Web版 有鄰

473平成19年4月10日発行

[座談会]横浜開港と五雲亭貞秀

関東学院大学文学部教授/横田洋一
東京大学大学院教授/木下直之
神奈川県立歴史博物館学芸員/桑山童奈
有隣堂社長/松信 裕

左から、桑山童奈・横田洋一・木下直之の各氏と松信 裕

左から、桑山童奈・横田洋一・木下直之の各氏と松信 裕

はじめに

松信横浜は、2年後の2009年に開港150周年を迎えることになり、既にいろいろな形で、イベントなどが計画されております。安政5年6月(太陽暦=1858年7月)、日本とアメリカの間に修好通商条約が結ばれ、翌安政6年(1859年)6月に、横浜は長崎・函館とともに開港することになりました。ペリーの来航から6年後のことになります。

黒船の来航や横浜開港への関心が高まる中で、浮世絵はそれらをジャーナリスティックに紹介するものとして、膨大な数の作品が江戸の浮世絵師によってつくられました。

本日は、横浜の浮世絵を描いた絵師の中で、最もすぐれた作品を数多く残している五雲亭貞秀[ごうんていさだひで]について、また、当時浮世絵が果たした役割や浮世絵史の中での位置づけなどをお聞かせいただきたいと存じます。

ご出席いただきました横田洋一先生は、関東学院大学文学部教授でいらっしゃいます。日本近代美術史をご専攻です。神奈川県立歴史博物館に長く勤務され、有隣堂が出版いたしました『集大成横浜浮世絵』刊行の際には、中心になってご指導をいただきました。

木下直之先生は、東京大学大学院人文社会系研究科教授で、19世紀の日本美術に関心を寄せていらっしゃいます。ご著書『美術という見世物』(平凡社)で1993年度サントリー学芸賞を受賞なさいました。

桑山童奈さんは、神奈川県立歴史博物館学芸員でいらっしゃいます。浮世絵に描かれた神奈川の名所絵を中心に、月岡芳年など、明治期に活躍した浮世絵師なども研究されています。

江戸の版元が「横浜」に注目して売り出す

松信まず、横浜浮世絵とはどういう作品を指しているのでしょうか。

横田「横浜浮世絵」という名前は昔からあったわけではありません。幕末に横浜が開港して、特にヨーロッパ系の人たちが横浜に来る。それによって、浮世絵はある意味でジャーナリスティックな要素がだんだん大きくなってくる。目ざとい江戸の出版資本が”横浜”という町と、そこに大勢来ている日本人が見たことのないような異国の不思議な姿・形をした人を描いて売り出せば儲かるのではないかと考えたわけです。

それから、横浜は急に開港したわけではなくて、ペリーの来航や、それ以前にもほかの外国船が日本の近海に来ていますから、それぞれ関心を持って海外情報や知識を集めていたと思うんです。つまり日本が鎖国を解いて、海外に向けて初めて門戸を開いたという大事件に絵画的な要素をうまくからめて、啓蒙的といいますか、日本の人々に知識を与えようという意図もあって製作された浮世絵のことを横浜浮世絵と呼んでいます。

外国人が我々とどう違うのか。今、日本に来ている人たちは、東洋の我々とどこがどう違って、どこが違わないのかを絵画的に表現して伝えようとしたわけです。

万延元年2月の貞秀の作品で始まり明治5年に終わる

貞秀「神名川横浜新開港図」万延元年2月

貞秀「神名川横浜新開港図」万延元年2月
神奈川県立歴史博物館蔵

横田人間の一番の基本的な関心は、人間そのものにあるわけで、自分たちと違う異国の人を表現した。これがまさに人々の興味を引いて、万延元年(1860年)、文久元年(1861年)という、開港した翌年、翌々年の2年間で400〜500種、点数にしたら相当な数が出版されて、爆発的な売れ行きだった。人々の要求にぴったりで、なおかつ、明治になっていくなかで、日本文化の中に異国文化を取り入れる基本的な土台をつくった。そういう意味で、横浜浮世絵は非常に大きな役割を果たしていると思います。

松信時代はいつからいつ頃までですか。

横田浮世絵の流れで言えば、末期浮世絵に入ります。始まりは、五雲亭貞秀の万延元年(1860年)2月の作品「神名川横浜新開港図」です。終わりは、これは私の解釈なんですが、開港以後、横浜では、欧米のさまざまな人との異文化交流の中で生まれた、いわば自然発生的な民の文化があり、横浜浮世絵もそこに位置づけられる。その後明治になって明治政府による施策、つまりお上からお仕着せの文化が主流になっていく。制度的なものも含めてそうした基盤が出来上がったのが明治5年という年で、それを象徴するのが新橋−横浜間を走った鉄道の蒸気車だろう。そういう意味で、横浜浮世絵の終焉は明治5年としたい。それ以降は文明開化絵といいますか、東京を中心とした文明開化の様子を描いた浮世絵になっていく。

