Web版 有鄰

478平成19年9月10日発行

[座談会]ホテルニューグランドの80年

ホテルニューグランド代表取締役会長/原 範行
横浜国立大学大学院工学部教授/吉田鋼市
ジャーナリスト/バーリット・セービン
有隣堂社長/松信 裕

左から、B・セービン、原 範行、吉田鋼市の各氏と松信 裕

左から、B・セービン、原 範行、吉田鋼市の各氏と松信 裕

はじめに

ホテルニューグランド(横浜港大さん橋から)

ホテルニューグランド(横浜港大さん橋から)

松信日本を代表するクラシック・ホテルとして、遠く海外までその名を知られているホテルニューグランドは、昭和2年12月に山下公園を望む現在の位置に開業してから、ことしで創業80周年を迎えることになりました。大正12年9月の関東大震災によって、横浜市が壊滅的な打撃を受けたなかで、横浜の政財界や多くの市民が待ち望んでいた新しいホテルの誕生でした。

本日は、ホテルニューグランド開業以前の横浜のホテルの歴史にも触れていただきながら、ホテル建設の経緯や、このホテルを愛した人々、さらには横浜市の歴史的建造物に認定されている建物についてなど、ニューグランドの歴史とその魅力についてお話をお聞かせいただきたいと存じます。

ご出席いただきました原範行様は、ホテルニューグランド代表取締役会長でいらっしゃいます。横浜商工会議所副会頭などをお務めになり、横浜の観光開発の振興にも尽力していらっしゃいます。

吉田鋼市様は、横浜国立大学大学院工学部教授で、横浜市域の近代建築の調査にも携わっていらっしゃいます。横浜の建築に関するご著書も多数出版しておられます。

バーリット・セービン様は横浜在住約30年のアメリカ人ジャーナリストです。英文のガイドブック『A Historical Guide to Yokohama』を有隣堂から出版されており、そのなかでも、ホテルニューグランドの歴史について、詳しく紹介しておられます。

万延元年開業の「横浜ホテル」が最初

松信横浜には、いつ頃からホテルができはじめたんでしょうか。

日本ホテル協会の歴史には、日本で最古のホテルは、慶応3年(1867年)に東京の外国人居留地に建設された築地ホテルであると記載されています。

しかし、横浜開港資料館の研究員の方の調査では、万延元年(1860年)2月に、横浜の居留地70番に、オランダ人のフフナーゲルが開業していた「横浜ホテル」が最初であるといわれています。ここにはロシアの革命家のバクーニンを始め、イギリスの外交官のアーネスト・サトウも来日した文久2年(1862年)に2か月ほど滞在しています。その後、ロイヤル・ブリティッシュ・ホテルやインターナショナル・ホテルが開業します。

また、イギリス軍将校たちの横浜ユナイティッド・クラブが1863年に海岸通りの5番に設立され、ここは宿泊施設もあって、ホテルとしても機能していました。

さらに、グランドホテル、オリエンタル・パレス・ホテル、クラブホテル、ローヤル・ホテル、ライツ・ホテル、ホテル・プレザントン、ホテル・デ・フランスのホテルができたという記録がありまして、震災前、この界隈には、これら7軒のホテルが軒を連ねていたようです。

最も大きかったのは海岸通りの20番グランドホテル

グランドホテル 明治後期

グランドホテル 明治後期
有隣堂蔵

最も大きく発展していたのがグランドホテルです。明治3年(1870年)に海岸通りの20番、山手に一番近い場所に誕生します。明治6年に写真家ベアトらの出資で改築され、W・H・スミスが支配人になります。

セービンスミスは、それ以前にも社交クラブのユナイティッド・クラブをつくったり、山手に公園を開設するよう居留民に呼びかけたりしています。「パブリック・スピリッテド・スミス」と呼ばれて、公共心に厚い人物で、居留地の人気者だったんです。

改築されたグランドホテルは30部屋の木骨石貼りの2階建てで設計はアメリカ人のブリジェンスと推測されています。豪壮モダンな建築が話題を集め、横浜居留地に一種のホテル建築ブームを呼び起こす契機となりました。

