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山口恵以子氏
第20回松本清張賞受賞作『月下上海』は、戦時下の上海を舞台にしたスケールの大きな作品だ。著者の山口恵以子さんは、食堂に勤務する傍ら、受賞作を執筆した。
「昨年7月はじめに書きあげて別の賞に応募したのですが、1次選考で落選してしまいました。理由を分析して加筆修正し、改めて松本清張賞に応募しました。私のこれまでの創作活動の集大成のような作品で、これでだめなら次はないというぐらいの覚悟でしたから、受賞が決まったときは、ほっと安堵する気持ちのほうが大きかった」
主人公は、八島財閥の令嬢で、画家の八島多江子。1942年(昭和17)10月、上海に渡った多江子は、憲兵大尉の槙庸平と出会い、謀略に巻き込まれていく。
「新聞のテレビ欄で『上海の伯爵夫人』と書かれているのを何げなく目にして、ロマンティックなタイトルだなと思ったとたん、なぜか上海を舞台に、貴婦人と冷酷そうな男が会話でつばぜり合いをする場面が浮かびました。さらに、物語と登場人物が、ほぼ瞬間的に膨らみました。当時の資料を読み込んで書き始めると、キャラクターが生き生きと動きだしてくれた。彼らの行動や考え方を書き写すようにして、とてもすんなりと書けた小説でした」
槙のほか、上海の名士・夏方震、医学生の黄士海らと多江子は出会う。前夫の瑠偉も含め、4人の男とのかかわりがドラマティックに描かれる。当時の上海の雰囲気がリアルに伝わってくる。
「この時代や上海にもともと関心を抱いていたわけではなく、現地取材もしていません。上海を舞台にした物語が浮かんだため、資料を調べて書きました。ただ、西木正明先生の『其の逝く処を知らず』を読んで里見甫に関心をもち、同時代のこの物語になんとかゲスト出演してもらえないかと思っていたら、資料調べの過程で接点があることに気がつきました。書きたいと思ったエピソードが飛び込んできたり、この小説はツキに恵まれていました。筆がのり、書き終えたときは大きな達成感がありました」
多江子は、気高く、くじけないヒロインだ。生い立ちや過去の出来事が少しずつ明らかになり、心理と男たちとの葛藤が克明に描かれて、物語に引きこまれる。
「ストーリーを構想して書き始めるのですが、書くうちにキャラクターが人格を持ち、彼らのぶつかり合いを通して予想外のテーマが現れてきます。今回は女性を主人公にした物語ですが、私は男性を書く場合も違和感を感じません。登場人物はすべて作者の分身です。多江子も槙も、菊池寛のような実在の人物でさえ、作中の人物は私の分身で、想像の産物です。ＳＦ作家が宇宙人を、ミステリー作家が殺人事件を、みたことも経験したこともないのに書くのと同じだと思います」
1958年、東京都生まれ。早稲田大学文学部卒。派遣社員をしながら松竹シナリオ研究所で学び、2時間ドラマのプロットを多数作成。その後、丸の内新聞事業協同組合の社員食堂に勤める傍ら、小説を執筆。2007年に『邪剣始末』でデビュー。ほかの著書に『イングリ』がある。
「幼い頃から空想癖があって、本を読むことが好きでした。好きな小説や漫画のサイド・ストーリーをつくったり、空想癖の延長線上に今もいて、漫画、プロット、小説と、手法を変えながら書き続けてきました。”苦節25年”ではあるのですが、プロットを書いていたときはいつか脚本家に昇格すると思っていましたし、根拠のない楽観を持ち続けた人間です。私にはストーリーを書く紐一本しかなく、その紐を引っ張り続けていたら、松本清張賞に至った。漫画家になりたかった子供の頃から、創作をやめようと思ったことは一度もありませんでした。本人は苦節と思っていず、気がついたらこうなっていた感じです」
『オール讀物』8月号に、受賞第1作を発表。次の単行本の準備も進めている。料理が好きで食堂のパートに応募し、正社員に採用され、2010年に調理師免許を取得。献立を考え、料理の腕をふるう毎日だ。食堂に勤めながら、小説を書いていくという。
「書く仕事と食堂の仕事は重複するところがありませんから、切り替えては取り組めます。料理に対しては『美味しかった』、小説に対しては『面白かった』と言ってもらえたら、とても嬉しい。時間を大事にして、めいっぱい小説を書いていきたい」
（青木千恵）
『月下上海』／山口恵以子／文藝春秋／1,300円＋税
