Web版 有鄰

479平成19年10月10日発行

[座談会]古写真でみる 文明開化期の横浜・東京

古写真収集家 石黒コレクション保存会・石黒敬章
横浜都市発展記念館調査研究員・斎藤多喜夫
横浜都市発展記念館調査研究員・青木祐介
有隣堂社長・松信 裕

左から青木祐介・石黒敬章・斎藤多喜夫の各氏と松信 裕

左から青木祐介・石黒敬章・斎藤多喜夫の各氏と松信 裕

はじめに

横浜町会所(中央左手)と横浜郵便局(右)

横浜町会所(中央左手)と横浜郵便局(右)
横浜開港資料館蔵

松信鎖国が解かれてから5年後の安政6年(1859年)に横浜が開港され、西洋文明が数多く日本に伝えられました。その一つに写真があります。当初は外国人カメラマンによるものが中心だった写真は、日本人の中にも次第に技術を習得する者が生まれ、江戸から明治へと移り変わる時代の風景や人々の生活が写し撮られていきました。

横浜都市発展記念館では、平成20年1月14日まで、「写された文明開化」の展示が開催されていますが、これに伴い、当社は『文明開化期の横浜・東京−古写真でみる風景』を、同館と横浜開港資料館の共編で刊行いたしました。本日は、この展覧会や本におさめられた写真について、お話をお聞かせいただきたいと思います。

ご出席いただきました石黒敬章さんは、幕末・明治期の写真を収集され、昭和41年には石黒コレクション保存会を設立されました。ご自身が収集・編集された『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社)を出版していらっしゃいます。

斎藤多喜夫さんと青木祐介さんは、横浜都市発展記念館調査研究員で、今回の展示を担当され、本の出版にもご指導をいただきました。

斎藤さんは横浜開港資料館に勤務され、都市発展記念館の開館に伴い同館に移られました。横浜居留地や幕末の写真家ベアト、明治中期の横浜写真も研究されています。

青木さんは近代建築史がご専門で横浜や東京の建築や土木遺産について造詣が深いと伺っております。

写真の発明から約10年後に日本人が被写体に

松信写真はいつごろ発明され、どうやって日本に伝えられたのでしょうか。

斎藤実用的な写真の最初と言われているのは1839年です。ダゲレオタイプ、いわゆる銀板写真で、銀板と言っても銀ではなくて、銅の板に銀メッキをして、そこに感光膜をこしらえて撮影をします。

日本には、開国とともに入ってきますが、その前に、最初に被写体になった日本人がいます。栄力丸の漂流民で、全員撮影されているようです。一番有名なのは、アメリカ彦三(ジョセフ・ヒコ)ですが、その写真もある。今、日本にあるのは6枚です。それが1851年ですから、ダゲレオタイプが発表されてから10年ちょっとの頃に撮影されていたんです。

次は、ペリー艦隊に随行していたエリファレット・ブラウン・ジュニアがカメラを携えていて、横浜や下田で撮影している。写真が発明されて普及するのと、日本が開国する時期は、ほぼ重なり合っているわけです。

ペリーが来たときは銀板写真の時代だったんですが、横浜が開港した5年後には、写真の方法が湿板写真に変わってきます。

銀板写真と一番違う点は、ガラスの上に感光膜をつくって、鶏卵紙という印画紙に焼きつけるんですが、薬品と暗箱を一式持ち歩いて、ネガをその場でこしらえる。しかも濡れているうちに撮影から現像から定着までするので、湿板写真といいます。これが開港後すぐ入ってきます。

銀板写真のほうが湿板写真より簡単に撮れる

石黒銀板も湿板も、薬品をそろえて私は撮ったことがあるんです。銀板のほうがやさしいんですよ。ダゲールが1839年に書いた『ダゲレオチープ』という写真の解説書があるんです。それを訳してもらって銀板で撮ったんですが、初めてにしては結構簡単に、まあまあうまく撮れました。

湿板は、あるときはうまくいくんですが、別のときはフレアが入ったりして、あまりうまくない。なぜそうなるのかわからないんです。なかなか難しいものだなと思いました。

斎藤湿板写真は、下岡蓮杖[しもおかれんじょう]も、上野彦馬も、撮影に成功するまでにものすごく苦労したと言っている。一方、鵜飼玉川[うかいぎょくせん]という、フリーマンの仕事を継承して江戸で写真館を開いた人には苦労したという話が全然ない。

