Web版 有鄰

491平成20年10月10日発行

[座談会]野澤屋と伊勢佐木町

横浜松坂屋松友会幹事長/鎌仲友二
株式会社むさしや津田商店代表取締役
・伊勢佐木町の歴史書をつくる会会長/津田武司
横浜開港資料館主任調査研究員/平野正裕
有隣堂社長/松信 裕

左から、津田武司・鎌仲友二・平野正裕の各氏と松信 裕

左から、津田武司・鎌仲友二・平野正裕の各氏と松信 裕

はじめに

野澤屋呉服店伊勢佐木町支店 明治43年

野澤屋呉服店伊勢佐木町支店 明治43年
『実業之横濱』8巻24号から
横浜開港資料館蔵

松信横浜が開港して間もなくの元治元年(1864年)、初代茂木惣兵衛[もぎそうべい]が横浜の弁天通で創業した野澤屋呉服店は、明治43年(1910年)に伊勢佐木町に支店を開設しました。のちの野澤屋、現在の横浜松坂屋の前身です。その後、関東大震災や戦争などの苦難を乗り越え、ほぼ1世紀、横浜を代表する店舗の一つであり続けました。百貨店という、従来の小売店とは異なる販売形態は、地域に根づき、市民に親しまれてきましたが、10月26日をもって営業を終了し、長い歴史に幕をおろすことになりました。

本日は、伊勢佐木町の核とも言える野澤屋・現横浜松坂屋の歴史を振り返り、それを取り巻く地域とのかかわりなどについて、お話をお聞かせいただきたいと思っております。

ご出席いただきました鎌仲友二様は昭和28年(1953年)に野澤屋に入社され、30年間にわたり多くの部署でお仕事をなさいました。現在はOB会である横浜松坂屋松友会幹事長でいらっしゃいます。

津田武司様は伊勢佐木町で四代続くお店を経営されるかたわら、伊勢佐木町の歴史をつくる会会長として地域の歴史を掘り起こし、記録していく活動に取り組んでおられます。

平野正裕様は横浜開港資料館主任調査研究員で、平成13年(2001年)の同館の企画展「横浜商人・繁栄の60年—野澤屋茂木商店とその人びと」を担当されました。

元治元年、茂木惣兵衛が弁天通に呉服店創業

初代茂木惣兵衛

初代茂木惣兵衛
横浜開港資料館蔵

松信創業者の茂木惣兵衛はどういう方だったのですか。

平野茂木惣兵衛は文政10年(1827年)上州の高崎に生まれます。大黒屋という質屋の息子で、長男でありながら奉公に出され、さらには桐生の絹物商の新井家に養子に入る。しかし嘉永7年(1854年)、結局は養子先の新井家とも別れて高崎に戻り、独立します。

安政5年(1858年)に日米修好通商条約が結ばれ、翌年の安政6年に横浜が開港します。そのころ、現在の埼玉県児玉町出身の野澤屋庄三郎が、横浜に野澤屋という店を開きます。

野澤屋庄三郎は開港後、数年で亡くなります。そして、その野澤屋の暖簾を引き継いだのが茂木惣兵衛でした。茂木惣兵衛はそれ以前に、信州の呉服商の中山浜次郎という人物を介して野澤屋に入っており、主に生糸輸出などの事業をやっていたと言われています。

野澤屋茂木惣兵衛 明治中期

野澤屋茂木惣兵衛 明治中期
『横浜諸会社諸商店之図』から 横浜開港資料館蔵

野澤屋呉服店は、元治元年(1864年)の創業となっていますが、いろいろと調べていきますと、明治元年と書いてあるのもあります。また、明治14年に発行の『横浜商人録』という本の広告には、茂木惣兵衛(「入九」)が弁天通野澤屋、その支店が隣に野澤屋として明治7年開業、呉服織物木綿唐洋織物類賣買云々と書いてあります。旧い資料で、かつ創業年が明記されているのは、この『横浜商人録』だけですが、はっきりとした答えは出せません。

茂木惣兵衛は事業でたいへん成功して、野毛山に立派な邸宅があったんです。初代惣兵衛の時代から、ここは秋に菊を市民に公開することで有名でした。また、熱海梅園も初代の茂木惣兵衛が造成し、寄贈しています。熱海梅園には「茂木氏梅園記」という石碑があります。

