Web版 有鄰

468平成18年11月10日発行

[座談会]吉田新田と横浜の埋立て

お三の宮日枝神社宮司/角井 光
横浜市歴史博物館長/高村直助
横浜市歴史博物館学芸員/斉藤 司

左から、高村直助・角井光・斉藤司の各氏

左から、高村直助・角井光・斉藤司の各氏

はじめに

編集部今から約350年前、江戸時代の横浜は、山手から砂嘴[さし]が突き出し、その内側には釣鐘形の深い入り海が広がっていました。江戸の商人・吉田勘兵衛は、この入り海を埋め立てて新田を開発することを計画し、10年以上の歳月をかけて埋立て工事を完了させたと言われています。

ことしは、吉田勘兵衛が明暦2年(1656年)に埋立てを開始してから350年の節目の年に当たり、これを記念して横浜市歴史博物館では、「横浜の礎(いしずえ)・吉田新田いまむかし」を、11月26日まで開催されております。吉田勘兵衛のご子孫である吉田家からは、戦後初めて、ご所蔵の古文書が公開されております。

本日は、江戸前期から明治初期に至る吉田新田の開発の様子をご紹介いただきながら、港都横浜の後背地として発展した歴史や、埋立てにかかわる伝説などもお聞かせいただければと思います。

ご出席いただきました角井光様は、横浜市南区にある日枝神社宮司でいらっしゃいます。この神社は、初代勘兵衛が勧請したと伝えられ、横浜市民からは「お三の宮」として大変親しまれております。

高村直助先生は、日本経済史をご専攻で、現在、横浜市歴史博物館などの館長を務めていらっしゃいます。横浜の歴史をさまざまな角度から研究され、当社からは『都市横浜の半世紀』を出版されております。

斉藤司様は、近世史がご専攻で横浜市歴史博物館学芸員でいらっしゃいます。今回の特別展の企画を担当されております。

戦国争乱のエネルギーが新田開発に

編集部江戸時代に入ると、新田開発が各地で行われますが、どういう背景があったのですか。

斉藤信長、秀吉、家康という戦国の争乱の時代は戦乱に社会的なエネルギーが使われていました。その一方で、石垣を築く、天守閣をつくるといった土木技術は、軍事目的によりかなり進歩した。

天下が統一され、家康が江戸に幕府を開くようになると、それまで軍事目的に費やされてきていたエネルギーが、新田開発に向けられるようになっていくというのが大きな流れです。つまり、戦国時代に培われていた土木技術が、新田開発という平和利用に転換されるようになってきたわけです。

次に、人口と耕地が17世紀に非常に増えたことです。江戸時代の初めの1600年ごろの日本の人口は1,200〜1,300万人と言われてます。これがほぼ1世紀の間に倍の2,400〜2,500万になる。耕地は約1,800万町から2,500万町ぐらい、大体1.5倍になる。

こうした人口の増加と耕地の拡大は、その前の戦国時代、あるいは南北朝ぐらいから展開してきていますが、やはり17世紀の100年間の変化は非常に大きいようです。ある意味では日本史を前後に区分するような大きな変化で、それ以降は近代と直結すると考えてもいいだろうと思います。

1650年ごろから環境自体を変えて新田を開発する時代に

斉藤新田開発は17世紀の特徴的な事柄ですが、前期と後期ではだいぶ様相が変わってきます。前期の50年は戦国時代から近世初頭の段階で、開発される一方で、年貢が重いため農民が逃亡する場合があり、耕地の放棄と並行します。

家康によって天下が統一されると、農民がその土地から移動できなくなる。ですから当初は、開発可能な村の地先を順番に開発していきます。しかし、そういった場所は50年間ぐらいでなくなってしまいます。当時の技術で個々の農民が開発ができる範囲はなくなってしまうわけです。

けれども、片方で人口が増えていきますので、耕地の拡大が必要になる。そこで一番顕著な例が吉田新田ですが、浅い海を埋め立てて新田をつくる。あるいは芦ノ湖から静岡県の裾野村へ水を引いた箱根用水のように、従来水がないところに水を引いて開発を可能にする。つまり、環境自体を変えて新田を開発していくというのが、1650年から1700年ごろの後半の50年間になります。

