Web版 有鄰

429平成15年8月10日発行

[座談会]関東大震災80年

横浜市立大学名誉教授/今井清一
鹿島建設小堀研究室地震地盤研究部長/武村雅之
神奈川県立歴史博物館主任学芸員/寺嵜弘康
有隣堂会長/篠﨑孝子

右から寺嵜弘康・今井清一氏・武村雅之の各氏と篠﨑孝子

右から寺嵜弘康・今井清一氏・武村雅之の各氏と篠﨑孝子

※の写真は神奈川県立歴史博物館蔵

はじめに

震災直後の横浜正金銀行(現・神奈川県立歴史博物館)

震災直後の横浜正金銀行(現・神奈川県立歴史博物館)
米議会図書館蔵

篠﨑今年は大正12年(1923)9月1日の関東大震災から80年目に当たります。また、平成7年1月の阪神淡路大震災は、都市型巨大地震の恐ろしさを改めて見せつけました。

関東大震災では、東京・神奈川・千葉を中心とした地域をマグニチュード7.9の地震が襲い、1都9県におよぶ被害は全壊全焼流失家屋29万4,000棟、死者・行方不明者10万5,000人と推定されています。なかでも神奈川県は震源に近く、大きな被害が出ましたが、その詳細は明らかにされていません。そこで、関東地震・震災はどのようなものだったのか、また、それを今後どのように生かしていけばいいのか、お話しいただけばと存じます。

ご出席いただきました今井清一先生は、横浜市立大学名誉教授でいらっしゃいます。近・現代日本政治史がご専攻で、ご専門のお立場から、長年、関東大震災にかかわってこられました。大震災70年目の、小紙の座談会にもご出席いただいております。現在は、横浜から関東大震災を見直されております。

武村雅之先生は、鹿島建設小堀研究室地震地盤研究部長でいらっしゃいます。地震学・地震工学がご専門で、被害に関する資料や体験記録などをもとに関東地震の解析に取り組んでおられるかたわら、地震を正しく理解してもらうため、市民レベルでの活動も精力的にされております。

寺嵜弘康先生は、神奈川県立歴史博物館主任学芸員でいらっしゃいます。博物館では、7月26日から9月7日まで、特別展「80年目の記憶−関東大震災といま」を開催されておりますが、その中心となって準備を進められました。

プレート境界型で直下型の関東地震

篠﨑地震がなぜ起こるか、その辺からお願いできますか。

武村震災というのは、地震が起き、それによって引き起こされた被害のことです。ですから、関東地震は9月1日に起こったのですが、関東大震災は9月1日だけではなく、9月2日も、3日もあったんです。

地震の起こる場所(震源)は断層です。断層というのは、岩盤がある面を境にずれる現象です。関東地震は小田原あたりから房総半島の南にかけての断層がずれました。

南関東周辺は、相模トラフ(海溝)から、年間約4センチの速度で北上してきたフィリピン海プレートが日本列島の下に潜り込んでいる。フィリピン海プレートが沈み込むときに、陸のプレート(日本列島)を少しずつ引っ張り込んでいるんですが、その引っ張り込みが限界を超えると陸側が跳ね返って地震が起こる。そのときの震動が地表に伝わって被害を起こす。と同時に、断層運動による海底隆起で持ち上げられた海水が津波になる。このような地震は海のプレートと陸のプレートの境界が断層になっているのでプレート境界地震と言われています。関東地震もこれにあたります。大正の前に、元禄(1703年)にも同じ種類の地震が起きている。地震が繰り返し起きているわけです。

大きな余震がいくつも起こるのが関東地震の特徴

武村もう一つ、フィリピン海プレートの境界は相模トラフから陸上に入り、丹沢辺りを通って駿河トラフ・南海トラフにつながっています。この境界は、かつては陸から離れていて、まっすぐだったのですが、プレートの北上に伴って、プレート上の大きな島だった伊豆半島が海溝に衝突し、日本列島の下に潜り込めないでくっつき、境界をどんどん奥に引っ張っていったため、境界が船の舳先のように陸に食い込んでいる。

このため、ふつうは海で起こるプレート境界地震が陸の真下で起こるようになった。このような場所は、日本では相模トラフに面した南関東地方と駿河トラフに面した東海地方だけなんです。そういう意味では、関東地震はプレート境界地震でもあるし直下型地震でもある。しかもマグニチュード8クラスですから、非常に大きい震源断層を持っているので、広い範囲が強烈な揺れになってしまう。

篠﨑マグニチュードというのは何の大きさですか?