突然出現した刺激的な町「横浜」を描く

木下横浜浮世絵というものが短期間に大量に出回り、なぜこれほどの商品価値を持ってしまったのかということを考える、それは横浜の出現ということにつきます。ある時期に突然横浜という町が生まれ、大変な注目を浴びる。それまでの日本に全くなかったような経済活動が起こり、それに伴って新しい文化が起こる。とんでもなく刺激的な場所が短期間の間に出現したという感じがするんです。

開港から1年ぐらいで、町ができ上がっていますね。ほかの日本の都市とは比較にならないでき上がり方をしている。その姿をかく絵師がいる。そうした横浜浮世絵の面白さに非常に関心を持ってきました。

桑山「浮世絵」と言われるものは、そもそも情報が多い版画だと思うんですけれども、横浜浮世絵はさらに、見たことのない外国人とか、横浜の新しい町をかく。特に貞秀は赤い短冊で、ここは本町何丁目とか、こちらは海岸通とか、しつこく書くんです。さらに貞秀以外の浮世絵師になりますと、アメリカはどういう国だとか、異国言葉で、例えば「月をまアんといふ」というようなことをかいています。横田さんがおっしゃった「啓蒙的」という意味もあり、当時の人にとっては絵もあるし、言葉でも情報が入ってくるし、とても面白いものだったと思います。

横浜開港を契機に才能を開花させる

松信力作が一番多いのは貞秀ですか。

横田点数の多さでは芳虎[よしとら]、芳員[よしかず]という順序で、貞秀が一番ではない。それでも100点以上も描いていて、貞秀はまさに横浜開港を契機に才能を開花させた絵師といっていいと思います。

松信貞秀はどういう系譜に位置する絵師ですか。

横田横浜浮世絵の絵師で一番多いのは歌川国芳系で「芳」がつくんです。芳虎、芳員、芳幾、芳盛…と20人近くいる。それだけにたくさん作品を残しています。貞秀を我々はふつう、五雲亭貞秀といいますが、「五雲亭」は号で、正確には歌川貞秀というのが学問的なのかもしれません。けれども、貞秀を生んだ国貞門下は同じ歌川派でも系統が違う。国貞、すなわち三代豊国門下は、貞秀以外にも何人かいますけれども、大した絵師は出ていない。

貞秀の作品はほかの絵師の作品と並べると、抜群に心にヒットするというか、訴えかけるものがある。ですから、貞秀が横浜浮世絵の第一人者というのはずっと前から言われている言葉です。亡くなられた石井光太郎さんという横浜の生き字引みたいな人が、「貞秀、いいよね」と言い続けていたぐらいですから。

下絵が細かく彫師仲間の鼻つまみ者

貞秀の顔

貞秀の顔
「扇橋文池堂社中席書之図」より

横田貞秀の特色は、若いころから海外に関する知識が頭の中に入っていて、ある本によれば、洋書、多分、外国の新聞や雑誌の切り抜きだと思うんですが、そういうものもたくさん持っていたようです。非常に勉強家で、性格的には、どっちかというと心煉り・むっつり型で余り人に好まれない。神奈川県立歴史博物館の展覧会図録『横浜浮世絵と空とぶ絵師五雲亭貞秀』の裏に貞秀の横顔を載せました。「扇橋文池堂社中席書之図」という自分の絵の中に出てくるんですが、頭にたんこぶが二つある。どうも一筋縄ではいかないような顔をしている。これは私の感じです。

いろいろエピソードはありますけれども、一つのことを徹底的にやるタイプだったようです。特に出版社泣かせといいますか、彫師泣かせといいますか、貞秀は下絵を非常に細かくかく。それを版木に彫るのは彫師なんです。貞秀の作品は別にすごく売れるわけじゃないのに、こんなにいっぱい彫らなければいけないということで「どうかもうちょっと省略してかいてください」と言うと、「わかった」と言って持ってくるのが、また同じようで、彫師仲間の鼻つまみ者だったと言われている。これは文献が残っているんですが、それくらい一生懸命やった。

