Web版 有鄰

482平成20年1月1日発行

21世紀に生きる鞍馬天狗 – 1面

村上光彦

人間が幸福になる世の中の到来を望む

大佛次郎(横浜・ホテルニューグランドの屋上にて)昭和初期 大佛次郎記念館蔵

大佛次郎(横浜・ホテルニューグランドの屋上にて)昭和初期
大佛次郎記念館蔵

21世紀の今日、鞍馬天狗が生きつづける場があるとしたら、それはわたしたちの内面以外にありはしません。鞍馬天狗が生きていてほしいとわたしたちが切望すれば、彼はわたしたちとともに今日を生きるのです。

大佛次郎は、大正末期に鞍馬天狗を勤王の志士として創造しましたが、それから41年間書きつづけられるうちに、作者とともに主人公である鞍馬天狗も成長しました。

今春、大佛次郎生誕110年を記念して、NHK木曜時代劇「鞍馬天狗」が、野村萬斎さんの主演で放映されます。さて、足かけ40年前の1969年に、やはりNHKから高橋英樹主演の「鞍馬天狗」が放映されました。そのとき、大佛次郎は「グラフNHK」に「私の鞍馬天狗」という文章を寄せています。そのなかに、こう書いてあります。

「鞍馬天狗は、尊王家でも攘夷家でもありません。どんな党派にも属さず、ただ人間が幸福になる世の中の到来を望んでいるので、正邪の区別を、その点から考えます。だから新選組が町の者に悪事を働く時は、敢然と敵に回って闘いますが、近藤勇の剣や、人間として男らしい態度には好ましい親近感を抱くこともあります。反対に勤王の志士たちでも、過度で人に迷惑を及ぼす行動に対しては、嫌悪を示し、敵対もします。その辺が行動だけから判断すると、人に好かれても、いつも孤独な影を鞍馬天狗は持っております。」

鞍馬天狗の基本的性格がここに言い尽くされています。彼は幕末維新期の変革の息吹を体現して、妻も子もなく、日々国事に奔走する人物でした。では、大佛次郎自身がここに記した主人公の特徴を、さまざまの作品に照らし合わせて確認しましょう。

まず、作者が《どんな党派にも属さず》という、鞍馬天狗の独立独歩の性格を第一に強調していることに注目しましょう。彼は薩長などの藩に属する主人持ちではありません。そこで藩の庇護に頼らず、単独者として《だれにも指図されず、自分で選んで自由に》行動したのでした。

大政奉還ののち、明治新政府が成立してからも、彼はあいかわらず単独者の立場を貫いたのです。慶応4年(1868年、旧暦9月8日[新暦10月23日]に明治と改元)の梅雨の候に上野で彰義隊の戦が起きました。彼はそのころ、官軍の参謀たちに「何か、役についてくれるか」と頼まれたとき、「遊軍だ。例によって」と、その申し出を一言のもとに断りました(「江戸の夕映」1940年)。遊軍とは、遊撃隊ともいいますが、戦列外にあって、いざというときに味方の応援に駆けつける兵力のことです。

彼自身も何度か重傷を負ったし、仲間の幾人かは命を落としたのでした。その苦難の末の維新を迎えたのち、鞍馬天狗は海野雄吉と名乗って、新開地の築地にひっそりと暮らしていました。最初からの盟友である小野宗房卿を初め同志たちの多くが政府内で重要な地位についたのに、彼はあいかわらず浪人暮らしを続けたのです。なぜなら、こういう心境だったからです。

「……幕府を倒すのが、今日まで、悲願とも言い得るほどの盲目で強い熱情だったのだ。それが、できてしまうと、これしきのことかというような、あっけない感情がどこかから湧き、一代の願望と信じてきたものに、まだ大きく足りなかったものがあるような不安をにわかに知って、動揺したのである。……夜の闇が舞台だった鞍馬天狗などという仮装の人物は、もう退場するのが当然の、夜の明け方が来たのだと自分も信じたのではなかろうか? 過去は、これで、きれいに切り離してしまえる。仕事は、これからという若い人間の手に渡す。そうしたいと念じたのも、あるいは革[あらた]まった世界になんとはなく、期待と違うものを覚えて、それを改めて見さだめたい、考えなおしてみたいと感じたせいもあった」

要するに、それまで命がけで闘ってきたのに、維新政府が成立してみたら、幕府に代わって薩長が権力を奪っただけではないか、これが待ちに待った夜明けだろうか、といった疑問を生じたわけです。

彼はこうも言います。「昨日の狂人じみた攘夷論者が、きょうは、けろりとして開化論者になっているじゃないか。幕府は倒さなければならなかったけれど、世の中の成り行きを先まで見とおしていたのは、幕府を倒した薩長の人間よりも、かえって幕臣の中に多かったようだな。私なんかも、わからなかった方の人間の一人さ」(『新東京絵図』 1947-48年)。

しかし史上、手直しの要もなく一度で成就した革命はありません。革命が未完成だったと感じて、永久革命を志す革命家も現れました。革命への念願が強烈な人ほど、いちおう成就したかに見える革命に《期待と違ったもの》を覚えるのです。失望して心を落とすことも、これまでのどの革命にもありがちでした。

