Web版 有鄰

412平成14年3月10日発行

[座談会]日本サッカー界の雄・古河電工 横浜から世界へ

日本サッカー協会副会長/小倉純二
横浜FC ゼネラルマネージャー/奥寺康彦
スポーツライター/田中孝一
有隣堂会長/篠﨑孝子

左から奥寺康彦・小倉純二・田中孝一の各氏と篠﨑孝子

左から奥寺康彦・小倉純二・田中孝一の各氏と篠﨑孝子

はじめに

古河電工サッカー部イレブン(後列右から3人目が奥寺氏、同2人目は岡田武史氏) 1986年頃

古河電工サッカー部イレブン
(後列右から3人目が奥寺氏、同2人目は岡田武史氏) 1986年頃
©スタジオ・アウパ

篠﨑今年5月31日から約1か月間にわたりサッカー・ワールドカップ大会が韓国と日本で開催され、決勝戦は横浜で行われます。

横浜駅からほど近い西区西平沼町には、かつて、古河電工サッカー部(現・ジェフユナイテッド市原)の練習グラウンドがありましした。同サッカー部は、多くの日本代表選手を育成し、日本のサッカー界へ優秀な人材や指導者を数多く送り出してきました。

そこで本日は、「名門」と言われた古河電工サッカー部の歩みと活躍された人びとをご紹介いただきながら、戦後の日本のサッカーについて、お話しいただきたいと存じます。

ご出席いただきました小倉純二様は1962年に古河電工に入社され、87年に同社サッカー部部長を務められました。現在は、日本サッカー協会副会長で、またワールドカップ日本組織委員会の事務総長代理も兼ねておられ、本大会では大会本部長を務められる予定です。

奥寺康彦様は1970年に古河電工に入社され、JSL(日本サッカーリーグ)をはじめ日本代表選手として活躍されました。その後ブラジル留学を経て、ドイツで日本人初のプロサッカー選手として活躍されました。現在は、「横浜FC」でゼネラルマネージャーを務めておられます。

田中孝一様はスポーツライターとしてご活躍で、昨年『サッカーの物語』(ベスト新書)を出版されました。

横浜公園で明治30年代にサッカーの試合

篠﨑横浜は古くからサッカーとの関わりがあり、明治30年代に、横浜公園のクリケット場で居留外国人クラブチームのサッカーの試合が行われています。当時の絵葉書が残っていますが、そのころは「サッカー」ではなく「フットボール」といっていたそうですね。

小倉まず、簡単にサッカーの歴史を紹介しますと、13、4世紀ころ、イギリスで始まったといわれています。最初、ボールは豚の胃袋を使っていたそうです。その後、試合が白熱したりして、危険だということで禁止されていたのが、19世紀ころに復活し、現在に至ってます。

奥寺中国や日本の蹴鞠なども、起源の一つといわれていますね。日本でも、庶民の間に浸透し、続いていたらサッカーは今よりももっと身近であったかもしれない。

小倉現在、ヨーロッパや南米では「フットボール」と呼んでいます。ところが日本では「サッカー」と呼んでいます。それはどうしてか。

19世紀にサッカーの原型となる統一ルールができ、ロンドンに世界最初のフットボール協会が誕生した。協会ルールによるフットボールという意味で「アソシエーション(協会)・フットボール」と呼ばれた。サッカー(soccer)という言葉は、「アソシエーション=association」の「SOC」に由来します。

日本では戦後、アメリカンフットボールやラグビーと区別しやすい「サッカー」が定着したわけです。アメフトが盛んな米国やカナダと共に、日本は「サッカー」を使う数少ない国の一つです。

横浜から千葉へ本拠地を移し「ジェフ市原」に

横浜電線工場(手前は海) 大正5年

横浜電線工場(手前は海) 大正5年
横浜開港資料館蔵

篠﨑古河さんは古くから横浜に本拠地を設けていらっしゃるんですね。1896年(明治29)に、古河電工の前身の一つである横浜電線製造株式会社が横浜に設立され、1920年に古河鉱業株式会社と合併して古河電気工業になったと聞いています。

