Web版 有鄰

503平成21年10月10日発行

座談会 上橋菜穂子の世界 
-『獣の奏者』はこうして生まれた- – 1面

作家 川村学園女子大学教授・上橋菜穂子
俳優・片桐はいり
ライター 本紙編集委員・青木千恵

左から片桐はいり氏、上橋菜穂子氏、青木千恵氏

左から片桐はいり氏、上橋菜穂子氏、青木千恵氏

はじめに

青木今年8月、上橋菜穂子さんの長編ファンタジー『獣の奏者』のⅢ探求編、Ⅳ完結編が刊行されました。同時に文庫化されたⅠ闘蛇編、Ⅱ王獣編とともに、4巻からなる大河物語は、子供から高齢者まで幅広い読者から好評を博しています。

上橋菜穂子『獣の奏者』 左:Ⅲ探求編・右:Ⅳ完結編・表紙

上橋菜穂子『獣の奏者』 左:Ⅲ探求編・右:Ⅳ完結編
講談社

『獣の奏者』は、決して人となれ合わない孤高の獣、王獣と心を通わせてしまったために、過酷な運命をたどる少女エリンを主人公にした物語です。2006年刊行のⅠ・Ⅱで完結しており、NHK教育テレビで「獣の奏者エリン」としてアニメ化され放映中です。このアニメ化を機縁に、新たな構想がわき上がり、Ⅰ・Ⅱのラストから11年後、母となったエリンと、その息子ジェシの物語、Ⅲ・Ⅳが書き下ろされました。

本日は、ファンタジーの世界で今、最も力のある書き手の一人である上橋菜穂子さんと、俳優で、旅のエッセイ『わたしのマトカ』を06年に刊行、エッセイストとしても活躍中の片桐はいりさんにご出席いただきました。

お二人は中高一貫の女子校、香蘭女学校(東京都品川区)の同級生で、上橋さん原作・脚本(&出演)、片桐さん出演の劇を、高校の文化祭で上演されたそうです。知られざる学生時代、創作秘話、片桐さんは上橋作品をどう読まれるかなど、広くお話を伺えればと思います。

今回は、『獣の奏者』のお話が中心ですが、上橋さんは07年に、壮大な人間ドラマ「守り人[もりびと]」シリーズをおよそ10年かけて完結させていらっしゃいます。アニメ化され、英語版『精霊の守り人』が米国の児童図書館協会が選ぶバチェルダー賞を09年に受賞するなど、このシリーズの人気も絶大です。上橋さんは文化人類学の研究者としてフィールドワークも重ねておられます。お二人のお話から、上橋さんの世界を紹介できれば幸いです。

高校2年の文化祭でオリジナル劇を上演

上橋片桐さんとは香蘭女学校の6年間の中で、何回か同じクラスになりましたね。高校2年の時、文化祭で、有志で劇を上演したときのことはよく覚えています。当時の文化祭では、「ウエスト・サイド・ストーリー」のような既存の作品を上演することが多かったんです。

それじゃあつまらないというので、自分たちでつくる作品をやろうとしたんです。脚本から衣装もです。剣もバルサ材を削ってつくり、音楽も友人がつくったんですよ。

片桐あの脚本は上橋さんが書いたんだよね。

上橋そう。「双子星座」という悲劇ね(笑)。

ある王国で王と王妃との間に双子が産まれた夜、隣国から攻め込まれ、王と王妃は殺されますが、そのときに重臣が、子供一人だけなら助けられると連れて逃げます。また隣国の斬り込み隊長は自分の子供をなくしたばかりで、マントの下にもう一人の子を隠して帰るんです。双子は離れ離れになり、お互いを知らずに成長する。時が過ぎ、攻め滅ぼして新たにつくった国は政治がうまくいかず、怨嗟の声が国に満ちる。双子の一人は反乱軍の長になり、もう一人は王の跡継ぎになると言われていた。その二人が出会い最後に殺し合う話です。

ある人から「ト書きというものがあるんだから、叫ぶときに大きな字を書くな」って怒られたり、わからないながらも書いたんです。そして劇の練習もかなり進んで、配役も決まった段階で、はいりが現れたんだよね。

有志の劇に途中から参加し、舞台デビュー

片桐この時が私の初舞台ですよ。演劇部には入っていましたが、照明係に回されて役がつきませんでした。ゼラ(ゼラチン・フィルター)を入れ替え、照明を赤から青に変えるみたいなことをやらされていました。