湿板写真は、ある人はスッとマスターしてほとんど苦労談が伝わらない。もう一方ではものすごく苦労した話が伝わっている。ちょっと不思議な感じがします。

石黒ほんのちょっとした薬品の調合の違いなどで狂ってくるようですね。

横浜市域の最古の写真を撮ったのはロシエ

斎藤数年前、『幕末明治横浜写真館物語』という本を書いたときに、横浜写真については、今後は外国人が書いたものを翻訳するようになるだろうと思ったのですが、そのとおりになって、その後、外国人の研究家が次々と新事実を発表しています。

P.J.ロシエ撮影・神奈川宿(ステレオ写真)

P.J.ロシエ撮影・神奈川宿(ステレオ写真)
開港直後。右下は滝の橋、その下を流れるのは滝の川、橋の左手の大きな屋根は石井本陣。
横浜開港資料館蔵

その中で大きいのはロシエという人です。ロシエは名前は知られていたのですが、氏素性とか実態がほとんどわからなかった。それを徹底的に追求したのがイギリスのテリー・ベネットさんという人です。彼は研究家でもありディーラーでもあって、自分で研究して価値を高め、それを売る。僕らは逆で、研究して価値が高まると、値が高くなったものを買わなければならない。あるいは買えないという立場なんですが。(笑)

それまでフランス人だと思われていたロシエはフランス語圏のスイス人で、しかもネグレッティ&ザンブラというロンドンのイタリア系の企業から派遣されて中国にいて、日本の開港と同時にイギリス総領事のオールコックと一緒に来ていることがわかりました。横浜まで足は延ばしていたんです。そこで撮影したのがステレオ写真だったということも判明しました。

すると、これもロシエだったというものが続々と発見されて、今や何十枚にものぼります。横浜開港資料館では、前から持っていた神奈川宿と神奈川港の写真がロシエだということがわかりました。横浜市域最古の写真です。

下岡蓮杖にカメラを譲ったのはウィルソン

斎藤ロシエが来たのが1859年で、1860年、開港の翌年には、フリーマンというアメリカ人が写真館を開いています。これは営業写真館としては日本最初です。このフリーマンのことも少しずつ明らかになってきまして、僕は雑貨屋さんが副業でやっていると書いたんですが、そうではなくて、日本に来る前に上海で写真館を開いていて、写真が本業だったらしいんです。彼の作品はまだあまり明らかになっていません。

その次がジョン・ウィルソンというアメリカ人で、横浜で主に活躍したのが1861年です。昔は日本最初の日本人職業写真家、今は横浜最初の日本人職業写真家と言われる下岡蓮杖にカメラを譲った「ウンシン」がウィルソンだった。彼のこともいろいろわかってきました。

昔は、ジョン・ウィルソンの写真は、ヒュースケンの死体写真だけだと言われていたんですが、ベネットさんの後輩筋のドブソンさんという人が、ウィルソンの写真をもとにした版画がドイツの英字新聞に載っているのを見つけたんです。最近、そのもととなった写真も発見されました。こんなふうに、続々と新事実が出てきています。

松信有名なベアトが日本に来たのはいつですか。

斎藤インドや中国で仕事をしたのち、1863年の春頃に来日します。その年の7月に、スイスの特派使節団に随行して江戸に入り、撮影の仕事をしています。

明治初期、オーストリア人のシュティルフリートが活躍

シュティルフリート撮影・雪景色の本町通り

シュティルフリート撮影・雪景色の本町通り
1875-76年頃
横浜開港資料館蔵

斎藤今までは幕末の話で、いわば第一期、第一世代の時代なんですが、今回の展示や本でとりあげている明治初期の時代は、その意味で言うと、第二世代の時代です。

外国人では、ベアトの写真館を継承しただけでなく、ベアトのもとで修行したことも最近は明らかになってきた、オーストリア人のシュティルフリートがいます。ベアトが第一世代だとすると、ちょうど第二世代で、明治初期に活躍した外国人の中では代表格の写真家です。