こうした開発には莫大な資金が必要ですから、個々の農民や村というレベルではなくて、資金と技術力を持った人間が計画をして実行するということにならざるを得ない。成功するか失敗するか、わからない賭けのような部分もある。そういう中で吉田新田は計画されるんです。

江戸の材木商・吉田勘兵衛が開発

斉藤もう1つは、江戸という都市との関係があります。家康が幕府を開いたときの人口は10万とか、多くても20万。それが1650〜1660年の段階では7〜80万にはなっていると思います。

江戸の町は都市自体がすごく成長して、地形的な問題もあると思いますが、「火事と喧嘩は江戸の華」というように始終火事が起きる。そのたびに都市の整備をして、都市部が拡大していきます。江戸で材木商・石材商をやっていた初代吉田勘兵衛はすごく商才があると思うんですが、うまく高度経済成長のブームに乗るだけの能力があったのでしょうね。

編集部吉田勘兵衛は摂津国(兵庫県)の出身ですが、横浜との結びつきは?

斉藤摂津から新天地を求めて江戸へ出てきたと思いますが、商売の規模を次々に拡大していったのだろうと思います。しかし、1650〜1660年ごろになると、江戸の都市の規模の枠組みがある程度決まってきて、それまでのようには商売の利益が上がらなくなったのではないか。

そういった状況の中で、商人としての吉田勘兵衛が、新田開発という、もう少し安定したものへ資本の投下先を一部分変えたということではないでしょうか。新田はつくるのは大変ですけれども、一度つくってしまえば、毎年、基本的には小作料が入るという形になりますので。

海から眺めて新田開発を決めた可能性が高い

斉藤当時、石材は安房、上総、あるいは相模の真鶴とか、伊豆から江戸へ運んできた。陸路ではなく船で運んでくる。木材も、江戸の周辺では大きい木材はないので、木曽とか伊那から切り落としてくるんだろうと思うんです。それを運ぶのも船ですね。

勘兵衛は、そういう船から横浜の入り海を眺めて、埋立てが技術的に可能だろうと考えたのではないでしょうか。

野毛の山を越えた南側が吉田新田になりますけれども、現在の横浜駅がちょうど神奈川湊で、船がとまるところなんです。今の関内のあたりは『新編武蔵風土記稿』などを見ると洲乾湊[しゅうかんのみなと]と書いてありますから、大きい意味では同じ場所として考えてもいいんだろうと思います。

編集部江戸との航路の途中に目をつけたということなんでしょうか。

斉藤陸路で歩いて見てというよりは、海から見たんじゃないかなと思います。

釣鐘形の入り海を11年の歳月をかけて埋め立てる

編集部釣鐘形の入り海はかなり大きな面積ですね。

斉藤35万坪埋め立てています。

角井新田の総面積は116町で、横浜の埋立ての中では歴史が一番古いんですね。ほかにも、横浜新田とか、尾張屋新田とか埋立地は10幾つありますが、一番面積が大きいのと、古いということで、横浜の埋立ての代表になっていますね。

高村吉田新田の前に、吉田勘兵衛は江戸の千住あたりで、比較的規模の小さい埋立てをやっている。それが1つのステップになって、さらに横浜のほうに来ることになったんでしょうね。

角井千住に新しい土地をつくったけれど、800石ぐらいで、1,000石に届かなかった。それでもっと広い土地をというので、吉田新田をつくったという話もありますね。

斉藤吉田新田は1,038石でしたね。

角井明暦2年(1656年)の7月17日に初めて鍬入れをしますが、明暦3年に13日間ぐらい大雨が降って堤が壊れ、失敗する。2回目の鍬入れが万治2年(1659年)2月11日に行われ、11年の歳月を経て寛文7年(1667年)に完成したということですね。

編集部埋立ての技術についての史料は残っているんですか。

斉藤技術的なことはほとんどわからないです。ただ、関東大震災で原本は焼けてしまった勘兵衛の日記があったということで、その部分の抜き書きが、戦前に石野瑛さんが書いた本に出ている。