商号「入九」は野澤屋庄三郎の墓にも

津田「入九[いりく]」という商号は、初代のおうちの何かなんでしょうか。

平野「入九」の由来は、茂木惣兵衛が九文しかお金を持たずに横浜に出てきたからという逸話が昔はあったようですが、おそらくそうではなくて、武州児玉郡の商人に野沢九平という人がいて、その娘の佐和と結婚した桜沢正三郎が野澤屋を創業した野澤屋庄三郎なんです。その家の時代から「入九」という商号はあったと思われます。野澤屋庄三郎の墓は今でも残っていまして、そこには「入九」が刻まれています。ですから、野沢九平の「九」かもしれませんが、今、確認できるのは庄三郎のお墓に彫られている「入九」が最も旧いですね。

二代目茂木保平が進めた六大事業

平野茂木家の家系はややこしいところがあって、初代惣兵衛は晩年に茂木保平と名乗り、別家を興します。初代茂木惣兵衛であり、初代茂木保平でもあるわけです。

惣兵衛の奥さんは哲子といい、娘・操子がいた。この娘の婿養子にしたのが自分の甥である保次郎です。これが二代目茂木惣兵衛です。

ところが、哲子は比較的早く亡くなって、後妻として蝶子という方を迎えて栄子という娘が生まれる。栄子は名古屋の瀧定助商店というところから泰次郎という人を迎え、二代目保平になります。茂木家には「惣兵衛家」と「保平家」の二軒があった。

二代目惣兵衛となる保次郎は病弱だったようで、店をあまり見ることができず、結局二代目保平が実質的に茂木惣兵衛の次の世代を担うことになります。

松信二代目保平はどういう方だったのですか。

平野婿養子になった二代目保平の実家は、今でも名古屋に瀧定という会社がありまして、服地の卸では国内でもトップの商店です。その瀧定の次男です。瀧定に、保平から兄の瀧定助に宛てた手紙が残っているんです。

自分が養子に入った茂木商店はどんな家か、特に呉服店については「呉服店のごときは流通資本四万円前後(資金積立金合計)本年度の収金一万五、六千円のこと、いかんとも驚きいり候……」と、明治20年代にこれだけの大きな事業をやっているということで、非常にびっくりしている。生糸貿易で生糸の問屋としてももちろん大きな取引をやっていたんですけれども、呉服商としても大きな取引をやっていたということがわかるんです。

二代目保平は生糸売込商の事業だけではなく、より多角経営を進めます。特に「茂木の六大事業」と言われる事業を彼はやるんです。

まず、生糸輸出の茂木商店、金融の茂木銀行、これは、後に横浜七十四銀行になります。そして、不動産管理会社の茂木土地部、羽二重などの輸出をおこなう野澤屋輸出店、次には野澤屋絹商店という、洋服などのシルク製品をつくって商売するお店もつくる。最後は呉服店。これが茂木の六大事業です。さらには高崎に茂木製糸場という生糸工場も直営し、また羽二重の工場を福井市につくるという形で多角経営を進めていくんです。

明治43年、伊勢佐木町に支店を開業

平野そして今の松坂屋、野澤屋の前身である伊勢佐木町の野澤屋の支店が開業します。これが明治43年ですが、厳密に言いますと42年の11月1日が開業日になります。現在の松坂屋の建物がある場所ですね。

「楽しき散歩」と題された野澤屋呉服店支店のショーウインドー

「楽しき散歩」と題された野澤屋呉服店支店のショーウインドー
『実業之横濱』6巻26号から 横浜市中央図書館蔵

呉服店は座売りといって、お客さんとはひざを交えて接客しますが、それはもう時代遅れになっていたんですね。この店は陳列売りで、ショーウィンドーもつくっているということで、呉服店から、より百貨店に近い態勢に一歩進んでいく。

しかし、横浜の百貨店の先駆け的な意味では野澤屋よりも越前屋のほうがちょっと早かったんです。開業も半年ほど早かった。越前屋は後の壽百貨店、さらに松屋横浜店になるお店ですね。

越前屋では、今でも言うところのシャワー効果みたいなことを先行的にやっている。屋上に庭園をつくって、まずそこに上らせ、それから店におりてくると、3階には均一価格の商品を並べて魅力をアピールする。野澤屋は2階建てでしたが、越前屋は屋上つき3階建てでした。

