Web版 有鄰

416平成14年7月10日発行

明治の新聞にみる妖怪 – 特集1

湯本豪一

江戸時代は遊びのなかにも浸透していた妖怪たち

毎年のように夏になると幽霊や妖怪は主役としてもてはやされているが、近年では季節に関係なく怪奇現象など扱ったテレビ番組や週刊誌の記事が目に付くようになり、妖怪の話題も散見される。また博物館や美術館における「妖怪展」もあちこちで開催され、妖怪に対する関心の高まりを窺うことができる。そんなこともあってか、私のもとにも妖怪に関する問い合わせがちょくちょくあるほどで、“妖怪ブーム”を肌で感じている一人である。

しかし、このような妖怪ブームはけっして今に始まったことではなく、江戸時代には錦絵や版本に妖怪をテーマとしたものが多数見られ、妖怪双六や妖怪カルタなどもあったほどで、遊びのなかにも妖怪が浸透している。また、大勢が集まって順番に怪談を話し、1話語り終えるごとに蝋燭を1本ずつ消していって、最後の1本が消えると怪異が起こるという百物語の言い伝えを実践した遊びも流行していたくらいだ。

そもそも、心の不安や自然に対する畏怖が妖怪を誕生させたといわれるが、それが江戸時代になると遊びのなかにまで入り込むほど身近な存在となっていく。その大きな要因は木版技術の発達にあるのではないだろうか。私は、木版技術の発達によって出版文化が飛躍的に発展し、大勢の人が情報を共有できるようになったことが妖怪世界にも多大な影響を与えたと思っている。私たちの抱く鬼や河童や天狗の姿はほぼ共通しているのではないかと思われるが、こういったイメージの固定化も情報の共有によってもたらされた結果といえよう。

ところで、このような江戸時代に展開された豊かな妖怪世界も時代の波にさらされることとなる。明治という新しい時代の到来による社会の劇的変化である。

新政府は殖産興業を国是として掲げ、近代国家づくりに邁進していった。欧米先進諸国からの近代技術や制度を導入するなかで、科学的思考に基づく合理主義が広まり、妖怪話などは非科学的想像の産物として排されるかに思えた。こんななかで妖怪たちはどのような運命を辿ったのだろうか。私はそんな素朴な疑問を抱いていた。

妖怪を紹介した展覧会や書籍のほとんどが江戸時代の絵巻や錦絵を中心とした内容で、そこに百鬼夜行絵巻や付喪神絵巻といった中世の妖怪資料が加えられる程度だった。明治時代のものとしては河鍋暁斎の妖怪絵が単発的に登場するくらいでしかなかったのである。

このような傾向は「妖怪」と「近代」は相反する存在という先入観があり、さらには絵巻や錦絵といった江戸文化が廃れるなかで、妖怪の所在が見いだしにくかったことにも起因しているものと思われる。明治時代の新聞からいくつかの妖怪記事を紹介した文献も、たまたま見かけたものをつまみ食いした程度でしかなく、本格的に新聞記事を調査することは行われていなかった。これも近代化の象徴ともいえる“新聞”と妖怪が結びつかなかったからに違いない。

近代に入り木版画から新聞に生息地を変えて増殖

『化け物尽くし絵巻』(部分、江戸中期、湯本豪一氏蔵)

『化け物尽くし絵巻』(部分、江戸中期、湯本豪一氏蔵)
昨年、著者が古書店で発見した絵巻。
今まで知られていなかった11種の個性豊かな妖怪が描かれている。
右から汐吹(しおふき)、馬肝入道(ばっかんにゅうどう)、為憎(にくらし)、為何歟(なんじゃか)、有夜宇屋志(うやうやし)、狐火(きつねび)。

では江戸時代にあれほど跳梁した妖怪たちはどこに姿を消してしまったのだろうか。しかし、近代のスタートとともに忽然と人々の前から消え失せてしまったと考えるのは早計過ぎると言わざるを得ない。次第に消えゆく必然性があったとしても何らかの痕跡を残しているはずである。

明治という新しい時代のなかで妖怪を取り巻く環境にいかなる変化が生じ、その環境に妖怪はどのように対応していったのだろうか。そこに想いを巡らすことこそが近代と妖怪との関係を明らかにしていく上で重要だと感じていた私が妖怪の営巣地ではないかとアプローチしたのが今まではあまり調べられていない新聞だった。