1回目の工事を始めた翌年に大雨で堤が崩れたとあるので、堤はつくっていたことがわかる。おそらく最初に堤をつくって範囲を決めて、全部埋め立てたのではなくて、干拓ができるところは干拓をするんだと思うんです。

もちろん、用水を通しますので、大岡川の河口のところが一番重要で、そこに日枝神社があります。そこから用水を流すので、自然に少し低くなっていたところを生かしながらつくっていったんだろうと思います。

砂村新左衛門らも出資者として埋立てに参加

編集部関係者として、砂村新左衛門とか友野与右衛門の名前が出てきますね。

斉藤砂村新左衛門は3つの新田を開発しています。砂村新左衛門覚書という史料に書かれていますが、1つは横須賀市久里浜の内川新田。それから野毛新田。これは吉田新田のことで、命名される前は野毛新田とか野毛村新田といわれていた。それから今の江東区にある砂村新田。

この3か所をつなぐラインは東京湾だと思うんです。東京湾によって結びつくような1本の線について、少なくとも砂村は、何か感じるものがあった。当然、同じような感覚が吉田勘兵衛にもあったのではないかと思います。

砂村は出資しているのだと思います。友野も後で何町歩か持っていますので費用は出している。

編集部友野与右衛門は箱根用水で知られてますね。

斉藤箱根用水は松村浄心と宮崎市兵衛次宗も出てきますので、彼らは純粋な技術者というよりも、出資家のグループだろうと思うんです。

もちろん工事現場についての感覚は十分にあると思いますので、ここを掘り抜いて、こうしたときにどのくらいお金がかかるとか、どのくらいの人数が必要かということはわかる。

土木技術に対する理解とか能力は、ある程度は当然あったと思いますが、むしろ全体の見積もり、つまり完成した段階でどのぐらいの収益が上がるか、あるいはどれだけの労働力と費用がかかるのかということをきちんと算定しているのでしょう。

高村土木建設業者みたいな感じですかね。

斉藤恐らく吉田・砂村・友野グループみたいなつながりがあったんでしょう。1つの事業としては結構大規模ですから、個人の商人が単独で全部請け負うのはリスクが高過ぎると思うんです。

日枝神社を土地の守り神として勧請

編集部日枝神社は、吉田勘兵衛が勧請したといわれていますね。

角井新しい土地に神様をお祭りして、五穀豊穣とか、そこに住む人々の安全を祈願するために神様をお祭りするということで、勘兵衛さん自身も摂津国歌垣村にいたときに日枝神社を信仰していた。江戸に出てきてからは材木商・石材商で巨万の富を得て財産をつくりますが、江戸・赤坂の日枝神社の氏子だったんです。それで、信仰していた日枝神社の神様を、ご自分がつくった土地の守り神として勧請した。日枝神社は寛文13年(1673年)9月10日に創建されたということで、今でも9月にご祭礼をしております。

編集部比叡山の日吉[ひえ]神社が江戸に勧請されて、それで赤坂から来ているということですか。

角井正確には、赤坂の日枝神社は近江からではなく、川越の日枝神社を勧請したと言われてます。江戸城をつくったとき、江戸城の守護神として祭られたわけです。

高村今でも創建当初のものが残されているんですね。

角井寛文13年の獅子狗が今でもお社にございます。これは、たまたま大正10年に社殿の改築をするときに、吉田さんのお宅に運んであったんです。大正12年の関東大震災で吉田家も焼けたのですが、そのとき福富町の福島喜八という鳶職の頭が獅子狗を担いで逃げて、残ったんです。当初のものは獅子狗だけだと思いますね。

工事が難航しおさんが人柱に立ったという伝説

編集部難工事だったということから、「おさん(お三)さま」が人柱になったという伝説ができてきた。

角井明暦3年の大雨で堤防が崩れてしまったということに、おさんという伝説が付会されてくるわけです。

日枝神社が「お三の宮」と呼ばれるようになったのにはいくつか説があります。一番妥当なのは、今でも、赤坂の日枝神社は山王様と言いますが、それに「お」をつけて、「お山王宮」、「おさんの宮」と転訛して「お三の宮」となったという説です。