シュティルフリートは昔は「偽貴族」などと呼ばれ、ベアトの亜流ぐらいにしか見られていなかったのですが、ドイツ人から寄贈されたシュティルフリートの初期のアルバムを、オーストラリア人のルーク・ガートランという、シュティルフリートの世界中に残っているアルバムをすべて調査している人に見せたところ、極めて貴重なアルバムだということでした。その中の風景写真を見ても、非常にクリアで、アングルもいいと思うんです。

臼井秀三郎と鈴木真一の写真は極めて技術が高い

斎藤日本人では、下岡蓮杖の弟子の世代ですね。その中で、横山松三郎は東京で活躍しましたが、横浜で活躍したのが臼井秀三郎と鈴木真一の二人です。このころが、ある意味では湿板写真の最盛期と言えると思うんですが、技術的な面では相当確立しているのではないか。

鈴木真一撮影・伊勢山からの市街全景(部分)

鈴木真一撮影・伊勢山からの市街全景(部分)
1874年頃横浜都市発展記念館蔵

臼井秀三郎も鈴木真一も、残された写真は極めてクリアで技術が高い。今回の展示では、横浜都市発展記念館の唯一の所蔵の7枚組のパノラマ写真が鈴木真一の作品です。水平線がまっすぐで写真のつなぎ目が間近に寄って見ないとわからないぐらいきれいです。技術的なことを石黒さんに見ていただいたら、これはすごい技術だと判定してくださったので、購入に踏み切ったんです。

石黒私たちがパノラマ写真を撮ると、歪みが必ず出る。水平線を真ん中にして、かなり長焦点で平行に移動すればできると思うのですが、そういうことがもうわかっていたのですね。

斎藤臼井秀三郎は、あまり知られていなかったんですが、横浜開港資料館には2冊アルバムがあります。それからギルマールというイギリスの博物学者が臼井を雇って、二人で日本を旅行して撮影させた写真をイギリスへ持って帰り保存されていますが、それは『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』として出版されました。その写真集を見ても非常にすぐれた技術を持っていたことがわかります。

英字新聞『ファー・イースト』で活躍したミヒャエル・モーザー

『ファー・イースト』2巻4号

『ファー・イースト』2巻4号
写真はイギリス領事館
1871年7月
横浜開港資料館蔵

斎藤もう一つ、明治初期というと忘れられないのは、『ファー・イースト』という写真貼り込みの新聞です。ここにはいろいろな人の写真が入っている。

青木『ファー・イースト』はスコットランド生まれのジョン・R・ブラックが横浜で発行した英字新聞で、1870年5月30日の創刊号から1875年8月31日号で中断するまで、あわせて98号が発行されています。各号には紙焼き写真が直接貼り込まれていて、その総数は570点を超えるんですが、掲載紙の発行年月がはっきりしている点からも貴重な史料です。

斎藤特に初期にはオーストリアのミヒャエル・モーザーが活躍した。

青木横浜に来たのは16歳のときです。それで、すぐに撮っている。

石黒ブルガーの助手として来たので、最初は余りうまくなかったはずですよ。

斎藤だけど『ファー・イースト』に残されている写真を見ると実に見事ですね。

石黒最初のころはブルガーが撮っている可能性もゼロじゃないと思うんです。

青木モーザーは、14歳でブルガーのところに弟子入りしている。ブルガーが東アジア艦隊つきのカメラマンで来日するときに助手として一緒に来るんです。

石黒長崎に来て、それから横浜へと回っているようです。長崎の上野彦馬のところでも撮っています。

青木横浜に到着したのが1869年10月で、その後ひと月ほどでブルガーは横浜を離れますが、モーザーは残った。その翌年の5月には『ファー・イースト』の刊行が始まりますので、このときにブラックと接触があったのかもしれません。

その後のモーザーは通訳としてばかり名前が出てきますが、有名なのは明治6年のウィーン万博に日本側の通訳として連れて行かれた。そこで『ファー・イースト』との関係が切れて、その後は復帰することなく、76年のフィラデルフィアの博覧会や78年のパリ万博、そういうところでも通訳として活動していたようです。

石黒『ファー・イースト』では、鈴木真一、下岡蓮杖、内田九一[くいち]、市田左右太は確実に撮っていて、それらは、ある程度までわかるのですが、モーザーの写真がどれか、決め手がないのです。