小倉現在の研究所やグラウンドがある平沼橋の工場はすごく古かったですね。工業再配置促進法ができ、あれ以上拡張してはいけないと法律で決められて、それで横浜の工場の生産拠点を千葉と三重に移した。それであそこが空いて、住宅展示場とサッカー場になったんです。

古河電工横浜研究所/グラウンド(西区西平沼町)

古河電工横浜研究所/グラウンド(西区西平沼町)

拠点はずっと平沼にあったわけですから、横浜と一緒に育った。ですから91年(平成3)に、Jリーグが発足するときも、古河は横浜を本拠地とする可能性が高かった。

たまたま主力工場が千葉に移り、練習場も浦安地域につくることになって、本拠地を移すことになったんです。それで、93年のJリーグ開幕の時は、千葉の市原市を拠点とした「ジェフユナイテッド市原」としてスタートしたわけです。日産(マリノス)や当時の全日空(横浜フリューゲルス)よりもずっと前から古河は横浜にいたわけですから、本来なら横浜を拠点としていた。

アイスホッケーとサッカーは古河電工の「社技」

田中古河電工さんはサッカー部もですが、アイスホッケー部も強かったですね。

小倉ええ。サッカー部の創立は1946年(昭和21)です。私は62年に入社しましたが、当時は都市対抗や実業団の日本選手権に出場していたんです。

当時の小泉会長はスポーツに理解があり、2つの主力工場の1つ、日光はアイスホッケーが強く、日本チャンピオンになったりした。もう1つの横浜はサッカーとボート、バレーボールと3つやっていたんです。そのうち、アイスホッケーとサッカーを会社の「社技」として、会社を代表するスポーツであるという位置づけになったんです。

戦後の日本のスポーツはみんな企業スポーツですが、たとえば新日鉄などの鉄鋼会社は、あらゆるスポーツと取り組まざるを得ない状況になっていた。その後、電機メーカーの東芝や松下、日立もほぼ全種目をやりますが、古河はそこまでの大きな企業じゃなかったから、種目を限定して2つにした。ですから、それほどお金をかけなくてもいいから集中できたというやり方が重要だったと思います。長続きしたし、育成もできた。

選手はほとんど横浜で暮らしていた

篠﨑横浜工場やその周辺はどんな感じでしたか。

小倉1964年の東京オリンピックのころの選手は、東横線の妙蓮寺にあった神奈川寮に住んでいたんです。結婚した人は、今でもありますが、三ツ沢競技場の隣の古河の社宅に住んだ。

その後、その社宅の中に独身寮ができて、サッカー部の選手はその独身寮に住むことになったから、選手はほとんど横浜で暮らしていた。現在、Jリーグのチェアマン(最高責任者)の川淵三郎さんも神奈川寮に住んで、結婚後は三ツ沢です。当時の日本代表だった宮本征勝さん、鎌田光夫さん、みんな三ツ沢です。

奥寺僕は70年(昭和45)に入社しまして、最初は西区浅間下の浅間寮に3年間いました。それから本社に転勤になり、三ツ沢にできた宮川寮に移ったんです。僕は7年間、古河にお世話になりましたが、入社当時は練習は1日おきでしたが、結構きつかったですね。

小倉そのころは実業団ですから、まだ1日おきぐらいでした。しかも、必ず午前中は働いて、午後練習という仕組みだった。しかし、だんだんそれじゃリーグ戦を戦えないということで、毎日練習する仕組みに変わっていったんです。

田中息抜きは、皆さんは横浜のどの辺でなさっていたのですか。

奥寺余り息抜きはしていないです(笑)。結構忙しかったんです。でも練習がないときは、仕事の帰りに同僚と横浜駅の西口辺りで一杯飲んだりとか。試合がないときとか、シーズンオフのときは、そうやってみんなが誘ってくれましたね。