編集部山王権現ですね。

角井そうです。それから日枝神社でお祭りしている大宮、二の宮、三の宮、その三社をお祭りしたので三の宮という説もありますね。

難航した工事で人柱が立つという話は、日本全国にありますね。お城の石垣をつくるときに人柱を立てて完成したとか、神話にも日本武尊[やまとたけるのみこと]が上総国へ渡ろうとしたとき、荒れた海を鎮めるために弟橘比売命[おとたちばなひめのみこと]が海中に身を投じた話がある。そういった日本人の民俗的な思想がありますね。

「おさんさま」の話は、勘兵衛さんが埋立てを始めたけれども、大雨のために堤防が壊れた。そのとき吉田家の女中さんだったおさんという女性が、自分が人柱に立って海の神様を鎮めますと言った。勘兵衛さんはそんなことはしなくていいと言ったけれど、おさんは強く主張して、人柱に立ったという伝説です。

おさんの父は昔は駿河の某藩の武士だった。それが何かの理由で浪人となり、江戸に出てきて寺小屋を開いていたけれども、大火で両親が死んでしまった。おさんには関谷陽之進という許婚がいたと、生前に父から聞いていて、その藩に行くと、関谷は種田五郎三郎という人に殺されたという。それで仇をうちたいと種田を探して身延山に行く。

勘兵衛さんは工事の完成を祈願して、身延山に7年間続けてお参りに行ったそうで、そこでおさんと出会い、それなら江戸に来なさい。自分はいろんな大名のところに出入りしているから情報も入るだろうということで、勘兵衛さんのところにいた。ついに種田五郎三郎を探し出して仇をうったおさんは、非常に恩を感じていたという話です。

横浜が開港して賑わい、明治になると芝居小屋も建ち、江戸から役者が来て芝居をするようになったときに、横浜に関係のある芝居をしたらどうかということで、おさんの人柱の伝説を題材にしたらしいんですね。それで広まったという説もあります。

今でも、日枝神社と言うより、「お三の宮」と言ったほうがわかるという人も多いようです。

元禄13年から300年以上続く日枝神社の神職

編集部勘兵衛はお寺もつくっているんですね。

斉藤延宝4年(1676年)の創建の常清寺です。

高村神社とセットだったんじゃないですか。非常に熱心な信者だった。

角井常清寺は昔は、伊勢佐木町の隣の福富町にあったんですが、戦後、久保山に移りました。

編集部常清寺は日蓮宗ですね。

斉藤近世初頭の新田開発をしたり、地方巧者[じかたこうしゃ]といわれる人には日蓮宗が多い。川崎の二ヶ領用水を開削した小泉次太夫なんかもそうです。

角井昔のお宮とお寺の関係から、最初は常清寺の住職が別当として奉仕していたそうです。30年ぐらいたったとき、私の祖先の角井識部尉藤原重勝が、初代の神職として奉仕するようになったんです。

高村元禄時代ですか。

角井元禄13年です。

斉藤それから300年以上続いている。

角井私は12代目です。

編集部今の社殿はいつごろのものですか。

角井今は日枝神社1つですが、昔は稲荷神社というお宮と2つでした。向かって左側に今も建物はあります。

大正12年の関東大震災のときには、稲荷神社が焼けて日枝神社は残ったんです。第2次大戦のときには日枝神社が焼けて、稲荷神社は焼けなかったんですが、今は一緒にお祭りしてあります。日枝神社は戦後、昭和26年に建て直したんです。

大正10年に改築のためにお社の床を掘ったところ大乗経が2巻出てきた。勘兵衛さんが身延山にお参りして、祈念して大乗経2巻を埋納したということで、それがおさんの人柱の話になったという説もあります。その大乗経は、関東大震災のときに吉田さんのお宅で焼けてしまいました。

