Web版 有鄰

465平成18年8月10日発行

[座談会]東海道保土ヶ谷宿・軽部本陣

保土ヶ谷宿元本陣・軽部家当主/軽部紘一
横浜開港資料館調査研究員/西川武臣
横浜市歴史博物館学芸員/斉藤 司

左から斉藤司氏、軽部紘一氏、西川武臣氏

左から斉藤 司、軽部紘一・西川武臣の各氏

※資料写真はいずれも元本陣・軽部家蔵

はじめに

保土ヶ谷宿絵図 (東海道往還町並絵図)

保土ヶ谷宿絵図 (東海道往還町並絵図)
左右に伸びるのが東海道、図の左の角が保土ヶ谷宿本陣
元本陣・軽部家蔵

編集部江戸時代、東海道五十三次の名で親しまれているように、街道の各地に宿場がつくられ、そこには参勤交代で江戸と領国を行き来する大名などが宿泊する施設として本陣が設けられました。江戸・日本橋から数えて4番目の保土ヶ谷宿の本陣は、江戸時代を通じて、軽部家によって受け継がれてきました。

また、幕末に横浜が開港されると、開港場の建設などに軽部家の方々が大変活躍されております。

ご出席いただきました軽部紘一様は、軽部家のご当主でいらっしゃいます。本日は、代々伝えられてきた貴重な資料の一部も、格別のご配慮によりご持参いただきました。

西川武臣様は、横浜開港資料館調査研究員で、幕末開港期を担当していらっしゃいます。

斉藤司様は、横浜市歴史博物館学芸員で、近世前期を担当していらっしゃいます。

軽部家ご所蔵の資料をご紹介いただきながら、江戸時代の保土ヶ谷宿、あるいは近世から幕末開港期の横浜などにおける軽部家の歴代のご当主の足跡をご紹介いただきたいと存じます。

代々清兵衛を名乗り、本陣・問屋・名主を務める

編集部軽部様のお宅の歴史はいつごろから始まるんでしょうか。

軽部家伝によりますと、軽部家の先祖は戦国時代の苅部豊前守康則と言われております。豊前守は当時、関東地方に勢力を持っていた小田原の北条家に仕えておりまして、武蔵の鉢形城(今の埼玉県)の城代家老を務めていたそうです。

その子供の出羽守吉里の時代、天正18年(1590年)に北条家は豊臣秀吉に敗れまして、出羽守も戦死し、出羽守の孫の初代清兵衛のとき、幕府から保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の役を命ぜられました。慶長6年(1601年)のことです。

その後、明治初年までの約270年の長い間、11代にわたり、代々の当主が清兵衛を名乗りまして、その職を務めてまいりました。

本陣は経済的な負担が大きく、経営は非常に苦しかったようで、宝永2年(1705年)には、6代清兵衛の娘に豪商の紀伊国屋文左衛門の二男を入り婿に迎えまして、その持参金で借財の返済に充てたと言われています。

この7代目清兵衛吉一は、婿入りの後に養家の復興に励みましたけれども、養父に先立って亡くなっております。

その子の8代清兵衛悦相は10歳で父に死別しましたので、若くして三役を引き継ぎ、天明8年(1788年)には、幕府から60年余りの勤続を表彰され、苗字帯刀を許されました。士農工商の差別が厳しかったときに、武士並みの待遇をされたわけでございます。81歳で亡くなりました。

明治天皇東幸のおりに「苅部」から「軽部」に改姓

明治初期の軽部本陣

明治初期の軽部本陣

軽部10代清兵衛悦甫が65歳の安政6年(1859年)に横浜が開港場となり、保土ヶ谷宿の職務のほかに、横浜町(今の中区本町、南仲通、北仲通、弁天通、海岸通)の総年寄を命ぜられまして、初期の横浜の町の建設、発展のために尽力いたしました。

町の財政の苦しい折に、貿易歩合金制度(貿易商人から売上金の一部を徴収)を導入して、町の財政の基礎をつくったと言われております。また、氾濫の多かった今井川(帷子川の支流)の改修等も行ったと言われております。