武村震源の大きさを表す尺度です。

それで、フィリピン海プレートは相模トラフ、駿河トラフでは潜り込んでいますが、伊豆半島は潜り込んでない。こういうふうに、すべるところとすべらないところがあるので、地震で、すべるところが断層として動くと、ふつうのプレート境界と違ってその周りで複雑に力がたまり、大きな余震がいくつも起こる。これも関東地震の特徴です。

東京より強烈だった横浜の本震の揺れ

今井どのぐらいの余震があったのですか。

武村マグニチュード7クラスが6つです。5つが9月2日まで、一つは翌年の1月15日に丹沢で起きた。

今井第二波は余震になるんですか。

武村そうです。11時58分32秒に本震が始まり、震源断層が全部すべるのに1分ぐらいかかり、第二波(最初の余震)は12時1分頃に東京湾北部で、マグニチュード7クラスと思われる。

これは当時の体験談から推測できるんです。東京では関東地震は3回来たと必ず書いてある。それから二番目が一番強かったとあるのが多い。それが横浜では二番目が強かったという体験がなくなる。本震の揺れが、東京より横浜のほうが強かったからです。

今井劇作家で市会議員の山崎紫紅は西区戸部の自宅で震災に遭いますが、二震目で土蔵が潰れ、驚いています。

武村本震で潰れかけていたのかもしれないけれど、建物を壊してしまうほどの揺れだから、二震目も横浜では相当強かった。三震目は12時3分頃。小田原やもっと西のほうは三震目が強いんです。

岐阜の測候所で本震と二震目と三震目がはっきり分かれた記録が見つかり、そのP波とS波から、二震目の震源は東京あたり、三震目は山梨県の東部あたりということが確認されました。

P波は上下のS波は水平の揺れに

篠﨑P波とS波からどうして震源がわかるのですか。

武村地震は、震源から2種類の波を出します。波の進む方向に対して前後に揺れる縦波と、左右に揺れる横波です。縦波(P波)はプライマリー・ウェーブで最初に来る波、横波(S波)は二番目でセコンドリー。地表まで伝わる速度は縦波のほうが速いので、まず縦波が来る。それから二番目の横波が来るまでの時間は、震源から離れるほど長くなる。それで震源までの距離がわかるわけです。

今井それと、地震の揺れの上下動、水平動とは関係があるんですか。

武村あります。地震波は地表に近づくと、ほとんど真下から来る。そうすると、縦波は上下の揺れになり、横波は水平の揺れになる。

今井一つの地震で、上下動と水平動とがペアになって続いてくるわけですね。

武村理想的にはそうですが、実際はもっと複雑で、水平動と上下動が入り交じった揺れ方をしている。

2つの大きな震源地 — 小田原と三浦半島

大正関東大地震の震源断層面と震度7の分布(武村、2003)

大正関東大地震の震源断層面と震度7の分布(武村、2003)
武村雅之著『関東大震災』から

今井関東地震の断層面は、かなり広いですが、ここが一度にずれたのではなく、その中のいろいろなところで、いろんな形でずれたということですか。

武村そうです。一般に、断層面の上のどこか一点ですべりが始まり、すべる領域を順次拡大していくのですが、断層面の上にはすべりの大きな領域が島状に分布していて、それらが寄り集まって一つの大地震を形成していると考えればいいと思います。

大正の関東地震の場合は、最初にすべりが始まった小田原の下あたりと、10秒余り遅れて三浦半島の下あたりで大きくすべったのではないかと思える場所があります。

小田原駅前

小田原駅前※
『大正十二年九月一日 大正震災写真帖』から

本震による1分ほどの揺れのなかで、小田原の場合は、上下動が突然来るんです。歩いている人が何が起こったかわからないのに飛ばされたとか、荷車の外に飛ばされたとかいう揺れ方をしている。