編集部残念ですね。

斉藤お三の宮に残っているものとしては延宝2年(1674年)に奉納された水鉢があります。

堤で囲んで干拓し、埋め立てて耕地化

編集部今回の展覧会では、吉田家のいろいろな文書などが戦後初めて公開されているそうですね。

斉藤新田開発前と開発後の図面の原図を見せていただきました。結構大きいんです。

図を見ると、海に面する箇所に潮除堤を築いて、大岡川の旧河口で川を左右に分流させ、中央に用水路(中川)を設けています。そして全体を北と南に分けて地割りし、潮除堤に近いほうから一つ目、日枝神社に近いほうを七つ目と呼んでいました。

編集部具体的にはいつごろ描かれたものですか。

斉藤開発後の図の右下、北一つ目のところに普請小屋が描かれています。これは、吉田新田全体のための普請小屋だとすると、ちょっと外れ過ぎている。一つ目の南側は遊水池として残されていますが、北は埋め立てている。寛文10年(1670年)から11年ごろの文書を見ると、1つ目の北側を埋め立てたようです。ここを埋め立てるための普請小屋なら、この絵図の右下にあってもおかしくない。

全体がひと通り完成した後に、普請小屋に近い部分を埋め立てる。1670年から71年ぐらいの図面だと思います。

編集部潮除堤に近い横の通りが長者町の通りですか。

斉藤はい。吉田家の旧邸宅は、今の吉田興産ビルがある場所です。

高村日ノ出町駅に近い、長者町9丁目ですね。

斉藤絵図の真ん中の水路である中川が今の大通公園です。吉田家のあった辺りは野毛山から地続きですので、地盤が強固だそうです。ですから、大井戸を掘って真水が出るということになります。

角井今でもありますね。

埋立ての土は野毛や石川町辺りから運び出す

編集部埋立ての土は、どこから運んでくるんですか。

角井野毛の天神山と大丸山の2か所から取っている。

編集部大丸山というのは石川町の駅に近い大丸谷のところですか。

斉藤そうだと思うんですが、昭和の初年に書かれた石野瑛さんの本の図面では、もっと北なんです。地名的には大丸山は、今の石川町の近くのところしかない。その辺がちょっとわからないんです。

ただ、全部を埋め立てたというわけではなく、とりあえず堤で囲んで、基本的には干拓だと思うんです。

海に新田をつくるということは海が浅いことが前提です。恐らく干潟になっている部分もかなりあると思うんですね。大岡川から流れ込んでくる土砂が堆積していってだんだん埋まってきているのでしょう。

角井最初から浅かったんでしょう。

高村だから明治になってからも地上げと言っていますね。陸地のはずだけれども低いということですね。

中央の中川は土を小舟で運ぶ際にも役立つ

斉藤堤の部分は海面よりも高くなければならないんですけれども、内側は低くないと、そこから水がとれませんので、干拓で済ませる。干上がって済むところは干上がらせて、中央に中川を掘る。その掘った土は畦とか、道をつくるのに使えばいいわけですから、それで大枠をつくり、足りないところは運んでくるという形ではないかと思うんです。

堤をつくるのは、大岡川沿いには天神山から、中村川沿いには大丸山から持ってくればいい。海に面した潮除堤の土手は、洲乾の州の砂洲から持ってくればいい。

いずれにしても、その3か所から削って運んで、それが1番うまく運搬できる小舟を運用したんでしょう。場合によると、中川も小舟で土を運搬するために使用したのかもしれない。

編集部洲乾湊は、象の鼻と呼ばれていた横浜村の砂嘴の先端、現在の桜木町駅に近い位置ですね。

新田を十口に分け、勘兵衛は五口、残りは惣仲間が出資

編集部これだけの広い面積ですから、何人かのグループでやったんでしょうね。

斉藤石野さんの本にも出ていますが、万治2年(1659年)に金銭の受領の史料があります。金沢領野毛村新田堤の入用金50両を受け取ったもので、坂本七兵衛が柚川作之丞宛に出している。この史料から、工事が始まった万治2年の2月11日から半年後の段階で堤をつくっているということがわかる。

そのときに新田は十口に割り、五口は惣仲間で、残りの五口は金元で取ると言っているんです。新田ができ上がったら地割りをして、支出金額に応じて耕地を分配割にするという内容になっている。