それから、『横浜開港見聞誌』という本は、横浜の町の案内だけではなくて、外国や外国人についてすごく勉強した形跡がその中にある。

彼は、情報源として、国芳系ほど海外の資料を手に入れることができず、また駆使することもなかったと思うんです。それで自分なりに工夫して、一生懸命努力して自分で探して見つけた。ですから、最初の彼の浮世絵は、それ以前に長崎にあった、オランダ人をかいた長崎版画をうまくごまかして使って、いかにも横浜浮世絵にしたという要素があります。これはなかなか見抜けないぐらいすばらしいできで、とにかく丹念に、丁寧に、人の何倍もエネルギーを費やして作品に取り組むということが、見た人にとって印象深く入ってくる。

貞秀「御開港横浜之全図」 万延元年頃

貞秀「御開港横浜之全図」 万延元年頃
神奈川県立歴史博物館蔵

もう一つは、後で「空とぶ絵師」という形で話しますけれども、横浜浮世絵で、彼は鳥瞰図的なものを開花させるわけです。「御開港横浜之全図」というものすごい大作を何度も改訂して描く。また非常に細かい人物像を描く。これは国芳系の絵師とは全く違う絵画的な印象を与える。美術としてすぐれていたので、横浜浮世絵の第一人者と言われてきたんだと思います。

版本の挿絵でスタートし、10年ほどで一流に

松信横浜浮世絵をかくまでは、貞秀はどんなことをしていたんですか。

横田貞秀は文化4年(1807年)、下総(千葉県)の生まれです。国貞の門人になったのはいつなのか、はっきりわかりませんが、最初の作品は文政9年(1826年)です。19歳のときに、『彦山霊験記』の版本の最終丁のところに「えびすと大黒」という挿絵をかいています。

文政11年には、国貞門下11名の中で上から4番目に位置するわけですから、かなりの出世です。

それから、曲亭馬琴の有名な『傾城水滸伝』という、大当たりした本がありますが、その挿絵は、当代の一流絵師たちが描いているんです。貞秀もそれを担当していますから、天保6年(1835年)の時点で、すでに一流の絵師になっていたんだろうと思います。

初期の作品は、本の挿絵がほとんどで、天保末期から一枚絵の独立した版画をかくようになります。このころの作品は、ほかの絵師と同じように武者絵であったり、美人画であったり、花鳥画であったりで、別にどうということはない絵です。

嘉永元年(1848年)に版本としてちょっと有名といいますか、結構売れた本で『海外新話』という阿片戦争を取材した作品がありまして、これの挿絵もかいています。

嘉永2年の浮世絵の番付では、全体の浮世絵師の中で5番目にランクされ、さらに明治元年には、錦絵の部で番付表のトップになります。

鳥瞰図や国絵図は嘉永年間の富士登山が影響

横田嘉永年間というのが非常に大事で、嘉永の初めに貞秀が富士登山をする。5、6回続けて行ってるんだと思いますが、富士の頂上から見た眺めが、それ以降の彼の作品に大きく影響するんです。

一つは、高いところから見下ろす視点の、鳥瞰図、俯瞰図という要素ですね。もう一つは、富士山の頂上から見渡すと、遠くのものが具体的には見えません。幾何学的、セザンヌみたいに円筒とか円錐に見えるとは貞秀は言っていませんが、要するに幾何学的に見えるということが、彼の考えの中にぴたっと入ったのではないか。

それ以降、だんだん版本類が少なくなっていって、一枚絵というものの中で、鳥瞰図や、いま幾何学的と言いましたが、国絵図という、甲斐国とか、武蔵国、相模国とかの普通の地図に興味を持つようになる。その二つの特徴が出てきます。

ちょうどそのころ”横浜”という新しい、今まで見たこともないような、どこにもない町がたった1年でつくられて、さらにその町並みがどんどん進化していくわけです。その町の上空を鳥のように自由に飛び回って、空から横浜を描きまくる。

全体的にみると、貞秀は初期の段階では人物を結構かきますが、比率から言うと、人間よりむしろ事物的なものに興味があったのではないかと思います。

大作の絵図や一覧図を集中的に描く

貞秀「横浜本町并ニ港崎町細見全図」 万延元年4月

貞秀「横浜本町并ニ港崎町細見全図」 万延元年4月
神奈川県立歴史博物館蔵

松信絵図や一覧図というのはいかがでしょうか。

桑山万延元年ごろといわれる「御開港横浜之全図」が一番大きくて、一枚で1.8メートルぐらいあります。これはもう浮世絵という枠を超えている感じです。万延元年には、「横浜本町并ニ港崎町細見全図」など、鳥瞰図的なものが数枚ありますが、一方からだけではなくて、あらゆる方向から横浜を見下ろしているという感じです。