11代清兵衛悦巽も、保土ヶ谷宿の三役と横浜町の総年寄を務めましたが、明治3年(1870年)に本陣は廃止となりました。

明治元年の明治天皇のご東幸のときを始め、明治20年代にかけて、天皇、皇后、皇族方のご休憩もたびたびございました。名字の「苅部」を「軽部」に改めましたのも悦巽のときで、明治天皇ご東幸のおりのことでした。

本陣の建物は、建坪約270坪ございましたけれども、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊しまして、今は一般の民家となっております。昔の格式の玄関ですとか、書院、門構えの面影は残念ながら残っておりません。

私は、苅部豊前守康則より数えますと19代目に当たります。

東海道が成立した慶長6年の伝馬朱印状

伝馬朱印状

伝馬朱印状 慶長6年(1601)

編集部軽部家の最も古い資料は、慶長年間のものですか。

軽部昭和8年に祖父の軽部三郎がつくりました文書目録によりますと、慶長6年(1601年)の東海道の伝馬朱印状がございます。

斉藤徳川家康は、後の東海道五十三次になる宿場を慶長6年に設定しますが、最初から53の宿場が成立したわけではありません。

小田原北条氏が滅びた後、徳川氏が関東に入りますが、徳川氏の領国である江戸から三島までは、文禄2年(1593年)までには伝馬制度ができていました。

この段階で品川、神奈川、保土ヶ谷、藤沢、平塚、大磯、小田原、三島の宿場の原型が成立しており、これを慶長6年に、改めて京都までつないだということになります。

慶長6年の正月に、伝馬朱印状と言われる朱印状を家康が発給しています。これにはこの朱印状を持っていない者には伝馬を出すな、人足を出すなと記されています。逆に言えば、これを持っている者には人足を出しなさいということになります。

慶長6年に成立した宿場数は、40幾つだと思うんですが、慶長6年の朱印状が今、残っているものは、ごく少数でしょう。おそらく東京都、神奈川県でも残っているのは保土ヶ谷だけだと思います。三島は、たしか三島大社に残っています。そういう意味では非常に貴重な資料ですね。

保土ヶ谷宿の権太坂は箱根の手前の難所

芝生村境より戸塚宿迄往還絵図

芝生村境より戸塚宿迄往還絵図 宝暦6年(1756)

編集部保土ヶ谷宿の次の戸塚宿ができるのは少し遅れるわけですか。

斉藤戸塚宿は、慶長9年(1604年)にできます。ふつうの人が歩く距離は、10里(40キロ)というのが1日の行程ですので、江戸から歩くと、保土ヶ谷から戸塚のあたりが限界です。

江戸から保土ヶ谷までは東京湾に沿う形で、基本的には平坦な地形ですが、保土ヶ谷から藤沢の間では、権太坂を上って、品濃坂を降りて、また戸塚の大坂で上りになる。藤沢まで降り切ってしまえば今度は相模湾に沿う形で平坦になりますが、保土ヶ谷から藤沢までは4里(16キロ)ぐらいありますので、かなり遠い。箱根までの行程で一番長距離で難所なのがこの場所になります。それで、戸塚で人足を供給したり、あるいは泊まったりしたようです。結局、戸塚を宿場にしたほうが便利ということで、保土ヶ谷に3年おくれて成立します。

戸塚を宿駅にしようと、戸塚の澤邊本陣のご当主が願書を提出しますが、そのときに隣になる保土ヶ谷宿と藤沢宿の両方の合意を得ようとします。保土ヶ谷宿のほうは、距離が短くなるので、了承ということになりますが、藤沢のほうは反対する。最終的にはどうも幕府の上まで行って、決まるようです。

