Web版 有鄰

538平成27年5月10日発行

横浜を襲った29回の空襲 – 2面

羽田博昭

爆撃と機銃掃射で生活する場所がまさに戦場になる

今年、戦争が終わって70年目の夏を迎える。空襲によって横浜の中心市街地が壊滅してから、70年が経過したことになる。そこで、改めて横浜における空襲を振り返ってみたい。

本格的な本土空襲が始まった1944(昭和19)年暮以降、横浜を襲った空襲は29回に及ぶ。それ以前には1942年4月18日のドゥリットル空襲でも、横浜は被害を受け、機銃掃射によるものだが死者1人が出ている。

B29による横浜の初空襲は、1944年12月25日とされている。また、艦載機による空襲は、1945年2月16日が最初だった。その後8月までに、B29の空襲が計18回、艦載機および戦闘機P51による空襲が計11回あった。これは、神奈川県警察部の記録と体験者・目撃者の証言による。

艦載機・P51は焼夷弾や爆弾も投下したが、やはり機銃掃射が脅威だった。それにしても、2月から8月までの半年間で11回とは多い。警察の記録は被害が確認できているものだけなので、他にもあった可能性はある。また、5月29日の大空襲の合い間にも、P51の機銃掃射を受けたという証言がある。横浜の空襲を記録する会がまとめた『横浜の空襲と戦災』1体験記編(1976年)・2市民生活編(1975年)および『調査概報』第5集(1976年)に収録された体験記・手記376編の内36編が、機銃掃射に触れている。B29による爆撃18回と戦闘機による機銃掃射11回をあわせると、1944年暮から翌年8月までの8ヶ月間、市民が生活する場所そのものがまさに戦場となったのだということが実感される。

5月29日の大空襲後の横浜中心部 1945年6月撮影
5月29日の大空襲後の横浜中心部 1945年6月撮影
左下は桜木町駅、中央のビルは伊勢佐木町
※写真は全て横浜市史資料室提供

4月15日の鶴見・川崎空襲は200機を超えるB29が来襲して、972人(内横浜345人)の死者と、罹災住宅5万2655戸(内横浜1万9189戸)という被害を出した。5月29日の横浜大空襲では500機を超えるB29が来襲し、横浜市で3649人の死者と、罹災住宅3万8997戸という大きな被害を出した。この2回の空襲によって、横浜の中心市街地はほぼ壊滅したといってよい。

横浜の空襲による死者は4616人といわれるので、その87パーセントがこの2回の空襲によるものということになる。ただし、これらの死者数は少なすぎであり、全体で7000人から8000人ともいわれる。また、この2回以外の空襲でも、深刻な被害を出したものがある。今回はあえて、そうした知られざる空襲について紹介してみたい。

通常爆弾の投下は焼夷弾とは異なる被害の様相を

横浜において5月29日、4月15日に次ぐ被害を出したのは、4月4日である。サイパン島のB29部隊第73航空団がこの日第一目標としたのは、立川飛行機(現立川市)だった。米軍の任務報告によれば、出撃した113機のうち61機が第一目標を爆撃したが、48機は川崎、1機は静岡を爆撃したという。

おそらく気象条件などによって第一目標がとらえられなかったためであろうが、このように東京の軍需工場をねらっていたB29が横浜・川崎を爆撃した例は少なくない。5月29日までのB29による空襲13回の内、9回が中島飛行機武蔵製作所(現武蔵野市)や東京市街地を第一目標としていた。

なかでも4月4日は、川崎の他鶴見・港北・神奈川・西各区が被害を受け、死者398人(内横浜214人)、罹災戸数5873戸(内横浜4103戸)という記録が残っている。しかも、軍需工場をねらった精密爆撃であったため、投下爆弾は焼夷弾より通常爆弾の方が多く、罹災戸数の内全焼が709戸(内横浜600戸)に対し、全壊が424戸(内横浜255戸)と、通常爆弾による被害が比較的多かったことを示している。そのことは、体験記の中の証言にも表れている。たとえば、西神奈川町では家が2軒吹き飛び、その跡はしばらく池になっていたという。

川崎市の工業地帯 1945年6月撮影
川崎市の工業地帯 1945年6月撮影
地面の穴は爆弾によるもの

7月12日と25日も川崎の石油施設をねらった精密爆撃であるが、民家などに被害があった。投下爆弾がすべて通常爆弾だったため、より傾向ははっきりしている。横浜だけの被害は確認できないが、それぞれ死者215人と115人を出し、罹災戸数98戸、160戸の内、全壊が79戸、133戸と8割を占めている。被害の様相についても、爆風で飛ばされた様子を伝える証言がある。体験記によれば、7月12日、鶴見区岸谷付近では死者が五十数人出て、死傷者は「いったんつりあげられて落とされた」という。死体が2、3間(一間は約1.8メートル)先の道に倒れていたり、発見されない方も多かった。

避難した防空壕に爆弾が直撃して悲惨な状況に

横浜市中区 1945年9月撮影
横浜市中区 1945年9月撮影

横浜市内の被害に限れば、6月10日の富岡空襲の被害が大きかった。この空襲も、日本飛行機富岡工場を目標とした精密爆撃であった。出撃機数33機と比較的少数であったにもかかわらず、爆弾は広い範囲に投下され、近くの現在の京浜急行線のトンネルや、根岸湾をはさんだ対岸の本牧三渓園や八聖殿下の防空壕に直撃した。とくに京急線では、電車の乗客に多数の死傷者を出した。死者136人、罹災戸数144戸、内126戸が全壊と市民にも大きな被害を出したのである。

この日に関しても、体験記が焼夷弾とは異なる被害の様相を伝えている。たとえば、本牧の自宅近くに爆弾が落下したという当時中学生は、「防空壕に入る間もなく、地面に伏せた身体がふわっと浮いた感じ」がしたと述べている。この方はけがもなく無事だったようだが、家族を失い、自身も大けがを負った体験記もある。

別の本牧の中学生は、八聖殿下の防空壕に避難したがその入り口が爆弾の直撃を受けた。妹をかばった母親は爆弾の破片で即死、姉も全身打撲で即死、2人の弟も破片が頭に当たって死亡した。自身も破片で足に重傷を負い、切断せざるを得なかった。また、本牧の当時3歳半だった女性も、避難した防空壕に爆弾が直撃した。母・姉と兄2人は即死、母に抱かれていた自身は、母の体を貫いた破片により重傷を負い、その後長くこの傷のために苦しみ、入院・手術を繰り返すことになる。

富岡でも死者の過半が即死であったという体験記の記述もあり、通常爆弾が市民の暮らす場に投下された場合の被害の深刻さが伝わってくる。

このように、空襲は4月15日と5月29日以外にも深刻な被害を残したのである。焼夷弾爆撃が横浜を焼きつくしたことは確かだが、通常爆弾が民家やその周辺に投下された際の悲惨な状況も改めて心に刻んでおきたい。

羽田博昭  (はだ ひろあき)

1957年奈良県生まれ。横浜市史資料室主任調査研究員。
共著『米軍基地と神奈川』有隣堂 1,000円+税、共編著『都市と娯楽』日本経済評論社 4,200円+税(品切)ほか。

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