田中奥寺さんが相模工業(現・湘南工科)大学付属高校を卒業して古河に入社するとき、誘いをかけたチームは多かったのでは。

奥寺いいえ、どこもなかったんですよ。神奈川県では強い高校だったし、僕は県内では結構いい選手だったんですけど。

小倉当時は、各チームは選手を2、3人しか採っていなかったし、情報不足だったかもしれませんね。

日本で初めてアジアの王者となる

第6回アジア・クラブチーム選手権優勝 1986年

第6回アジア・クラブチーム選手権優勝 1986年
©スタジオ・アウパ

田中古河電工のサッカー部は日本代表選手の宝庫でしたね。98年のフランス大会の監督を途中から務めた岡田武史さんも、奥寺さんの時代に古河のメンバーだった。

チームが一番強かった時代は、いつごろですかね。

小倉それはいろいろあると思うんです。戦後の日本サッカーの流れでは、元旦に決勝がある天皇杯のチャンピオンは早稲田大学とか中央大学とか、学生が主流だった。それを初めて、60年と61年に実業団チームの古河が連続して優勝した。そこが日本のサッカーが大人のサッカーになった切りかわりの時期だった。そういう意味での強さが、ちょうど東京オリンピックが始まる前の年の時期でした。

ところが、奥寺さんがいたときのチームが86年(昭和61)にアジア・クラブチーム選手権で、初めて日本のチームが優勝した。皆の評価で古河が一番強かったのは、このときのチームだと思います。

古河電工の三次にわたる黄金期

篠﨑奥寺さん、そのときのポジションは?

奥寺僕はミッドフィルダーです。サウジアラビアでの決勝リーグのときには、向こうは、日本チームは弱いと結構僕らをばかにしていて、弱いチームが出てきて、僕らは4対3で勝ったんです。

田中そのときに奥寺さんがハットトリックを……。

奥寺そうです。したんですよ。

小倉私がロンドンに駐在していた時で、試合を見に飛んでいきました。本当に強いチームで、初めて、日本のサッカーの歴史が変わった。ようやく日本のチームもアジアに出ていける自信がついた。それまでどこのチームも決勝ラウンドにいけなかった。

田中古河電工の黄金期と言われるものがありますね。

小倉何回かありますが、1958年(昭和33)に実業団で2位となったころから64年の東京オリンピックの前までが第一次の黄金期になります。

先ほども触れた、60年、61年と、2年連続天皇杯で優勝したり、実業団の社会人大会で1位となったり、都市対抗で1位となったりしました。その時は、当時の日本代表メンバーの川淵三郎さん、宮本征勝さん、鎌田光夫さん、平木隆三さん、八重樫茂生さんらがいました。

その後、68年(昭和43)のメキシコオリンピックの後、日本のサッカーがJSL(日本サッカーリーグ)を中心にして動いてきました。それが実業団リーグ(Jリーグの前身)と言われて主流でした。

古河はリーグになってから2回チャンピオンになっています。奥寺さんはそのときのチームのメンバーでした。

田中初優勝の76年ごろが古河の第二次黄金期。85年の優勝ごろが第三次黄金期といわれていますね。

奥寺康彦――日本サッカー界のパイオニア

田中奥寺さんは、76年の優勝後、ブラジルへ行かれましたね。古河の姿勢というものがある面ですごく目を引くんですが……。

奥寺そこから変わったみたいですよ。それまでも三菱重工さんは、メンヘングラッドバッハ(ドイツ)に毎年、2、3人ずつ、日立さんもパルメイラス(ブラジル)に送っていましたが、古河はまだやっていなかった。じゃ、うちもやろうかということだったんですね。

小倉ちょうどそのころ、古河がブラジルに工場進出して、受け皿ができたので、ブラジルにまず送ろうと。私が途中からイギリスに駐在したので、それから方向転換して、毎年2人ずつイギリスに夏休みにトレーニングに来るという仕組みをつくっていった。

だから、最初の草分けが奥寺さんで、ブラジルから勉強したんです。パルメイラスで2か月。23歳でしたね。

篠﨑ブラジルへポンと行かれて、どうでしたか。

奥寺コーチと一緒に2人で行ったんですが、最初からわからなくて。それからホテルもとんでもないホテルだったんです。(笑)

学生が泊まるような、簡易ベッドみたいなもので、共同トイレ、共同シャワー。お金を節約しなきゃいけないということで、結構切り詰めた留学だった。

だから食事も、日系人のおばさんが日本人を泊めている所に行って食べた。

シュラスコ(ブラジル式バーベキュー)とかお肉がいっぱいあると思っていたら、週1回。日本人ですから煮物とか、ご飯とか。だから、我慢しなきゃいけないんだなというのはすごくありましたね。

