Web版 有鄰

467平成18年10月10日発行

[座談会]京浜工業地帯の父 浅野総一郎の軌跡

専修大学教授/齋藤 憲
駒澤大学助教授/渡邉恵一
横浜開港資料館調査研究員/松本洋幸
有隣堂社長/松信 裕

右から渡邉恵一・齋藤憲・松本洋幸の各氏と松信 裕

右から渡邉恵一・齋藤憲・松本洋幸の各氏と松信 裕

はじめに

安善町 昭和初期

安善町 昭和初期
東亜建設工業株式会社蔵

松信横浜、川崎、東京に広がる京浜工業地帯には、浅野総一郎を中心とした実業家たちが、明治、大正、昭和にかけておこなった臨海部の大規模な埋立事業によって、重化学工業などの企業が次々と進出し、日本屈指の工業地帯を形成しました。

浅野総一郎は嘉永元年(1848年)現在の富山県に生まれ、上京し、若くして石炭・海運業を始め、セメント事業の設立など、数多くの事業を立ち上げて、「京浜工業地帯の父」とも言われました。

本日は、浅野の生涯をたどりながら、彼の実績と幅広い人脈などをご紹介いただき、京浜工業地帯の成立期の様子についてもお話しいただきたいと思っております。

ご出席いただきました齋藤憲先生は、日本経営史がご専門で、専修大学経営学部教授でいらっしゃいます。ご著書に浅野総一郎の生涯を描いた『稼ぐに追いつく貧乏なし』(東洋経済新報社刊)がございます。

渡邉恵一先生は、近代日本経済史・交通史をご専攻で、駒澤大学経済学部助教授でいらっしゃいます。ご著書に、『浅野セメントの物流史』(立教大学出版会刊)がございます。

松本洋幸先生は、横浜開港資料館調査研究員で、横浜周辺の地域史を研究されていらっしゃいます。『横浜近郊の近代史』(共著・日本経済評論社刊)に論文がございます。

富山県で医者の子として生まれる

浅野総一郎

浅野総一郎

松信浅野総一郎はどんな家に生まれたんですか。

齋藤1848年に、現在の富山県氷見市の医者の長男として生まれます。別の町医に養子に出されたり、その家を出たりと、いろいろあったようですけれども、とにかく子供のころから事業活動が非常に好きだったようです。

松信17歳で商売を始めますね。

齋藤当時は事業をすること自体、商人階級でないところから出てくるのは非常に少ない。そういう才覚を持っていたんだと思うんです。

でも、それも全部失敗するんです。「三つ子の魂」といいますが、そのころのプロセスが、一生にわたっての彼の事業活動の性格みたいなものを表現している。彼は、大きな財産をつくりたいというよりは、事業をすること自体が非常に好きで、逆に困難というものに直面したときに、それをどう乗り越えるか。実際は乗り越えられなくて、年中、失敗してしまうんですが、それが彼にとっての一番楽しみだったのではないか。

その姿が、子供時代にすでにあらわれていて、事業をどんどん広げては、資金が不足してつぶれてしまう。その繰り返しで、やがて夜逃げ同然に、今の東京の御茶ノ水のあたりへ出てくる。

失敗から学ばずに先駆性を持って事業活動を展開

齋藤経営学でいう、経営財務論みたいな考えはないんです。お金は後からついて回ってくる。あるいは事業をやって成功したら、いかに相手を説き伏せて金を集めるかという発想が一生涯続く。

ただ、セメント業界などで常に先頭を突っ走っていけるのは、新しい時代のセメントはどういうものになるかという考え方みたいなのが、常に同業他社の先を行っていたわけです。そういう意味では先駆性みたいなものを持っていて、それがうまく出れば事業活動として成功するけれど、悪く出ればマイナスになってしまう。

ふつうは、これ以上やったら失敗すると思えば、恐らくもう事業活動は続けないでしょう。彼は子供のときに、常にお金が不足して失敗していますから、そこで学ぶんだろうと思うんです。ところが、この人は学ばなかったんですね。そこが逆に言うと、総一郎が巨大な人間になった一つの理由なのではないだろうかという気もいたします。