越前屋、鶴屋、相模屋というのが野澤屋とならんで横浜を代表する呉服店でしたが、どの店も、明治末期には陳列売りやショーウィンドーのある店舗を持つようになります。

東京の三越 京都の高島屋と肩を並べる

平野しかし、開業当時の野澤屋支店はデパートとはちょっと言えない。基本的には呉服店だったんです。

これは明治42年11月の『実業之横濱』という雑誌にあるんですが、「販賣品目は呉服、太物類一切」という形になっていまして、ほかの洋品は扱っていないんです。なぜかと言いますと、一方で野澤屋絹物店という店を持っていますから、すみ分けがどうしても必要になる。総合的になり得ない面があったんだろうと思うんです。

松信呉服店としては一流だったようですね。

平野当時、東京の三越、京都の高島屋と肩を並べられるのは、横浜では野澤屋だけだといわれていたようです。野澤屋は意匠部、つまりデザイン部みたいなものを持っていて、東京でも流行する柄などをいち早く導入したということが、当時の雑誌の記事でも語られています。

伊勢佐木町支店が開業したときには、「野澤紬」というオリジナルの、比較的安い商品を売り出して、人目をひいたそうです。

恐慌で事業を整理、 デパートとして再スタート

野澤屋呉服店支店の陳列室

野澤屋呉服店支店の陳列室
『実業之横濱』 8巻24号から 横浜開港資料館蔵

平野大正の半ばぐらいから、第一次世界大戦で景気がよくなる。その中で、当主の三代目茂木惣兵衛は事業を拡大して、工場や鉱山経営に進出する。当時の雑誌には「三井を凌駕せん」との勢いがあり、弱冠26、7歳の三代目は経済界から大注目されます。そして、伊勢佐木町支店を本格的なデパートにしようと動き始めます。

生糸貿易は、大正8年までは相場も高くて景気がいいんです。その勢いで、伊勢佐木町支店の裏側、福富町寄りに鉄筋造のデパート化した4階建ての呉服店をつくります。大正8年ごろに建設が始まりますが、9年3月に起きた恐慌に巻き込まれるかたちで、茂木合名と機関銀行の七十四銀行が倒産してしまいます。結局は、野澤屋の事業を整理しなければならなくなった。

呉服店もその対象になったわけですが、暖簾だけは残しておきたいということで動いたのが、横浜で絹物貿易を行っていた亀井信次郎です。二代目保平の兄である、名古屋の瀧定助に社長になってもらう形で、株式会社野澤屋呉服店として大正10年に事業を始めます。デパートとしての野澤屋は、そこから始まったと言えると思います。

当時の取締役に小野哲郎がいますが、この人は横浜商人として有名な生糸貿易商、小野光景の息子で、瀧家と親戚でした。その後の野澤屋は、瀧・小野系統の人たちによって再建されていきます。

昭和初期、都市的ライフスタイルを提唱

野澤屋呉服店支店 昭和2年

野澤屋呉服店支店 昭和2年
竹中工務店『建築写真帖』から 横浜開港資料館蔵

平野野澤屋が株式会社野澤屋呉服店として、デパートとして開業してから2年後に関東大震災が起こる。福富町寄りの鉄筋コンクリートの新館は残りましたが、伊勢佐木町に面した旧館はつぶれてしまいました。そこで旧館の位置に増築を開始しました。バラックのような形で事業を再開して、そして昭和2年に5階建ての建物をつなぐんです。そのころの店内の構成が「店内一覧」を見るとよくわかります。各階の売場の構成も多様かつ近代的になり、呉服や洋服だけでなく、家具や食料品も扱っています。JTBがあって、旅行案内もやっていました。

鎌仲昭和3年に呉服店という名称をとり、株式会社野澤屋になっております。そのころに足の便ということで、横浜駅―桜木町―野澤屋の間をバスで送迎するサービスを開始しました。

平野洋服で言いますと、昭和2年のダイレクトメールには、この年の「春の流行基準色」ということで、小さく切った生地を台紙に貼り、二つ折りにしたものを送っています。さらに「野澤屋の子供服」。昭和3年か4年だと思いますが、カラー印刷で子供服のカタログをつくります。こんな服を着せることができる家はお金持ちですね。