その後、経営者はフランス人のボンナに代わり、明治20年に業績が不振になったために、イギリスのマクドナルド大佐と、その友人の弁護士らに譲った。それでグランドホテル株式会社が新たにできて、隣地の18番、19番にあったウインザー・ハウスを買い取り、そこを新館にして、客室を一挙に100にして、300人収容の大食堂、酒場、社交室等を設けたという記録が残っています。

また、現在ホテルニューグランドがある隣接地の11番には、オリエンタル・パレス・ホテルをフランス人のリヨン・マラウがドゥエットと共同で建てています。これがグランドホテルに次ぐ大きさだった。

関東大震災で横浜のホテルはすべて崩壊

関東大震災で倒壊したグランドホテル

関東大震災で倒壊したグランドホテル
横浜市中央図書館蔵

松信関東大震災で、居留地時代の横浜の風景は一変してしまいますね。

特に山下町一帯のダメージは大きく、当時26あった領事館が全部崩壊した。外国商館やホテルの建物等もすべて壊れてしまった。

グランドホテルは地震の保険に入っていて、保険金が入ってきたらしいんですが、イギリス人のオーナーは、これを続けるのはあきらめて、グランドホテル株式会社は解散、グランドホテルは創業から約50年で終止符を打ちます。

当時の横浜の市域は、今の西・中区の大半に磯子・南・神奈川区の一部を加えた地域で、市全体の被害は、建物の全壊・焼失・全半壊が8万戸以上、死者が2万3,000人ほどといわれ、渡辺勝三郎市長は仮市役所を横浜公園につくりますが、3日には桜木町の中央職業紹介所に移します。9月30日には市長の提案で、市内の有力者を集めて横浜市復興会が組織されました。私ごとで恐縮ですが、私の先々代の原富太郎が復興会の会長になった。復興会は総務と計画に分かれており、原富太郎は総務のほうで、実業的・資金的な面でいろいろお役に立った。計画のほうは井坂孝さんで、後にニューグランドの初代会長になられ、商工会議所会頭もなさいました。

松信原富太郎さんは生糸貿易商で、三溪園をお造りになった方ですね。

この二つの部門で復興が始まりました。計画部には財政部、事業部、港湾部、都市計画部等々がありまして、その中でいろいろな提案、案件が出てきた。470件に上る研究案件が出て、そのうち39件が正式に採択された。その中に外国人を対象としたホテルの建設がトップのプライオリティで入っていました。これがニューグランドの建設に結びつきました。

設立委員会ができてホテル建設が実行に移される

松信ホテルの建設は、横浜の貿易商や政財界のたっての願いだったようで、復興が遅れると、外国商館も神戸や東京に移ってしまう。それを危惧して、早くホテルを復興しようという機運になったようですね。

なかなかホテル建設が進まず、テントを張った「テント・ホテル」をグランドホテルの焼け跡の裏手につくって急場をしのいだりしたのですが、市長が有吉忠一さんに代わって、建設計画が市議会で可決され、井坂さんを委員長に、ホテル経営会社設立委員会ができて、建設が実行に移されました。

井坂孝

井坂孝

ホテルの名前は市民から募集して選ばれたそうですが、一説によると井坂さんが「ホテルニューグランド」、有吉さんが不死鳥を意味する「フェニックス・ホテル」の名称を出したところ、委員会で、フェニックスという名前の会社はみんな駄目になっていて縁起が悪いということで、ニューグランドに落ち着いたとも言われています。

設計者の渡辺仁は造型的な才能のあるデザイナー

本館のロビー

本館のロビー
ホテルニューグランド提供

松信ホテルニューグランドは昭和2年12月の開業ですが、どういう方が設計されたんですか。

吉田設計は渡辺仁で、立派な建物をいっぱい設計しています。

ニューグランドももちろん代表作の一つですけれども、上野の国立博物館(旧東京帝室博物館)、銀座の和光(旧服部時計店)、今はなくなった有楽町の日劇(日本劇場)や、マッカーサーがニューグランドから移った第一生命館も彼の設計です。それから、住宅ですが、北品川にある原美術館もそうです。

そういう大作を設計した人ですが、自分で書き物などをしておりませんし、彼を論じたものも少ないせいか、余り知られていない。それがちょっと残念ですが、私は大変好きな人です。