例えば京浜工業地帯などはインフラですから、本来は国家とか地方財政などが担当する分野ですね。それを私企業として財界から金を集めてつくってしまうというのは、利益の出る可能性が薄いから、普通の人は手がけない。このような取りとめのないというか、むちゃくちゃなことをやってしまう性格が、逆に現在の神奈川県なり、あるいは川崎とか、横浜にとっては決定的な意味を持っていたのかなという感じがいたします。

元手のいらない「水売り」で事業を再スタート

松信夜逃げ同然で上京してきて、元手のないところから商売を始める。

齋藤それが明治4年(1871年)ですね。お母さんが持たせてくれたわずかなお金だけで逃げてきますから、資本金がない。それで「冷っこい冷っこい」と言って、茶わん一杯いくらで砂糖水を売っていた。下宿屋の主人の大熊良平に、「金がないんだったら、水売りをやったら」と言われ、彼の事業活動が再スタートします。

この商売は、砂糖のかたまりと、御茶ノ水付近の神田川から水を汲んでくる桶とか、売るための茶わんとか、そういうものしか資本はかからない。あとは冷たい水を汲んでくる自分の労力だけでいいわけです。

一銭ぐらいの値段で、水を売る。これがかなりの利益を出しまして、一日に40杯ぐらい売れたというんです。そのお金で賄いつきの下宿屋の下宿代を支払って、なおかつお金が何円か残った。それを蓄えて次のステップへ向けようと考えるわけです。

ところが、冷たい水が売れるのは夏だけですから、冬になると今度は竹の皮を売るんです。当時は竹林があっちこっちにあったでしょうから、元手はかからないうえに、当時は味噌などを包むために需要があった。

男の子を一人雇いまして、満足に寝もしないで竹の皮を延ばして、それをまとめて売ったところでたかが知れていたと思います。

総一郎は、最底辺のところまで落ち込んだわけですね。その結果、自分は何をやっても、そこからはい出すことができるということを学んだのではないでしょうか。

公衆便所をつくり、くみ取り料でもうけ社会問題も解決

松信それから横浜に移ってくる。

齋藤横浜で、薪炭や石炭の店を開くんですね。その中で、何でも売れると言ったら神奈川県の野村靖県令が「じゃ、人間の残骸は売れるか」と言った。売ってみせるといって、人糞を売るわけです。

2,000円を神奈川県から借りて、公衆便所を63か所つくるんです。当時のお百姓はそれが肥料ですから、汲み取り料を月に200円ないしは350円で下請に任せる。1年で2,400円になって、神奈川県から借りたお金が返せて、利息がつく。10年間の契約ですから、24,000円を最低でももうけた。実際には需要がふえて値上げもしていますから、もう少しもうけたと思いますが、これによって、道端で平気で用をたすという社会的に見苦しい問題を解決した、と総一郎自身が言っています。そのうえ、利益を出した。何でも売れないものはない。商売はものの見方さえ変えれば、何でもできるということなんですね。

渋沢栄一

渋沢栄一

それを別の面から見れば、これは渋沢栄一の影響だろうと思いますが、国家のために事業をすることになったときに、人ができないことでも自分なりの算段を用いれば、それを事業化して黒字にできるだろう。それを自分はやるんだという考えになったのではないでしょうか。

廃物のコークスやコールタールを転売して利益を出す

松信そのほかにも、廃物利用の商売をいくつもやっていますね。

齋藤はい。例えばコークスなどは、横浜の瓦斯局に、石炭からガスをとった残りのコークスを処分できずに置いてある。そのコークスは本当に使えないのか、深川のセメント工場にいた知人の技師に確かめてもらったら、役に立つと言われ、それを転売して利益を出した。

コールタールも、同じように廃物として出るんですが、当時はコレラがはやって、たくさんの人が死んでいた。その消毒にコールタールからとった石炭酸が必要だということがわかって、大蔵省衛生試験所が探していることを聞いて、これも転売して、利益を上げた。