編集部戸塚宿ができるときの文書が澤邊本陣のほうに残されていますね。

斉藤慶長9年2月のものと思われる文書で、軽部家から澤邊家に宛てたもので、戸塚を宿場にすることについて保土ヶ谷宿としては合意しています、という内容です。

東海道と金沢道が分岐する重要な地点

編集部保土ヶ谷宿は、本陣を中心に旅籠があったんですね。

斉藤本陣が軽部家で、脇本陣が藤屋、水屋、大金子屋の3軒で、旅籠は全部で5、60軒です。

天保14年(1843年)ころに幕府が調査した『東海道宿村大概帳』では、人口が、保土ヶ谷も戸塚も3千人ぐらい、神奈川が6千人ほどなので、人口に比べると、保土ヶ谷と戸塚は旅籠が多い。

保土ヶ谷や戸塚は、江戸から来たときの一泊目の宿場ですね。大人の男性は戸塚まで歩けますが、年配の方や女性、子供を連れた旅だと、戸塚までは少々きつい。それに保土ヶ谷と戸塚の間は武蔵と相模の国境で、坂道もあるので、その手前の保土ヶ谷に旅籠屋が多いということになります。弥次さん喜多さんの『東海道中膝栗毛』にも「おとまりは よい程が谷と とめ女 戸塚前でははなさざりけり」と書かれていて、留め女が袖を放さず、保土ヶ谷で泊まりなさいという話があります。

もう一つの大きなポイントは金沢道でしょう。三浦半島の浦賀は東京湾の入り口の関門です。そこへ陸上のルートで行くとすると、東海道の保土ヶ谷宿から金沢横丁を通って浦賀に出る。その途中には杉田の梅林や金沢八景という景勝地があります。東海道と金沢道を分岐する、非常に重要な地点だと思います。

中世から領地があった可能性も

保土ヶ谷宿および周辺村々の図

保土ヶ谷宿および周辺村々の図

西川古くから神奈川、芝生(今の西区浅間町付近)、保土ヶ谷の三地域は一つの町場として機能し、北部の小机から神奈川に出てくる道があり、東西に伸びる東海道があり、さらに保土ヶ谷から南の金沢、浦賀へつながる道があるという形で、この一帯は、南北、東西のターミナルだった。

しかも、海があって、陸路と海とのターミナルという立地でもあった。そのなかに大きな二つの町があり、一つが神奈川の宿場であり、もう一つは保土ヶ谷の宿場だったというとらえ方ができる。その構造はずうっと幕末まで続きます。

流通の拠点であり、交通の要衝であり、観光的な意味でもそこに人が集まってくる。そういう場所だったんだろうと思うんです。

軽部家歴代の墓所
保土ヶ谷区・大仙寺

軽部さんのご先祖は、中世から保土ヶ谷あたりにいらしたと考えていいんじゃないでしょうか。初代のお墓は今の菩提寺にあるんですか。

軽部初代の清兵衛から保土ヶ谷の大仙寺にあります。初代の母の墓は、自ら開基したと言われる保土ヶ谷の樹源寺にあります。

初代の父の吉重は長野の善光寺に父祖の菩提を弔うために止まっていますから、信州にも関係があったのかと思いますが、吉重の二男の初代清兵衛が保土ヶ谷に戻されたのも先祖の領地があった縁でこういう役を命ぜられたということですから、中世から住んでいた可能性はあると思います。

斉藤最近出版された『戦国人名事典』という本に「苅部備前守」というのが出てきまして、小机衆なんです。軽部さんのご先祖は「豊前守」と伝えられていますが、小机から海のほうに出てくると保土ヶ谷あたりになりますから、あの辺に領地があってもおかしくないと思います。

宿場の中で一番見通しがきく場所につくられる

編集部軽部さんのお宅は東海道と金沢道との分岐点にあたる重要な場所に位置していますが、それには何か意図があるのでしょうか。

斉藤天保年間に編纂された『新編武蔵風土記稿』には慶長6年の段階では、今、元町と呼ばれている権太坂から降りたところが保土ヶ谷の集落だったと書いてあります。

つまり、元町橋のところにあった保土ヶ谷の町と、帷子川河口の帷子の町が二つ合わさって宿場になっています。これは大体1650年まで続きます。

東海道の保土ヶ谷宿の今の道路景観を見ますと、相鉄線の天王町駅の前にあった帷子橋からまっすぐ来た道が、軽部さんのところでほぼ90度に曲がっている。これは明らかに、計画的・人工的につくられたラインだと考えられます。