青木4巻以降でもモーザーの撮ったストックを使っている可能性はあります。

石黒ありますよね。

複製を売って、一粒で二度おいしい写真師稼業

松信こういう写真はお金をもらって撮るのですか。

石黒やはり『ファー・イースト』がお金を払っているのでしょう。

松信個人の写真は、お金を払って撮ってもらう。

石黒最初は写真館に行って撮ってもらう。でも、有名人とか芸者だと、写真師が後で売っちゃうんです。肖像権などないですから。お金をいただいて複製して売っちゃうし、その複製をまた複写して売る人も出てくるんです。一粒で二度おいしい(笑)。だから写真師はもうかったのですね。

下岡蓮杖は弟子の臼井秀三郎とか横山松三郎と写真を融通し合っていたような節があるんです。それはきっと蓮杖がいいかげんだったから、平気でやらせていたのでしょうし、著作権もない時代ですから、蓮杖の写真をどうも臼井が売っていたらしい。あるいは逆ということもないわけでもない。その辺はかなり融通性があったようです。

最近、写真に写りこんでいる道具などから、誰の写場なのかが随分わかってきて、撮影した人を特定する手がかりになっていたのですが、例えばブルガーが、彦馬とか蓮杖の写場でスタジオ貸しをしてもらって撮影していたりすることがわかった。横浜開港資料館で拝見した写真も、蓮杖の写場なのに、臼井のスタンプが裏に押してある。蓮杖の写場だから必ずしも蓮杖が撮影したとは言えなくなってきたのが、今、難しいところです。

横浜・築地居留地の擬洋風建築が写される

松信この時代の被写体にはどんな特徴があるのですか。

青木今回の展示では「写された文明開化」というタイトルのとおり、文明開化の要素を前面に出しています。展示では、洋風建築と題したコーナーを一つ設けて、横浜の山下・山手居留地や、東京の築地居留地で撮影された最も初期の洋風建築の写真を取り上げています。

けれどもこのときに撮影の対象となった建物は、後に洋風建築と言われるものとはまた違っていて「擬洋風」とか「和洋折衷」と言われます。実際に建てる職人たちの技術はまだまだ伝統的なものが残っているので、和風と洋風が組み合わさったような随分奇妙な建物ができた。

山手のアメリカ公使邸

山手のアメリカ公使邸
横浜開港資料館蔵

横浜でも幕末からできていく外国公館などは、こうした建物です。具体的に言いますと、ベランダを巡らすスタイルで、窓も洋風で縦長の窓なのですが、一方で、玄関にはお寺のような唐破風[からはふ]がついている。東京では築地に外国人向けの築地ホテル館ができますし、第一国立銀行が今の兜町のところにできます。

いずれも建設は、現在の清水建設の基礎をつくった二代目清水喜助ですが、彼は横浜にも関わっていましたから、居留地で目にした洋風のものを、実際に東京での建設に活かしていった。

東京・第一国立銀行

東京・第一国立銀行
横浜開港資料館蔵

特に第一国立銀行がおもしろいのは、城郭風の塔が洋風の建物の上にポンとつく。塔がこの時期の洋風建築の一つのキーワードですが、江戸の町中にはなかった新しい要素が文明開化の町に登場していくのです。

石黒まだ塀があるのですよね。建物にはブロンズが張ってあるんです。

江戸時代の町に洋風建築がポツンポツンと出現

斎藤私が一つおもしろいと思っているのは、横浜町会所の写真なんです。これは今の開港記念会館のところにあった建物で、明治初期横浜三大洋風建築の一つとされています。

三大というのは、町会所、横浜駅と税関で、いずれもブリジェンスというアメリカ人の建築家がつくった洋風建築で、この写真には、文明開化を象徴するガス灯も写っている。おもしろいのは、全く昔風の仕舞屋[しもたや]風の家も一緒に写っていることです。

明治初期は、建物が和風と洋風が折衷されているだけじゃなくて、町全体として見ても、基本的には江戸時代から引き続く町なんだけれど、そこにポツンポツンと点のように洋風建築が建つ。それを線で結んだのが、一つは京浜間の鉄道なんです。さらに新橋から京橋まで線で結んでしまおうというのが銀座の煉瓦街です。点と線ですね。そこに洋風のものができ上がってくる。でも全体として見ると、江戸時代から続く和風のものが下地になっている。