寺嵜小田原駅前で駅弁をつくっていた方のご遺族の話によると、グラグラ煮立っていた大鍋が、火に蓋をする形で逆さまにひっくり返ったため、火が消えて火事にならなかったそうです。

武村つまり、震源が真下だったためにP波とS波の時間差がないので、一緒にドーンと来たわけです。

寺嵜倒壊率は、小田原など神奈川県西部のほうが圧倒的に高いです。小田原は、少しでも壊れたものを入れると、ほぼ100%だと言われています。木造建築が多いんですが、その後、火災が同じように起きて、メインストリートは焼けています。

武村だから、小田原の状況は横浜よりもっとわからないんです。あと鎌倉、藤沢。全壊率は横浜市よりさらに高く、70~80%です。

藤沢の揺れからわかった2つ目の震源地

倒壊した藤沢・遊行寺本堂

倒壊した藤沢・遊行寺本堂※
『大正十二年九月一日 大正震災写真帖』から

武村藤沢小学校が地震の1年後に出した『藤沢震災誌』の体験談によると、藤沢ではまず、多少小さめの揺れから始まる。多分、小田原付近で断層がすべって出た波が藤沢に伝わった揺れです。波の伝わり方のほうが断層が広がる速度(毎秒3キロ)より速いんです。そしてその後、上下動がものすごく強くなる。

上下動の揺れは、先ほど言いましたように、P波が影響しないと余り大きくならないんです。そうすると、もう一つの震源を考えないといけない。それで、三浦半島の下に10秒余り遅れて2つ目の震源を考えると、説明がつくんです。ですから関東地震には大きくすべった場所が2つあったと考えています。そんな意味で、関東地震の一つ目の震源地は小田原付近、2つ目は三浦半島付近といってもいいでしょう。

篠﨑大正関東地震の震源地は相模湾北西部とよく書かれてますが、違うんですね。

武村地震学では断層がすべり始めたところを震源と言います。したがって、震源は小田原の下、もう少し詳しくいうと松田町付近です。わかったのはずっとあとです。

地震波は地盤がやわらかいと大きく伝わる

武村地震の揺れというのは、岩盤がずれるから揺れるわけではなく、ずれたことによって、そこから地震波が出て、それが地表に伝わってきて物を壊すわけです。

篠﨑地震波には、伝わりやすいところと、伝わりにくいところがあるんですか。

武村基本的に、大きく伝わるところは、地盤がやわらかいところです。

今井横浜は埋立地が多いのですが、そういうところはやわらかいですね。

武村埋め立てたところはきわめてやわらかい。それから、沖積層というのがありますね。沖積層というのはせいぜい1万年ぐらい前から堆積したところですが、埋立地は、さかのぼっても3、400年でしょう。だから、地盤が全然締まってないんです。

埋立地はやわらか過ぎるために、下から地震波が来たときに、小刻みな揺れは地盤が吸収してしまい、地上までは伝わらない。だから震度は沖積層より埋立地のほうが小さくなることもあるんです。

ただし、揺れそのものは小さくても、やわらかい地質は変形を起こしやすい。このため建物が傾いたりしやすい。でも、建物が一瞬にして倒壊するといったことは起こりにくくなります。

今井建物がひっくり返ることはあるんじゃないですか。

武村液状化でひっくり返るときは、ゆっくりだから、人の被害は少ないと思います。

今井でも、横浜は埋立地の被害がひどかった。

武村埋め立てた層の厚さにもよるんです。層が薄いと揺れをそれほど吸収しないんです。

地下構造がわかっていても今でも、地震の揺れをきちんとシミュレーションするのは難しい。ですから、次の地震の予測に一番いいデータは、震災の被害の記録なんです。関東地震の結果をきちんと調べれば、特に難しい計算をしなくても、どこが揺れるかはわかる。震災のデータは、そういう意味で非常に重要だと私は思っているんです。

被害を大きくした横浜の地形・地盤

横浜足曳町の地割れ(現・中区長者町5丁目)