つまり、宿場の中で、一番見通しのきくところに本陣を構えた。先に本陣の場所を設定して、それに合わせて道を通したと考えたほうが合理的ですね。

本陣は参勤交代の大名が宿泊する最高の旅館

軽部本陣絵図面

軽部本陣絵図面

編集部本陣と問屋と名主を兼ねられたということですが、具体的にはどういう役割なんですか。

斉藤本陣というのは、参勤交代の大名、あるいは幕府の役人が江戸から京都の二条城や大坂城へ行く際に宿泊する最高ランクの旅館ということでしょうね。

問屋は、公用の荷物を宿から宿へ継ぐわけですが、江戸から京都方面に行く上りの場合には神奈川から来た荷物を保土ヶ谷まで運んで、保土ヶ谷の問屋場で積み替えて戸塚まで運ぶ。京都から江戸へ来る下りの場合は、戸塚から保土ヶ谷に来て、保土ヶ谷から神奈川へ送る。そのときの荷物の受け渡しの管理とか、人足、馬の手配とかをやる役職です。それを行う場所が問屋場ですが、問屋は宿役人の代表ということになります。

名主は、村役人の代表です。宿場の場合は、大体、何々町という名称になります。保土ヶ谷宿は保土ヶ谷、岩間、神戸、帷子の4つの町からなっています。その町の人たちが耕作している耕地から年貢を払うという村の側面もあり、これを管理するのが名主になります。財政のほうは、宿入用と村入用に分ける場合もあります。

軽部家には、村の代表者である名主役、宿駅の代表者である問屋、大名の宿泊施設の本陣役という三つの役職の資料が残されていることになります。

このほかに軽部家の家にかかわる資料、あるいは横浜町の総年寄のときの資料というふうになると思います。

宿賃は当てにできず経済的にはきびしい状況

保土ヶ谷町絵図面

保土ヶ谷町絵図面 文政7年(1824)

編集部保土ヶ谷宿を描いた絵図は、非常に立派なものですね。

斉藤基本的には幕府の命によって作成されたのでしょう。何か大きい通行があるときに、各宿へ命じてつくらせて提出させる。その控え、写しといったものが残っているのでしょう。江戸時代の270年の間でも、おそらく後のほうの200年だと思うんですけれど、その段階で何度もつくられている。

建坪間取畳数調書

建坪間取畳数調書
(東海道往還町並絵図)

ただ、それがこれだけ残っているということは、珍しい事例だろうと思います。

西川各地の宿にも似たようなものがあります。同じ時期に、同じようなものを近隣の宿場ごとにつくらせているわけです。神奈川宿では、一番大きな石井本陣のお宅にはたくさんの文書はあるんですけれども、絵図は、軽部さんのお宅のようなものは残されていないようですね。

編集部保土ヶ谷町を描いた宿絵図のほかにも、村絵図などが何点かありましたね。

斉藤村絵図、年貢・検地に関わる文書、五人組帳や宗門人別帳などが一般的な名主としての資料ですね。

編集部本陣の建物は約270坪もあったそうですが、図面も何種類かありますね。部屋も八畳間がたくさんあって……。

軽部本陣の図面は、時代により幾つかありますけれども、畳の部屋がとても多いわけです。二百畳ぐらいはありますか。当然、襖や障子もあります。大名が来るたびではないんでしょうが、結構頻繁に畳はかえる、襖は張りかえるなど経費も相当かかったと思います。

逆に、宿賃は決まっておりませんので、定収入はないというか、当てにできない。お金持ちの大名は結構いろいろ配慮してくれたようですが、扇子一本で済ませた大名もあったようです。ですから、持参金付のお婿さんをとるような感じで、経済的にはずっときびしかったと思いますね。

斉藤軽部さんのところで特徴的なのは、保土ヶ谷宿を構成する4つの町の名主を兼帯していることです。本来、4つの町ごとに名主がいたはずなんです。多分、近世の早い時期は原則的には別々にいたのでしょうが、別々に名主を置くと、その分、費用がかかるんですね。