木下いずれも同じ時期ですか。

桑山万延元年に集中的にかいていますね。

木下それぞれ、見ている角度が違うわけですね。

貞秀は、大坂も数点かいているんです。大坂の町を一望できる絵はあまりないんですが、大坂城、商人たちの町、港という、やはり三つの視点からかいている。それは大坂という町を見事にとらえていると思うんです。そんなふうに都市をとらえる視点はとてもすぐれていると思います。

横田「大坂名所一覧」ですね。「海陸道中画譜」という版本は、大坂・下関をへて長崎までかいてあります。

松信街道絵みたいなものもありますね。

横田「東海道五十三駅勝景」という、東海道を鳥のように上からずっと眺望した相当に長い図もあります。長崎、京都、日光、利根川、箱館などもあります。

木下私は、鳥瞰図には、権力性と言うとちょっと語弊があるかもしれませんが、見る者が、その都市を自分のものにしてしまうような力があると思うんです。一望に見渡すことができる位置を手に入れるわけです。

貞秀「江戸名所独案内」

貞秀「江戸名所独案内」
慶応元年 東京大学史料編纂所蔵

江戸でも鳥瞰図は描かれてきましたが、ここまで繰り返し、しかも、低空からとらえられた町は、この時期の横浜だからこそという気がするんです。現実に町を見下ろす視点はなかなか与えられるものではありません。江戸で言うと、せいぜい愛宕山ぐらいです。見晴らしのいい名所ですが、一般の建物は低く抑えられていて、特に将軍のいる町ですから、庶民が江戸の中心部を見下ろすことはできない。

横田「江戸名所独案内」では、江戸城が意識的に隠してありますね。

木下江戸城が表現されないことは普通ですが、この江戸図は類例のない異様な感じを受けます。一方、横浜がこれだけ好き放題に眺められるのは、それだけ横浜に大きな関心が集まっていて、それを見たいという人々の要求に応える形でかいていると思います。横浜という新しい世界を本当にとらえている。

定住の証拠はないが横浜に来ていたことは確実

貞秀「横浜開港見聞誌」から

貞秀「横浜開港見聞誌」から

木下貞秀は横浜が開港する以前は、江戸のどこに住んでいたかわかるんですか。

横田嘉永年間は亀戸にいた。漢字者で、明治には演劇人になる依田学海が、そこに貞秀を訪ねた『貞秀訪問記』というものがあります。その後、深川の御蔵前町というところに移ったらしいです。

松信横浜に住んだという説もあるようですね。

横田証拠は見つかっていないんです。来てはいたでしょうが、定住していたかどうかはわからない。

木下『横浜開港見聞誌』の中で、自分が見たことと違うとか、確実に体験している記述がありますから、住んでいたかどうかは別として、当然横浜には来ていた。

横田例えば水兵が昼間から酔っぱらって、グデングデンになって同僚に肩をかりている図とか。

桑山『横浜開港見聞誌』の「本町一丁目大通り異国船頭酒に醉たる図」ですね。

それから「横浜渡来の異人集りて港崎町にて七月盆踊を初む。大に見物人込ける時、異人走り行て是を見る。其次月八日貞秀本町に用事あつて此日行し時、波止場に広き処、異人数多よりつどひ…」という絵もあります。今日は「どんたく」、つまり日曜日だから、外国人たちが広場に集まって太鼓を打ち、輪になって踊っていると、実際に見聞したことを書いているんです。

松信具体的ですね。

「生写[いきうつし]異国人物」のオリジナルは長崎版画

貞秀「生写異国人物 清朝南京人感賞皇州扇之図」
万延元年11月
神奈川県立歴史博物館蔵

松信貞秀は外国人の風俗もかいていますね。

横田外国人は、日本人と容姿その他服装も、いろいろな部分が違う。日本人も今はいっぱい金髪はいますが(笑)、当時はいなかったわけだし、青い目を見たことがない。それを多分、版元が貞秀に命じたんだと思うんですが、彼は困ってしまう。「生写[いきうつし]異国人物」シリーズというもので、作品としてはすばらしいんですが、生き写しですから、「私はアメリカ人やロシア人をちゃんとスケッチしてかいたんですよ」とうそをついています。(笑)

木下そうそう。

横田ネタがばれるのに、すごく時間がかかるんです。「清朝南京人感賞皇州扇之図」は実は長崎版画がオリジナルで、貞秀はわからないように工夫するわけです。人物画も最初は版元に言われて仕方なくつくりますが、なかなかできはいいんです。