横浜足曳町の地割れ(現・中区長者町5丁目)※

篠﨑地形や地盤が、建物の被害に大きく影響するということですが、横浜はどうだったんでしょうか。

今井横浜市総務局編の『危険エネルギー』に木造家屋の倒壊率を示した図があります。これは内部資料で未定稿かも知れませんが、横浜の地形が被害に大きく影響しているのがわかります。

当時の横浜市域は、現在の中・西両区と、磯子・南・神奈川区の一部で、埋立地と丘が地形の特色です。それに海と川が加わります。

横浜の中枢である関内の開港地の大半と、伊勢佐木町の繁華街を含む関外は埋立地で、堀川・中村川と大岡川にはさまれていました。その東南には山手・中村・根岸・本牧の丘があり、港に近い山手は外国人の居住地でした。

北西には、戸部と野毛から続く丘があり、その先には帷子川の入江を埋め立てた高島、平沼、岡野の工場地帯があり、その先が今の横浜駅です。

木造家屋倒壊率が最も高い80%以上のところは、関内・関外と帷子川の埋立地です。

丘陵地の倒壊率はこれより低く50%前後ですが、山手の盛土や海岸沿いの崖に近いところは倒壊が激しいようです。

倒壊率の高い埋立地のほうが火元も多く、火が回るのも非常に早く、死傷者も多い。関内と、関外の伊勢佐木町側の死者が特に多いようです。

武村私どもは横浜市全体の平均しか出していないのですが、全壊全焼流失家屋数は神奈川県全体で8万3,000棟、このうち横浜市が3万700棟、東京市は16万8,000棟です。地震による全壊の家屋数は、神奈川県全体が6万3,600棟、そのうち横浜市は1万5,600棟。東京市は1万2,200棟で、地震で壊れたのは横浜のほうが多いんです。

横浜市は広域で震度7、全半壊率は平均40%

武村このような数字はいくつかの資料をもとにして出していますが、データの単位が資料によって違っている。例えば世帯数なのか戸数なのか。横浜、東京では長屋みたいな住宅があって、一棟が平均すると二戸ぐらいになる。もう一つは、半壊(潰)を入れているかどうか。

ですから、今井先生がおっしゃったように、大きいことは間違いないんですが、何%という話になると、なかなか複雑です。

今井しかも、そこはまた燃えていますからね。

武村そうですね。東京は燃える前の各警察署の調査があるんです。東京市の約半分が燃えましたが、火災は非常にゆっくりで、延焼地域全部に広がるまで12時間ぐらいかかっているんです。そのデータを使うと、東京では、揺れだけでどこが大きくつぶれたかというのはわかるんです。ところが、横浜にはそういうデータがないんです。

今井横浜の場合は、火の回るのがとても速かったから、細かく調べる暇はなかった。警察署も、神奈川警察署以外は倒れたり焼けています。

武村横浜市域は火災がひどいので、揺れはどこが強かったか、正確な数字を出すのはなかなか難しいですね。

今井横浜のほうが、火元の数は圧倒的に多かった。

武村東京では、例えば、4時間後の延焼地域は震度7や6強の分布とそっくりなんです。消せなかった火は、ほとんどがその部分から出ている。全壊が多いと、火元が多くなり、しかも消せない。

横浜市は広い範囲で震度7に近いんです。全半壊率(倒壊率)は平均すると40%ぐらいになります。震度7の範囲は、おそらく東京より横浜のほうがかたまりとしては広い。東京は全半壊率の一番高い本所区で30%ぐらいで、20%以上になった区はほかにはないんです。山手のほうはほとんど5%以下です。

横浜市の広さから考えて、全壊した建物の集中ぐあいを東京と比べると、全半壊率は横浜のほうがはるかに高い。ですから火災の火元が多い。火元が多ければ、当然全体が燃えるのも速くなります。それから、燃え出したものを消せない状況が、横浜には集中的にあったんじゃないかと思います。

今井横浜の場合は埋立地は火の回りが速いですね。埋立地でまず火災が発生して、それが後で丘のほうに行く。埋立地をはさんで北西側の御所山から掃部山、伊勢山あたりまでの丘陵地は、下からずうっと燃え上がって行き、避難民は追いつめられて最後で助かったりしています。