私には1回舞台に立ちたいとか、違う人になりたいという夢が子供のころからずっとあったんですけど、幼稚園や小学校での行事ではかなわなくて、ずっと悔しい思いをしてましたね。1回やらせてくれればあきらめるのにと思っていた。そんな時、上橋さんたちがお芝居をやるらしいという話を聞いて、最後の手段ぐらいのつもりで、有志でやるんならやらせてよ、みたいな感じでした。

上橋途中から何人か参加希望者が来たので、どうしようかと。もう配役は決まっているから困ってるのに、はいりは「いや〜王子でいいからさ」とか、言いおって。

片桐うそ、そんなこと言わないよ(笑)。

上橋言ったよ。おいおい、王子でもいいだとぅ〜?って思ったよ(笑)。

残っているのは貧しい農民や兵士の役で、結局はいりは両方やったんです。舞台の下に体育用のマットを敷き、はいりが主人公の王子に斬られて落ちるという場面があったんですが、斬り合いを始めたら王子の剣をたたき折っちゃってね、楽屋裏では全員が真っ青になりました。でも、それからがはいりの演技力!斬られてもいないのに「うっ、グググ」とか言いながら舞台落ちしてくれたんですよ。

左:片桐はいりさん 右:上橋菜穂子さん

左:片桐はいりさん
右:上橋菜穂子さん

その直後、最前列が大爆笑になったんです。敷いてあるマットとマットの間に彼女がはさまっていて、もがいていたんですね。悲劇なのになぁ、すっかり喜劇にしてくれて。いろいろあった劇でございました。

片桐上橋さんの記憶力には感服するばかりです。

上橋はいりは常にインパクトがある人だったから、特に記憶にあるんだと思うよ。

片桐せりふはなかったと思うけれど、舞台から落ちるのが面白かったことやマットにはさまって出られなくなって大騒ぎになったことは思い出した。「舞台デビューは何ですか」という質問に、学園祭の初舞台で、いきなり舞台から落ちたんですよ、とか言ったりしてます。

上橋あの時から笑いをとれる役者だったよね。

片桐そのときはとったとは思っていないよ。

上橋とってたって(笑)。今考えると、はいりに端役を与えていたなんて信じられないけど、あのときは、彼女は印象が強い人なので、舞台の雰囲気をもってかれそうで怖かったのかもね。

あのころに話をしていれば友だちになれた

青木学生生活でのお互いの印象はどんなでしたか。

上橋はいりは目立っていたよね。

片桐学校では、よい目立ち方じゃなかったらしいよ。

上橋さんは健康的というかすごく楽しい学園生活で、私はちょっとつらい学園生活だったな。それは学校のせいとかではなく、思春期に幸せな人とそうでない人がいるみたいなことです。学校は女の子だけで、幸せな家庭の子たちばかりのようで、私としては話の合う友だちはいない環境だと思いこんでいたね。

上橋私にも思春期の暗さはあったんだよ。すごく幼くて、明るく楽しくしている一方で、生きることに根源的な虚しさを感じていた。でも、中高時代のはいりは早熟な感じがして、つき合ったら笑われそうな気がするみたいなところがあったなぁ。なにか、見抜きそうな感じ。

片桐きっと、わかったようなふうにしていないと周囲が怖いと思ってたんだろうね。突っ込まれないように一生懸命やっていたんだと思う。

上橋私は常に自分のことを幼いと思っていた。自分の幼さをすごくマイナスに感じていた人間だから、はいりは怖い、大人っぽい人だと思っていた。あのとき、はいりは周りが怖かったのか。大人になってみると、それはちょっとわかるね。

片桐あのときに話していれば、本当に友だちになれただろうし、私も友だちがいないなんて思わないですんだでしょうね。今になって思えば、という話ですけどね。

「物語をつくる以外の人生はない」と

青木上橋さんはずっと作家になると考えていらしたんですか。

上橋私は物心がついたときから何か物語を書く人間にいずれなるだろうと思っていたんです。それ以外の人生はないと考えていた。それが、途中で漫画になり、漫画家になろうと思いました。大学受験で史学科を選んだのは、博士論文を書くぐらいまで歴史を究めた後で漫画を描いたら、すごい作品が描けるだろうと思っていたからなんです。

何をするにも、いずれ自分が書くものの何かに、ということが気持ちの中に常にあった。愛犬が死んだときに、泣きながら、このシーンをどういうふうに言葉で書けるかなと思っていました。