木下この二人は、元別々の長崎絵を貞秀がイメージして組み合わせたものですか。

横田これは元の絵を扇子の形を変えたりいろいろとアレンジしてあるんです。

家族や男女が団らんする絵は日本にはなかった

木下黒船が来たとき、摺り物や浮世絵が爆発的に出回わりますね。それが下敷きになっている。黒船のときは船の絵と外国人、つまり乗組員ですが、アメリカ人はこういう顔でどのぐらいの身長で、何を着ているとか、それが1853年のことですね。それから7、8年後、今度は現実に外国人たちが横浜で生活を始めるので、読者の次の関心は、彼らがどんな暮らしをしているのかを知りたい。そうした需要に応えるわけです。

面白いと思ったのは、多くは男女が描かれているのですが何をしている場面かを説明するタイトルにかなり無理がある。単に普通の男と女が、あるいは家族が団らんしている絵は、在来の日本の絵画の中ではないというか、少ないんです。芸者と遊んでいる絵は幾らでもあります。(笑)

芳員「外国人夜学之図」

芳員「外国人夜学之図」
万延元年10月
神奈川県立歴史博物館蔵

だから、新しい文化としてそれがストレートに紹介できなかったんでしょう。典型的なのは一川[いっせん]芳員の「外国人夜学之図」で、実際は、夜、夫婦で、男はくつろいで本を読んでいるという場面ですね。タイトルがすごくおかしいわけで、この時期の外国人の風俗を描くときには、そうした問題がきっとあったと思うんです。

異国人は違うけれど親子の情愛などは変わらない

横田夫婦が、望遠鏡を持って子供を連れて横浜の海岸を散歩して、戯れている「横浜休日 魯西亜人遊行[おろしやじんゆうこう]」という絵があるんですが、絵師の目指したところは、親子の愛情などは基本的には変わらない。しかし、生活や習慣は全く違う。文化はこんなに違うんだということを人々に本当によく知らせてくれたんだと思います。

木下私もそう思います。だから、タイトルに無理が生じてしまう。

横田それは言えますね。

木下『横浜開港見聞誌』を改めて読んで思ったのは、貞秀は、もちろん異国人は我々と違う。違うけれども、人間として同じ部分がある。生活するのは一緒なんだというのが何か所か出てくるんですね。そういう目線といいますか、実際に自分が見た生活をかくという姿勢をはっきり持っていた人じゃないかなと思います。

それに対して、芳虎だとかが外国人のイメージを使って描いた絵は、生活臭がないというか、パタパタと役者が舞台の上に並んでいるような感じがするんですね。

横田依田学海との対談の中で、演劇論みたいな話で、貞秀が、舞台で役者がやるようなものは絵じゃない。生活感を出さなければいけないと述べている。それに通じるところがあると思います。

木下『見聞誌』でも外国の風景は紹介されていますけれども、それは横浜で貞秀が実際に見た絵を通して紹介するという形ですね。横浜で見た石版画や、あるいはガラス絵ですか、玉板油絵を、もう一回貞秀が絵にするという方法で、自分で見たものにすごくこだわった人だなという気がしますね。

桑山実際は確認のしようもないですが、『見聞誌』の後のほうには、これは銅板絵を写しましたと、割と律儀に書いています。自分が見たというものは、外国人もどういうところが違うとか、目は浅黄[あさぎ]色でと書いてあったりして、非常に具体的なんですね。背の高さとか。

その中で、アメリカ人は眼の色や鼻の形まで日本人に似ている、あとの外国人は違うということが書いてあって、それがちょっと疑問なんです。二か所繰り返されていたと思います。

木下面白いなと思ったのは、荒海を越えて、わざわざ日本までやってきた商人たちへの共感みたいなものを示しているんですね。それは、日本はすばらしい国だから、たいへんな苦労してでも海を越えて人と物が集まってくるんだという論理ではあるんだけれど、人間への共感をはっきりと持っている人だなと思いますね。

横田そのとおりですね。

国芳系は外国の新聞を参考に制作

横田横浜浮世絵の絵師は、最初は長崎のオランダ人をかいたものをまねしていたんですが、出島は基本的に男性社会で、男女の組み合わせはなかった。

芳員「異国人酒宴遊楽之図」万延元年12月

芳員「異国人酒宴遊楽之図」万延元年12月
(「フランクレズリー・イラストレイテッド」の挿絵をもとに制作)
神奈川県立歴史博物館蔵

これでは限界があるので、「フランクレズリー・イラストレイテッド」、これは万延元年、日米修好通商条約の批准に行った遣米使節の一行を取材したアメリカの新聞で、挿絵が入っているんです。これを国芳系の版元か誰かがうまいこと手に入れて、それを参考にして浮世絵にした。