小倉言葉のハンディもありましたしね。ポルトガル語ですから。通訳がいるにしても、グラウンドに出れば一人ですから、大変だったと思いますよ。

ブラジル留学後不思議なぐらい変わった体の動き

奥寺大した練習はやらないんです。フィジカル・トレーニングが多かったですね。走ったり、飛んだり、山を登って下りてくるとか。意外でした。僕は、たくさんボールを使ってトレーニングをしているのかなと思ってた。

読売クラブ(現・ヴェルディ)のコーチを一時期やったジノ・サニという人が、そこで若いときに監督をやっていました。練習はすごくギャップを感じましたけど、みんなうまかったですね。

小倉でも、帰ってきて、奥寺はすごい、変わったとみんなが思った。彼自身も、ボールは余り扱って練習しなかったと言いながら見ていたんでしょうね。そういう中で、体で覚えてきているから、行く前と後ではすごく違うんです。それからずっと日本代表に選ばれているわけです。

奥寺僕は意外と足が速かったんで一緒に紅白ゲームをやらせてもらったんです。不思議なぐらい変わりました。

小倉ブラジルから帰って来た後の76年に、アジアの各国代表チームによる、マレーシアでのムルデカ大会では彼が得点王となりました。

今でこそ、中田英寿選手とか小野伸二選手とか注目されていますが、当時は日本のマスコミも含めて、サッカーに対する理解がほとんどなかった時期なんです。たとえば奥寺さんがドイツに移籍したときなど、今だったら、新聞記者がずっとついて回ってますよ。中田選手と同じ状態になっていたでしょうね。

ドイツ・ブンデスリーガでチームの優勝に貢献

篠﨑ドイツには何年行っていらしたんですか。

奥寺77年から86年まで9年間行ってました。きっかけは、日本代表で行って、向こうでバイスバイラーという名監督にスカウトされたんです。最初、ドイツの人たちは、日本人はサッカーができるのか、そういう噂が飛び交っていた。何で日本人なんだと(笑)。ヨーロッパにいっぱいいるじゃないかと。でもちゃんとやれれば認めてくれる世界でした。

小倉今、ヨーロッパのリーグでは、イタリアのセリエA、イギリスのプレミア・リーグ、スペインのリーガ・エスパニョーラ、ドイツのブンデスリーガなどがありますが当時、世界の最高と言われたブンデスリーガに日本人で初めて奥寺さんが行って、1FCケルンというチームがすぐ優勝した。そのときに優勝のメンバーだったわけですから、すごいことなんです。

奥寺食事の面は、僕自身は日本食を食べなくても平気だから、割と順応できた。ただ、最初のころの合宿で、夕方は温かい飯を食べないんです。ドーンと皿に盛ったチーズやハムとかをパンと一緒に食べる。それには最初参りました。でも、それぐらいですね。

あとは言葉がわからないので、これは参りました。行ったのは、ちょうど10月ごろ、毎日、雨と曇りみたいな天気で。ホテルに一人で泊まってドイツ語を勉強しに行って、その後、練習に通って。

サッカーの世界一を決めるワールドカップ

田中ドイツと言うと、私は高校時代に、ベッケンバウアーが最高のあこがれの選手だったし、ボルシア・メンヘングランドバッハのネッツアー、ディフェンダーのフォクツらが来て、その前にデッドマール・クラマーさんというドイツ人コーチが日本に来ていたし、日本とドイツは非常に自然な流れのような気がしたんですが。

小倉当時はアジアもアフリカもサッカーで言うと後進国で、ヨーロッパと南米が両頂点でした。それで、ワールドカップは、南米とヨーロッパと交互に4年ごとにやっていた。それ以外の大陸ではサッカーがあるのかどうか、わからないという状態だったんです。

ですから、日本でサッカーをやっているなんて、わからない状態だったんです。それをクラマーさんらが教えてくださって、オリンピックで銅メダルを取ったのが1968年のメキシコです。