ニューグランドの2階のロビーを見ればわかると思いますが、非常に設計の上手なデザイナーです。なぜ渡辺仁がここの設計をやるようになったのかは、調べてもわからない。ご存じですか。

業界にはほかに名の売れた建築家がずらっとおられたようですが、それほど有名でない渡辺仁さんを何で選んだのか。やや謎めいた感じですね。書かれたものを見ますと、清水組が非常に推して、ホテル経営会社設立委員会が起用を決めたということのようです。

松信まだ30代で受注されているんですね。

吉田そうですね、1887年生まれですから、ル・コルビュジエと同い年です。

38歳と言われていますね。

吉田今でも余り語られていませんが、建築界では非常に評価の高い人です。

世代的にも、辰野金吾などに代表されるいわゆるアーキテクトの第一世代と、丹下健三さんなどが出てくる間の、様式建築からモダニズムへの変わり目の微妙な世代なんですが、彼は両方をうまくやったと思いますね。その中では造形的な才能が非常にあるデザイナーだと思うんです。

「東洋的手法」で日本の第一印象を表現

ここのホテルは、アール・デコの味とか、においはしておりますか。

吉田アール・デコの建物ですね。典型的とまでは言わずとも、アール・デコの感覚があふれていると思います。

横浜は外国人が船でやってきて、最初の一歩をここにおろすわけですね。そのときにこれが東洋だという感覚を、非常に強い刺激を与える意味ではいかがですか。

吉田昭和3年の2つの建築の専門誌に同じ文章が出ていて、玄関とロビーについて、「左右の『ロッビー』は英国式雄渾快活なる色彩と細部に東洋的手法を配し日本の第一印象を附与するに努めたり。」とご本人が書いています。

入った瞬間に「これぞ東洋」というすごいインパクトを与えたのでしょうね。そういうモチーフが、まさにそこにあった。

吉田日本の第一印象を付与する具体的なものですね。大食堂は「一百余人の餐[さん]に足る純日本式殿堂風広間にして東洋芸術の粋たる桝組蟇股[ますぐみかえるまた]を配し丈余の腰羽目、二丈余の柱木割[きわり]に雄大荘重なる観を呈す」、そしてボール・ルームは「……仰ぎ見る大穹窿[だいきゅうりゅう]天井は推古芸術の粋を集めたる華雲棚曳[たなび]き云々」と書かれています。

桝組蟇股というのは何ですか。

吉田柱の上にあるのが桝組で、蟇股は、桁と桁の間にある、カエルが股を広げたような形の支えですね。お寺の軒を支える組物ですが、それを使って、外国人に日本の第一印象を与えようということでしょう。

土着のデザインを採用した日本版アール・デコ

本館の「フェニックス」ルーム

本館の「フェニックス」ルーム
ホテルニューグランド提供

松信フェニックスルームは神社仏閣の様式を取り入れた和風で、アール・デコとは違うような気がしますが。

吉田違いますが、アール・デコというのは土着のデザインをそれ風に、大きな枠組みのアール・デコの中に取り入れることを世界中でやっているんです。中南米ではマヤやアステカやインカ、オーストラリアやニュージーランドではアボリジニやマオリのデザインを取り入れる。だからその日本版と言えば、大きくはアール・デコでくくれると思いますけれども、細かく言えばやっぱり和風ですね。

セービンこれは天平時代をモデルにしているんじゃないかなと思います。

吉田日本の時代でいえば桃山時代でしょうね。

松信ロビーの吊り灯籠風の照明も特徴的ですね。

吉田はい。その材料の真鍮[しんちゅう]とかは照明器具にかなり使いますし、そのデザインは非常によくできていますね。

今お話に出たランタンですけれど、地震が来ると、やっぱり揺れるんですよ。心配で強度検査に私も2回ばかり立ち会いましたけれども、太い鉄の棒でボルト締めで、しかも全体が鉄筋で、そこに桁が渡っていて、それにぶら下がっている。ですからどんな地震でも落ちたりしない。