また、野澤屋オリジナルの化粧品もつくっていたようです。昭和9年、10年あたりのお歳暮のカタログなどはモダンですね。さらには、デザイナーとして招いた外国人が洋服の相談を承るという形で相談会を持ったりしています。昭和10年は不況から立ち直ったころですが、日本人はまだまだ貧乏でした。そんなときにこうして人を集めているわけです。いわば都市的なライフスタイルを、早くから提唱している。これが野澤屋の横浜における役割だったんだろうと思います。

今の建物の伊勢佐木町側正面は昭和12年に完成し、戦後、福富町側の売場が拡張されて奥行きが広がります。

物を売るだけではなく文化を発信

コドモ會チラシ 昭和2年頃

コドモ會チラシ 昭和2年頃
横浜開港資料館蔵

平野

昭和2年頃には、野澤屋呉服店で、ヨコハマお伽會主催のコドモ會という催しが5階の催事場で行われたり、そのほかには歌妓舞踊会ですね。磯子舞踊連とか小田原芸妓連、神奈川芸妓連などが催事場で踊りを披露したりしています。店内にはプレイガイドがあって、東京で行われているお芝居などのチケットが野澤屋で買えました。物を売るだけではなくて、文化を発信したわけです。

ちょうどこのころ、大正10年から昭和の初めというのが、野澤屋が横浜の伊勢佐木町を代表する百貨店としての地位を確立した時期だったと言えるんじゃないかなと思っております。1930年代には、松屋・壽百貨店連合というライバルが出現します。

子供心にも高級感があった「入九」のマーク

平野昭和10年ごろに小学生で、鶴見にお住まいだった方に伺ったんですが、戦前に「入九」のマークの入ったランドセルや筆箱があって、当時の子はそれを買ってもらうとうれしかったようです。ランドセルの肩ひもの金具をとめてある真ん中に「入九」が入っていたらしいんです。

伊勢佐木町に行けば、とにかく野澤屋で買い物をして、配達を頼む。その後、森永キャンデーストアとかいろんなところで時間を過ごして楽しんで帰ると、鶴見の自宅の前に黄色い配送車が止まっている。夕方には家の前にもう来ているんですって。買った品物がその日に届く。それを学校に持っていけば高級感がある。「入九」のマークにはそういう思いがある。

鎌仲私の先輩方の話ですが、子供のころ、何かいたずらをすると、「野澤屋に連れて行かないよ」と(笑)、そんなことを言われていたそうです。屋上で三輪車に乗ったりして遊んで、帰りにおもちゃを買ってもらうのが楽しみで、二言目には野澤屋だったそうです。

古い人は、野澤屋のことを「入九さん、入九さん」とおっしゃいます。

戦時中は売場供出、戦後は長く接収される

鎌仲その後戦争が激しくなって、昭和17年には百貨店でありながら衣料品の販売中止という指令がありました。また、戦時体制で売場をあちこちに供出するようになります。

昭和17年ごろに、百貨店は全部主力団体へ売場を供出するようにという指令があり、野澤屋も神奈川県木材配給統制会社や東京芝浦電気株式会社(東芝)へ提供します。本館の4階、それから3階を東芝に供出して売場がだんだん狭くなっていく。デパートとして機能しなくなった状態です。昭和19年から終戦までです。

その中で、相模原の淵野辺にある造兵廠のなかに共栄会という売店があり、野澤屋が指名を受けて、そこで販売をしていた。戦時中にはそんな出張所があったんです。そのほかにも、横須賀にも海軍との取引ができたりしました。

津田私が野澤屋に最初に行ったのは昭和20年の5月29日の空襲の前でした。

私どもは伊勢佐木町の角に土地を所有しておりまして、父親は出征しておりました。それで、母親に手をつながれて地代の徴収に来たんです。そうしましたら、もう何もない。その当時、木造の家屋はみんな撤収されて、鉄筋だけが残っていた状況でした。これではどうにもならない、お金が何も入らないと、母親と呆気にとられました。

その時に伊勢佐木町を歩きまして、野澤屋へ入ったんです。そこで何か買ってもらい、お隣の壽百貨店は、子供心に覚えているのは、突き当たりに鬼が立っていて、真ん中に丸い的があるんです。お金を払ってボールを当てると、鬼がウォーと腕を上げるんです。それで遊ばせてもらったことが、野澤屋と壽百貨店の初めての思い出でございます。