ところが、ヨーロッパにとってみれば、オリンピックはアマチュアの大会だから、世界一を決める大会じゃないわけです。プロの選手は、アマチュア大会のオリンピックには出場資格がない。それで、ソ連や、かつての東欧のハンガリー、ポーランドとかステートアマといわれた国が勝つんです。

だから、ヨーロッパの人たちはオリンピックに余り関心はないんです。日本が銅メダルを取ったと言っても、「それはアマチュアですな」といわれてしまう(笑)。ですから、ワールドカップに出られるようになって、ようやく日本のサッカーが世界に認められたということなんです。ましてや開催国になるというのは大変なことなんです。

ドイツでの体験がプロリーグの発想に

ベルダー・ブレーメン時代の奥寺氏

ベルダー・ブレーメン時代の奥寺氏
©スタジオ・アウパ/Sawabe

田中奥寺さんが古河に入られたころは、日本のサッカー界の環境の中で、自分たちはこれからどうなるのかとか、自分たちはどんなところまでいけるだろうかとか、お考えでしたか。

奥寺会社で仕事をしながらサッカーをやって、できれば日本代表になりたいと思っていました。それが頂点でした。あとはやめれば自然と仕事に戻るんだろうなと。当時はプロなんて考えられなかったですね。

小倉私にもそのイメージは全然なかった。68年にメキシコオリンピックで銅メダルを取ってから、何とかオリンピックに出なくてはという重圧が、奥寺さんみたいな日本代表選手にはかかっているわけです。それが、予選でいつも韓国かサウジアラビアあたりに負けていた。

ワールドカップはまだ夢の夢でしたよ。まずオリンピックへというイメージだった。

ただ、その後、奥寺選手がドイツに行って活躍して、やっぱり見えてきたんですね。こういうサッカーがあるんだということがわかってきた。世界が近くなったということがあった。

中田選手も、もう3チーム移っていますね。技術を買ってくれる所、自分が出られる所に行くという判断をするわけです。それは賭けでもありますが、声がかかったら、やはりそこに行くというのが、プロの選手の自然な姿です。

奥寺さんが行ったのは1FCケルンというチーム、そしてヘルタ・ベルリンに貸し出され、今度は戦っているうちに相手チームにスカウトされてベルダー・ブレーメンに移った。そういうことは奥寺さんが初めてで、ああ、そういうのがプロなんだとか、そういうことを彼の体験を通じて私たちはみんな知った。プロリーグのチームというのはすごいなと。

クラブを中心に選手と家族、ファンが交流

小倉奥寺さんがいたヘルタ・ベルリンというチームはものすごく家庭的なチームでして、たとえば土曜日に試合があると、奥さんや子供が試合を見に来たり、お嬢さんは試合を見たくなければ、隣のプールで泳いで試合が終わるのを待つ。試合が終わると、クラブでソーセージとかビールが出てくる。選手はシャワーを浴びて着がえて、またそこに来て、家族やファンと一緒に話をする。

それを通じて子供が大人と話すチャンスなどがある。そのクラブを中心にしてみんな生活しているわけです。ドイツのお父さんも2週間に1回はその試合を見るためにあけていて、家族連れで見て、土曜日1日を過ごす。

これだと思ったんです。私も帰ってきてからのプロリーグをつくるときの発想は、みんなそこだったんです。

川淵さんは代表チームで遠征したときに、ドイツのスポーツ学校で、芝生が何面もあるのにあきれて、ああ、これはいつ造れるかなというところから、クラブをつくらねばという発想になったんです。

ライセンスプレーヤー第1号が奥寺・木村和司の両氏

Jリーグ設立発表記者会見(左端は小倉氏、2人目が川淵三郎氏) 1991年

Jリーグ設立発表記者会見(左端は小倉氏、2人目が川淵三郎氏) 1991年
©スタジオ・アウパ

田中日本ではほんの10年前にプロのサッカーリーグができたわけですが、それによって確実にレベルアップしました。プロリーグ設立は大変な発想の転換で、日本のスポーツ界における革命的な出来事だと思うんです。

小倉日本は当時アマチュアだけだったので、外国でプロの人は、ルール上はプレーできなかったんです。プロとして扱えるようなルールがなければということで、奥寺さんの帰国に合わせてライセンスプレーヤーというのができたんです。それで奥寺さんと木村和司さんがライセンスプレーヤーになった。そこからがプロの始まりなんです。

