Web版 有鄰

470平成19年1月1日発行

[座談会]時代小説、私のこだわり

作家/逢坂 剛
作家/諸田玲子
PHP研究所「歴史街道」特別編集員/後藤恵子
ライター・本誌編集委員/青木千恵

左から、青木千恵・諸田玲子・逢坂 剛・後藤恵子の各氏

左から、青木千恵・諸田玲子・逢坂 剛・後藤恵子の各氏

はじめに

青木藤沢周平さんの原作で木村拓哉主演の映画「武士の一分」が公開され、昨年秋には『藤沢周平 未刊行初期短篇』が本になるなど、平成19年(2007年)1月で没後10年になる作家、藤沢周平さんの人気は、ますます高まっています。

時代小説の人気は根強く、佐伯泰英さんの時代小説文庫書き下ろしは、シリーズ累計で1,000万部を超えています。過去の時代・風物を背景にした小説がこれほど人気があるのはなぜでしょうか。

本日は、作家、逢坂剛さんと諸田玲子さんにおいでいただきました。中学時代から探偵小説、ハードボイルド小説を書き始めた逢坂さんは、平成6年に『週刊新潮』で初めて時代小説を発表。12年からは本格的に、江戸後期の人物、近藤重蔵を主役にした時代小説シリーズに取り組んでいらっしゃいます。

『木もれ陽の街で』・表紙

『木もれ陽の街で』
文藝春秋

諸田さんは、向田邦子さんのドラマのノベライズや翻訳を手がけられた後に、平成8年に、時代小説集『眩惑』でデビューされました。新世代の時代小説作家として活躍され、昨年は初めての現代小説『木もれ陽の街で』を発表されました。

お二方をよくご存じの、歴史雑誌の編集員である後藤恵子さんにも、進行役としてご出席いただきました。

時代小説を書くうえで、作家はどんなこだわりを持っているのか。それぞれの時代小説観とともに、時代小説の潮流、面白さを、おうかがいしたいと思います。

書きたい人物との出会いがあって時代小説を書き始める

青木お二人が時代小説を書き始められたのは、どういうきっかけからですか。

逢坂私は父が挿絵画家の中一弥で、時代小説に興味がないということもなかったのですが、アメリカのハードボイルド小説でスタートしたから、時代小説には一番遠いところにいた、という感じがします。時代小説を書こうという気は最初は全然なかったです。また書けるとは思わなかった。

50歳前後から親父の仕事を少しずつ見ていて、池波正太郎さんの小説も読んでいるうちに結構面白そうだと思った。池波さんは薀蓄をほとんど傾けないから、時代考証もあまりやっていないみたいに最初は見えたわけです。じゃ書けるかもしれないなと思いながら、近藤重蔵のことを古本屋で立ち読みしたんです。

近藤重蔵は蝦夷地の探検家ですが、間宮林蔵や最上徳内に比べるとはるかに知名度が低いでしょう。私も、名前と蝦夷地の探検家であるぐらいしか知らなかったんですが、蝦夷地の探検は若いころで、30歳前に書物奉行になったり、いろいろやって最後はお家改易になり病死してしまうという10ページぐらいのエッセイだった。

これは面白いなと思って、史料を集め出したわけです。そんなに多くはないんだけれども、刊行されている史料の80%ぐらいは集めて、『重蔵始末』を書き始めたんですよ。

近藤重蔵の人生の浮き沈みを全部書きたい

『重蔵始末』・表紙

『重蔵始末』
講談社文庫

諸田時代小説を書きたくて誰かを探したのではなく、近藤重蔵を書きたかった。

逢坂まさにおっしゃるとおりで、近藤重蔵に興味があって書き出したといったほうがいいかもしれない。時代小説を書く取っかかりとして近藤重蔵と出会った。

最初の本が出たときに吉村昭さんに、「君、いい人を見つけたね」と言われた。吉村さんは近藤重蔵のことを小説で書くにはいたっていなかった。今まで小説には、ほとんど書かれていないというところが、一つある。私が創作した人物だと思っている人も、たまにはいますね。(笑)

諸田近藤重蔵はメインは蝦夷地ですよね。大抵はその人の生い立ちや実績などを書くのかなと思うのに、逢坂先生は捕物帳ですよね。それはどうしてなんですか。

逢坂もともとミステリーが好きで物書きになったわけだから、捕物帳になったんだと思います。

近藤重蔵は与力の息子に生まれ、最初は御先手[おさきて]鉄砲組与力、その後、蝦夷地に行く。それから書物奉行、大坂で弓奉行と、だんだん窓際に行って、しまいに普請入りした。それで長男の殺傷事件で改易になるんです。