野澤屋に逃げ込んで空襲を免れた人も

平野小津安二郎監督の妹の小津ハマさんという方が、野澤屋で空襲に遭っているらしいんです。野澤屋のビルにいて助かった。

津田野澤屋の中で空襲を避けた方は、かなりいらっしゃるんですね。

松信私どもの前の社長も野澤屋の中に逃げ込んで助かったそうです。

鎌仲あのときは本館を除く建物は全部焼失となっています。鉄筋のところは助かったけれども、木造部分の建物は焼失しています。

松信その当時は有隣堂も木造でした。建物疎開で建物は壊されましたが、商品は本牧の倉庫に疎開してありました。昭和15、6年から、田舎に分散するようにというお達しが出ていて、それで商品は燃えずにすんだ。

平野それで、戦後すぐ商品があったんですね。

戦後の接収中は相模原で農場や畜産も

接収中の野澤屋の前を通るアメリカ独立記念日の米軍のパレード

接収中の野澤屋の前を通るアメリカ独立記念日の米軍のパレード
昭和21年7月4日
浪江康夫氏蔵

松信戦後、伊勢佐木町は米軍に接収されますね。

津田野澤屋も接収され、米軍のPXとか、いろんな部署が入っていたようですね

鎌仲終戦になって、本館が全部駐留軍に接収されました。接収されている間は、21年ごろから吉田町、22年には磯子の滝頭、神奈川の六角橋、それから鶴見の営業所、鎌倉などに、あちこち店を出して、接収解除になるまで生き延びていたというのが実情でございます。

その中で、商工会議所、そのころの商工奨励館の1階に部屋を借りて、エキスポートバザーというのを出したんです。外国人相手の店ですね。そこの売り上げが非常によかった。外国人はお金を持っていますから。そこが本当に起死回生の収益源でした。これが昭和24年です。

この時代は、生きるためにいろいろと考えました。デパートは、衣食住に関する多種類の商品の販売並びにこれに関連する加工業というのが営業目的なんですが、野澤屋には、冠婚葬祭を手がける葬祭部もあった。ゆりかごから墓場までということで、デパートではめずらしいんです。その次が、畜産及びこれに関する加工業で、相模原の淵野辺に農場を持っていた。

戦時中に造兵廠の売店を指名されていた関係で終戦後、造兵廠が閉鎖された後、4千坪ほどの国有地をそのまま農場にして、乳牛、豚を飼いました。ところが、だんだん住宅ができてきて、においなどの問題でできなくなって、結局、野菜とウズラ、ニワトリを飼ったりしていました。

そうこうしているうちに、国から自衛隊の宿舎を建てるので半分返せと2千坪ほど返還させられました。そこで、野澤屋相模原事業所という有限会社をつくり、仕事をすることで土地を確保していた。そういう時代もありました。

そして、その土地を払い下げてもらいました。後にその土地がその何十倍で高く売れた。それで本店のリニューアルができたんです。

デパートに畜産があるのはちょっと変わっていますが、それも野澤屋の特徴と言えます。この農場は、食糧難時代に従業員の食糧を確保するための農場でもあったんです。これは十分役に立ちました。そのころは食べることがまず第一番だったんですから、そういう意味では農場という存在も、あのときは貴重だったんです。

昭和30年に全館解除されるまで1階はPX

松信鎌仲さんが野澤屋でお仕事を始められた当時の様子はどうでしたか。

鎌仲私が入社したのは昭和28年で、大勢入社した時です。接収解除後のごたごたの中でいろんな仕事を担当して、30年いましたが、百貨店人としては裏方の総務関係の仕事が長いんです。

昭和28年に2階以上が接収解除になりました。1階が使えないというデパートですから、想像できると思いますけれども、非常に不便な商売をせざるを得ない。建物の右側の片隅の通路から入るかたちで、2階から4階を売場で使っていた。これが2年間です。昭和30年に、1階のPXが解除になって、やっと全館解除ということです。