総一郎は、恐らく彼のことですから、「お国のためになるなら」と言いながら、買い値の2倍か3倍で売って、利益も出したのだろうと思いますよ。

セメント業を官営工場の払い下げを受けてスタート

浅野セメント深川工場 大正5年

浅野セメント深川工場 大正5年
『百年史 日本セメント株式会社』から

松信浅野は王子の抄紙会社(後の王子製紙)に出入りするようになって、明治9年(1876年)に渋沢栄一と知り合い、セメント事業に関わっていくんですね。

渡邉セメント事業は浅野にとって非常に中心的な事業で、今は合併してしまいましたが、浅野セメントの系譜を引く日本セメントは1998年までは日本最大のセメント会社でした。

浅野の事業はトップメーカーは少ないんですけれども、セメントに関してはトップであり続けたんです。

浅野のセメント事業は、官営工場の払い下げを受ける形でスタートします。深川にあったセメント工場は、政府が近代的なモデル工場として設置した割にはなかなか効果が上がらずにいました。明治14年の政変で松方財政が出現して、緊縮財政を展開する中で工場払い下げ政策が本格化していきます。

誰に払い下げるかというとき、工場にコークスを納入していた関係で浅野総一郎が候補の一人に挙がり、渋沢栄一の紹介を経て、払い下げられることになりました。明治16年(1883年)の4月にまず貸し下げという形で浅野の手に渡り、翌17年7月に正式に建物、土地の払い下げが認められ、浅野セメント(当時の名称は浅野工場)が誕生します。

もっとも、当時のセメントは、レンガや石積みの建物の目地、接合剤として使われていて、石灰などと競合関係にある商品でした。

1880年代後半にセメントの需要が広がる

渡邉その後、1880年代の後半の企業勃興期になると、紡績会社とか鉄道会社とか、近代的な株式会社があちこちに出てきます。特に鉄道が出てくると、セメントの需要が広がって、土木工事にも使われるようになる。私が重要視しているのは、その後に出てくる築港工事で、横浜が代表的なんですが、防波堤をつくるためにコンクリートを固めて沈めていくという用途が出てきます。

築港工事によってセメント市場はもっと大きなものに広がって、それに乗る形で浅野セメントはビジネスチャンスをつかんでいくわけです。

ただ、当時の国産品の中には粗悪セメントみたいなものもまだ多かった。横浜の築港工事などは入札工事でしたから、落札価格の安さだけで受注するメーカーもあって、コンクリートの亀裂という問題が起きたりしましたが、そうしたなかで浅野セメントは、品質のよさというので信頼を得ていく。その信頼がさらに鉄道とか、築港とか、ここぞというときの工事に浅野に指名が下るようになっていきました。

青梅鉄道に出資し原料調達ルートの確立をはかる

渡邉セメントの生産を支えるには当然、原料となる石灰石の供給システムが必要なんですが、これも当初は工部省の工場と同じように、栃木県の葛生という産地から渡良瀬川、利根川などを使って深川まで運んでいた。ところがセメントの生産が大きくなっていくと、そういう近世的なやり方では原料の調達が間に合わない。新たに独自の安定した原料調達手段が必要となってくるのです。

そこで浅野は、東京の西多摩のほうで、地元の資産家たちと共同で、石灰石の採掘と輸送をおこなう事業をスタートさせます。青梅鉄道、今の青梅線がそれですけれど、鉄道という近代的な輸送手段を使った原料調達ルートの確立を図る。こういうことも同時にやりながら、セメント事業を拡大していきました。

松信輸送手段もつくってしまったわけですね。

渡邉実はこの地域の石灰石は近世にも使われていて、江戸城をつくるとき、漆喰にする石灰は、ここから馬の背に積んで江戸まで運んでいました。その道が青梅街道になるんですが、後に、栃木の葛生のような河川舟運や、高知のような海運が使える産地が出てくると、輸送の便が悪いということで、幕末までに衰退してしまったんです。

明治になって、セメント原料という新たな需要が出てきて、西多摩の資産家たちがこれを再開発しようという動きがあって、ちょうどそれに乗っかる形で浅野もそれを自らの工場の原料にスイッチしていくわけです。

石炭を運ぶコストを下げる目的で海運業にも進出

松信石炭業とか海運業も渋沢との絡みで始める。

齋藤横浜に移って、いろいろなことをやって、一人前の商人になったとき、彼が始めたのは石炭商でした。生涯を通して一番大きな事業は明らかにセメントですが、そもそもの事業の中心は石炭で、彼の基本だと思います。