ちょうど1986年、87年に、前の国際サッカー連盟会長のアべランジェさんが、21世紀はアジア、アフリカの時代を迎えるから、そこでワールドカップをやってもおかしくないと発言してくれた。チャンスだということで2002年のワールドカップを招致しようと。招致するには、それにふさわしい力のあるチームをつくらなきゃいけない。それはプロリーグ、Jリーグだ。ワールドカップを呼べば、そこでスタジアムができる。

そういう機会以外にはできっこないというところで、ワールドカップの招致とJリーグをつくることを結びつけたんです。それで1988年にJSLの活性化委員会で案をつくった。

その当時だってJSL1部は10チームあった。それであと、「プロリーグをつくりますよ。やる気はありますか」という募集をしたら17チームが手を挙げてくれた。バブルがはじけるぎりぎりのところで、もし1年おくれて言ったら、プロリーグは93年にできたかどうかわからないんです。

横浜はサッカーのメッカの一つ

小倉横浜に随分たくさんチームが集まったんです。というのは、横浜は、東京オリンピックのときに三ツ沢ができているわけですから。あれが貴重な財産でずっと引きずってきて、ワールドカップをやろうというときに、国体もやるからというので、あの競技場の案が浮かび上がったんです。

三ツ沢がなかったら今の国際総合競技場なんて造ろうと思わなかったんじゃないですか。

三ツ沢のサッカー場はJSLの拠点だから、古河も三ツ沢でずっとやっていた。

篠﨑三ツ沢のサッカー場は芝生はちゃんとあるんですか。

小倉ありますよ。芝生に関しては、大変な苦労があります。冬でも今、芝生は緑です。それはものすごい技術の進歩なんです。

たとえば、日本でトヨタカップを11月末から12月初めに開催している。負けたチームはヨーロッパに帰ると、日本に芝がなかったと何度も言ったんです。というのは、テレビの画面から見ると、日本の芝生は茶色く映っている。

奥寺向こうは1年中、青い芝なんです。来ると「何これ、芝じゃない」と。

小倉芝が、負けた時の理由に使われていたんです。それで国立競技場の芝の担当者が発奮して研究した。冬芝、春芝、夏芝をまぜるとか。そういう研究がまさにこの10年間ですよ。ようやくそういうのができてきた。

Jリーグが始まったときは大変だったんです。水たまりができて、ボールがころがらなかったり。Jリーグができてから随分変わりました。

田中JSLのいい対戦カード、たとえば三菱対ヤンマー戦などは、国立競技場でも3、4万人入りましたが、日本はサッカーが弱いということもあったんでしょうが、少なかったですね。

奥寺1FCケルンは優勝争いをして強かったから、毎試合、5、6万人入っていました。すごいですよ。

田中あるカメラマンが1971年にイギリスのウェンブリー・スタジアムに取材に行って、感動したのは試合じゃなくて観客だったと言っていました。

8万人入っていて、その人いきれは日本でJSLを撮っていて見たことがない。この観客こそサッカーをすばらしくする一番の要素なんだという言い方をされた。そういう面ではJリーグができたときはそうだったんですね。

小倉それは随分変わってきたと思いますよ。スポーツファンが競技場で歌を歌うなんていうことは余りなかったことなんです。そういうのはドイツやイギリスのサッカーの影響なんです。共に楽しむということがようやく入ってきた。

田中横浜という地域はチームが多いだけあって、そういうのは全国的にも進んでいるところですね。

小倉横浜は、サッカーのメッカの一つですよ。

アジアのサッカーの恩人クラマー氏

奥寺今、全国的に子供たちのレベルは上がっていますし、そんなに差はなくなってきた。それだけ底辺が広がり、厚みもできたと思うんです。だから、今、Jリーグで活躍できる若い選手も、海外に行く選手もふえてきたのは、そういう子供たちが育って今につながっている。だから、そういう子供たちが出てくる道筋はできた。