昭和30年代の伊勢佐木町は大変な雑踏の繁華街

昭和38年ごろの伊勢佐木町

昭和38年ごろの伊勢佐木町

松信昭和30年代は、伊勢佐木町はまさに横浜でいちばんの繁華街でしたね。

津田私の記憶ですと、昭和30年代の伊勢佐木町はそれは大したものでしたよ。

関内のほうの会社や役所の仕事帰りの方々がみんな伊勢佐木町に出ていらっしゃる。あの幅員の通りがとにかく夕方は全部埋まっちゃうんです。そのぐらい人出が毎日ありました。

同時に、伊勢佐木町の山手側の羽衣町から扇町にかけては、まだ接収されていて占領軍の兵舎がありましたから、外国人もおりました。外国人も含めて大変な雑踏でした。ですから品物は本当に飛ぶように売れました。

昭和50年に行われた伊勢佐木町生誕百年祭のときのインタビューを見ますと、「伊勢佐木町はとにかく変わってほしくないな。あのまんまの伊勢佐木町でいてほしいな」というご意見が随分出ているんです。だけど、皆さんの頭にあるのは、昭和30年代の本当に伊勢佐木町が栄えたころのイメージなんだと思うんです。あのような盛況を保持するのは、いくら横浜のメインストリートといえども、なかなか至難だなと思います。

昭和38年に本館の増築が完成

鎌仲野澤屋も、苦労しながらやってきましたが、資本金も増やし、店舗も拡充し、いろいろ投資しようということで増資を図りました。そして昭和35年、一人前のデパートになるために上場を申請したわけです。最初は東京証券取引所店頭へ上場し、翌年、一部に上場されました。そして、38年には本館の増築が完成しました。

一部上場はよかったんですが、その後が問題でした。老舗でありながら、株価が非常に安いということでマークされました。この暖簾が額面割れするような株ではないと、名古屋のある投資家が買い始めて、市場で株がだんだん上がってきました。

そこに入ってきたのが、東洋郵船社長の、有名な横井英樹です。伊勢佐木町の有名なデパートで、しかも有望だということで昭和46年ごろから株を買い始めた。これは自分が経営するという気持ちではなかったと思いますが、店側に対しては「乗っ取りではない」と盛んに言っていました。

最終的に、店側としては創立以来関係ある大株主の松坂屋さんに何とかお願いしたいということで、昭和49年に社名が「野澤屋」から「ノザワ松坂屋」になりました。

津田資本の提携ということが基本にあったんですか。でも当時、ほかに三越さんなどもあるわけでしょう。にもかかわらず、どうして松坂屋さんなんでしょう。

鎌仲創立当初からの瀧さんの関係です。

津田そうか、瀧定助さんか。それでわかりました。

横浜駅西口の開発が伊勢佐木町に大きく影響

松信少し前後しますが、そのころは横浜駅西口が勃興してきた時期でもありますね。昭和34年には高島屋が開業し、39年にはダイヤモンド地下街ができます。その辺はいかがでしたか。

鎌仲私は後で聞いたのですが、相鉄さんとしては野澤屋に一番先に西口へ出てほしいという勧誘があったようです。しかし野澤屋としては、接収されてあっちこっちでやっと体を保てたけれど、そういう資力がないということで断ったようです。その辺が会社、企業としての体質といいますか、体力といいますか、そういった面の弱さがはっきり出ているんじゃないかなと思います。

松信津田さんのお立場からはいかがですか。

津田その当時、伊勢佐木町にも組合組織がもちろんあったわけです。今でも存続しておりますが、私ども小売店の組合が商和会と言います。そのほか野澤屋さんをはじめとして、松屋、不二家、森永キャンデーストアなど大型店が8店舗ありまして、大型店会をつくっておりました。この2つの組織が、伊勢佐木町の一・二丁目一帯で活動していたわけなんです。

理事会の会合が月に1回ありました。組合の最高機関ですが、それには、大型店の方々も小売店と一緒に出席されました。しかし、振り返りますと大型店と小売店というものは、おのずと違う立場にあるんだという認識がありましたね。

小売屋が大型店の方々と一体になるということがどうもございませんで、大型店からは経済的な援助は受けるけれど、町の運営そのものは小売屋が主導していくんだという雰囲気が、昭和30年代は強うございました。