渋沢栄一に認められるのも石炭商としての活動でした。渋沢と浅野は金を出し合ってあちこちの石炭事業を進めていく。成功例の一つは明治17年(1884年)に創立された磐城炭礦ですね。質は必ずしもよくなくて、普通の家庭で暖房用に使う炭が中心だったそうですが。

海運業に出ていったのも、自分が売りたい石炭を、日本郵船が完全な独占で高い値段でしか運ばない。小さな船でもいいから自分で持って、それで石炭を運んで物流コストを下げたいというのが第一歩だったと思います。それがやがて外洋に出ていって、さらに大きな船会社をつくるという考えになり、東洋汽船という会社になっていく。

事業を多角化するときも、水力発電や石油事業など、エネルギー産業ということでは同じ系列ですから、石炭は彼にとってかなり重要な意味があったんだと思います。

渡邉石炭は重量貨物で、しかも、運賃負担力が低い商品です。セメントも、原料である石灰石は重量貨物で運賃負担力が低いので、それをどう調達するかということがセメント業の経営では非常に重要だし、製品のセメントも値段の割には重くてかさばりますから、これもどうやって市場に持っていくかというのを常に考えなければいけない。

セメント業で、原料調達に関連する鉄道会社に浅野が投資していくように、石炭の場合も、浅野回漕部といった海運会社を興していく。そういう連関は商品の特性にある程度規定されるところがあるかなと思います。

欧米の港湾を見て京浜工業地帯を埋め立て

松信それから埋立事業を展開していくわけですね。

松本東洋汽船を明治29年(1896年)に設立し、浅野自身が航路選定と汽船購入のために欧米に行って、日本の港湾との格差をすごく感じた。

一番の違いは当時の日本は直接係船岸壁がなく、常にはしけに頼っている状態だった。ところが黒海の港とかドイツのハンブルグ港では、汽船が岸壁に接岸して、そこからベルトコンベヤーで小麦、大豆などが直接船に積み込まれている。それを見て、浅野自身が非常に啓発され、京浜工業地帯の埋め立てに乗り出す一つの大きな契機になったと、彼自身の回想にも出てきます。

一方で、深川の工場で、セメントを焼くときに出る粉じんが降灰して、周辺の住民との間で緊張が高まっていた。結果的には粉じんを抑える設備が整って移転はしませんでしたが、次の工場の場所を探すという経緯もあった。浅野も川崎の地先から隅田川の河口ぐらいまでを自ら歩いて、川崎から鶴見にかけての臨海部が埋立地として適しているということで、明治45年(1912年)に鶴見埋立組合をつくり、大正2年から埋め立てを始めます。

埋め立て自体は、もちろん明治期にも横浜周辺で行われていて、明治20年代終わりから30年代ころまで、埋め立て熱は全国的にかなり加熱していました。ただ、当時の埋め立てはかなり投機的な意味合いが強かった。工業地帯にしようという明確な目的で始めたのは、浅野が初めてではないかという気がします。

これが京浜工業地帯の中核になります。150万坪ほどの広さで、民間でこれほど大きな埋め立てをするのは、当時でも非常に画期的でした。

産業立地を考えた先見性のある埋め立て

齋藤経営史の立場から見ますと、浅野の埋め立ては、それまでの埋め立てと明らかに違うんです。まず、工業地帯という認識を持っていることが大きい。港をつくることはどこでもやっているわけですが、単に埋め立ててハーバーをつくればいいという発想から、産業立地を考えるところに方向転換するときに、浅野の先見性が出てくる。

松信安田善次郎の後押しが大きかったんですか。

齋藤これからの日本は、産業が重要である。産業国家としてこういうものが必要なんだ。それが恐らく安田善次郎に出資を納得させた大きな要因だったと思います。

鶴見の埋立組合にお金を出す横浜の人たちには、ここに大きな工業地帯をつくるんだと言うわけです。その一部としてもちろん浅野セメントも来る。そういう戦略性みたいなものが非常に際立っていたがゆえに、安田善次郎も、渋沢栄一も、横浜の豪商たちもお金を出す。徳川家もお金を出していますね。

