四代目團十郎は、陰翳のある芸風で、新たな成田屋の芸を築いた。

四代目團十郎は「木場の親玉」と呼ばれ、演劇私塾「修行講」で若手を育てたが、そこから育ったのが落語で有名な初代中村仲蔵、息子の三代目幸四郎である。その三代目幸四郎も、五代目團十郎を継いだ。ややこしいが後名・市川鰕蔵。切手にもなった写楽の「竹村定之進」がこの人で、劇界の君子と称えられた名優であった。松本家と市川宗家の親戚関係は、この2人から始まる。

四代目團十郎の弟子・初代染五郎が四代目幸四郎を継いだ。新幸四郎が日本橋を歩き初代染五郎に出逢うというCMがあったが、その中に出て来る絵姿が四代目幸四郎である。その息子五代目幸四郎は、鼻がすこぶる高い異相の持ち主だった。通称「鼻高幸四郎」。写楽の「市川高麗蔵の志賀大七」の、ネットリと妖気を孕んだ色悪(二枚目の悪人)がこの人の若き日の芸風を捉えている。その後は実悪(主役級の敵役)を得意とし、普段は温厚な顔が、細い目を見開き見得でキッと睨むと、余りの凄まじさに見物のこどもがワッと泣き出したという。

「先代萩」の仁木弾正と「千本桜」のいがみの権太の型(演出)はこの人が完成し、いまでも役者がこの役を演じる時は、五代目幸四郎と同じ左眉上にほくろを付けるのを忘れない。これを「幸四郎ぼくろ」という。もっとも、明治の仁木役者七代目市川團蔵は「幸四郎になるのじゃない。仁木になるのだ」とほくろを付けなかったそうで、これもまた見識だろう。

五代目の子六代目が早世し、約60年の空位を経て明治44年名跡を復活したのは、九代目團十郎の高弟八代目高麗蔵だった。七代目幸四郎は、恵まれた風姿で重厚な立役を得意とし、藤間流家元として舞踊にも優れ、「勧進帳」の弁慶は1600回を数えた。日本版オペラ「露営の夢」や「オセロー」を演じる進取の人でもあった。

しかしこの人の最大の功績は、長男十一代目團十郎、次男初代白鸚(八代目幸四郎)、三男二代目尾上松緑という、戦後歌舞伎を率いた三人の名優たちを世に送ったことだろう。十一代目は若くして市川宗家の養子となり、「源氏物語」の光君は空前の「海老さまブーム」を巻き起こした。その憂愁溢れる美貌の俤を、孫である今の海老蔵に見るファンも多い。弟の松緑は、名優六代目菊五郎に預けられ、師譲りの世話物と踊りを得意とした。

八代目幸四郎は、菊五郎のライヴァルである初代吉右衛門の女婿として、重厚な時代物で活躍した。私にとって「忠臣蔵」の大星由良助(大石内蔵助)、池波正太郎の長谷川平蔵のイメージといえば八代目幸四郎である。新劇と共演した「明智光秀」、文楽の先代竹本綱太夫と創り上げた「日向嶋」、一門を率いての松竹から東宝への移籍など、冒険を恐れぬ人だった。死の3ヶ月前、名跡を長男に譲り、七代目の雅号を芸名として名乗ったのが「白鸚」である。

現在の「高麗屋三代」については今更贅言を要しまい。去年9月、サンシャイン劇場で新白鸚の「アマデウス」を観た。奔放な幼児のようなモーツァルトの天才をただひとり見抜き、神に復讐を誓うサリエリは彼の持ち役だが、この時は一層深みを増し、カーテンコールで「高麗屋」と声が掛かっても全く違和感がない。伝統のうちに新しさが同居するのが、この人の真骨頂である。新幸四郎は、ラスベガスでの「鯉つかみ」、昨年8月の「野田版桜の森の満開の下」と意欲的な舞台が続く。正月の「勧進帳」の弁慶の出来は、「十代目」としての試金石になるだろう。新染五郎はその行儀の良さ・端正さが今は何よりである。

新幸四郎は最近、市川猿之助との提携共演が目につく。かつては少なからず「派閥」があったものだが今は「オール歌舞伎」とも言える取組みで、それだけ「ブーム」の裏の脆弱さを幸四郎も感じているのだろう。その猿之助も、正月の舞台で「ワンピース」での負傷療養から復帰し、襲名に華を添える予定だ。

さまざまな意味で、次代を占う2ヶ月なのである。

犬丸 治  (いぬまる おさむ)

1959年東京都生まれ。演劇評論家。著書『市川海老蔵』(岩波現代文庫) 1,100円+税ほか。

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