大型店と小売店が一体になれなかった

津田私は銀座の松坂屋に勤めておりましたが、昭和39年にはもう自分の店に帰っておりまして、高島屋やダイヤモンド地下街の出店という状況がすでにありました。

そのときに、なぜ野澤屋と町方が一緒になって対応できなかったのか。伊勢佐木町は横浜を代表するメインストリートですから、これをもっと前面に打ち出して、野澤屋さんを我が町の中核として送り出して、商工会議所なり行政に働きかけるという方向をとらなかったのかというふうに思っておりました。

しかし、残念ながら、小売店と大型店が一体になることはなかった。理事会という形式上は一体になっておりましたが、どうも精神的、経済的に一体になったという記憶が私にはないんです。

野澤屋並びに伊勢佐木町が人気を奪われ、現在に至る状況は、一つはこのことが起因しているかなと、私個人は思うんです。

もう少し早くから今のような振興組合の状態ができておれば、伊勢佐木町は本当に力強い一つの大きなかたまりだというものをお見せできたと思います。

松信当時の野澤屋さんの売上の伸びは、ものすごいですね。羨ましいほどですね(笑)。要するに、野澤屋さんは小売店と手を携える必要は何にもなかったのではないでしょうか。

津田野澤屋さんにしてみれば、町方というのは、要するに、個人商店の集積ですから、何か違う存在であったのかもしれない。小売屋は小売屋でまた一国一城のあるじの集まりだから、何も頭を下げてまでというところもありましたよ。

私はまだ青年部の若輩者でしたけれども、野澤屋さんなどは、地場の経済界のトップですから、もう少しこれを伊勢佐木町の代表選手として前面に送り出していたら、あるいはどうだったかなという気は、これは否めない事実だと思いますね。

ターミナルが移り、結果的に中心から離れる

松信伊勢佐木町は震災前から震災後を含めて、なぜ横浜の最大の盛り場、繁華街になり得たんでしょうか。

津田やはり交通網があったというのは、随分違うんじゃないでしょうか。あの当時は市電が主要な交通機関で、市電の路線は尾上町とか馬車道にほとんどみんな集結していた。尾上町がターミナルだったんです。ですから、伊勢佐木町は栄えることができたということもありますよね。

松信現在の横浜駅は三代目でしょう。駅の移転に伴って町の中心も移っている。ですから、伊勢佐木町は、結果的に中心から離れていってしまったということではないでしょうか。やはり交通の便ですよ。交通の便のいいところに、商業の立地は移っていくわけですから、それはある意味ではしようがないんだろうなという気がしますが。

津田ただ、町の今の構成として、駅とメインストリートというのは別というのもあります。例えば、大阪では梅田駅と心斎橋、東京も、東京駅と銀座というかたちがある。そういう町の構成は昔からあるんじゃないでしょうかね。メインストリートとターミナルは別物と。

平野そういうところもありますが、古くからある街は、地価も高い。新しい交通網ができるとそこを中心にして人が集まり、結構大きな動脈になっていくということがありますね。

津田だから、ターミナルが栄えるわけですね。

近くに東京というライバルが常にいた

平野それともう一つは、東京へ出るというのがあるんですね。横浜の人は、たとえばお芝居がそうなんですけれども、東京へ行けば一流のものが見られる。そういうのがずうっとあるわけです。

津田おっしゃるとおりです。横浜はどうしても亜流になっちゃうんですよ。

松信逆に言えば東京に近過ぎる。それで震災を機にたくさんの会社が本社を東京に移していますし、戦後もまた移しているわけでしょう。

平野実際、野澤屋の役員だった亀井信次郎も、戦後占領期に自分の店を東京に移しています。やはり、東京というライバルが常にいたというのは、横浜の伊勢佐木の発展を考える上で非常に重要なポイントだと思いますね。

松信横浜には多層的な商店街の発展がないんです。東京だったら、新宿もあり、浅草もあり、銀座もありなんですが、横浜は一点集中なんです。ですから伊勢佐木町が繁栄しながら西口が繁栄するような、構造的にそれを支えるだけの購買層がないということではないでしょうか。

津田横浜の起源は、開港したときに全国から人が集まってきたわけでしょう。そのせいか、よそから来る人はウェルカムだけれど、地元定着という意識の希薄さは感じますね。

松信伊勢佐木町は明治時代、勧工場[かんこうば]があったり、劇場街だったりしたわけです。そういう通りとして誕生して、発展した。しかしその後、劇場などの核的なものがなくなり、商店街だけが残った。