当たり前だった古い町並みの写真は少ない

臼井秀三郎の写真館から見た太田町通り

臼井秀三郎の写真館から見た太田町通り
横浜開港資料館蔵

石黒残念なのは、元の家並みというか、古いほうは当たり前なので、写真に撮られてない。写真師は、新しくできた洋風建築とか、橋とか、神社仏閣とか、売れるものを撮るわけです。ですから、当たり前のものがないのです。それを私たちは探しているのですが、ただの町がなくて困っちゃうんです。

松信表には立派なビルが建っているけれども、路地裏に入ったら昔ながらのうちがある。

石黒銀座の煉瓦街の表側はあるけれど、裏側の写真がないんです。江戸東京博物館で模型をつくるときに裏がないので苦労したらしい。

斎藤それはカメラマンが外国人というだけではなく、日本人が撮る場合も同じで、買うのは外国人が多いんです。つまり、日本人も外国人の目を意識して撮っている。外国人が興味を持つのは、一つは変化しつつある日本です。もう一つは古い日本で、神社仏閣ですね。そのちょうど中間が抜けている。

石黒横浜はだいたいが新しくできたところですから、数多く撮られています。東京の場合は、古い町の風景は非常に少ないです。

斎藤横浜でも、裏通りは普通は残らないんです。太田町に住んでいた臼井秀三郎が自分の写真館の上から撮ったものがたまたま残っていたりしますけれども。

石黒横浜で写真が売れたのは、外国人が土産に自分が行ったところを買うんです。外国人は横浜はかなり歩いている。歩いたところは売れるから、写真家が撮ったんだと思います。東京は、汽車ポッポでわざわざ来るから、非常に限られてしまう。

移りゆく時代の姿を記録している明治初期の写真

松信写すものを選んで撮っていたのでしょうか。

斎藤ただ、以前つくった明治中期の横浜写真全盛期の写真集『明治の日本』と比べてみると、あの時代のほうがもっと極端なんです。本当に新しいものと、うんと古いものと対象が分かれてしまう。相対的な話ですけれども、明治初期は商売っけはあるのですが、もう一つ、移りゆく時代の姿を記録しようという意識が見られるんです。

青木特に『ファー・イースト』は新聞という性格もありますので、明治3年の神仏分離で鎌倉の鶴岡八幡宮の仏教関係の多宝塔や薬師堂などが取り壊される場面や、翌年の横須賀造船所第一号ドックの開所式の写真とか、さらには明治5年の鉄道開通にともなう線路の工事風景や新橋の駅舎などの写真は、ニュース性が高いですね。

汐留の旧新橋駅の駅舎は、このときの写真があったから外観の復元が可能になったんです。『ファー・イースト』は、明治初期の東京の記録写真としては随分貴重ですね。

石黒貴重ですよ。

斎藤東京の写真は、1876年にフランスの軍事顧問団の一人として来日したクレットマンのコレクションを、今回のはかなり使いました。けれども被写体は、お城とかお城の周りにできた官庁建築とか、それから当然、銀座煉瓦街とか、新橋駅は関心がありますけれど、あと神社仏閣ですね。

石黒そうですね。ですから新宿とか渋谷、池袋を探したのですが全くないんです。

斎藤撮る場所がだいたい決まっているみたいですね。『ファー・イースト』で、今の青山通りあたりの写真は珍しいので、そういうのは、今回の本に入れました。

石黒それは珍しい。

青木そのあたりは、それこそ江戸時代そのままです。今回、江戸の都市史がご専門の広島大学の金行信輔さんに協力を仰いだのですが、江戸時代そのままだそうです。たとえばお寺の堂宇の配置も、幕末の記録のままに、明治の『ファー・イースト』に写されている。撮影年をさかのぼる形で、江戸時代の資料としても使うことができるという発見が確かにありました。

石黒『ファー・イースト』の東京はいい写真が残っています。

パノラマでないと普通の町並みは写されなかった

小田原城二の丸の銅門渡櫓と住吉門

小田原城二の丸の銅門渡櫓と住吉門
『ファー・イースト』(1873年3月)
横浜開港資料館蔵

斎藤今度の本で非常に貴重なのは、鈴木真一はパノラマ写真が好きだと言うと変かもしれませんが、横浜開港資料館にある「明治初期ニ於ケル横浜及其近傍[そのきんぼう]」というアルバムの中に、各種パノラマ写真があるんです。横浜の町会所の上からとか、伊勢山から撮っていて、そういうのは新しい洋風建築も裏通りも基本的に全部写る。逆に言うと、パノラマとか遠景でないと普通の町並みは写らない。