片桐それはいつごろ。

上橋愛犬のこと? 高校1、2年ぐらいかな。なにをしていても、自分を脇から見て、文章化している自分がいたから、思い出がエピソード化されているのかもしれない。

片桐私も小学校のときに「この子は作文ができる」みたいなことを言われていて、親戚とかは、この子は学者か作家になるだろうと思っていた。

そのころは、『平家物語』が好きで、ポプラ社の古典文学全集を全部読んでいるような子供だった。ほめられればいい気になりますが、中学に行ったら作文の授業がほとんどなかった。書きたいのに書くところや発表するところがない。またそこでも鬱屈するわけ。

上橋私も平重盛が好きだった。今でも敦盛の最期が言えますよ。

片桐武将の名前から、馬の名前まで言えた。「祇園精舎の鐘の声」とか暗唱するような子供だったんですよ。

ロケ現場の売店で偶然みつけた『狐笛のかなた』

『狐笛のかなた』・表紙

『狐笛のかなた』
新潮文庫

青木学生時代は本の話はしなかったのですか。

片桐学校時代は本について語ることはまずなかった。そういうことは封印しないといけないと思っていたから、私は中学生から太宰治の読者ですが、ものすごく隠していました(笑)。『平家物語』の話なんて一言もしていない。

どっちかというと上橋さんは硬派、私は軟派みたいなところがあって(笑)、上橋さんは隠さない。軟派は隠す。絶対言わない。「本とか読まねえよ」みたいな(笑)、そういうスタンスで生きなきゃいけないと思っていたから、一生懸命隠していました。

上橋お互いに、そういう話はしなかったね。私は私で親友がいたので、その連中たちと本の話もしたけど、何しろ漫画の話をよくしていた。

片桐上橋さんたちのチームはそうだったね。だからアニメ系の人だと思っていた。

上橋あのころはまだ「オタク」という言葉はなかったよね。「アニメ好き」とか、「漫画好き」ぐらいの感じ。

片桐実は、私が上橋さんが作家になったことを知ったのは偶然でした。ロケ現場が病院で、あいた時間に売店に行ったら、文庫本を売っていて『狐笛[こてき]のかなた』があたんです。あれ、この著者の名前見たことある(笑)。カバーにある著者の写真を見てもうびっくり。

青木人の心が聞こえる少女と霊狐の物語ですね。

片桐読んでみて、わあー楽しいと思った。文化祭の芝居もそういう世界だったし。あの芝居を知らない人は、上橋さんはアニメ好きだったぐらいの印象しかないでしょうけど、私は一緒に芝居をやっているので、そのまま大人になっている。まんまだよと思いました(笑)。長い間会ってなかったけど、私にとってはスポンと20年前が丸ごと来たという感じでした。

アフリカの神話に衝撃をうけ文化人類学へ

青木立教大学史学科から文化人類学に進まれるのはどういう流れですか。

上橋西洋の古代史をやろうと思って入ったんですが、大学でのあるゼミが転機となりました。

『アフリカの神話的世界』という山口昌男さんの書いた本を取り上げていたのだけど、そのときにアフリカの神話というものに、まず大衝撃をくらった。私は子供のころからギリシア・ローマ神話に親しんでいたし、北欧神話やケルト神話も好きでした。

でも、アフリカの神話ということがまったく頭にないことに気がついたんですよ。考えてみると、人がいるところにはみんな神話があるはずなのに、私が知っている世界って何と偏っているんだろうと思った。その時に出会った文化人類学という学問は本当に面白かった。

その時期に考えていたことがもう一つあります。私の家はごくふつうの家庭で、家族仲が良くてね、自分は恵まれた家族に暮らし、恵まれた大人になったひ弱な人間だと思っていた。だから、一度、まったく知り合いのいない異文化の中で、自分ひとりの足で立って、人間関係を一から自分で築くような体験をしない限り、まともなものなんか書けないだろうという大きなコンプレックスがありました。

本を読んで知識でわかったつもりになることではなく、自分で得たどこかに行き、そこに暮らしてみないとわからないものがあるというのが文化人類学で、それもまた心を惹かれた理由だったんです。

フィールドワークでオーストラリアのアボリジニを調査

上橋でも私、実はフィールドワークに出るの、苦手なんです。私の中には、二人の人格がいて、そのひとつが、「ホビット型」だから(笑)。巣穴にぬくぬくとこもって、美味しいものを食べて、本を読んだりしているほうが好きで、面倒くさいことはしたくないという人間。