出資者をそれなりに筋の通る形で納得させる。そこに総一郎の事業家としての一番大きなプラスの側面があった気がします。

動力と輸送路など一種のシステムとして工業地帯を開発

鶴見埋築株式会社の電気サンドポンプ船・鶴見埋築株式会社変電所

上:鶴見埋築株式会社の電気サンドポンプ船 大正6、7年ころ
横浜開港資料館蔵

下:鶴見埋築株式会社変電所(藤沢市長後) 青木宗茂氏蔵

渡邉単に地面をつくるだけではなくて、防波堤をつくって、大型の船が止まれるように浚渫もする。埋立地同士の間には運河も掘る。埋立地の中には、幅の広い道路を設けますし、鉄道も東海道本線と連絡するような鉄道を敷く。それから電力も工業地帯の中に引き込む。工業用水も供給する。

浅野の埋め立ては、動力とか輸送路の提供も含めた一種のシステムとして工業地帯を開発、分譲します。こういう考え方はそれまでにない画期的なやり方でしたが、全部ワンセットでやろうとしたところに、浅野の計画の難しさがまたあって、今日、埋立事業を民間で丸ごとやっていないというのも、そのあたりに起因するところがあります。

松本自分で何でもそろえてしまうというのが、浅野の特徴ですね。埋め立てだけではなく、自分で水力発電所を足柄上郡の落合に設けて、そこから引いてくる。

インフラは、公がやるべき部分が非常に大きくて、彼が一番苦労したのが水道ではないかと思います。大正6年に造船所を開業させると、彼は私営の橘樹水道を申請するんですが、営業開始は昭和4年までずれ込んで、最終的には横浜市から給水を受ける形で会社も買収されてしまう。インフラ整備の難しさを感じますね。

松信藤沢市長後の鶴見埋築会社の絵はがきがあるんですが、ものの本によると、丹沢の奥のほうから水力発電の電気を引いてきて、長後に変電所をつくって、川崎の埋立地へ電力を供給していたそうですね。

松本鶴見埋築会社は埋立組合の事業を引き継いで、浅野が大正3年に設立した会社です。

齋藤埋め立て以上に、当初は大きな利益を出していたのが水力発電だった。そういう複合的なものの見方ができたから、こういうインフラをやることができた。

第一次大戦後に埋立地に本格的な鉄道を計画

松信鉄道はどんなふうに整備されたんでしょうか。

渡邉電力や鉄道については、埋立地に付加価値がついて、より高く売却できると同時に、より多くの企業が関心を持ってくれると考えていたのではないかと思います。ただ、微妙な違いがあって、例えば電力は、全部自前で供給できるとは浅野も思っていなかったみたいですね。

鉄道も、最終的には浅野総一郎が社長を務める鶴見臨港鉄道という会社をつくりますが、最初から自前でやろうとしていたわけではなくて、まず国有鉄道に、川崎駅から支線を引いてもらう陳情をします。建設費は浅野セメントと日本鋼管の負担です。開業後には一定の貨物輸送が必ず確保されるからと、当時の鉄道院の担当者と交渉して貨物線を建設してもらうんですが、鉄道が来たのが今の浜川崎のあたりまでで、結局、埋立地の入り口までしか誘致できませんでした。

浅野造船所 大正6年ころ

浅野造船所 大正6年ころ
JFEエンジニアリング株式会社蔵

ですが、当時の埋立地は実際には余り多くの企業には売られておらず、浅野造船所、製鉄所、浅野の次女が嫁いだ白石元治郎が社長の日本鋼管など浅野の関連会社ばかりで、一番大きい造船所がかなりの敷地を占めていました。ですから、鉄道の出る幕が当初はなかったんですね。

大戦ブームで造船所を拡張する、あるいはそれに関連して製鉄所をつくるという事情の中で、内部向けの販売になっていたんですが、大戦が終わると、一般の企業に売却しなければいけないという時期になってくる。それには鉄道網も敷かなければならない。これも当初は鉄道省に、今度は浅野だけではなくて、埋立地に進出する企業も分担する形で建設費を出すことを提案するんですが、その提案の最中に関東大震災が起きて話がストップしてしまうんです。