それは「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」も一緒で、当時、横浜に一番多くいたイギリス人によく読まれていた。これも国芳系の連中が手に入れて使う。日本人と外国人の生活の差や、使っている持ち物も、建物もひっくるめて、その違いをあらわそうとしたんです。

松信その後、描く対象が変わっていきますね。

横田文久2年(1862年)になると、横浜に来た外国人のルーツを探るという浮世絵になっていきます。日本人は非常に熱しやすく冷めやすいという部分があって、横浜浮世絵はだんだん売れ行きが悪くなる。そこでアメリカやフランスはどういう国なのか、これは国芳系の絵師たちがやるんですが、結構みんないいかげんなんです。

二代広重「亜墨利加賑之図」文久元年9月

二代広重「亜墨利加賑之図」文久元年9月
(背景は「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」に掲載されたスウェーデンのフレデリックスボルグ宮)
神奈川県立歴史博物館蔵

戯作者として有名な仮名垣魯文[かながきろぶん]は、国芳系の絵師と協力して、例えば、ロンドンやワシントン、パリという都市はこうだ、気候はどうで、人口はどのぐらいで云々という文章と、絵は「フランクレズリー・イラストレイデッド」と、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」を利用してつくる。

貞秀はそういう作品は残していないんです。あるとすれば、グレイト・イースタン号という元治元年の1枚だけだと思います。船を描いた大作「墨利堅国[あめりかこく]大船之図」で、ちゃんと文献に基づいてきちんと調べてかいている。海外のいろいろな知識は、貞秀は豊富だと思います。

外国船を描く大作は小舟に乗ってスケッチしたものか

貞秀「横浜交易西洋人荷物運送之図」文久元年4月

貞秀「横浜交易西洋人荷物運送之図」文久元年4月
神奈川県立歴史博物館蔵

松信地図の大作や一枚ものの人物画のほかに、有名な「横浜交易西洋人荷物運送之図」がありますね。

横田五雲亭貞秀の最高傑作の一つであり、横浜浮世絵全体を象徴した作品でもあります。浮世絵の大判を横に5枚続けた、長さ120センチを越す大作で、アメリカなど5カ国の外国船がいて交易の盛んなさまを表現している。

構図は黒船来航の当事者であったアメリカの船を左側に大きく描き、船上での活発な交易の様子を詳細に表現している。良く見れば船には多くの大砲が備え付けられているのも目を引く。他にロシア、イギリス、フランス、オランダの船も描かれ、それらは何れも大形の帆船で、外装はまさに黒船であり、当時の和船から見ればかなり異形で、この作品を見た人々は驚きの目をもって迎えたに違いないと思います。また、ある意味では、それが貞秀のねらいだったのかもしれない。

桑山実際に、横浜の港でこういう情景を見てかいたのでしょうか。

横田本当かどうかわかりませんが、貞秀は小舟に乗ってスケッチに出て、絵筆を誤って海に落としてしまい、異人から鉛筆をもらってかいたともいわれています。

「空飛ぶ絵師」貞秀の想像力は科学に匹敵

松信横田先生は貞秀を「空とぶ絵師」と命名され、その作画を特徴づけていますね。

横田「三国第一山之図」という、これは絵かなと思うような、何かすごく変な不思議な絵があるんです。そこに「登山成就時玉蘭斎貞秀写」、自分は富士登山したと書いてある。あと「大日本分境図成」という版本の富士山を特集した部分に、自分は富士山に登って風が心地よかったとか、そこへ行った状況を書いている。嘉永の初めから嘉永7年(1854年)、安政元年ですが、そこまでの間に登った。これは信じていいんじゃないかと思います。

貞秀「富士山真景全図」嘉永初期

貞秀「富士山真景全図」嘉永初期
神奈川県立歴史博物館蔵

神奈川県立歴史博物館で貞秀の「富士山真景全図」を立版古にして売っています。それは、富士山を真上からかいているんです。計算によると600〜700メートルとか、そのぐらい上からだという。

木下上空。

横田それで、円錐状の余白の辺はのりしろになっていて、張り合わせると立体的な富士山ができ、「胎内巡り」もできる。これはある意味では「起こし絵」でもあるのと同時に、富士信仰のミニチュア版で、「胎内巡り」までできちゃうんですから、すばらしいです。