松信神奈川県内の写真も収録されていますね。

青木居留地の外国人が旅行や避暑に訪れることが多かった、金沢八景や鎌倉、江の島、箱根、小田原などの写真も収めています。

斎藤県内の主な写真は、「明治初期ニ於ケル横浜及其近傍」に収録されているものですが、このアルバムが制作された状況を考えますと、一人の写真家が営利を目的につくったとは考えにくく、おそらく神奈川県の依頼によるものと思います。

ファッションの最先端やトリック写真も

松信当時の人々の様子を写した写真もありますね。

石黒慶応4年の彦馬が撮ったのに、布の切れっ端を持っている写真が3枚も4枚もあるんです。手ぬぐいの小さいものなんですが、何だかわからないので、ファッションの人に聞いたら、もしかしたらハンケチの始まりかもしれないと言うんですね。石井研堂の書いた『明治事物起原』では、明治初年にハンカチーフを訳して袋巾という字を当てて、「くわいちうてぬぐひ」(懐中手拭い)と訓読みをしている。ハンカチじゃなくてハンケチと言ったらしいのですが、それが新しく入ってきて、ファッションの最先端で自慢だったのかもしれない。でなければ高い金を払って、そんな布を手に持って写真を撮らないと思うんです。そういう想像ができるのがおもしろいですね。

風呂

風呂
右端の女性はオリジナルとは顔が入れ替えられている
石黒敬章氏蔵

横浜写真で、フォトモンタージュという細工がしてある写真を発見したんです。日下部金兵衛が写したセミヌードの入浴シーンなんですが、顔だけ美人にすげかえているんです。金兵衛は最初に撮ったのがどうも気に入らなくて、お気に入りのモデルの顔に、首から上だけ変えたフォトモンタージュをやった。そういうことが当時行われていたということがわかったんです。

青木判断できるのは、どういうところなんですか。

石黒オリジナルは写真が非常にクリアなんです。そういうトリックをこっそりやっている。金兵衛は売れるためにそうしたんですよ。そのきれいなほうの娘は、ほかの写真にもヌードで出てくる。私の家にもこの娘がたらいで行水しているのがありまして、非常に売れっ子だったので、たらい回しにされたと書いたことがあります(笑)。その後には、外国人の体に日本人の顔をつけて、非常にきれいなヌードをつくったものもあります。

勝海舟をはめ込んだモンタージュも

斎藤今回の展示で幕末のトリック写真という、小さいコーナーをつくるんです。それはアメリカ公使のファルケンブルグという人と日本の侍を撮った写真で、3種類ぐらいあるんですけれども、一つは明らかに勝海舟をはめ込んでいるというのがわかったんです。というのは、勝海舟のいない写真があるんです。オリジナルと、差し込んだのと両方の写真が出てきたのでわかったんです。

本当におおまじめに、ファルケンブルグと勝海舟が一緒の写真におさまる可能性があるかどうか、何年何月ならあり得るかと一生懸命調べていたんです。

石黒そういう問題ではなかったんだ。

斎藤モンタージュだったのです。

撮影された場所や年代を推理するおもしろさ

銀座煉瓦街

銀座煉瓦街
現在の銀座6丁目と7丁目の間から4丁目を望む
石黒敬章氏蔵

松信古写真には、場所や年代を推理していくおもしろさがありますね。

石黒今日、銀座の写真を持ってきたのですが、これはどこを撮ったのか。今までの本では銀座としか出ていなかった。明治7年にできたガス灯があって看板がついた建物がある。ほかの写真で調べますと、偶然同じ建物があって、「共同社」という看板があるんです。それで、ぐにゃっと幹が曲がった同じ松の木がある。その共同社を調べましたら、『近事評論』という本を出版をしていて、明治9年の6月から16年の5月まで弥右衛門町にあったということがわかった。弥右衛門町は今の銀座5丁目なんです。ということは、手前の通りが交詢社通りになる。