吉田勘兵衛は50%、五口を出資していて1番大きい。残りの五口は、1人で一口出せる人は出していたと思います。

砂村新左衛門の弟と思われる砂村三郎兵衛は13町ぐらい勘兵衛に売っています。吉田新田の面積全体は116町で、その10分の1に相当するので、砂村は一口分の出資だろうという推定です。

ただ、1人で一口出せない人もいる。形としては1人で一口でも、実際には数人で出しているものもあって、最後に吉田勘兵衛が全部買い集めていったようです。

当初は共同で管理し、小作に貸し出す

編集部勘兵衛は埋め立てた土地を小作する人に貸し出していくわけですね。

斉藤1659年から始まった2度目の工事はうまくいって、寛文2年(1662年)の2月に最初の小作の証文が出ています。そのときは「新田仲間衆」宛てなので共同管理をしているんだと思うんです。寛文2年の文書を見ると、20町をまとめて受けているものなどと、45町まとめて受けているものなど、合わせると65町になるので、少なくとも新田全体の半分から6割ぐらいは耕作していたということになります。

ただ、そのころは幕府はまだ年貢を取っていないようです。寛文6年の証文に「かうやの地」とあるのは荒野だと思うんです。まだ新田が整備されていないので年貢を取らない。取るようになっても、小作は吉田勘兵衛に払って、そこから年貢を出してくださいという内容です。

寛文7年(1667年)に完成したというのは、多分そこから年貢を取り始めた。つまり一定度生産力が安定したと判断されたんだろうと思います。その後、寛文9年に吉田新田と命名され、勘兵衛が苗字帯刀を許されるわけです。

出資した仲間が持っている土地を勘兵衛が買い集める

斉藤そのころから今度は吉田新田の中でかつての新田仲間が持っている土地を集めるようになり、延宝2年(1674年)から延宝3年ごろには、新田内の土地は全部吉田家が持つことになります。

編集部買い集めた土地を小作に出して資金を回収していくということですか。

斉藤そうだと思います。8,000両というかなりの額を投資していますので、戻ってこないと困る。収益をあげる方法は2つ有ります。1つは幕府が年貢を取るまでの期間、いわばつくり取りという形でつくれるだけつくって取る。

もう1つは、生産性が安定していく段階で小作米として取っていく。元禄13年の小作帳簿によると、約1,500俵の小作米で、1俵当たり4斗と書いてありますので、単純計算で600石になる。その中から年貢米を100石ぐらい払うと、500石ぐらいが吉田家に入ります。小作をしていた人たちの取り分を考えると吉田新田の面積は35万坪よりもっと広いのでしょうね。

角井新田の総面積56万8千坪のうち有租地が35万坪で、残りの約22万坪は免租地・道路・河川の面積となるようです。

高村1,038石はいわゆる登録で、吉田家にはかなりの蓄積ができる。

斉藤500石の米は、もちろん自分たちの食べる分もありますが、基本的には江戸に運ぶ。または神奈川に港なり市場があれば、そこで転売する。江戸に近いから開発されているというのが前提です。

高村その時点で小作人の数はわかりますか。

斉藤全体で198人です。そのうち新田内に居住しているのは81人。周りの村々から通いで来ているのが117人です。

高村明治の初めも80数人ですね。新田内の数は固定しているのかな。

斉藤1,000石の村としては、普通の村の半分ぐらいしか人が住んでいないので、助郷役などの負担が大変だったようです。

開港後、関内整備のため南一つ目沼を埋立て

編集部それから200年ほど後、横浜が開港地になり、南一つ目沼を埋めるんですね。

高村横浜の歴史を大きく考えますと、横浜の発展を支えた立地条件が四つの段階の埋立てでできているのではないかと思うんです。

第1の段階が吉田新田で、農地としての埋立てです。第2の段階が、開港以降、明治の前半ぐらいの、一つ目沼を含む市街地としての埋立て。関内でも太田屋新田というのがあって、2番目の埋立ての中心ですね。

3番目は明治後期から大正初めにかけて、外側の海を港湾施設のために埋め立てる。横浜船渠、新港埠頭です。最後は昭和期で、工場立地としての埋立てで、子安の地先から始まって、金沢地先に至る臨海部の大埋立てです。