木下立体的にできる。富士信仰の信者たちが、こういうものを持っていたり、実際に信仰の場で使われるものだったのかな。

桑山大きくて、一辺が1メートル近くはあるので、結構豪華版じゃないですか。

ほぼ正確に伊豆韮山の上空500メートルの視点

貞秀「箱根山富士見平御遊覧諸所遠景之図」

貞秀「箱根山富士見平御遊覧諸所遠景之図」
安政4年 神戸市立博物館蔵

木下真上からというのはすごく貴重な視点だと思いますが、明治になって富岡鉄斎が、真上からの「東盡山頂全図」を大きな屏風にかいていますね。関係あるんですか。

横田これは私の説なんですが、鉄斎のは貞秀の「大日本富士山絶頂之図」が下敷きになっている。非常によく似ているんですね。

木下鉄斎の作品は、六曲一隻の屏風で、火口の絵とかなり離れた遠方図と、両方をセットでかいたことを、美術史家の高階秀爾先生が近代的な視点だと評価されているんです。でも貞秀は50年代に、その視点を手に入れている。この二つの視点でとらえることができたというのはとても面白いし、山頂の風景を体験していないとかけないですね。

横田他に「箱根山富士見平御遊覧諸所遠景之図」の視点がどのあたりにあるか、国土地理院の数値データを使って測定できるんです。神奈川県立生命の星・地球博物館の新井田秀一さんが調べてくれたら、ほぼ正確に伊豆の韮山上空500メートルだった。つまり貞秀はそこに飛んでいたということになるんです。

桑山あと、貞秀には雲がないんです。「横浜道中見物双六」は、ちょっとあるのが気になるんですけど、このタイプには雲がほぼない。

松信雲でごまかさない。

桑山それはすごいと思います。

高度を自由に操り、低空でも空間が歪まない

横田日本の絵画の要素の一つとして、俯瞰的な構図は『源氏物語』の吹き抜け屋台からずっとあるわけですが、一覧図としては、身近なところでは北斎ですね。北斎は朝鮮半島までかいてしまう。

木下そういう意味では北斎はすごく高度が高い。(笑)

横田50センチ四方の中に、日本から朝鮮半島までかいている。

木下貞秀は高度を自由自在に操る。まるでトンビのようですね。だから、低空飛行ができる。高輪を通っていく行列の真上の、かなり低いところからの視点も面白いですね。

横田遠近を使った「東都高輪勝景」ですね。

桑山それで崩れない、空間が歪まないというのはすごいと思います。二代広重が「神名川横浜港真景 横浜海岸図会」という横浜の鳥瞰図をかいていますけど、正確さは貞秀に及ばない。雲もいっぱいあるんです。

横田あと北斎の松島図とか、鍬形惠斎の「江戸一目図屏風」といった伝統もあるわけですけれども、貞秀は、木下さんが言ったように自由自在にえがいていますね。

松信「改正横浜細見図」の本牧あたりの切り立った崖の内側、山を越えたところなどのイメージはどうやってつくったのかなと思います。

桑山これは通りなんかがちょっと歪んでいるみたいですね。きちっとしていないような気がします。

横田貞秀は、現代の横浜で言えば、マリンタワーの高さから見たり、ランドマークタワーの高さから見たり、平気で視点を変えることができたんですね。あそこに上ってみたら、私は貞秀と結構近い視点で見られましたよ。(笑)

貞秀の頭脳というか、想像力と、科学との差があまりなかったんでしょう。

広重の風景版画と異なる独特な世界

松信浮世絵の流れの中で、貞秀はどういう位置づけなのでしょうか。

桑山横浜浮世絵という部分で見ますと、1849年に北斎、58年に初代広重が亡くなります。国芳は61年に亡くなるので、開港したときには生きているんですが、ほとんどかいていない。元治元年(1864年)に浮世絵師の中で一番多く作品を残したと言われる三代豊国が亡くなりますが、この人は美人画、役者絵が売りで、横浜浮世絵はあまりない。ちょっとあいた時期に、貞秀という人がうまくはまったような印象もあります。ちょうど地図、絵図などの需要があったという時代背景もあるのかと思います。

浮世絵はそもそも美人画と役者絵という人物画中心に発達したもので、実は風景版画は本当に最後の天保年間に人気が出てきて、ジャンルが定着すると言われている。それで最後に貞秀が出てくるのは非常に面白いんです。

貞秀の絵は、一覧図とは言えるんですけれど、浮世絵の名所絵とか、風景に位置づけられるかどうかは、かなり疑問なんです。広重があんなに受け入れられるのは、空間表現とかはうまくないかもしれないんですが、雨とか雪の情景とか、お花がきれいとか、お祭りとか、日本の四季をうまく取り入れているんです。貞秀は、横浜は港崎遊廓をかけば桜があったりしますけれども、あとのところは季節感みたいなのがない。これはちょっと独特なんじゃないかなと思っています。