最初の銀座は、四辻に松を植えたんです。並木は楓とか桜を入れて、交差点だけ松を植えたということですから、交詢社通りと銀座の中央通りとの交差点だったのがわかった。そこに、鉄道馬車が15年6月21日に通るんですけれども、それがないので、9年から15年の間ということがわかる。

何枚も重ねると場所や方向、時代が読み解けていく

石黒次に、もう1枚の日下部金兵衛の写真をパソコンに入れて拡大しますと、同じひん曲がった松が一辻向こうにあるんです。共同社の看板はそれにはない。

ということは、共同社ができる明治9年以前の写真で、手前にも松がありますから四辻で、資生堂のある花椿通りになる。一本新橋寄りから銀座4丁目を見ているわけですね。この場合はその曲がった木がキーポイントで、四辻から一つ向こうですから、つじつまが合うんですね。(笑)

1枚だとわからないのですが、こうやって何枚か重ねて推理していくと、場所と方向と時代がだんだん読み解けていくのがおもしろいです。

青木私たちも石黒さんの写真集を参考にして、東京のものを同じように場所を比定していったのですが、クレットマンの写真の中に、本人が書いたキャプションが間違っているものが幾つか見つかりました。

クレットマン本人が京橋と書いたものが、実際の京橋の写真と比べるとどうしても合わない。永代橋も、地図や対岸の写真などと比べると、どうしてもおかしいということになって、訂正しました。

水道栓から蛇口の由来までたどり着く

一丁倫敦

一丁倫敦
現在の馬場先通り、千代田区丸の内2丁目(右)と3丁目(左)
石黒敬章氏蔵

飲水泉

飲水泉
上写真の一部

石黒丸ノ内の馬場先通りあたり、一丁倫敦[いっちょうろんどん]の写真があります。この右側にある、筒みたいなものは何だろうかと不思議だったのですが、それは飲水泉という水道の始まりらしいんです。馬と人と共通の水飲み場だったのですね。車が写っていますけれども、ほとんど馬の時代ですから、馬の糞なども写っている。ここで「ふーん」と言ってもらわないと、ちょっと話が続かないんですけど(笑)。それは明治41年に倫敦水槽協会から寄贈された水道の栓らしいです。もともと水道というのは横浜から多分始まって、その栓の頭の、水が出るところは龍がついていたんですってね。龍の口から水が出た。

青木東京は龍ですか。横浜は獅子です。

石黒ロンドンは獅子だったんですって。東京は龍になって、それで各家に水道が引かれたときに、龍ではおこがましいから、一段ランクを下げて蛇にしようというので、蛇口という名前がついたんですって。そういうことが写真に写った水道栓から寄っていくと蛇口までたどり着いておもしろいんです。ちょっと蛇足でしたけど。(笑)

それから、港区の愛宕山の上にやぐらがある写真がありまして、知人の森重和雄さんに調べてもらったら、天文台だと言うんです。愛宕山に、「天文台完成明治八年一月十八日」と曙新聞に出ているそうです。明治7年に金星の日面通過というのがあったんです。それは上野彦馬が撮っていますし、横浜でも観測されて、天文に非常に興味が持たれたらしくて、その前後に天文台が各地に建った。

写真に写っている建物とか諸物などから年代を割り出すのはおもしろいですね。

『ファー・イースト』は原本によって写真が違う

松信『ファー・イースト』は、原本は何冊もあるそうですね。

青木もともと『ファー・イースト』は焼き付けの写真をそのまま貼りつけていますが、当時は1枚の原板からたくさんプリントができなかったので、原板を複数用意して何種類も写真があるということは、今までも言われていました。横浜開港資料館に2種類の原本がありましたので、それを比較して、原本によって貼られている写真がどう違うかを調べてみたのです。

石黒立っている人の数が違うとかね。

青木そうですね。数が違うとかポーズが違うとか、遠景写真では、当然露光時間がありますから、船などは位置が全然違っていたりする。今出版されている雄松堂発行の復刻版は、尾張徳川家の原本を元にしているとは言うんですが、徳川家の原本の1冊を復刻版と一度対照させたら半分以上写真が違うんです。そういう視点で復刻版を見ると、写真とタイトルがどう考えても合っていないとか、ほかの原本の写真にそれにふさわしいタイトルがついていたりと、細かい指摘ができるということに気がつきました。