その一方で、なぜか、突然、どこかへ旅に出てしまう自分がいるんですよ。ひとところに止まって、安寧に過ごしていたくない、新たな、生の経験をしたい、と思うと、本当にやってしまう自分が。

大学院の時に沖縄の調査をしたのが最初で、一人で調査に行って、おじい・おばあに可愛がられました。昼ご飯代までもらっちゃったりして、こんなに可愛がられて調査していちゃいけないだろうって(笑)。

ゴアナ(大トカゲ)を持つ上橋さん 91年11月、オーストラリア

ゴアナ(大トカゲ)を持つ上橋さん
91年11月、オーストラリア

今度は言葉が通じないところに行って調査をしなければという気があり、西オーストラリアの小麦ベルトの端の、小さな小学校のボランティア先生になって入りこんだんです。中央砂漠のアボリジニのコミュニティも訪問したことがありますが、周囲数百キロに何もないところでね、ガソリンスタンドがオアシスみたいになっていて、そこに泊まるんです。そこの駐車場にアボリジニの家族がぶらぶらしていて、朝見ても、昼見ても、夜みても、翌日もその次の日も、ただぶらぶらしている。何をしているのか聞くと、「アデレードに行く車が通ったら乗せてもらおうと思って」と言うんですよ。いつ来るかわからないような車を何日も待つというのは、私にはあり得ない。時間の感覚自体が違うんですよね。

私はめちゃくちゃ気が短いので、ここでの数日間はものすごいストレスになった。でもこれは人類学者としては大事なことで、この時間感覚をちゃんと研究しなければと思ったんですが、正直、つらかったな。

青木片桐さんは『わたしのマトカ』や『グアテマラの弟』などで異文化コミュニケーションについても、面白いお話を書かれていますね。

片桐私は違うことがあるほうが面白いというふうに思う。海外で舞台をやるとか映画を撮ることになって一緒に働くと、さすがに問題は起こりますよ。だけど、そういうもんなんじゃないのというタイプです。割とすぐなじめる。

青木お二人ともすごく好奇心が強いと思いますが。

片桐本を読んで、好奇心が強いのが一番共通していると思った。

上橋どこに行っても店を探して食事をするとか。よく似ていると思いますね。

青木そういうものが大事だと。

上橋いやぁ、これは、性分ですね。はいりの食べ物に対する好奇心は、私とよく似ている。おいしいものを探していろいろな店に入ってみるとか。私はフィールドワークに行ってゴアナを捕まえて食べたりもした。カンガルーの尻尾も食べた。そういう経験って、物語を書くときに生きるんですよね。

片桐食べ物に関連して現地の人と話すというのは、一番早く仲良くなれるでしょう。「これ、おいしいねえ」と言って。

上橋まずいとは絶対言ってはいけない。「食べられない」と私は言えないですね。

片桐あまりひどいゲテものの局面には巡りあったことはないけれど、カンボジアで水溜まりみたいなところから水をくんで勧められたときは、死んじゃうかもしれないと思った。でも飲みましたね。

心が動くワンシーンの中に物語全体の鍵が

青木お二人の本はジャンルが違いますが、上橋さんは全体を眺めるコンダクターのような感じがあり、片桐さんはその場に入って演技する、舞台に飛び込んで行く感じで、やはり俳優だなと思いました。

片桐そうですね。私はでき上がっている台本に入っていくタイプです。上橋さんは一つの世界をつくる。私にはゼロからつくるということはできない。

こんなところに、こんな人とこんな人がいたら楽しいだろうなということは浮かびますが、パートだけでお話がつくれない。

上橋私は昔から、人は、「世界の中にいるひとり」としてしか、イメージがわかない。時の流れと空間も全体としてとらえないと書けないんですよ。

片桐だから結局全部をつくる。身近にある世界ではないから、いろいろわからないことが出てきて、その説明もしなければならない。

私はファンタジーという世界が少し苦手で、理屈や世界観を納得する前に放り出していた。因縁がわかるまで我慢できないんです。だけど上橋さんの作品はいきなりクライマックスから入ることが多くて、すぐにその世界に入れる。

上橋説明すると長くなるのが苦手で(笑)。気が短いから。

世界を創造していると言いますが、私にとって世界はまず部分の中にあるんです。たとえば、『獣の奏者』の主人公エリンの場合では、最初の部分でお母さんが隣の布団にすべり込んでくる、その描写にもう、その世界のすべてがあるんです。母親から甘い匂いがして、この匂いって何だろうと思い、ああ闘蛇の匂いだと感じ、この母親は闘蛇を操る闘蛇衆だということになる。こうしてイメージが広がっていくんですよ。