吉田ここは鉄骨鉄筋コンクリートなんです。鉄骨をかなり使っていますね。震災復興期の建物はみんなすごく丈夫なんですよ。

セービンかなり地震を意識したんですね。

吉田そうです。

シェフにはサリー・ワイルを起用

再来日したワイルとホテルニューグランドの料理人たち

再来日したワイルとホテルニューグランドの料理人たち
(昭和31年、ホテルニューグランドで)
ホテルニューグランド提供

松信ホテルは、料理も魅力の一つですが、ニューグランドにはサリー・ワイルという、すてきなシェフがいたと聞いております。

ホテルを計画して、建築が始まると同時に、そこに働く人間のキーマンが必要になります。「いろは」の「い」から養成するわけにいきませんから、どこからか連れてくるということになった。そこで井坂さんが真っ先に目をつけたのが、浅野総一郎さんが設立した東洋汽船のサンフランシスコ支店長だった土井慶吉さんという方です。すごくやり手で、なかなかくせのある人だったようですが、その道にかけては何でも知っている。その人を常務取締役として迎えます。

土井さんが、アメリカからヨーロッパ各国をずうっと回って、フランスの、名前はちょっとわからないんですけれども、四つ星ホテルの支配人をしていた、アルフォンゾ・デュナンさんという方を支配人にまず決めます。そのデュナンさんの推薦で、同じホテルで働いていた料理長のサリー・ワイルさんを連れてきた。最初はワイルさんも、島国の、まだ文明も高くない日本のホテルに来ることには不安を感じたようですが、実際に来てみて、非常にやる気が起きたということです。

カジュアルなメニューで人気を集める

ワイルさんは、日本のホテルの料理ではものすごく大きな足跡を残した。勲五等を授与されるほど、ホテル界に影響力を持った方です。

その頃は、ダイニングルームではコース料理で、ナイフとフォークできちんとえりを正して、礼儀正しくでした。それで、もっとカジュアルなものを持ち込まないと一般に普及しないだろう。あの方はスイス人ですから、隣国がドイツ、イタリアであり、フランスで、各国の料理が混在している。そういうのを見ているので、特にアラカルトに重点を置いて、たくさんのカジュアルなメニューをつくった。それが今まだ残っていて、うちの売り物です。

帝国ホテルとか、もっと古い立派なホテルはありますが、その中で、新しい、異色的な分野を開いたという意味で、非常に功績があった。お弟子さんも何百人もいて、東京オリンピックと大阪万博には、そのお弟子さんたちがお金を出し合って師匠を招待したんです。

セービンワイルさんは昭和21年にスイスに帰られたんですが、万博に招待されたときは、全国津々浦々のお弟子さんのいるホテルを泊まり歩いたそうですね。

もちろんここにも泊まるし、いろいろなところで旧交を温めた。人望も非常にあった方で、ホテルオークラを始め、東京プリンスホテルとか、ほうぼうの有名なホテルの料理長はみんなワイルさんの教え子なんですね。

英国の皇子ら数多くの賓客が宿泊

開業日の風景

開業日の風景
ホテルニューグランド提供

松信横浜に船が着くと、お客様が来る。戦前に来た方ですと、どんな方がいますか。

セービンチャップリンは1泊だけだったと思います。

そうですね。

セービンチャップリンは多分、翌朝、氷川丸で米国へ立ったと思うんです。船に乗ったところは割と詳しく書かれているんですが、ホテルニューグランドの宿泊に関しては、私は一度も文章を見たことがないんです。

来たことは事実です。我々のほうには、まず第一に賓客としては英国国王の3番目の皇子のグロースター公がどんちゃん騒ぎをやった記録が残っているんです。昭和4年、開業2年目です。昭和天皇の即位式にご名代で来日されて、公式行事の後、日光、箱根、京都など各地を回られて、帰る最後の夜を過ごされたのがここだった。

神奈川県庁でも大パーティをやって、かなり逸話があるようで、乾杯のお酒がポートワインから急に「スコッチ・ウイスキーでやろう」と言われたとか、非常にてんやわんやしたそうです。

その後、315号室、後の「マッカーサーの部屋」に戻られてから、随員と二人でドライマティーニを40杯と、ウイスキーを3本半あけているんです。それでけろっとして翌日発たれた。その間、うちのボーイはみんな直立不動で立っていて、フラフラになったそうです。