編集部今の行政改革みたいなものですね。

斉藤宿場が成立して100年間ほど経って宿場としての利害関係が同じになってきた段階で、名主の数を減らして、4か町を一人の名主が兼務するという形になったと思います。そういう経費の削減みたいなものがあって、恐らく元禄時代ごろから、名主を一人にしようという話になってきたんだろうと思います。

ただ、軽部家は名主のほかに、本陣と問屋を務めています。通常、本陣は一つの宿場に二つぐらいあるんです。例えば神奈川宿は石井と鈴木と2軒、戸塚宿も澤邊と内田と2軒ある。だけど、保土ヶ谷宿は軽部家一つなんです。

本陣はもうからないので、土地持ち、財産持ちの名家でないとできない。これに問屋と名主とが重なってくるわけですが、問題は村高にかかわるような諸役をどれだけ免除するかということになる。軽部家の場合、名主の分で五十石、問屋の分で五十石、合わせて百石免除されています。

宿場は民間の荷物の運送で稼ぐ

駄賃や人足賃などを書いた高札

駄賃や人足賃などを書いた高札
文化5年 (1808年)

斉藤宿場へ、宿賃はそれなりに落ちますが、一番潤うのは飯盛女なんでしょうね。原則的に旅をするのは男の人ですし、日常から逃れた世界というのが旅ですし(笑)、江戸の人間だと米の飯を食べますけれども、農村部の人がふつうに米の飯を食べるのは旅といった非日常の世界しかなかったのでしょう。旅には成人儀礼という側面もあるわけで、それでお金が落ちるんだと思います。

西川宿場はきついんですね。経済的な援助のために飯盛女の数を増やしてほしいみたいな願書がいろんな宿場から出る。飯盛女の数を増やすと地域が活性化するようなことが実際あったんです。

斉藤基本的には、宿場としての経営は、公の荷物の一番重要なものは無償で運ぶ。それ以外は駄賃銭を取って運ぶのですが、民間のものは実際には公用駄賃の2倍ぐらいなんです。民間用の荷物を宿場が独占的に運送できるのでお金がもうかる。そのもうかった部分と義務との相対で、要するにプラス・マイナスでとりあえずやっていけるんです。最初のころは通行する人数も公用のほうがどんどん多くなる。それで助郷を増やしていったんです。

ですから、宿場の本来の規模も大きくしなければいけない。もともと保土ヶ谷町だけであったのが4か町になるのは、そういう理由なのでしょう。こうした動向は享保年間ぐらいに大体一段落する。

ところがその次の段階になってくると、民間の人たちが大勢動いてくる。その動いているものが宿場へなかなかうまく落ちないのでしょうね。それで宿場を維持していくために一番手っ取り早い飯盛女を置いていくことになる。

これが幕末期になると、今度は、政治権力があっちに行き、こっちに行き、人がいっぱい動いてくるので、体制自体を変えていかなければいけないということになります。

俳諧や漢詩など地域の文化活動の拠点

編集部近世の文化史という面では、宿場の役割はどうだったのでしょうか。

西川保土ヶ谷宿だけでなく、宿場は江戸との関係がすごく深いんです。宿場自体が地域文化の拠点だった。俳句やお茶、お花、囲碁の師匠のような人たちが宿場にいて、江戸の文人たちが時々、遊びに来る。すると宿場の近隣の人たちも集まって、文化的な交流をする場だった。

軽部三郎さんが整理された資料は政治経済的なものが中心ですので、その辺が分かりにくいのですが、軽部家もそういう文化的な部分を担っていたことは間違いないと思います。

斉藤江戸とセットなんですね。保土ヶ谷も、神奈川宿も、江戸周辺地域ということです。江戸から離れた世界ではなかったんです。

西川軽部家では、養子に入られて12代目になった、庫次郎悦久さんという方がいらっしゃいます。神奈川宿の三宝寺にいた大熊弁玉という有名な漢詩の先生のところにも通われていた。おそらく、弁玉を中心にした地域文化ネットワークみたいなものがあって、軽部家もその中にあって文化活動をしていたのでしょう。