トールキンの『指輪物語』のように、最初に設定をつくり上げてから物語をつくるのではなくて、最初のワンシーンから私はイメージがあって浮かんでくる。

片桐最初に系図とか地図とかを構想して、そこでいろいろなものを動かしているうちに物語ができるみたいなことが、物語をつくる作業なのかなと思っていました。

上橋菜穂子『精霊の守り人』・表紙

上橋菜穂子『精霊の守り人』
偕成社

「守り人」シリーズのヒロインのバルサはバスから降りてきた女の人を見てイメージしたとか。それはどういうことなの。その辺を聞いてみたいと思っていたんだけれど。

青木「守り人」シリーズは第一作の『精霊の守り人』から全10作で、30代の女用心棒バルサが、新ヨゴ皇国の第二皇子チャグムを守るために奮闘するお話ですね。

上橋瞬間にワーッとイメージがわいた。

例えばバルサの場合には、自分の子でもない子供を純粋に守って駆け抜けて行くおばさんの姿が浮かんだ。テーマも何も要らないと思ったけれども、そういう生きざまというか、そのおばさんを書きたかったんですよね。そして、彼女を描いているうちに、その中に大人になっていくことはどういうことだとか、世間の中でどう生きるか、そういうことが重なって出てくる。それで物語になっていく。

断崖絶壁にいる女性の姿が浮かんだ『獣の奏者』

上橋たぶん、心が動くワンシーンの中に、最初から物語全体の鍵になる衝動がすべて含まれているんだと思う。

『獣の奏者』は最初に浮かんだのが、断崖絶壁で声が届かないものに対して一生懸命語りかけようとしている女性の姿です。そのワンシーンの中に既に他者に向かって思いを届かせようとしている人の姿が浮かんでいた。そこに要素として全部詰まっているんですよ。

崖の岩棚に獣たちの目があって、その女性は、うつむいて、ひたすらに竪琴を奏でている。彼女は誰かから評価されるためではなく、止むに止まれぬ真直ぐな衝動から弾いているのだろうな、と。

ただ、これは初めて語るけれど、私の中には、彼女は誰かにやらされている部分もあってここにいるな、という気持ちもあったの。なぜかというのはわからないんだけれど。

風景の中にいるキャラクターが動き、自然に世界ができる

片桐キャラクターが先にバッとでき上がるんだ。

上橋キャラクターだけじゃなくて、風景の中にいるキャラクターなの。何かの風景の中にいるその人たち。しかも、それが一人じゃない。常に何人かと一緒に浮かぶ。猛獣と一緒に浮かんでいたり、蜂飼いのジョウンと女の子として浮かんでいた。複数の要素が結びついた瞬間に何か物語が動くのよ。それがきっと自分の好きな物語の種なの。それが動き始めると、自然に世界がいつの間か浮かんでくる。だから、先に世界を全然つくっていない。

片桐瑣末と言ったら変だけど、そういうところから入って宇宙をつくる的な話じゃないですか。別の世界をこしらえるみたいな。

上橋ゲラ(校正刷り)を読むと誰が書いたんだろうと毎回思う。

片桐とりつかれているのか。

上橋かもしれないねぇ。はいりは自分の作品のゲラを読んだ時、そういう感覚なかった?

片桐そんな感覚はない(笑)。でも、どうやって書いたんだろうとは思う。よくそんなこと思いついたなとかは思うときがある。

上橋なんちゅうか、ミラクルな状態になってるんだよね。だから、意図してない部分が出てくる。

片桐それはある。ミラクルだから、ミラクルが来なかったら書けないから、「書けると約束できないです」と言うんです。

青木『獣の奏者』Ⅰ・Ⅱ巻は、4か月で1,200枚を書かれたそうですけれど。

上橋私もびっくり。Ⅰ・Ⅱ巻は奇跡のようにどんどん書けた物語だけど、Ⅲ・Ⅳ巻は産み終えるまでに長くかかった。2007年の11月から、ようやく書き終えたのは印刷所に持っていく3時間前ぐらいですもの。最後の最後までゲラを直していた。こんなに直した本って初めて。

何かにつけて等身大なのはつまらない

上橋さっき、愛犬の死とか、自分の経験などを言いましたが、そういう経験をそのまま物語にすることはすごくいやでした。今もそうで、それは私にとっては物語じゃないのね。その経験が生きて出てくることはあるけれど。