篠﨑初めはコーチの養成が大変だったみたいですね。

小倉今は資格を持っている人が何万人といます。それは東京オリンピックの後、ドイツ人のデッドマール・クラマーさんが指導者のための講習会を開いたことに始まります。すごい方で、最近まで、中国で指導者のための学校の先生をやっておられた。まさにアジアのサッカーの恩人です。日本の後に韓国にも一時行って、それから中国ですから。

篠﨑今度もっとすそ野を広げるには、今年、どうワールドカップを成功させるかですよね。

奥寺僕らが広げたいのはサッカーを知らない人たちにです。

横浜FC――ファンの力で誕生したチーム

篠﨑現在、奥寺さんは横浜FCの社長さんですね。

奥寺はい。チームの運営をしなければならない。

田中要するにJリーグが1993年(平成5)に始まって、最初に横浜に本拠地を構えたのが日産の横浜マリノスと、全日空の横浜フリューゲルスだったわけです。98年に横浜フリューゲルスが、親会社の全日空の経営的な問題で維持できないということで、横浜マリノスと一つにする縮小方向にいった。そのときに、マリノスのほうがどうしても主力になるから、フリューゲルスが形としては消滅するということが、99年1月1日の天皇杯を最後に決定した。

ですから、横浜のチームはJリーグでは、横浜F(フリューゲルス)マリノスという1チームになった。ところがチームはなくなっても、フリューゲルスを応援するファンはいて、じゃ、俺たちがそのチームをつくろうじゃないかということで、誕生したチームが横浜FCです。

サポーターの出資で運営する初めてのチーム

奥寺サポーター6名の出資で3年前に、その小さい会社ができました。協会の規約ですと、我々は新しいチームなんです。新しいチームは地域の下の方から何年もかけて勝ち上がってこないとJリーグに入れないんです。ましてや、現在、アマチュアの最高峰であるJFL(日本フットボールリーグ)に入るのも、5、6年かかるんです。だけどサッカー協会さんのご尽力で横浜FCをアマチュアの最高格にやろうと。でも選手は誰もいないんです(笑)。それで、ほかのチームを解雇されるような選手ばかりをピックアップして15人ぐらいの名前をそろえて協会に提出した。最初は準会員でスタートして、1年目で優勝した。

それが一昨年です。それで正会員になって昨年は全勝優勝、ダントツで優勝してプロリーグのJ2に上がった。

小倉J2で2位までに入ると、今度はJ1に上がっていく。しかしJ1に入るとお金もかかるんです。

田中チームを運営していくには、たとえばJ1なら年間15億円から20億円、J2だと、その半分ぐらいはかかるから企業が丸抱えをすることになるんです。横浜FCは、今度はファンが、自分たちができる範囲のサポートをしながらチームを支えていこうと。そういう面では初めてのチームになると思います。

横浜市民が支えてくれる、地域に根ざしたチームに

小倉ですから、大変なんです。たとえば企業が中心のチームは、企業の練習場を使えますが、FCは何もないから練習場は借り歩いている。

奥寺横浜市が持っている芝生のグラウンドをお借りするんです。金沢区の長浜とか都筑区の都田公園とかをジプシーをしている。今は選手の給料を払うのが精一杯で、細々とやっているんです。

サポーターと会員を募っていまして、それが去年は3千人ぐらい。あとはスポンサーで、看板とかロゴを選手のユニホームの胸につけるとか。それから市、自治体にもグラウンドを貸してもらったり、協力していただいています。

FCを応援する熱狂的な人たちは、フリューゲルスのなくなった経緯がわかっているから、1つの企業に依存するのをすごくいやがるから、大スポンサーを見つけにくい。

小倉確かに安定したスポンサーがいて、ベースは確保できていないと。やっぱりいい選手、いいコーチを集めないと勝てない。それにはある程度財源を持たないと。ファンも負けると去っていく。ここが難しいところです。

今の位置づけは、横浜市民のチームということになっていますし、横浜で応援してもらうとありがたいんです。横浜みたいに大きな都市でサッカーを2チーム応援しても全然不思議じゃないと。