宿泊客にはベーブ・ルースやフェアバンクスも

ベーブ・ルースは、親善野球で来ていますね。余り細かいことはわからないんですが、一つだけ残っているのは、横浜の水がものすごくおいしいと言ってがぶ飲みをして、ついてきたマネージャーが、おなかでもこわされたらえらいことだとすごく心配をしたというんです。

「心の旅路」という昔の映画のロナルド・コールマンってご存じですか。彼もここに泊まった。それからダグラス・フェアバンクスも。日本に来た人は、みんなここで船から上がりますから、どうしてもここに泊まるわけですね。

セービン有名な女優のメアリー・ピックフォードも一緒だったでしょう。

大佛次郎が10年余り318号室で作品を執筆

松信日本人では開業当初から、作家の大佛次郎さんが利用された。

10年間にわたってここで作品を書かれ、気持ちを安らげられた。

松信ちょっと手前みそなんですが、本紙の昭和47年11月号、亡くなられる半年ほど前に、ニューグランドで座談会をさせていただきました。大佛先生と酉子[とりこ]夫人、ニューグランドから山崎保徳さん、以前勤められていた市川一郎さんに出ていただきました。市川さんは、『霧笛』にモデルになっていらっしゃる。その中で、なぜニューグランドに泊まるようになったか、大佛先生ご自身がお話になっているんです。

大佛次郎と酉子夫人

大佛次郎と酉子夫人
有隣堂蔵

お話では、「ちょっと親類のトラブルがあって、金をもらいにくる兄貴がいるので、最初は帝国ホテルに行ったんだけど、落ちつけなかったんです」。『赤穂浪士』を書いていたときで、昭和4、5年だそうです。酉子夫人は、お客様はみんな外国人ばかりで日本人はほとんどいなかったと話されているんです。

“鞍馬天狗”の部屋というのがあるんです。318号室です。朝・昼・晩、いろいろ楽しんでおられたようですね。名前の出た山崎さんは私も晩年まで知っていたんです。その人が部屋づきのボーイで、ものすごく気がきく。大佛さんが鎌倉から来られて部屋に入ると、小説を書く態勢がちゃんとできていて、それで昼はずうっと仕事をされて、ご飯は中華料理が非常にお好きで、その当時、聘珍楼とか、華勝楼とかが行きつけだったそうです。

夜は本牧のチャブヤにも足を延ばしたようですね。もちろんその当時のチャブヤは外国人相手で、『霧笛』に出てくるお花さんという女性は本牧のチャブヤの女性たちがモデルだと、ご自身で書かれている。

書き、食べ、休み、楽しみ、ここの食事も気に入っていた。うちのシーガーディアンのバーカウンターでの写真がありますね。横顔なんかなかなかいい男で、外国人の中でもひけをとらない感じですね。

松信当時の中華街は、今みたいに安全じゃないので、「ポンコツ横丁」に行くときは、ニューグランドの方が暗いところに立っていて、何か危険があると出てきてくれたと話されています。

そうですか。本当に大佛さんご自身のお話ですね。318号室はマッカーサーの部屋の隣の隣です。

昭和48年にがんセンターで亡くなられて、東京から鎌倉の雪ノ下のご自宅に帰られる途中で、ここに車を横づけにして、しばしこのホテルに別れを告げ、従業員もお別れをしたんですね。

マッカーサーは第2次大戦前に新婚旅行で投宿

松信第2次大戦中は営業もままならなかったようですが、幸いここは、米軍が戦後に使うために空襲の標的から外されていた。

吉田占領してきたら場所が要る。ピンポイントで鎌倉の洋館なんかも残してある。情報量が全然違うんですね。向こうはすでに、占領後にどこを将校の住宅にするとか調べていた。

セービンニューグランドもそれで残したという記録がありますね。マッカーサーは、まだマニラにいるころ、日本ではホテルニューグランドに泊まりたいと、もう指名していた。以前に泊まったことがあって知っているんですね。

2度目の奥さんのジーンさんとの新婚旅行でここへ泊まられた。

セービンでも、マッカーサーは厚木から来る途中で横浜の瓦礫を見て、このホテルがあるはずがないと思った。米軍が残しているのを知らなかったのかもしれません。残っていたのでびっくりした。