山手も周りから出た火が上に燃え上がっています。

「火元は一層密に、火足は一層急に、災禍は一層甚だしかった」横浜

武村それと、あの日の朝6時頃、台風くずれの熱帯低気圧が能登半島付近にあって横浜も東京も10メートルぐらいの風が吹いていた。そういう中で火災が起こった。

篠﨑お天気は随分よかったそうですね。

武村明け方まで降ったりやんだりして、その後パーッと晴れたんです。

今井台風くずれの風も残ってはいたけれど、大火になると高熱の上昇気流で激しい強風になり、旋風も起こる。そのあと風向きが変わったり一時静かになったりし、おかげで火先が思わぬ方向に延びたり、焼け残ったりします。当時、野毛山にあった老松小学校や十全病院などは焼失しますが、今も中央図書館の向かいに立派な石垣が残っている平沼邸は焼け残り、十全の仮病院になります。なかなか微妙な風です。

武村ある程度まで火災を大きくしたのは台風の風で、それ以上になると、東京の本所被服工廠跡もそうですが、旋風という形で広がったということかもしれませんね。

篠﨑横浜では地震で家が倒壊したのが多く、東京は火災で亡くなった人が多いと当時言われていたようですが、その辺はどうですか。

今井それは圧倒的にそうでしょうね。山崎紫虹も「東京は大火災、横浜は大震災」といっています。地震で潰れて、すぐに火が回る、東京より横浜のほうがずっと速いわけですから、逃げる余裕がなくて、家の下に閉じ込められたまま焼かれてしまう。圧死か焼死か判らない。そんな人が非常に多かったんですね。

そうしたことを含めて、横浜の震災については学術的な研究は少ないです。『震災予防調査会報告・第百号』(全5巻)でも横浜を取り上げているものは一、二点しかありません。その中で、東京大学の地震学の教授だった今村明恒は、東京の大火災が余りに広大だったために、ややもすれば他地方の火災を忘れがちになるけれど、横浜の地震は東京よりも激しかっただけ、「火元は一層密に、火足は一層急に、災禍は一層甚だしかった」と喝破しています。

建物が倒れ救出のさなかに火に包まれる

寺嵜当時、横浜市の市会議員で、震災で亡くなられた堀江宗太郎さんの娘さんの体験記を最近、博物館で頂戴したんです。

彼女は当時13、4歳で、お茶の水の女子師範学校の生徒だった。その日は土曜日だったので横浜の自宅(中区太田町)にいて、お父さんは在宅、お母さんは出かけていていなかった。そこに地震がきて、ものの見事に倒れた。

お父さんと彼女は下敷きにならなかったんですが、妹が下敷きになった。お父さんは使用人と一緒に妹を助けようとするんですが、すぐ火の粉が飛んできた。それで彼女は近所の人に連れられて、正金銀行(中区南仲通、現・神奈川県立歴史博物館)は大丈夫だろうと行ってみたけれど、やっぱりだめで、桜木町から掃部山へ逃げて助かった。

まさに、建物が壊れて、周りの人が救出しているさなかに類焼していった。お母さんはすぐ戻ってきて、夫婦そろって妹を助けようとしたけれど、燃えてきたので、逃げてきて正金銀行の前で両親とも息絶えたと、近所の人から聞いたという話があります。

非常に速く燃え尽きたというのと、横浜正金銀行の場合は、一酸化炭素中毒のような感じで、その後に焼かれたという感じがします。

篠﨑空襲のときと同じですね。

燃え方がよく似ている震災と空襲

今井米軍の昭和20年3月10日の東京大空襲は、関東大震災で被害が集中した隅田川両岸の下町を目標にしています。一番人口稠密で木造家屋が多いところです。

横浜の場合は、大震災の再現をねらったとは思いませんが、燃え方はよく似てます。市街地が広がり被災地も一回り大きくなっていますが、人口稠密な埋立地がまず燃え上がり、海からの風も強まり、まだ家も少ない丘に予想を越えて燃え上がってゆく。そうすると、海からの強い風を正面からうける野毛につづく丘は非常に危険で、逃げる途中で火に追われ、一酸化炭素中毒も加わって多くの死者をだしました。