ある一時期にまとめて原板をつくって、その後そういうストックをもとにして紙面を構成していったのではないか。掲載されている刊行年と撮影時期とは同一視できないということは『ファー・イースト』を見ていく上では注意しなければいけないですね。

石黒発行年代より古いということはわかっても。

青木先ほどの石黒さんのお話のように、写し込まれているものなどから、もっと詳しく撮影年代を絞り込んでいくことは、まだまだ『ファー・イースト』の写真でもできると思っています。

時代の変革が読み取れる写真集

松信今回、編集された本の特徴は、どういったところでしょうか。

斎藤一言で言うと、変革期だなというのがよくわかりますね。明治初期はいろんな形で日本が変わっていった。まず風景写真を見れば、新旧がごちゃまぜの時代なんです。

黒田清隆

黒田清隆
横浜開港資料館蔵

人物の写真は、展示ではその辺はかなり強調しました。伊藤博文がチョンマゲを結って刀を持っている写真があるし、ザンギリ頭の黒田清隆の写真もあります。ザンギリ頭に小刀だけ差しているとか、政府高官でも木戸孝允の写真は刀を持っていない。大久保利通の有名な写真だと、ひげを生やして洋服を着ているとか、岩倉具視は和服を着て、よく見ると靴をはいているとか、そういう写真が展示ではたくさん出ています。つまり文明開化期は、変革の時代なんですね。

洋装にしても、実は余り普及はしないんですけれども、新しいものが入ってきて定着してみたり、第一国立銀行の建物みたいに新旧ごちゃまぜで、何か新しい珍妙なものが生まれてみたり、あるいは昔からのものがそのまま残ったり、そういういろんな変化の様が写真で見ると、文章よりも非常にわかりやすい。一目見れば、明らかに変革の時代だなというのを読み取ることができるのが、この時期の写真集の一番おもしろいところだと思います。

石黒そういう意味では、いい時期に写真が入ってきましたね。

斎藤そうですね。技術的にはもう確立されていますから、その技術でもって、こういう時代を写し撮ってくれたというものがかなり豊富に残っています。それにありがたいことに、横浜はほかの都市よりたくさん残っているんです。

今回の写真集は、『ファー・イースト』や横浜開港資料館が所蔵するアルバム、単体の古写真などから、明治初期から10年代のものを選んで約700点の写真を収めることができました。また、たいへん鮮明な印刷で紹介することができました。

横浜開港資料館では、これまで古写真や絵葉書などの画像資料を精力的に集めてきました。それらは幕末期の『F・ベアト写真集』、明治中期の『彩色アルバム 明治の日本』、そして、明治末期から大正時代にかけての『100年前の横浜・神奈川』という出版物となってご覧いただけるようになりました。今回、明治初期からの写真を集めたものを本の形にすることができましたので、これでようやく幕末から大正期にかけての写真集の四部作が完結しました。

石黒いい写真は高値で、私はもう買えないんです。何かわからないような写真を安く買ってきて、それに価値がつくとうれしいですね。それで沖縄の写真を30枚ほど安く買ったんです。首里城を修理しているというのがわかったので、こんな写真もありますよと、沖縄に手紙を書いたら、首里城書院の鎖の間を、ちょうど復元しているところだったそうで、送った写真が瓦の1枚1枚までわかるシャープな写真だったので喜んで、それをもとに鎖の間が復元されたんです。

安く買った写真が、そうやって役に立つとうれしいですね。ベネットさんに見せたら、これはすごい写真だと、褒めてくれました。

松信長時間ありがとうございました。

石黒敬章 (いしぐろ けいしょう)

1941年東京生まれ。
著書『ビックリ東京変遷案内』平凡社 1,600円+税、『明治・大正・昭和東京写真大集成』新潮社 20,000円+税、他。

斎藤多喜夫 (さいとう たきお)

1947年横浜生まれ。
著書『幕末明治横浜写真館物語』吉川弘文館 1,700円+税、他。

青木祐介 (あおき ゆうすけ)

1972年大阪府生まれ。
共著『地中に眠る都市の記憶 地下遺構が語る明治・大正の横浜』横浜都市発展記念館 953円+税、他。

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