軽部庫次郎悦久のすこし前、10代の悦甫も、俳諧とか漢詩に造詣が深かったようです。悦甫の母親のりさは小杉の原家の出ですが、問屋についての後見役をつとめていた原家の人が、江戸から知り合いの文人を呼んだりして、この人の時代に、町の文化的レベルが上がったようなことがあったそうです。

編集部資料も残っているのですか。

軽部その時代のものかどうかはわかりませんが、歌を書いた短冊とか、漢詩の本などを見たことがあります。

10代目悦甫が横浜開港の際に総年寄に就任

刈部清兵衛悦甫

刈部清兵衛悦甫

編集部幕末に横浜が注目を浴びるようになると、10代目悦甫さんが関係を持つんですね。

西川横浜が開港したのは安政6年(1859年)です。それ以前の横浜はご存じのとおり半農半漁の村で、そこに幕府が都市計画をして街を造るわけですから、行政組織がないのです。神奈川奉行所ができますが、これも急遽つくった組織で、当初は外国奉行の兼任で、開港の翌年まで専任の神奈川奉行はいなかったんです。

横浜関係の事務も、開港までは仮会所という仮の役所みたいなものを神奈川宿に置いてやっていた。開港と同時に町行政をやる役所が必要になり、初代の総年寄に軽部家が任命される。

軽部家が選ばれた理由はいくつかあるんでしょうが、保土ヶ谷で名主・問屋・本陣という重要な三役を担って、行政手腕を発揮していた人物を任命することで、でき上がったばかりの横浜の町の行政がうまくいくように、幕府が仕組んだんだと思うんです。

軽部家は、それ以前から今井川の改修をしていますね。川を浚って、掘った土砂を品川台場をつくるときに幕府に献納する。外国船の渡来に備え、海防政策をしている部署の役人たちが、やがて横浜が開港すると、外交にもかかわるようになる。

そういうお役人と、軽部家はつながりを持っていたんでしょう。横浜の町の行政は軽部家に負うところが非常に大きいと、私は思っているんです。今とはかなり違いますけれども、現在の市長みたいに政府と横浜の町、あるいは地域と横浜の町をつなぐ、非常に大きな役割を果たされた。

保土ヶ谷宿から横浜町へ25軒が移住

西川軽部さんを指名することで、保土ヶ谷全体の協力を得られるという発想があったと思うんですね。

『横浜市史』2巻の巻末の商人録で数えると、安政6年段階で、保土ヶ谷から25軒が集団で横浜町に移住しているんです。その中心が、総年寄の軽部家であり、ご養子に入った庫次郎さんがその中の一人として、東屋の屋号で錦絵を売る店を出します。それと、手代と思われる東屋新吉が、横浜の絵図の出版もしていますね。

開港場には、安政6年段階で、横浜の周辺地域から6、70人移住してくるんですが、一つの宿場から25軒というのは神奈川宿に次いで多い。住民自体が来るということですから、神奈川宿と保土ヶ谷宿によって横浜の町が支えられる。

その商人たちが貿易そのものに参加するのではないにしろ、例えば日常的な消費物資を周辺地域から開港したばかりの横浜に運び込まないと、町が成り立たないということもあったでしょうね。

横浜村の絵図や帷子川河口の埋め立て図など

帷子川口寄州新開場図

帷子川口寄州新開場図

編集部拝見させていただいた絵図には、非常に珍しいものがありましたね。

西川開港以前の横浜村の絵図がいくつもあるとは思いませんでしたね。何のためにつくったのかというのがわからないんだけれども。

斉藤横浜新田が埋め立てられているので寛政8年(1796年)以降の絵図でしょうね。川崎市市民ミュージアムに所蔵されている池上家文書にも横浜村の絵図が4、5枚あったと思います。池上家は、埋め立てや砂糖の製造などを行った旧家で、横浜周辺の埋め立ても願い出たからでしょうか。