反対に、山手の丘の陰になる中村町は安全です。黄金町に近い町内の一団が、燃えている埋立地を横切り、中村川を越えて石油倉庫跡地に避難して、全員無事だったという話もあります。

相模湾沿岸を襲った津波と山津波

土砂に埋った根府川の集落

土砂に埋った根府川の集落※
『大正十二年九月一日 大正震災写真帖』から

篠﨑神奈川県の場合は、火災のほかに津波や山津波の被害も大きかったですね。

寺嵜一番被害が大きかったのは根府川の山津波ですね。根府川駅に8両編成の蒸気機関車が入ってきたところに地震が起きて、先頭の6両が海に落ち、後ろの2両が海に落ちないでころがった。先頭の機関車の車体プレートが交通博物館に残ってます。200人の方が犠牲になったと言われてますが、鉄道省の調査だと107名です。

武村そのほかに白糸川を流れ下り、根府川の鉄橋を押し流し、根府川集落を埋めてしまった山津波があります。水を含んだ土石流です。

上流で山津波が起こったのは、本震の揺れによるものです。それが川に沿って流れ下り、本震から5分後に根府川にやってきた。

根府川の住民の方の証言によると、近所の家にいて大きな地震に遭った。揺れがおさまったので自分の家に戻ったときに、また大きな揺れがあって、雨戸が外れた。これがおそらく東京で言っている12時3分の3回目の揺れですね。そのとき、「山が来たぞ!」という声がして、ダアーッと山津波が来た。ちょうど時間が合いますね。

由比ヶ浜で100名、江ノ島桟橋で50名が津波で行方不明に

鎌倉・七里ヶ浜の津波の跡

鎌倉・七里ヶ浜の津波の跡※
『神奈川県震災誌』から

篠﨑相模湾沿岸の津波もひどかったようですね。

寺嵜鎌倉や小田原の津波の被害は大きいですね。

鎌倉国宝館に、藤原草丘というアマチュアの日本画家が描いた「鎌倉大震災絵巻」(6巻)がありまして、津波が襲ってきた様子がリアルに描かれています。そのほかにも、火災の被害や大仏がちょっと前のめりになったとか、海賊船、今でいう「不審船」みたいなものが出たといううわさで人々がワッと押し寄せているところなども描かれている。『鎌倉震災誌』という公式の報告書には、そういうことは余り載っていないんです。

武村津波では、鎌倉の由比ヶ浜海水浴場で100名、江ノ島桟橋で50名の行方不明者が出ているし、根府川では、子供たち20名が海辺で遊んでいて山津波と津波、両方にはさまれたという話もあります。

篠﨑津波は海底の隆起によって起こるということですが、どのへんが隆起したのですか?

武村房総半島や相模湾沿岸は随分隆起してます。

寺嵜三浦半島の油壷では1.4メートル隆起しています。

孤立と不安がパニックと流言の素地に

篠﨑地震の後、壊滅状態の横浜は孤立してしまいますね。

今井東京の場合は被害が大きいけれども、半分は残っているわけです。だからすぐに救援が来るし、軍隊もある。

ところが横浜の場合は、全市がほとんど壊滅状態で、まったく孤立してしまう。着たきりで食べ物がなく住む家もない数十万の人々が、あちこちの避難先にたむろする。「倉庫内に多大の残米あるも配給の路なく、罹災民の取るにまかす、4日中に尽くる見込み」。これは3日夕方の政府への報告で、配給する力もないわけです。住民は非常な不安にかられ、掠奪も横行します。

そうしたなかで朝鮮人が井戸に毒を入れたとか暴動を起こしたという流言が起こり、それを今度は警察や軍隊が信じ込み、中央からの情報として全国的に流されます。そこで戒厳令が布かれます。

この戒厳令は、戒厳令の一部を、被災地の秩序維持と人心安定と罹災者救援のために施行した行政戒厳ですが、軍隊では朝鮮人の暴動を鎮圧する軍事力行使のための対敵戒厳だと思ったようです。自警団などの朝鮮人虐殺もますます激しくなります。