関東大震災が工場誘致のターニングポイント

鶴見・川崎地先埋立図 大正14年ころ

鶴見・川崎地先埋立図 大正14年ころ
東亜建設工業『東京湾埋立物語』から
(※クリックで拡大)

渡邉実は関東大震災は、京浜工業地帯の形成の重要なターニングポイントでした。それまで工業地帯は、どちらかというと東京の深川とか本所とかのほうが、伝統はあるし、便利な場所だと位置づけられていたんですが、そういったところが震災によってかなり壊滅的な打撃を受ける。もちろん浅野の埋立地も震災の影響を受けますが、東京よりも比較的被害が軽微で、防波堤がちょっと壊れたという程度で、地面自体がどうかなってしまうということはなかったんですね。

鶴見臨港鉄道浅野駅 大正14年

鶴見臨港鉄道浅野駅 大正14年
鶴見臨港鉄道株式会社蔵

震災後、埋立地は浅野にとってはまさにビジネスチャンスになる。鉄道省に陳情して建設を待っているよりは、沿線企業なども誘って自ら出資してつくってしまったほうが埋立地の地価も上がるし、工場誘致も期待できるということで、震災の翌年の大正13年(1924年)の2月に鶴見臨港鉄道の免許を出願し、4月には免許がおりています。開業はその2年後の1926年の春です。それが今の鶴見線になります。

松信鶴見線には人名のついた駅が多いですね。

渡邉浅野とか白石(元治郎)、安善は安田善次郎、大川平三郎の大川、後に延長線が扇町まで延びますが、扇は浅野家の家紋です。末広町も扇の末広がりで、あのあたりの地名は全部、浅野に関連した名前が冠せられています。

松信埋立地に進出した工場は、どういう会社だったのですか。

齋藤鶴見埋築組合を創業とした東亜建設工業の「鶴見・川崎地先埋立図」を見ますと三菱石油、東京電灯、日清製粉、日本石油、東京瓦斯、沖電気、旭硝子などがあります。芝浦製作所がきて新芝浦の駅ができる。あとは富士電機製造などですね。

漁業関係者など地域の人々との交渉がうまかった

松信地域の人々との関係はどうだったのですか。

松本地域とのいろんな摩擦は新聞などでも結構確認できます。まず埋め立ての問題をめぐって、浅野のセメント工場は大島という場所に建てられますが、当初はもう少し大師寄りの地域に予定されていたのが、地元住民、特に漁業関係者の反対によって、大島に移ったらしいんです。

あと、水道の汲み上げによって周辺の井戸が枯れてしまうという問題が大正の中ごろから出てきています。

水道の問題は、すぐ専門の技師に調査させるなど、対処がかなり早いんです。結局、日本鋼管も、造船所も、自前で自分のところの近くに巨大な井戸を掘って、そこから地下水を汲み上げるという形に当分頼らざるを得なかったので、井戸水が枯れることの補償として、もっと深く掘るための掘り下げ費とポンプの実費を払って解決させる。

新聞などで、金銭で解決させることを「浅野流」とよく言うんですが、浅野自身は、深川でも、保土ヶ谷に持っていた南北石油でも地域の住民との摩擦がすでに起きていたので、地元対策ということに割と慣れていたんじゃないでしょうか。京浜工業地帯ではいろいろな問題が出ますが、浅野の関連では、すごく長引くというのは余りない。

彼は、一方で横浜の投資家を京浜埋め立てや京浜運河の事業に組み込んだり、埋め立てに当たっても、地元の有力者を使って土地の交渉、漁業関係者との交渉に当たらせたりと、その辺は非常にうまいと思います。

水道も、当初は横浜市から市外給水を受けようとしていました。市外給水という制度自体は、大正4年に横浜市が初めて保土ヶ谷の富士瓦斯紡績におこなったんですが、その直後に、彼はそれを目ざとく見つけるんです。