横浜という町そのものが事件だった

貞秀「横浜鉄橋之図」(部分) 明治3年8月

貞秀「横浜鉄橋之図」(部分) 明治3年8月
神奈川県立歴史博物館蔵

木下横浜浮世絵は、横浜という事件を伝えていると思いますね。単に珍しい風景ではなくて、横浜という町そのものが出来事ですから、浮世絵の持っている時事性というか、当時の出来事をどこまで伝えられるか、ぎりぎりのところまでやっている。浮世絵師によってはやっていると思うんです。将軍の徳川家茂が上洛する場面もかいていますし、下関をイギリスなどの4カ国の連合艦隊が砲撃した事件を、「源平八島檀之浦長門国赤間関合戦之図」として、別の時代に見立ててかいていますね。

横田そうですね。末期浮世絵の中には時事性という問題が、つまり事件が多発するので出てくるわけです。

貞秀に限らず、浮世絵の持つジャーナリスティックな要素がかなり増えてきたということじゃないですか。

木下美人画にせよ、役者絵にせよ、時事性はあるわけですね。

桑山ありますね。

木下浮世絵は一番庶民的なメディアであることは間違いない。幕末の浮世絵のニュースメディアという性格に、貞秀も触れていますね。

松信貞秀の横浜に関する最後の作品はどれですか。

桑山横浜の鉄道をかいたものはないんですね。

横田横浜浮世絵としては明治3年の「横浜鉄橋[かねのはし]之図」と明治4年の「横浜弌覧[いちらん]之真景」が最後ですね。版本類では、横浜じゃないけれど、もうちょっと後まであります。それと、貞秀はいつ亡くなったのかわからないんですよ。

木下それが何か意外ですね。明治の初めにはすごく評価されていた人なので。

横田明治11、2年ころと言われています。ほかに三重県鳥羽に伝わる話があります。中田政吉が書いた鳥羽の茶話にある『浮世絵師貞秀の終焉』が芝居として上演されているようです。『仇討奇譚走り鐘心中』という脚本も残っていて、それによると、貞秀は明治4年に切腹の末に亡くなっていますから、史実とは大分異なっています。

貞秀の絵は現在もその場所が確認できるほど正確

松信2年後に横浜は、開港150年を迎えますが。

木下開港前、まず1854年に日米和親条約が結ばれます。しかし、58年に調印された修好通商条約は全然レベルが異なる条約で、現実に外国人が日本人と一緒に暮らし始めることを前提としている。きょうのお話にあったように、容姿や服装はもちろん生活習慣や文化がまったく異なる両者が、横浜で実際に生活を始めるわけですから、いろんな衝突が起こる。多分、貞秀はそこで実際に生活が繰り広げられているところにグーッと目を向けていった人だなと思います。

桑山横浜は、町の形自体は埋め立てた部分が増えたりはしているんですけれども、今も昔もそんなに変わっていない。貞秀の絵を見ると、正確だからですけれども、この場所は今もあるというのが本当によく確認できます。

きょうはお話しに出ませんでしたが、「横浜鈍宅[どんたく]之図」とか「御開港横浜大絵図」の続編と考えられている「外国人住宅図」など、優れた、また歴史資料として活用できる作品も数多く残しています。貞秀は横浜浮世絵を象徴するんだなというのがわかるように、必ず1点は展示に出すように心掛けていますから、ぜひ博物館に足を運んで見ていただきたいと思います。

横田横浜浮世絵というよりも、江戸末期の日本人が持っている海外の知識、たとえば情報提供する仮名垣魯文みたいな人たちは、ナポレオンも、ピョートルのこともワシントンも知っている。それからヨーロッパの都市のロンドンなどもすべて知っている。

ある意味では、我々が考える以上に詳しいと言ってもいい。鎖国と言いながらも、魯文のような人たちはかなりの海外知識を持っていたということは、ぜひとも言っておかなければいけないんじゃないかと思います。

松信きょうは、ありがとうございました。

横田洋一 (よこた よういち)

1941年群馬県生れ。
著書『横浜浮世絵』 有隣堂 2,903円+税、他。

木下直之 (きのした なおゆき)

1954年静岡県生れ。『世の途中から隠されていること』 晶文社 3,800円+税、他。

桑山童奈 (くわやま どな)

1969年東京生れ。

※「有鄰」473号本紙では2~4ページに掲載されています。

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