篠﨑軍隊も警察も抑止力になっていないんですね。

今井先頭に立ってしまいます。5日ぐらいになって、間違っていたということで方針変更を始め、言論弾圧が厳しくなります。

武村警察そのものにも、正確な情報は入っていないわけですね。

神奈川県下でも起きた中国人虐殺事件

震災2、3日後の旧横浜外国人居留地一帯(関内地区)

震災2、3日後の旧横浜外国人居留地一帯(関内地区)
O.M.プール氏旧蔵

今井横浜では、中華街で木骨煉瓦造りの建物が崩壊して2,000人近い死者を出しますが、それとは別に中国人虐殺事件が起こっています。中国人虐殺事件では亀戸に近い大島町事件と王希天事件が有名ですが、横浜など神奈川県下で殺害された中国人は、100人近くにのぼります。

朝鮮は当時は日本の植民地でしたから、朝鮮人虐殺事件は記録に残せなかったのですが、中国は日本に圧迫されていたとはいえ、独立国でしたから、帰国者から聞き取るなど、記録は残しています。日本政府も外交問題になるので、厳秘にしながらも記録を残しています。

横浜開港資料館では、10年前に台湾の近代史研究所所蔵の虐殺された中国人の名簿を入手し、展示しましたが、最近は中国の資料や日本外務省記録を用いた密度の濃い研究が生まれています。

情報不足のなか長く続く余震が不安をかきたてる

武村時計なんか持って避難してないでしょうし、ある場所も少ない。時間すらよくわからないうえ、ラジオ放送もまだ始まってませんから、情報は街角に貼られた官報や新聞の号外しかない。

何も情報が与えられず、どこで何が起こっているのかわからないということが、人々の不安をかき立てた。しかも9月1日、2日は揺れっ放しというぐらいの余震が来ていますので。

静岡県の富士浅間神社(現・富士宮市、当時の大宮町)の主典を務めた河合清方という人が、丹念に日記を付けているんです。

その日記によると、大きな余震が来ると、必ず流言が出ている。余震が人々に不安を与え、流言などを起こしやすい要素になっているようで、余震を軽視はできないという気がしますね。

寺嵜それは、横浜や東京など、特に都市部に多かったんじゃないでしょうか。

例えば今回、展示でお借りしたものに、湯河原町に村の中だけで配るガリ版刷りの新聞があるんです。地震が起きたあとの9月3日から発行しているのですが、これを見ますと、村内の有志たちができるだけ冷静に情報を与えることによって不安を取り除き、村の秩序維持に努めているのがわかります。

熱海線(現・東海道線)の工事に朝鮮人の労働者がたくさんいて、内輪もめが起こった。それを周りが暴動だと思って、警察が先頭に立っていくわけです。それを村の重鎮たちが止めたというエピソードもあります。

今井小さい社会だと仲間は皆わかっていますが、見知らぬよそ者には警戒します。

この時期は、朝鮮人労働者も中国人労働者も急増した時期で、それに朝鮮の独立運動に加えて、中国でも日本の満蒙利権の回収運動がおこるなど、国際、国内の情勢も厳しさを加えていました。

そういうなかで警察は朝鮮人や社会主義者に対する警戒を強めていました。それが流言の素地になります。

横浜では斉藤秀夫さんが戦後、早くからこの事件の研究を始めています。そして警察がとった治安維持のための朝鮮人保護が流言をひきおこすきっかけとなったのではないか、と主張しました。

最近では、今言ったような状況から、警察が地域のリーダーたちと協力して地域の秩序維持をはかる、自警の動きが神奈川県下各地で広がり、自警団がつくられていたことが指摘されています。

もういちど再現したい震災の記憶

篠﨑今回の展覧会の概要をご紹介いただけますか。

寺嵜80年たって、いろいろな記録や人々の記憶をもう1回再現しようというのがコンセプトなんです。その一つとして、神奈川県内各地に残っている震災の記念碑や供養碑のリストを調べたのですが、100か所近くありました。山北町とか南足柄市とか、県西部に比較的多いのは、やはり被害が大きかったということと、都市部は再開発などで石碑が取り壊されたりしたようです。一番早い碑は大正12年の12月です。