ただ、市外給水は隣の町村しか受けられない。浅野造船所のある町田村と横浜市との間に、今の鶴見駅周辺の生見尾[うみお]という村がある。給水を受けるにはどうすればいいか。そこで彼は両村の合併を持ち出すんです。結局それはだめになるんですが、そういう着眼点が非常にすぐれていて、一方で地域との対策というものにも慣れているんですね。

重化学工業を中心に浅野財閥を形成

松信そして浅野財閥が形成されていく。

齋藤例えば三井とか三菱とか住友に比べますと、浅野はかなり問題の多い財閥なんです。一つは、どんどん事業活動をして広げていってしまう。他の財閥だったら新しい会社を傘下につくったとき、その会社に利益が出るまで待って、それが安定したら次に出ていく。ところが総一郎は、やりたい事業があると三つも、四つも一遍にやってしまう。

ただ、形としては、三井や三菱と同じようなものにしていこうと考えています。三井や三菱が金融機関を持つのと同じように、傘下に浅野昼夜銀行を持つ。

工業、セメント、それから浅野物産も、一流とは言えませんけれども、戦後に至るまでかなり大きな商事会社だったので、いわゆる総合財閥と言われる、いろんな分野に出ていっているという意味では三井とか、三菱とか、住友と同じような構造だった。重化学工業が中心ですから、どちらかというと住友に近いのではないかと思います。

しかし、三井や三菱は大きな財力を持って、他人からお金を借りていない。三井だったら、江戸時代からの蓄積ですね。日本が戦争に負けるまで、三井物産という会社は、三井合名という親会社が三井財閥全体の全株式を持って、三井系の企業にお金を出すという構造だったんです。

事業をどんどん広げるため常に資金が不足

齋藤ところが浅野には、そんな財力がありません。当初から浅野同族という会社はできますけれども、三井合名会社みたいなものはなかったわけです。浅野系の企業は、一番の中心である浅野セメントでも4割くらいしかお金を出せませんから、十分に資金を回すことができない。そのうえ、事業をどんどん広げてしまいますから、さらにお金が不足する。

ですから、旧来の三井、三菱、住友みたいなものが本当の財閥であるという言い方をすると、財閥史の研究をする人たちの中では、二流財閥と浅野は言われますし、はなはだ不十分な財閥ですね。総一郎は会社をつぶしたりしていますから、大した経営者ではないと言われてしまう。

資金面は安田財閥、経営は浅野一族

安田善次郎

安田善次郎

齋藤もう一つ、三井や住友と違うところは、三井一族とか住友一族は経営にタッチすることはないんです。お金は出しているから所有権は一族のものです。だけれども、例えば三井は、経営はマサチューセッツ工科大学を出た団琢磨などに任せます。しかし利益が出ないと文句を言う。

浅野は、浅野総一郎が自ら経営をする。お金の問題以上に、経営のことをよく知っている浅野一族が経営をしているから企業集団として成り立つという大きな特徴を持っているわけです。

浅野は、実は安田財閥が資金面をすべて面倒を見てくれて、それで何とか成り立っていく。安田は、お金をある程度ちゃんと返してくれて、利息を支払ってくれるのなら、あなた方に経営を任せますよという形で、浅野一族は、常に安田と話し合いをしながら財閥経営をおこなっていくという構造だった。そういう意味では、1930年代にできてくる重化学工業中心の新興財閥に近い企業集団であったと言えると思います。

時代が大きく変化して、三井や三菱だって戦時下で巨大化していくとき、他人のお金を借りなければできなくなってくる。それを先取りしていたと考えれば、浅野には新しい時代の財閥形態をつくっていくという側面もあった。

旧来の財閥とは全く反する企業グループ

松信それまでにないタイプの財閥だったわけですね。

齋藤総一郎は事業活動がやりたくて企業を経営しているんです。旧来の財閥というカテゴリーとは全く反する企業グループですね。

事業とか、国家のための埋め立ても、結果的に見ると、彼の名前は失われてしまったかもしれませんが、京浜工業地帯をつくるという形で、現在に至るまで神奈川地区の大きな歴史をつくった。そういう面では、非常に大きな意味を持っていたのではないでしょうか。