弁天通での創業から144年の幕を閉じる

イセザキモールとマリナード入口

イセザキモールとマリナード入口
昭和60年ごろ

松信ノザワ松坂屋は、昭和52年に、撤退した松屋を買収し、西館としてブリッジでつなぎ、社名も「横浜松坂屋」になります。その翌年にイセザキモールができますが、モールにしたのは、かなり問題意識があったんでしょうね。

津田ものすごくありましたね。

さらに今、横浜駅だけじゃなくて、各駅にビルができて、商業施設ができたでしょう。だから、伊勢佐木町に来なければ物が買えないという状況ではなくなってきているんですね。それは経済行為そのものが違ってきているので、やむを得ないと思いますが、モール化したことによって、終日、歩行者天国という特色をいっそう強く打ち出せたと思います。

現在の横浜松坂屋

現在の横浜松坂屋

松信通りに個人商店が減り、チェーン店が急増して街の雰囲気も変わりました。そんな中、横浜松坂屋は、野澤屋呉服店の開業から数えて144年の歴史を閉じることになったわけですね。戦後すぐに米軍に接収され、昭和28年に一部解除されますが、30年の全面解除までの10年間は、野澤屋さんとしては満足な営業形態になっていない。それが、野澤屋さんの戦後の復興を妨げたという一面は大きいと思うんです。

それは、伊勢佐木町そのものも同じで、占領が落としていった一つのあらわれみたいなことですね。接収が長過ぎた。それが横浜の地元の商店街を苦しめてきたんだと思います。

津田それは言えます。

どこにでもあるような町になってほしくない

松信野澤屋、あるいは伊勢佐木町について、どんな思いをお持ちでしょうか。

鎌仲私は個人的には、横浜で野澤屋がデパートとして存在するには、社名は野澤屋じゃなきゃだめなんだと思っていました。

津田私ごとで恐縮ですが私どもも明治2年創業の呉服屋なんです。私の四代前が呉服業の頭取をしていた。そのせいか、野澤屋さんとは大変ご縁が深くて、私の父親も野澤屋さんで修行させていただき、戦前でございますが、綿布のほうの部長をしておりました。

私も学校を卒業しまして、昭和36年に銀座の松坂屋に入社をいたしました。そういうことで野澤屋さん、あるいは松坂屋さんというのは、私にとっては修行の場であったと思っています。

親子二代にわたり育てていただいたという場所でもありました。

鎌仲お父さんも野澤屋へ入社されていたんですね。

松坂屋になる前の野澤屋入九旧友会というOB会がありました。お父さんのことはよく存じています。(笑)

津田私ども町方から見ると、野澤屋さんというのは精神的なステータスですよ。それは、本当に大きな声で申し上げたい。それからもっと言うと、松坂屋さん撤退のニュースのあと、私どもの来店者がおっしゃるのは、「本当に悲しい」とか「残念」とか、そういう言葉が多いんです。それはすごいなという気はしていますね。

松信時代の先端で新しいことをやってきたデパートなんですね。

津田それは間違いないと思います。

松信横浜松坂屋の建物は横浜市の歴史的建造物に認定されていまして、保存も検討されているようですね。

平野「入九」のマークと野澤屋が、高級感のある街のシンボルだった。そういう伊勢佐木町であり続けてもらいたいという思いを語る方は多いですね。

私は横浜に来て、仕事についてから20年ぐらいしかたっていませんが、町がどんどん、どこにでもある町になってしまっているようで、ちょっと寂しい気がしています。ですから、これからも、町が平べったくならないで、存続してもらいたいと私は思っています。

津田伊勢佐木町には、明治にはたくさんの芝居小屋、昭和初期には映画館が集まって、賑わっていた。そういう街の歴史を復活させようと、劇場をつくろうという動きもあります。

松信どうもありがとうございました。

鎌仲友二 (かまなか ともじ)

1927年富山県生れ。

津田武司 (つだ たけし)

1939年横浜生れ。

平野正裕 (ひらの まさひろ)

1960年静岡県生れ。
共著『横浜商人とその時代』 有隣堂(品切)、ほか。

※「有鄰」491号本紙では1~3ページに掲載されています。

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