西川開港直後の絵図はいろいろあるんです。それ以前の景観が、地元の軽部家に残った資料でわかるというのは貴重ですね。

斉藤現在の横浜駅のあるあたり、帷子川の河口の埋め立ての絵図もありますね。神奈川湊の袖ヶ浦が埋め立てられ、尾張屋新田、藤江新田、岡野新田、平沼新田などができてきますが、それらの開発絵図は珍しいですね。

西川埋め立ては、帷子川上流を主にかなりやられていますが、東海道のほうの広がりでは、戸塚宿の手前までの絵図がいくつかありますね。

斉藤それが保土ヶ谷という場所と、軽部家が担っている地域性的な広がりだと考えても、大きな間違いはないのでしょう。このようにたくさんの絵図が残されているような多様性、地域的な役割があるから、横浜へ呼ばれることになったのだと思います。

横浜道の築造や町の行政に必要な歩合金制度をつくる

横浜村絵図

横浜村絵図

編集部開港場までの横浜道の開削にも軽部さんのお宅は関わっていらっしゃる。

西川横浜道は、横浜が開港場に決まった段階で、幕府が現在の浅間町のところで、東海道から分岐する新しい道をつくります。軽部家は今井川の改修や、問屋役をやっていて、労働者の束ね方は手なれておられたでしょうし、人の動かし方はよくご存じなので、横浜道の築造、普請にも関わられたのでしょう。

それから、一番大きな業績としては、先ほどもお話にありましたが、町の行政の運営費を貿易商たちから取り立てる歩合金制度を軽部悦甫さんがつくっておられる。道がちょっと傷んだとか、どこかの橋が壊れたというと、修繕費を町の予算から支出しないといけない。その金がないと町の行政が成り立たなくなることがあって、貿易額に応じた歩合金と呼ばれる金を徴収する制度をつくって、当初は輸出商から、しばらくしてからは輸入商からも取り立てる。それが明治時代までの町財政の基礎になった。インフラの整備、人々を集めて横浜の町を支える構造、それから行政そのものの運営費みたいなものもつくり上げた。功績としては非常に大きいんです。

軽部本陣などの役はもうかる商売でもありませんし、ある意味、社会奉仕といいますか、名誉職的なもので、本当はやめたいようなところもあったと思うんですが(笑)、総年寄役に指名されまして、期待をされ、それにこたえてみんなでわっと横浜の発展のために出ていったわけです。

明治30年以降、宿場町は横浜に吸収されていく

軽部保土ヶ谷宿の大勢の商人の方ですとか、埋め立てでも保土ヶ谷宿の人たちが立派に成果を上げられて、大変活躍されたのですが、残念なことに、いつの間にか多くの人が横浜から引き揚げてしまったようですね。

西川明治30年ぐらいから、横浜の町が、周辺部の町をそれほど当てにしなくても成り立つようになってくるんです。インフラの整備も、単なる横浜道が通っていればいい段階から、汽車が通り、船が通り、さまざまな交通手段が出てくる。横浜で使う消費物資を周辺部から集めなくてもいいといった構造の中で、近隣地域の地盤が低下して、明治20年代までは独立していた横浜周辺の宿場町が、それ以降むしろ横浜に吸収される形になっていく。

軽部家自体も総年寄をずっとやっておられたけれども、明治6年に、戸長という名前に変わる。官選戸長が送り込まれて、政府直轄地域みたいな形に変わるんです。

地域の歴史を考える上で不可欠な資料

編集部軽部家の資料は古くから注目され、大正時代にも調査が行われていますね。

西川おじいさまに当たる軽部三郎様が、歴史に非常に興味を持たれて、自分のお宅だけでなく、地域のいろんなことも研究された方で、大正年間にご自分で文書目録をつくられた。それが現在も伝わっていて、我々もずいぶん利用させていただいています。

横浜市では、大正の震災の前ぐらいから『横浜市史稿』という本を出版する計画があり、その重要な資料の一つとして、軽部家の資料をお借りして写本をつくった。大正13年の日付がありますから、関東大震災直後ですね。