きょう話題になっているのは、この1番目と2番目ということです。

吉田新田は全部が陸地になったわけではなくて、一番海に近い部分は一つ目沼と呼ばれる沼地が残されていた。海との間を調整する意味で残っていたんだと思います。

ところが開港後、居留地を含めた開港場が整備されてきますと、人も急速に増えて、次第に関内では賄い切れなくなってあふれ出てくる。その受け皿として注目されたのが一つ目沼の地域で、現在のJR根岸線の関内駅の内陸寄りのほうですね。

関内地区から遊廓や神社を移転

高村簡単に言いますと、関内にはふさわしくないものを外に追い出す形の開発なんです。最初は、開港場があって、横浜道ができて、吉田新田の端をかすめる感じで野毛橋、吉田橋ができて、開港場に入る。他方、今の石川町寄りのほうでは、当初、元町に予定されていた横浜製鉄所が変更になって今の吉浜町、石川町駅の近く、ちょうど吉田新田の一つ目沼の端っこの、すでに陸地化していたと思われるところにできます。それが慶応元年です。

次には港崎[みよざき]町の遊廓が焼けて、そのかわりに、慶応3年(1867年)に吉原町が吉田橋の近くにできて、結局、関内地区から追い出される。

明治2年には、弁天社のところに官舎を建てるために、吉原町の近くに羽衣町が埋立てでできて、厳島神社が移ってくる。結局、関内の整備の邪魔になるものを外に出すときの受け皿として、一つ目沼地区が埋め立てられるんですが、そこまでは関内の整備ですから、条約上の義務があるので官費がつくんでしょうけれど、いよいよ関外を本格的に開発しようとすると、官費には頼れなくなるんです。

谷戸を掘り割りその土で沼地を埋める

高村明治3年が画期だと思いますが、開発に民間の力を利用する方向で県が動き出す。その最初が南一つ目沼のおよそ7万坪の埋立てです。堀割川を開削して、その土で埋め立てるということで公募して、その結果、吉田家と横浜商人が組んで請け負う。

ただ、結果的にはお金が足りなくて借金をした外国商人のウォルシュ・ホールが土地の所有権を主張したため、結局は政府が買い取って解決するといういきさつがありますが、本来は民間でやった。明治3年以降の開発は民間でやらせようというのがはっきり出ています。

編集部南一つ目沼の埋立てに伴う堀割川の開削も難工事だったようですね。

高村南区の弥八ケ谷戸のところですね。それから滝頭の海岸に波止場をつくるのも、非常に経費もかかる、たいへんな工事だったようです。

斉藤波止場までの水路は、もとからある川をそのまま生かし、堀割川は土砂を運ぶ運河として使われた。

編集部弥八ケ谷戸、現在の南区中村町あたりは、左右の崖がほぼ同じ高さですが、その土で沼地を埋め立てたそうですね。

斉藤工事の写真も残っていますし、大原邦三郎の『横浜掘割埋立由来』にも、かなり細かく書かれています。

高村この南一つ目沼の埋立てで、現在の蓬莱町から松影町の七つの町ができます。それで、この地域の最後に残った沼というか低湿地というべきか、それが伊勢佐木町だった。そこには常清寺のお墓があったのですが、久保山に墓地をつくって引っ越す。これも県の方針のようです。その跡地の整備が進む。墓地ですから一応陸地にはなっていたと思うんですが、非常に低いところだったので、雨が降ると水がたまるんですね。整備のときもお墓の間からウナギが出てきたという言い伝えもあります。

伊勢佐木町の整備が一段落して、一つ目沼地域の市街地としての埋立てが終わる。

伊勢佐木町の町名の由来が判明

編集部最近、伊勢佐木町の由来が判明したそうですね。

高村伊勢佐木町の町名の由来は、諸説あってはっきりしなかったんですが、『有鄰』の平成元年の号で石井光太郎さんが、茨城で有力な史料が出てきたと言われている。それを常陸太田の佐川さんというお宅で見せていただきました。