浅野総一郎は、一般的に言われる、事業活動はこうでなきゃだめだという考え方を全部取り払って、どうすればいいかという考え方をした。

枠にはまった考え方を打ち壊す力を持っていたんだと思います。それは私の目から見ると、事業に失敗して、愚か者だとか何とか言われて何くそと思う、現在の日本人が失ってしまったバイタリティーを彼は持っていた。

それは総一郎だけではなくて、明治のころの経営者は、渋沢も含めてみんなそうだったのではないか。だから、日本の経営が改めて復活することを考えるとき、この時代のこういう人たちのバイタリティーみたいなものを加えていったらいいのかなという感じで、私は学生などに話をするときに、総一郎を取り上げるんです。

総一郎の死は浅野系企業に大きく影響

渡邉浅野総一郎は、本当にたくさんのことをやって、昭和5年(1930年)に亡くなります。これは昭和恐慌の時期でもあります。総一郎は、とにかくトップ経営者であり、かつワンマンなわけです。浅野の関連の会社の資料などを見ますと、常に総一郎の顔色をうかがうような、社長がどう出るかとか(笑)、社長はこういうふうに言うに違いないとか、そういう文章が出てきたりして、非常にカリスマ的なトップだった。そのトップが突然1930年に死ぬ。この影響はかなり大きいわけです。

同時に昭和恐慌というマクロ経済面も大きな転換期に入っていますので、浅野系の企業は、初代総一郎が亡くなった後に再編といいますか、後始末と言ったら変ですけれども、初代総一郎がいたゆえにできなかった、今流に言うとリストラクチャリングみたいなものをやっていかなければいけなくなるんですね。

従来の浅野研究は初代浅野総一郎が生きた時代を見て、その時代の浅野の評価をしているんですが、私が最近関心を持っているのは、浅野が亡くなった後の10年とか、敗戦までの時期を、浅野の携わった会社に関連してもう少し追跡してみることです。そのうえで浅野総一郎が一体何を残したのかを、必ずしもプラスの面だけではなかったかもしれない部分を含めて検証し、総合的な見地から評価したいと考えています。

他人に渡すことなく残された一族が財閥を再編成

松信総一郎の死後、財閥はどうなるんですか。

齋藤総一郎の最期の言葉は「俺はたくさんの借金を残したが、たくさんの事業も残した」だったそうです。二代目を継いだ泰治郎は、後に成蹊大学の理事長などもした人ですね。次男の浅野良三はやがて日本鋼管の二代目の社長になる人で、非常に優秀だったということです。

全体として、その後も他人に財閥系の企業を渡すことなく、また、財閥を再編成し直して戦後に結びつけていますから、一族はみんな相当の力を持っていたのではないでしょうか。最終的に、浅野財閥は戦後の財閥解体によってなくなります。

松本横浜市にとって浅野総一郎の残した業績は、もちろん京浜工業地帯の埋め立てもあるんですが、浅野が亡くなった後、子安沖の横浜市営埋め立てが、すぐ隣の浅野埋め立てにかなり刺激を受ける形で本格化します。もともとあそこは浅野が請願していた埋立地域ですので、間接的ではありますが、浅野が残した影響かなと思います。

地元対策の話もしましたけれども、大正8年に浅野が創設した浅野学園も、地域社会における教育水準を高めたという意味では、一種の地元対策だと思うんです。

浅野総一郎翁像

浅野総一郎翁像
浅野学園(横浜市神奈川区)

浅野学園には浅野総一郎の銅像がありますが、技術者を非常に大事にしているところがあって、その養成を心がけている。浅野というと金銭で解決するようなイメージがあるんですが、地域の人にとっての彼の像というのはどうだったのかというのを、私ももうちょっと掘り起こしていきたいなと思っております。

松信きょうはいろいろとありがとうございました。

齋藤 憲 (さいとう さとし)

1947年東京生まれ。
著書『稼ぐに追いつく貧乏なし』 東洋経済新報社 (品切)、ほか。

渡邉恵一 (わたなべ けいいち)

1964年東京生まれ。
著書『浅野セメントの物流史』 立教大学出版会 4,200円+税

松本洋幸 (まつもと ひろゆき)

1971年福岡生まれ。

※「有鄰」467号本紙では1~3ページに掲載されています。

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