それが、昭和4年に横浜市の復興記念式が行われ、昭和5、6年になると慰霊より、震災の復興とか、土地改良に変わってくる。そして、昭和10年の山下公園での復興記念横浜大博覧会以降は、戦時体制になっていって、震災のことはいわれなくなる。

武村碑はいつぐらいまでつくられているんですか。

寺嵜根府川駅に昭和17年10月に建てられた受難碑がありますし、戦後に建てられたものもあります。

関東地震の東京の地震計の記録

関東地震の東京の地震計の記録
東京大学地震研究所蔵

それから、東京大学地震学教室の地震計の記録が地震研究所に残ってまして、これも展示します。

もう一つ、珍しい映像があるんです。震災2か月後の11月9日に、奈良市で神奈川県主催の震災の事情報告会を開催しています。これは、震災直後に、大阪を筆頭に関西の9府県が連合して横浜に事務所を置いて、病院や仮設住宅をつくったりして援助してくれた、そのお礼も兼ねています。そのときに上映した震災の状況を撮影した映画が残っています。今回、8月17日に上映会をやります。

これは、横浜シネマ商会という映画会社が飛行船から撮影したもので、横須賀の追浜海軍飛行場を出発し、江ノ島を回って横浜の正金銀行や横浜港を通り、東京駅、銀座、本所の被服工廠跡、浅草まで行って、追浜に戻ってくるという12分の映画です。

今井関西からの救援は大変早かったのです。情報が届くのは9月2日の未明ぐらいですが、その日の午後に神戸と大阪の両方から出港しています。大阪は大阪商船、神戸は日本郵船の船で、2つが競争するようにして横浜に着くのが9月3日夜です。まだ東京からの救援が来ないときです。

ところが横浜の当局は、市内が混乱して海軍陸戦隊が上陸中だとして上陸を許さず、せっかく物資が来ているのに何もできない。結局、港内の船に物資を渡したり、医療班が移って治療したりする程度で、6日になってようやく上陸して、救護所を開きます。

関西からの救援で最も注目されるのは震災救護関西府県連合で、加工した建築材料、技師、労働者、テント・寝具、食糧、飲料、車両、慰問品などを汽船に積み込んで、仮病院とバラックを建設し、寄贈したことです。1,000人収容の仮病院は、中村町の石油倉庫跡に9月25日には竣工し、ついで、その横の関西村と呼んだバラック52棟をはじめ65か所200棟のバラックが逐次、建設されました。

地震学、防災の観点からも地震博物館を

今井横浜には昔、震災記念館が野毛山にありました。それが戦争中に市民博物館になり、ついで市会議場にされ陳列物は地下倉庫に投げ込まれたという話ですが、今は何もありません。残念です。

寺嵜震災記念館は1年後の大正13年に横浜小学校の校庭に仮につくられたのが最初です。その後、野毛山に建てられた。被害のジオラマ写真や、焼け焦げた金庫など、遺品類がいろいろあったそうです。

今井小学生の作文が一部分だけ市の中央図書館にあります。横浜市史編集室もごく一部入手したそうです。

武村震災当時、地質調査所が調査した「関東地震調査報告」も、東京、千葉、埼玉は出版されたのですが、神奈川、山梨、静岡は、原稿すら行方不明になっている。これは、地震学や地震工学、防災の観点から考えても大きな損失です。ですから、地震博物館のようなものをつくって、保存してほしいですね。

篠﨑貴重なお話をありがとうございました。

今井 清一 (いまい せいいち)

1924年群馬県生れ。
著書『日本の百年5 震災にゆらぐ』筑摩書房(品切)、『新版大空襲5月29日』 有隣新書 1,000円+税、ほか。

武村 雅之 (たけむら まさゆき)

1952年京都市生れ。
著書『関東大震災』 鹿島出版会 2,300円+税、『大地震と都市災害』(共著)同2,600円+税、ほか。

寺嵜 弘康 (てらさき ひろやす)

1957年新潟県生れ。

※「有鄰」429号本紙では1~3ページに掲載されています。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.