伊勢佐木町の道路の修造費用として3千円を献金した3人に対して県がごほうびに銀盃を下げ渡すという書類です。町名の命名が明治7年5月で、これは11月に出ています。

銀盃が入っていたらしい箱と一緒に、包み紙にしてあったもう1枚の紙に説明書きがあって、伊勢屋という屋号の中村次郎衛(治兵衛)と、これを書いた佐川儀(右)衛門、佐々木新五郎の3名で、伊勢屋の「伊勢」と佐川の「佐」、佐々木の「木」が合成されて、伊勢佐木町1・2丁目の町名はそれに由来すると書いてある。非常に貴重なものだと思います。

佐川儀(右)衛門が横浜に関わっていたことがわかる史料もありました。厳島神社を移すために羽衣町が明治2年に埋め立てられますが、2年後に佐川さんがそこの土地を競り落として829両で買い取っている。県庁がそのお金を受け取ったという書類を出しています。

なぜ常陸太田のような遠方の人がと思われるかもしれませんが、当時はかなり長い間、建設ラッシュが続いて、材木や石材の需要が多かった。常陸太田は現在も林業が盛んで、このお宅も、最近まで材木を扱っておられた。材木の供給のために横浜に出てきたのだと思います。

伊勢佐木町は明治の半ばにはすごい盛り場になっています。島崎藤村の自伝小説『桜の実の熟する時』にあるのは、明治24年の夏ですね。

編集部「まからず屋」ですね。

高村外国人が買い物に来るとか、夜の6時から9時ごろが大変忙しいとか、すでに非常ににぎわっている。

それから、明治36年の『横濱繁昌記』を見ると、伊勢佐木町の賑わいは浅草や大阪の千日前も及ばないと、かなりひいきがきついけれども、そういうお国自慢で言える程度の繁華街になっていたと言える。

お三の宮の例大祭はたくさんのお神輿でにぎわう

編集部吉田新田を地元の人は埋地と呼んでいますね。毎年9月の例大祭にはお神輿がたくさん出ますね。

角井高村光雲がつくった火伏神輿は、ふだんは神奈川県立歴史博物館に展示されていますが、震災の難を逃れたので、そういう名前をつけたんじゃないですか。

斉藤大神輿は昭和に入ってからのものですか。

角井御所車に乗った大神輿は、昭和9年にできたんです。昭和37年ごろまでは黒い衣装を着た牛に引かせていましたが、今はトレーラーで引いています。三ツ沢のほうから前の日に牛を借りてきて、お宮の裏につないでいたことを覚えてますね。

編集部非常ににぎやかなお祭りですね。

角井全部の町内が必ず出すわけではないんですが、宮本地区の8カ町、寿東部地区や埋地地区の町内会など10カ町、伊勢佐木地区の17カ町と、全部のお神輿が出ればかなりの数になります。

お宮から伊勢佐木町に向かって連合渡御をいたしますけれども、数年前までは宮入りで、吉田町に集合して、伊勢佐木町1丁目、2丁目と、商店街を日枝神社まで来ていたんですが、スタートが早いので、一番にぎやかなところが人の来ないうちに終わってしまう。今は宮出しで、先頭が伊勢佐木町1丁目に着くのが2時ごろで、一番人が出る盛りになります。

編集部今回は展示図録もつくられたんですね。

斉藤吉田新田は現在の横浜の発展の基礎になったところですので、吉田新田を知るのに便利な図録をつくったつもりです。子供向けの解説書もありますので、子供たちや学校の先生に利用してもらいたいですね。

高村地域の小学校では4年生のときに習うんです。

角井神社には小学生が見学に来ます。この間なんか200人ぐらい見えましたよ。

編集部今日はどうもありがとうございました。

角井 光(かくい あきら)

1933年横浜生れ。

高村直助(たかむら なおすけ)

1936年大阪市生れ。
著書『都市横浜の半世紀』 有隣堂 1,200円+税、
日本紡績業史序説』 塙書房 (上) 5,300円+税、下(品切)、ほか。

斉藤 司(さいとう つかさ)

1960年横須賀市生れ。
共著『江戸時代の神奈川』 有隣堂(品切)

※「有鄰」468号本紙では1~3ページに掲載されています。

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