松信昭和20年8月30日に進駐したマッカーサーと野村洋三さんとのエピソードがありますね。

セービン進駐軍の指揮官としてやってきたマッカーサーを、野村さんが出迎えた。マッカーサーに「あなたは何年このホテルに勤めているのか」と聞かれて、野村さんが「勤めているのではなくて私はオーナーです」と言い返したというんですね。

野村さんは本町通りで古美術を扱うサムライ商会を経営し、その特徴ある建物で評判だったんです。昭和13年に2代目の会長になった。

ニューグランドを出るマッカーサー

ニューグランドを出るマッカーサー
米国防総省蔵

マッカーサーたちに出した食事は、「冷凍のスケソーダラ、サバ、酢をかけたキュウリ」だったそうです。スケソウダラは私も覚えていますけれども、食べられたものではないんですよ。腐らないように処理してあるので、アンモニアがツーンとくる。仕方なく食べていたんです。マッカーサーは一口食べてあとは残したというのが有名ですね。

2代会長野村洋三はマッカーサーに食糧事情を直訴

野村洋三

野村洋三

野村さんはマッカーサーに市民の食糧事情を直訴したという話もあります。

セービンマッカーサーは朝食に卵を2つ食べる習慣があった。着いた翌朝の食事に卵が1つしかない。もう1つは、と聞いたら、前夜、皆が横浜中を探して1つしか見つけられなかったと言われて、日本はこれほど食糧が不足しているのかと初めて認識した。戦争に勝って進駐軍として入れば食料も地元からとりたい放題ですが、これから進駐軍は現地の食料を食べてはいけないという命令を出したんです。

この中で当時を知っているのは私だけだね(笑)。アメリカ人は本当にジェネラス、寛大な人種だと思いましたね。食糧のない時に物資を贈ってくれたりして日本人を逆に助けてくれたという恩義があるから、戦勝国、戦敗国という意識は全然残っていない。そんなだったから負けたと言う人もいますが……。

野村洋三さんは「ミスター・シェイクハンド」とも呼ばれて、若い頃、アメリカに行って皿洗いから全部やった人で、私も時たまお目にかかりました。発音は日本式な感じですが、しっかりした英語を話される。マッカーサーはそういう方に対するリスペクトは非常にしたと思うんです。

身代わりに捕虜になったウェンライトと再会

ニューグランドで食事をするマッカーサーと幕僚たち

ニューグランドで食事をするマッカーサーと幕僚たち
米国防総省蔵

松信マッカーサーはここに滞在中に、日本の捕虜だったウェンライトと再会していますね。

セービンウェンライトはフィリピンのマニラ湾のなかのコレヒドールという島にいて、反対側の半島にマッカーサーがいた。日本軍がどんどん攻めてきて、米軍は食糧もないし、もう終わりとわかっているんですが、当時のルーズベルト大統領はどうしてもマッカーサーを助けたい。マッカーサーが日本軍の捕虜になったら、日本はものすごく宣伝に使えるでしょう。それで米軍は彼をオーストラリアに脱出させます。

身代わりとして残ったのがウェンライトで、彼は降伏した。洞窟から出て白い旗を振っている有名な写真がありますね。それで中国に連れて行かれて捕虜になった。当時の中国の監獄はひどいものだと思うんですが、3年間そこにいました。

それでやせ衰えてね。だけど、ミズーリ号での降伏文書調印のときには、パーシバルとウェンライトが一緒にいた。その辺の演出がなかなかのものですね。また、調印の日の夜、ニューグランドの第二別室で将軍たちと一緒に食事をしている写真が残ってます。

セービンウェンライトは終戦になってマニラへ連れて行かれ、特別機でミズーリ号の調印式に間に合うように日本に来ました。ウェンライトには、戦わずに降伏した自分が悪いという意識があって、肉体的にも精神的にもずっと苦しんでいて、「私は負けてしまった」とマッカーサーにわびた。マッカーサーはいいよと。またいつでも元の軍団に戻れると言った。