『保土ヶ谷区郷土史』が昭和13年に出ていますが、ここにも軽部家の文書がかなり大量に入っています。保土ヶ谷区役所に郷土史刊行委員会ができて、磯貝正さんが軽部三郎さんに協力を求めて収録したという形だと思います。

横浜市域を考えるとき、保土ヶ谷は、幕末から明治にかけて市域の中心なんです。今日は絵図を中心に見せていただきましたが、絵図だけでなく、写本類を見ても、地域の歴史を考える上で、どうしても必要な資料であることは間違いない。

資料が増えてくるのは、恐らく江戸時代中期以降でしょうけれども、横浜のことを考える上での東海道という一番の拠点のところと、横浜の開港場の関係の資料が一番たくさん残っている。横浜で重要ということは、神奈川県でも最重要の資料群の一つです。

断片的なものを組み立てる基軸となる資料群

プロシャ・フランス公使館前道路図

プロシャ・フランス公使館前道路図
(現在の中区本町5丁目辺り)

編集部今、拝見した資料だけでも、たいへん素晴らしいですね。

西川絵図類の色もきれいに残っていますしね。こういうものは昔はカラー写真で紹介されませんでしたから、絵図は本当に驚きました。

斉藤保土ヶ谷宿の資料はもちろんなんですが、横浜市内の河川の体系でも、帷子川や今井川の絵図がまとまってあるのは初めて拝見しましたし、さらに言えば、吉田新田と、現在の横浜駅があるところの袖ヶ浦を埋め立ててできた新田の開発などは、本来セットの入り江のはずなので、そういう意味で考えると、非常に広がりがあって興味深いですね。

横浜関門切手

横浜関門切手

断片的なものは今までもありましたが、基軸になるものが必要なんです。それが出てきて、全体の組み立てがわかってくる。慶長6年から始まって、横浜開港、明治期と移る資料群として非常にいいですね。

西川横浜には吉田橋などに関所が設けられていましたが、その関所を通るための手形とか、「プロシャ・フランス公使館前道路図」なども珍しい資料ですね。

研究を進めて近い将来博物館などで公開

編集部横浜市は2009年に開港150年を迎えますので、その辺で何か計画などございますか。

軽部私のほうといたしましても、そういう節目の時期でもありますので、協力は当然しないといけないと思います。何かあれば、できることはやりたいと思っております。

斉藤横浜市歴史博物館で保土ヶ谷の宿場の展示は、是非やらせていただきたいと思います。

西川開港150年を迎えるに当たって申し上げたいこととして、『横浜市史』が、開港100年を記念して出版されています。ところが、そこでは、近代横浜は幕府が都市計画によってつくった都市であり、周辺地域の近世までの歴史とは隔絶した世界であるというような形でまとめられています。けれども、軽部さんのお宅の資料を見れば、必ずしもそうではなくて、むしろ江戸時代以来の伝統と、地域の協力によって横浜という町ができ上がったんだということが証明できる。横浜のアイデンティティを考えいく上で非常に重要な資料群であると強く思いますね。

編集部横浜の開港場を支えたバックグラウンドが軽部家の資料によって浮かび上がってくるということですね。

軽部何代にもわたって、本陣ほかの諸役を無事務められたのも、町の皆様のご協力をいただいたことが大変大きいと思います。今後、西川先生、斉藤先生はじめ研究される方々のお力によって、当時の様子が解明されていくことを楽しみにしております。

編集部近い将来、一般の方々にも博物館や資料館でご披露いただけようになるといいですね。

西川ぜひ、お願いしたいと思います。

編集部貴重なお話をありがとうございました。

軽部紘一 (かるべ こういち)

1944年横浜生れ。

西川武臣 (にしかわ たけおみ)

1955年愛知県生れ。
著書『横浜開港と交通の近代化』 日本経済評論社 2,500円+税、
共著『開国日本と横浜中華街』 大修館書店 1,700円+税、ほか。

斉藤 司 (さいとう つかさ)

1960年横須賀市生れ。
共著『江戸時代の神奈川』有隣堂(品切)

※「有鄰」465号本紙では1~3ページに掲載されています。

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