考えてみると、妖怪たちは木版印刷の発達という新しい状況に巧みに対応して錦絵や版本に新たな生息地をみつけて増殖してきたのである。こんなところにも妖怪の逞しい生命力が垣間見える。そんなことから私は新時代の新たな情報源としての新聞に着目したのだった。

新聞をキーステーションとして情報を集積・発信

しかし、実際に調べるまではどの程度の妖怪記事があるのか見当もつかなかったというのが実情だった。調査した結果、ほとんど成果を得られないのではとの一抹の不安もあったが、作業を進めていくと、その不安は次第に解消されていった。市井の事件や芸能記事などが中心の小新聞はもとより、政治記事などに重点を置く大新聞にさえにも妖怪記事を見ることができたのである。また、中央紙だけでなく全国各地で多数発行されている地方紙にも妖怪記事は載っていることが確認できた。

やはり、妖怪たちは激変する環境のなかで、したたかに生き抜いていたのである。それも新聞という近代社会を支えるメディアのなかに深く浸透して……。さらに調べていくと、地方紙の記事が中央紙に転載されていたり、その逆の場合があったりして新聞のなかで妖怪記事が大きな広がりを有していたこともわかった。また記事のなかには地方の読者からの投稿に基づく妖怪話も散見された。それを紹介することによってさらに別の情報がもたらされるといったケースさえもあり、新聞というメディアをキーステーションとして情報の集積が行われ、それらを発信することによって、さらに情報が集まるといった状況がつくられていたのである。

江戸時代だったら一握りの人たちの噂の域を出ず、やがて忘れられてしまったであろうちょっとした妖怪話でさえも新聞に掲載されることによって新たな展開を可能にさせたのである。まさに明治という新しい時代ならではの大きな変化といえよう。江戸時代には「百物語」と銘打って各地の怪奇談や妖怪話を集めた書籍が何種類も刊行されているが、その拡大版ともいえる状況が新聞紙上で再現されていたのである。

しかし、曲がりなりにも科学的思考が普及しつつあるなかで、何故にこれほどまでに妖怪話や怪奇談が幅を利かせていたのだろうか。私はその根元的要因はもともと妖怪を生み出した心の不安に他ならないと思っている。

社会が不安定な時代には妖怪が流行するともいわれている。たしかに、江戸時代でも幕藩体制に綻びが生じ始めた天保以降に多くの妖怪絵が描かれている。近代社会という未曾有の変革のなかで暮らす人々は多かれ少なかれ今までとは違った不安を抱いていたことだろう。そんな間隙をぬって妖怪たちが跳梁跋扈しても何の不思議もない。こうした状況のなかに新聞が存在していたのであり、新聞と妖怪は意外に簡単に結びついてしまったのだろう。

もっとも、新聞記事のなかには科学的考え方に基づき、目撃された火の玉は燐が燃えたものだと論じるものがあったり、幽霊を見たというのは神経の病だと断じているものがあったりと、近代的思考が広まっていることがみてとれるものも少なくない。それだけに合理的に説明できないような出来事に出会うと、その事実がなおさらインパクトをもって受け止められるといったことがあったに違いない。そんな状況こそが近代という時代のなかで妖怪を増殖させる環境だったといえよう。このようにみてくると、「近代」と「妖怪」は一見、相反するように見られがちだが、実は近代という時代のほうが妖怪が住み易い環境だったと考えられるのである。

写真にまつわる新しいタイプの怪奇談

当時の新聞には、写真を撮ったところ、すでに死亡していた人物が写っていたなどといった記事がいくつかみられる。これは写真という今までにはなかった“モノ”が重要な役割を果たす新しいタイプの怪奇談である。今日でも写真にまつわる不思議な話はテレビや雑誌によく取り上げられるが、今では当たり前のように見ているこんな怪奇写真も実は明治時代に登場した時代の変化に適応したスタイルの一つだったのである。

最近ではインターネットに怪奇談などが氾濫している。最先端の情報ツールが妖怪の新しい生息地として浮かび上がってきているのである。そう考えると明治時代の妖怪記事こそはそのさきがけ的現象であり、あらためて検証していくことによって、今日における“妖怪ブーム”を解き明かす鍵を見いだせるかもしれないのである。

湯本豪一
湯本豪一(ゆもと こういち)

1950年東京生まれ。川崎市市民ミュージアム学芸員。
著書『妖怪と楽しく遊ぶ本』 河出書房新社 667円+税、編著『明治妖怪新聞』 柏書房 2,600円+税、他。

※「有鄰」416号本紙では1ページに掲載されています。

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