吉田逆にマッカーサーが謝らなきゃいけないのにね。

松信マッカーサーがニューグランドに滞在したのはどのぐらいなんですか。

たしか5日じゃなかったかと思います。それで山手のマイヤー邸に移った。

GHQが東京に移ってからは進駐軍のクラブに

松信9月17日に、GHQは東京の第一生命館に移りますが、その後、ニューグランドはどうなるんですか。

セービン進駐軍のクラブになります。

婦人宿舎でもあったわけでしょう。従業員はもちろんそのままで、終戦直後は従業員は25、6人しか残っていなかった。いずれにしても、接収中もキッチンを動かし、すべてやっていた。

セービンレインボーボールルームでは映画をよくやったようです。アメリカ人はピーナツを食べながらモンローとかのロードショーを見たんじゃないですか。従業員はわきからちらっと見たかもしれない。ダンスもあって、東京キューバン・ボーイズというバンドが出ていた。

有名なバンドです。見砂直照[みさごただあき]ですね。

セービン月と木は映画、水曜日と土曜日は東京キューバン・ボーイズの演奏で、火曜日はビンゴ。パームルームというパブもありましたね。そこで進駐軍はカップルでダンスを踊った。

パームルームというのは、レインボールームの左側で、今は中庭に広げてしまったのですが、非常にしゃれた建物だった。

セービンパーム、椰子の木もあるスペイン風の建築だったらしい。進駐軍時代はスタッフも大変だったようで、軍ですから、朝から床をピカピカにみがかないとだめですね。夜まで進駐軍の世話をして、スタッフは大変こき使われたらしいです。

それでも、いいことが2つあった。清潔と安全です。日本人はきれい好きといわれますが、軍隊は清潔さにとても厳しいんです。私も軍艦で経験がありますけど、ごみがない。スタッフは清潔ということを再認識したらしい。

安全では、当時のエレベーターのことを勉強させるために、根岸の競馬場に行かせたらしいですね。

接収解除後にJ・H・モーガンがルーフガーデンを設計

松信接収解除されたのはいつですか。

昭和27年の6月です。進駐軍が使っていたため客室や内部の装飾が汚れていて、従業員が懸命に清掃と整備にあたったようです。

吉田5階にルーフガーデンがつくられたのもこの時期ですね。

そうです。港の眺望が楽しめる、ホテルの目玉となりました。

吉田この増築を担当した建築家がJ・H・モーガンです。山下町にあった大沢工業のビルや山手の根岸競馬場の建物、関東学院中学校の校舎などを設計した横浜に深い関わりのある人です。モーガンは、大正9年に日本フラー建築会社の設計技師長として来日し、東京の丸ビルや日本郵船ビルなどを建てています。

渡辺仁が1924年(大正13年)に立憲政友会本部を設計したときの記録にモーガンの名が併記されていて、共同設計か何か、手伝ってもらったようです。2人は大正13年ころ知り合っている。

恐らくそれは事実だと思います。

吉田だから、増築はその関係じゃないかと思います。しかもモーガンはこの時期、横浜の山下町に事務所を開いていたんです。

新館はヨーロピアンエレガンスを志向

新館の「ル・ノルマンディ」

新館の「ル・ノルマンディ」
ホテルニューグランド提供

松信新館のコンセプトはどんなものだったんですか。

これは非常に悩ましいところでした。古典的なものを売り物にしようとしても、ここに許されたスペースとボリュームでは経済的にも到底不可能ですし、どっちみちものまねの域を出ないでしょう。当時の物々しい豪華なものは逆立ちしてもできない。

それでいろいろな人と相談して、コントラストでいこうじゃないかと。21世紀を象徴するようなものとどうやって調和させるか。旧館ができたときの宿泊客は外国人が8〜9割だったのが今は逆なんです。8〜9割が日本人で、十何%が外国人。それでは新館は逆に日本人の印象に残る西洋志向、ヨーロピアンエレガンスでいこう。余り重々しくなくて、海に面していることを感じさせるようなデザインにしようということで、フランス人のデザイナーに依頼しました。

松信新館のメインダイニングのノルマンディは、船をイメージしているんですか。

デザインはピエール・イヴ・ローションというフランス人です。フランスの豪華客船ノルマンディのダイニングルームはどんなものかと彼に言ったら、写真をすぐ取り寄せてくれたんですが、今、日本で言えばマキシムとか、ああいう重々しい感じ。日本人の我々が気楽に食事をする雰囲気じゃないわけです。だけど、ノルマンディは船の名前でもあり、ノルマンディ地方はフランスの食物の非常に豊かな地方なんです。その意味と、海に面しているから、船の感じをということでデザインされたものなんです。