鞍馬天狗のばあいは、彼の目から見て維新に不満が残るからには、政府の外に留まって《難くせをつける》、つまり批評家として見守る役に回ることにしたのです。

「私の鞍馬天狗」には《人間が幸福になる世の中の到来を望んでいる》ともあります。庶民は世直しの運動と関係なく自分の暮らしを守っていました。鞍馬天狗は崖下の湿地にある裏長屋を目にしながら、討幕運動がそこの人たちになんの意味があるか、などと疑ったりします(『小鳥を飼う武士』 1926年)。

慶応4年夏のこと、鞍馬天狗は《奥州にいる官軍の運命の幾分かが》自分の行動に左右されるほどにも重要な冒険に出かけます。緊張した鞍馬天狗にひきかえ、町の庶民はのんびりしていました。涼風が立つ宵の口、浴衣がけで夕涼みしている人たちを見て、彼は思います。「自分などとは、まるで別世界の人々である」(『鞍馬天狗余燼』 1927-28年)。しかし彼は、自分が危険を冒すのは、無関心に見える世間の人たちの幸福のためだと知っています。

人間の尊厳が無視される邪[よこしま]な圧制を正す

『逢魔の辻』(1937年)という傑作があります。この作品は、その前年(二・二六事件の起こった年)に発表された現代小説『雪崩』と並んで、大佛次郎の作品中でもとりわけ重要なものです。その主人公は鞍馬天狗のような剣の達人ではありません。しかし、その不屈な精神は、鞍馬天狗と共通しています。

青江金五郎は、旗本三沢庄左衛門が女中に生ませた私生児です。彼はその不幸な生まれつきのために、身を持ち崩して三宅島へ送られるなど、不運な目にあいます。ここでは、脇役のひとり、蠣崎新吾という同心を取り上げるに留めます。この男は金五郎に目をつけ、その後ずっと彼を陥れる機会を待っています。金五郎は、この同心に痛めつけられながら、この男の性格が歪んだのも世の中が悪いからだと理解していました。彼は蠣崎を憎むどころか、むしろ同情してこう考えたのです。

「この男たちのためにも、やがて維新の明るいときが来るだろう。金五郎が望んで来た世界は実にそれなのだ。重苦しかった封建的権力の圧制が最も人間を歪めたのは、この男たちかも知れないのだ。……この人たちにも、もっと明るい世界を知らせ、素直に物を見させようではないか。誰のためにも悪かったのは封建の身分関係だ。一部の階級のために人間を道具に使う権力の圧制だった。その根元だった幕府は、時の勢いで崩壊した。薩長がもし、ただ幕府に代るというだけならば、これは旧[ふる]い時代となんの変りもない」。金五郎が言いたいのは、人間の尊厳が無視されるような社会が続くようでは、人はやはり幸福になれない、ということなのです。

「私の鞍馬天狗」に《正邪の区別》とあります。蠣崎にしても、その悪意を責めるだけでは不十分で、そういう同心を生んだ権力の邪な圧制こそ正さなくてはならない、というのが作者の考えです。

東寺の庭で対決する近藤勇と鞍馬天狗 伊藤彦造画『角兵衛獅子』から

東寺の庭で対決する近藤勇と鞍馬天狗
伊藤彦造画『角兵衛獅子』から

『鞍馬天狗』連作、とくに少年小説のなかで、近藤勇が好意的に描かれているのは興味深いことです。大佛次郎は少年読者に向かって、立場の違う相手だからといって憎むことなく、相手の人間らしい美点を尊重するように訴えかけているのです。『角兵衛獅子』(1927-28年)の最後の場面はあまりにも有名です。東寺の五重塔の下で鞍馬天狗と近藤勇とが剣を切り結び、鞍馬天狗は近藤勇の手から虎徹[こてつ]を払い落としておきながら、決闘を中止します。それから二人は、談笑しながら去っていくのでした。

『山嶽党奇談』(1928-30年)のなかで、鞍馬天狗は新選組と暗殺集団の山嶽党とを対比して考えます。「この奇怪な団体とくらべてみれば、徳川300年の恩義を思い、くずれようとして行く幕府のために必死に働いている新選組や見廻組は、まだしも敵ながら愛すべきものがあります。……鞍馬天狗は場合によっては、この共同の敵をほろぼすために、新選組とも休戦してもよいと思っていたのです」と。近藤勇のほうでも鞍馬天狗に敬意を払っています。「(とにかく見上げた奴だ。)と、近藤勇は、屯所の夜を警める拍子木の音を遠く聞きながら、今さらのように、東寺の五重塔の下で、二人だけで果し合いをした晩のことを思い出すのでした」といったぐあいです。

『山嶽党奇談』の末尾を読んで、読者は「こんな手があったのか」と驚くでしょう。鞍馬天狗は山嶽党の首領を倒したあと、「近藤が外へ来ているはずだ。近藤と私は、今夜一晩休戦する約束を結んだのだ」と、杉作に説明します。

たがいに人格的に尊敬している仲であれば、たとえ敵対者同士でも、倫理が命ずるばあいであったら協力するのです。21世紀の今日も、人道の要請は同じです。

村上光彦氏
村上光彦 (むらかみ みつひこ)

1929年長崎県生れ。成蹊大学名誉教授。大佛次郎研究会会長。

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