奥寺たとえばプレミア・リーグのチームは多国籍軍でイングランド人は少ないんだけど、応援する人は違う。俺たちはチームについているんだから、そこに誰が入ろうが問題ない。チームが勝ってくれればいいという意識です。ということは、我々Jリーグもそうなんですが本当は地域に根ざして、地域の人が支えてくれれば、ずっと残っていける。そういうのを100年構想でやっていて、何チームかできつつあります。たとえば浦和とか、鹿島とかはすごいですね。だから、横浜に本当に根付かせてと、今一生懸命やっているんです。

小倉イギリスやドイツではシーズンチケットが世襲なんです。代々引き継いでいくから、親が見た同じ席で子が見るということで、会費さえ払っていけば続けられる。それは楽しいことなんです。

奥寺グラウンドは今、三ツ沢です。そこで年間22試合中、最低18試合はやるんです。

田中去年の成績で、横浜FCは決して上位ではなかったけれど、ホームのゲームはむちゃくちゃ強い。そういうのがサポーター、ファンを引きつける要因です。

日本サッカーをずっと演出してきた古河電工

篠﨑サッカー人生で、古河電工という会社からどういう影響をうけられましたか。

奥寺僕の母体ができたのは古河だと思うんです。サンパウロにも出させてもらい、僕がプロでやれた下地はそこでできたんだし、それから、仕事をしながらやったこともすごくいい経験でした。

小倉私はサッカーのプレーヤーではなくて会社に入りましたが、縁があってサッカーにかかわって、プロリーグを仕掛けたり、ワールドカップを招致することに参加できたのも、この会社が自由にやらせてくれたからです。

私はロンドンに5年半くらい駐在していましたが、その間、日本サッカー協会国際委員と古河電工のロンドン事務所長の2つ名刺を持っていたんです。当時、私みたいな所長をやっていた駐在員が700人ぐらいいたのですが、日本サッカー協会国際委員という名刺を持っていたのは私一人ですから、イギリスのどこの会社に行っても親近感を持って接してくれた。古河にいなかったら、そういう経験はさせてもらえなかった。

田中古河電工は、奥寺さんをはじめとして、名選手を多数輩出した一方で、日本サッカーというものをずっと演出してきた企業なんですね。

小倉私は裏方でしたが、リーグの会議とかに、仕事中でも途中抜けて行くのを許してくれた。それは大変ありがたかった。当時で言えば企業メセナでしょうが、そういう意識はあったんだと思いますね。

ですから、昔話になりますが、長沼健さんも広報課所属でありながら日本サッカー協会の専務理事の仕事をやっていたわけです。

田中突き詰めて言えば、ワールドカップの実質的なリーダーとしてやってこられたのが長沼さん、プロサッカーリーグを引っ張ってきたのが川淵さん、その片腕なのが小倉さんだと。古河電工の姿勢なくして今の日本サッカーは本当に何年おくれているかわからないですよ。

小倉その人たちだけじゃなくて、周りに随分いろんな人たちが命をかけてちゃんとやっていたんですよ。

横浜でワールドカップの決勝戦

横浜国際総合競技場(港北区小机町)

横浜国際総合競技場(港北区小机町)

小倉6月30日のワールドカップの決勝戦は横浜であります。6月9日は日本とロシアの試合もあります。これは大変注目されるゲームです。横浜での決勝戦のためのお祭りが1週間近くおこなわれますし、みなとみらい地区にメディアセンターができますから、1万人近いメディアの人たちも全部入り込む。そういう財産がワールドカップの後も横浜に残り、マリノスも、横浜FCも支えてもらったら、大変うれしい。

大会開催時には、横浜に集まるサッカーファンを大歓迎してほしいと思います。

篠﨑有隣堂でもワールドカップに合わせて、伊勢佐木町の本店ギャラリーで、4月5日から10日まで写真展を開催します。7日には写真展の会場で奥寺さんにトークショーをお願いしており、楽しみにしております。今日はどうもありがとうございました。

小倉純二(おぐら じゅんじ)

1938年東京生れ。

奥寺康彦(おくでら やすひこ)

1952年秋田県生れ。
著書『奥寺康彦の楽しいサッカー』 小峰書店 1,100円+税、ほか。

田中孝一(たなか こういち)

1953年岐阜県生れ。
著書『オリンピックを30倍楽しく見る本』 学習研究社 570円+税、ほか。

※「有鄰」412号本紙では1~3ページに掲載されています。

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