高校2年の時に旺文社の文芸コンクールで佳作をもらいました。「天の槍」というタイトルで、石器時代の少年が初めて狩りに行き、獲物と向き合った時の話なの。石器の槍で戦うというワンシーンだけの話です。その時も、今生きているこの世界の私の知っている世界や、現代の少女の何かをそのまま書く気持ちには絶対にならなかった。

片桐だから、そこが面白い。上橋さんと久々に会った時に、その話でつばを飛ばしちゃいました。今、映画でも演劇でも、とにかく何かにつけて等身大、等身大。それがつまらなくて。上橋みたいな人が頑張らなきゃだめなんだよみたいなことを言った。世界をつくれないんだよ。みんな半径1メーター位のところしか見ていないんだと思って上橋にハッパをかけた(笑)。

上橋はいりが熱弁奮ってくれたんで本当に、ありがとうって思いました。よく売れる本って、身近で、親近感があって、共感ができる内容のものが多い気がする。反対に想像力をうんと働かせなければならない、遠い距離感のあるものは読者を選ぶんじゃないかと思っていたので。

だから私の本が売れてくれているのは不思議なんですよ、私。

アニメ化の過程で再び動き出した登場人物

上橋菜穂子『獣の奏者』『Ⅰ闘蛇編』 右:『Ⅱ王獣編』・表紙

上橋菜穂子『獣の奏者』
左:『Ⅰ闘蛇編』 右:『Ⅱ王獣編』
講談社

青木『獣の奏者』は3年ぶりにⅢ・Ⅳが出ましたね。

片桐実は続きを書こうとしていたの。

上橋うんにゃ。Ⅰ・Ⅱで本当に終えた物語だったんです。ただ、NHK教育テレビでアニメ化のお話があって、私は原作・監修という役割で、1年間ミーティングがありました。その時に、監督たちが「闘蛇というのはどうやって卵を産むのか」と聞くんです。私は「闘蛇は川沿いの枯れた葦なんかを踏みつぶし、そこに巣をつくり卵を産む。その上に枯れ草をのせ、ちょっと土をのせる。そうして湿ってくると発酵します」などと話していました。それはⅠ・Ⅱ巻に一切書かれていないことなんです。その時に私の頭に浮かんだことをしゃべっている。まるで、闘蛇という生物の授業をしてるみたいになっちゃって、脇で見ていた編集者さんに笑われました。王獣やお母さんについても、それまで頭になかったことを話したりね。

片桐その場で考えて言っているの。

上橋そう。エリンのお母さんのソヨンは霧の民[アーリョ]だけど、ほかの人たちとは隔絶している霧の民のイメージが何かドラマになりませんかと言われた瞬間に、「彼らが沈黙交易をしている話はどうかな」とアイディアを出すとか。大きな木を目印にして、木の根元に何かを置き、それと等価のものを物々交換するけれど人間同士は触れ合わない沈黙交易が、パッと頭に浮かんだんで。そういう話をしているうちに、エリンやソヨンたちが私の体の中にもう1回生きてきたのね。そうしたらエリンが成長して母親になっている姿が浮かんできて、突如として話が動き始めたの。

片桐それは自分の中に培っているものがあるということですね。

上橋自分の中にあったのかどうか、それまで気づいてなかったことが、突如出てくることはあるなぁ。

片桐『獣の奏者』を俳優としての立場で読むと、演じる人にはすごく丁寧な本だと思ったの。人の動作や目線の位置などが実に細かく書いてあって、読んでいるとつい、その動きをやっている。そうすると、こういうことかってわかるみたいな感じがある。

上橋私は浮かんでくる風景や声、表情、匂いなどを文字でデッサンしている感じなの。例えば、苦しんで動けなくなった人の、その顔を書きたいんだけど、でも、口を歪めた、と書いてしまうと行き過ぎてしまうと感じたりする。

片桐歪めたと書くと感情の表現がくっついてくる。口をどうしたのかという表現の仕方なんです。

上橋そうそう!でも、その言葉を思いつくまでにえらい時間がかかっているんだなぁ、これが。

片桐わかる。それが私にはすごく読みやすいんです。俳優として見たときにすごく気持ちがわかる。つらい表情で悲しい目で見たというような表現ではない。顔を見たけれどその人の目を見ていなかったとか、茶碗を見ながらこう言った、と書いてあるんです。そうするとすごくその人の置かれている状態がわかる。