2階に上がると開放的な空間が劇的に展開

松信吉田先生はニューグランドの魅力をどういうふうに感じられますか。

吉田クラシックホテルということですね。2階に上がるのが何といってもいい。ルネサンス以来の古いものを踏襲しているんじゃないかと思いますが、格好いいですね。1階が地階のようで、2階以上が主要階というスタイルを踏襲していて、トラディショナルな感じだなと、まず思いますね。ちょっと押しつぶされたようなところから、開放的な空間が劇的に展開するところは、建築家がすごく上手だなと思います。

最近、若い方が新館から旧館に来ると、天井が非常に低いので、「随分低いね」と言う。背の高い人だったら頭がつっかえてしまいます。低いはずなんです。途中でダクトを入れたこともあるし、我々はその頃のことをよく覚えているんですが、1階の中庭に面したところは汽罐[きかん]場、ランドリーと、トマース・クックのショップもあったけれども、いわゆる営業部分では全くなかった。

吉田サービス部門でしたね。

そうです。

戦前の雰囲気を残している唯一のシティホテル

吉田今、リゾートホテルは幾らか戦前のものが残っていますけれども、シティホテルはほとんどありませんね。

ここが唯一です。

吉田そういう意味ではものすごく貴重で、ちょっと日本離れしたような、戦前の都心のホテルの雰囲気を味わえるのはここしかない。

今おっしゃったことがまさに我々が今後生きていく方途だと思うんです。新しいホテルがどんどん建つでしょう。中は立派だし、部屋は広いし。新館のほうはそれに近いんだけれども、吉田先生がおっしゃったような本館の持つ雰囲気とか、建てつけ、そういうものを大切に保持していきたいと思います。

今だから申し上げますが、20年前に新館を建てるときに、極端なことを言うと、旧館を壊して一緒に建てたらどうかという意見もあったんです。というのは、相当荒れてもいましたし、数字では申し上げかねるんですが、旧館と新館をつなげるのは、大変なお金がかかったんです。だけど、それは損得の問題じゃない。逆に残れば残るほど価値がだんだん出てくる。これからは子々孫々に大切に伝えながら保持していって、それが今度はその時代のニューグランドを支えるものになる。そういう気持ちなんです。

古い居留地時代を感じさせるのが本館の魅力

松信本館は市認定の歴史的建造物になっていますね。

吉田はい。国の文化財になる可能性も、あると思います。

松信横浜に居留地があったという流れもありますね。

吉田そうですね。居留地に直接つながるものではないけれども、雰囲気を残しているのは、やはり昭和初期の横浜開港資料館とここですね。

渡辺仁の横浜の作品は、宇徳ビルという角のちょっと丸くなった船の舳先みたいな、いい建物があったんですが、今はここだけだと思います。

横浜の昭和初期の建築には日本郵船ビルなど、立派なものがありますが、建築家の力量から言えば、ニューグランドのほうが格は上だと思います。建築家の才能とか品格からいってもはるかにいい。

セービン1899年の条約改正で居留地がなくなり、その雰囲気は四半世紀後の震災でなくなった。居留地制度は、日本人にとって屈辱のところもあったけれど、古いヨーロッパ風な町が日本にあることは、ある意味でよかったんですね。日本人もそれを感じた。それをできるだけ再現しようということも渡辺さんはあったと思うんです。本館のロビーに入るとそれがわかるんですね。古い居留地を感じるところはここしかないんじゃないでしょうか。

大きな窓を通して海を見ると、一気に私はそれを感じます。そういう場所をニューグランドに残していただいて、すごく貴重なことだと思っています。

松信どうもありがとうございました。

原 範行 (はら のりゆき)

1929年パリ生れ。

吉田鋼市 (よしだ こういち)

1947年兵庫県生れ。
著書『西洋建築史』 森北出版 2,400円+税、『ヨコハマ建築慕情』 鹿島出版会 2,800円+税 ほか多数。

Burritt Sabin (バーリット・セービン)

1953年ニューヨーク市生れ。
著書『A Historical Guide to Yokohama』 有隣堂 2,500円+税

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