エリンが最初に竪琴を使って王獣の子リランと交流ができるシーン。エリンが目を伏せて竪琴をひきながらあとずさりしてきて、ふりむいたら涙を流している。一緒にやっているからその気持ちに同化して号泣しちゃう。

子供のころから「学ぶ人」が大好きだった

青木『獣の奏者』ではエリンが成長し、「守り人」シリーズもチャグムが大人になっていきますが、それは一つのテーマなんですか。

上橋テーマなんて考えてないんですよ。自分が心踊る物語を書いていると自然にそうなっちゃうだけです。やっぱり、発見していくことって楽しいじゃないですか。

私自身書いていて、エリンがいろんなものを見つけていくのが楽しいし、「守り人」のチャグムもいろいろ知っていくのが楽しい。書いているときはワクワクします。でも大人になってくるのがつらいなと思うことが、たくさん出てきちゃったりしてね。

片桐それは勉強じゃないんだけれど、知りたい冒険だものね。『獣の奏者』はキュリー夫人の話だと思った。

上橋あ、はいり、さすが! 私は子供のころからキュリー夫人が好きだったの。私の中に、学ぶことが大好きだった自分がいるのよ。子供のころ心にあった、学者というもの、学ぶ人間に対するあこがれを書きたかったから、エリンはまさに学ぶ人という感覚だった。キュリー夫人はラジウムを発見したけれど、そのラジウムのせいで命を縮めた。書いたときは別にキュリー夫人をモデルにとか全く思ってはいなかったけれど、すごく心動く主人公を描いて、自分が同化して描いていくと好きなものが出てこざるを得ないのかもしれないね。

究極の敵は大きな社会全体

上橋私、昔から一番わからない敵というのは世界征服を目論む奴なの(笑)。そんな面倒くさいことをなぜしようとするのだろう。しかも、「世界を征服したい人たち」が敵の物語だったら、解決はすごく簡単だなといつも思うのよ。これを倒すにはどうしたらいいかを書けばいいんだから。でも、自分ではどうしようもない、社会や世界のような、「自分を包んでいる、なにか大きなものが自分に及ぼす力」が、子どものころから私はずっと怖かったの。自分では決められないものに決められている自分をいつも心の中で感じた。それでいて、私自身もそれを生み出しているひとりである不思議さ。

左:片桐はいりさん 右:上橋菜穂子さん

左:片桐はいりさん
右:上橋菜穂子さん

……だから、人類学に惹かれたのかもしれない。人類が生み出してしまうシステムは実はいろいろあって、人類学はそういうものを考える学問だしね。人は何でこういう文化を生み出してしまうのか、みたいなところに興味を持ってしまうわけ。

ある意味、人にとっての究極の敵は、そういうシステムというか、大きな社会全体なんじゃないかなという気がする。それって解決不可能なものなのね。自分もそれをつくっている一人だから。エリンもそうで、エリンはパンドラの箱をあけたとよく言うけれど、彼女もその社会をつくっている一人なのよね。

片桐そうなんだよね。特殊な才能がもともとあったわけじゃなくて、「知りたくて、知りたくて」とつきつめていくうちにこうなってしまうところが、すごい。

上橋ある面からすれば、とてもいいことをしているんだけど、ある面からすると、とてもそれがヤバイことになってしまう。そういうことのほうが私にはリアルな怖さなのね。

青木上橋さんは書き始めたころに、そういう価値観というのは持っておられたんですか。

上橋あったんだと思いますよ。高校時代の脚本でも敵をつくっていなかったしね。悪者というのはいなかった。だから、その国を為政者が治めている間に矛盾が起きて、それで、主人公たちが翻弄される話を書いたんだと思う。たぶん、それが私の基本の中にあるのかも。

片桐悪者が出てこない。例えば権力者とか、王様が悪いという書き方がないんですね。そこが逆に言えばすごくリアルだよね。

上橋だから、カタルシスが書けないの。うそになってしまう気がするの。カタルシスのためにうそをつくのがいやなんです。

敵を設定してしまうと、主人公は必ず敵を倒すことで問題を解決するじゃない。そうすると自分は解決をする側に回れる。だけど私、どうもそれはうそだろうという気がして都合のいい解決者になれないんだわ。

普通の人、普通あり得る大勢の人たちは、その他もろもろの選択肢の中で、迷いながら生きていくだけなんだろうなと、そんなことを考えて。

『獣の奏者』の世界は市民意識がまだ成熟していない社会

上橋『獣の奏者』の世界は、例えば民主主義などがまだ生まれていない時代なんです。王という為政者には「市民」という感覚がない。王に言われてしまったら、もはやどうしようもない。知識が与えてもらえない人がいるのが当然の社会。知識が平等に与えられてしまえば革命が起きてしまう可能性があるから、為政者としてはそんなことはしたくない。まだ、市民という意識が成熟していない社会なんですよ。

片桐それだけすごく違う世界の話でありながら、こんなに身につまされるという言い方もつまらないけれど、肌感として、うわ、どうするんだろう、どうすればいいんだろうって、何か一緒になって考えちゃうみたいなところがあるよね。

上橋はいりみたいに、肌感覚でわかってくれる人は、私が書いたことをストレートに理解してくれるけど、苦境に立ったとき、何でエリンは逃げなかったのか、と言う人たちもいてね、たぶん、そういう人たちは、現代日本人の感覚で読んでいるんでしょうね。現代とは異なるこの社会の感覚の中に入ってきていない。

きっと、読者の背景によって読まれ方が違う。はいりは昔から『平家物語』が好きだったというような感性があって、いろいろ読んでいるじゃない。そういう人だと、自分にはどうしようもない社会のシステムがいつの間にか動いていて、為政者でさえも実はそのシステムの中に取り込まれて動くということが、ごく自然なものとして感じてもらえるんだけれど。

演じるなら琴をひくロランの役がいい

片桐私は、本を書かせてもらって世の中がすごく面白くなりました。何をやっても面白くなっちゃった。逆に何をやっても仕事みたいなことにもなっちゃっているんだけれど。

上橋はいりの文章は天才的で、とくにタイトルと書き出しが秀逸だよねぇ。それがラストにバチッと落ちる。「落ちる男と転がる男」とか「歯ブラシとコンピューター」とか。たまげるほど上手い。

片桐やめてくださいよ(笑)。私はいつも、本は書き出しが面白いかどうかで買うんです。なので、自分の原稿の書き出しもそれは緊張します。5枚ぐらいの原稿でも書き出すまでに3日ぐらいかかったりしちゃう。

上橋書き出しとエピソード、どっちが先? どうやって考えつくの?

片桐ここでこういうふうにしようとかつい考えるんだけれど、そうすると面白くないんだよね。書いているうちに出てくるほうが面白い。

片桐はいり『わたしのマトカ』・表紙

片桐はいり『わたしのマトカ』
幻冬舎

たまに夢でダメ出しされてああそうかみたいなことがあったりします。思っていなかったのに何で夢で見るの、みたいなことですけれど、これもミラクルだね。いつミラクルがあるかわからないし、ないかもしれないし。だから、文章を頼まれても簡単に引き受けられないんです。

上橋私も編集者泣かせです。次回の予定は何もないのですみませんって(笑)。

青木シーンが浮かぶかもしれない。

上橋いやいや、それが浮かばなかったらどうするんですか。私の人生とても怖いんですよ。なぜ、こんな博打みたいな人生を過ごしているんだろう。

青木お二人とも「世界」をつくるお仕事ですね。

上橋現実ではない世界に入り込んで、なりきる。演じることは特にそうですね。

片桐最近、すごく変な役ばかりなんです。きのうは大根ですよ(笑)。ほじくられた大根の役。その前は自動販売機で、その気持ちなんてわかりようがない。でも、この間「片桐さんの文章を見ていると、あり得ないことではない。何とかわかろうという気持ちで台本を読んでいるんじゃないですか」と言われて、「確かにそうですね」と。

上橋『グアテマラの弟』にあったけれど、はいりは消しゴムに謝ったりするんだよね。私もそう。物に「ありがとう」というのは自然だなぁ。

でも、そういう感覚があるから自動販売機にもなれるでしょうね。

青木『獣の奏者』の中で演じたい役はありますか。

片桐エー、そういうふうには考えなかったな。

上橋エリンを教えるエサル先生ができそうな感じ。

片桐頼まれるとしたら、きっとそういう役でしょうね。私は琴を弾く楽師のロランがいいな。

上橋ロラン、いいね。男だけど(笑)。まあ自動販売機ができるからね。

片桐そうそう。

上橋大根もできるんだから、男の役ぐらい何でもないよ。ロランも大丈夫。

青木ありがとうございました。

上橋菜穂子 (うえはし なほこ)

1962年東京生まれ。

片桐はいり (かたぎり はいり)

1963年東京生まれ。

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