だんだん運勢が傾いていったその浮き沈みを全部書きたいと思ったわけです。

59歳で死んでいるんですが、いま書いているのは25歳ぐらいで、あと30年以上ある。私の寿命とどっちが先に尽きるのかという感じですね。

諸田これからだんだんほかのストーリーも出てくるんですね。

書きたいものがあるから勉強する

後藤諸田さんは、時代小説との出会いはいつごろですか。

諸田私は小さいころから外国のミステリーが好きだったんです。ですから時代物を書こうと思って勉強したわけでもないし、大学の受験科目に世界史を選んだくらいで、日本の漢字の多いのは苦手でした。ただ、日本の女流作家の本はすごく好きでした。

父が東洋史を研究してまして、学者になりたかったけど家を継がなくてはならなくて、地元で本をつくったり、詩や評論を書いたりしていましたので、そういう本が家にたくさんありました。

逢坂お父さんがいらしたところはどちらですか。

諸田静岡市内です。私もそこで生まれて育ちました。そういえば古典も好きでしたね。

『カディスの赤い星』・表紙

『カディスの赤い星』
講談社文庫

何か小説を書きたいと思ったときに、外国のミステリーを読んでいたから、初めのうちは物語をつくって大きな構書きたいなと思いました。外国を舞台にして、『カディスの赤い星』のようなものを書きたくて、ルーマニアに行ったりしたんですよ。

逢坂ルーマニアなら、吸血鬼の話でも書けば。(笑)

諸田書きたかったんですけど、ちょうどその頃、同じような小説がいくつか出ていたので。現代小説はあんまり好きじゃなかったんです。性格が男っぽいせいか、噂話とか重箱の隅をつつくようなのがあんまり好きじゃなくて。スケールの大きいものだったら、時代物のほうが自由につくれるじゃないですか。格好いい、りりしい男とかが出てくるしね。

逢坂しかし、いきなり時代物をやるというのは、なかなかですね。

諸田知らないからできたんですよ。本当に今も修業中です。歴史が好きで、いろいろ研究して書き出したわけじゃないから、これを書きたいと思うと、いろいろな史料を漁って勉強する。

逢坂普通はそうです。時代物を書くからって縄文時代から勉強することはないんだから。(笑)。

次郎長のことを女の目で書きたかった

後藤逢坂さんは、初めに人物ありきだった。諸田さんはいかがですか。

諸田やっぱり人ですね。こういう男が書きたいとか、こういう女を書きたいというので、時代物に持ってくると人物がすごく生き生きする感じがするんです。

後藤上梓されたのは『眩惑』が最初ですよね。

諸田そうです。はじめは次郎長のものを書きたいと思いましてね。母方の血筋なんです。次郎長には子供がいないんですけど、兄の娘を養女にもらってお嫁に出したり、名前をつけたりしています。それが私の祖母の祖母です。

そんなこともあって、次郎長のものは、今も書いています。次郎長物というとみんな男の目ですから、女の目で書きたくて……。

逢坂お蝶さんの立場で書きたかった。

諸田それが最初です。それからは時代物を書いていますけど、特にこだわっているわけではないです。

逢坂現代物を書くまで随分時間がかかりましたね。

諸田30冊書いてきて初めての現代物ですからね。まだまだ……。

後藤現代物になかなか踏み切れなかったのには何か理由があったのでしょうか。

諸田向田邦子さんのノベライズなどをしていたので、同じようなものは書けないというのがあったのと、体力があるうちに時代物を勉強しておきたいという気がありました。知識がなかったので。だんだん億劫になるかもしれないけど、今ならまだ新しいものを知りたいという気持ちがすごくありますから。

読者の想像力を刺激する池波正太郎の独特のリズムはまねができない

後藤重蔵には、鬼平を意識なさったのかなと思うところが随所に見られますね。

逢坂近藤重蔵は火付盗賊改の与力ですが、そこには長谷川平蔵という偉大な先輩がいて、『鬼平犯科帳』があるわけです。実在の人物だから書いてはいけないというわけではないし、私も作品の中で長谷川平蔵の名前は出したけれど、当人は出さない。同時代の人だから、どこかで出会っても不思議はないんですけどね。池波さんも上のほうでにらんでいるでしょう。

後藤もちろん文体は全然違うスタイルですが。

逢坂池波さんの、改行の多い独特のリズムは、まねができないでしょう。

すかすかに見えるんだけれども、そのすかすかの部分に読者の想像力をすごく刺激するものがあるから、短編を読んでも充実感がある。

池波さんは勉強したことをひけらかさない。デビュー当時はひけらかしたかもしれないけれど、それが勉強にもなる。ひけらかそうとして一生懸命書くから、体にしみついていく。池波さんは新国劇の本を書いていたときに、そういう体験をなさったと思う。

そういうものはちょっとまねできない。あと20年ぐらいすると、私もその域に達するかもしれませんが、今のところは、勉強したことを一生懸命書いている段階です。

脚本を書くために全部読んだ藤沢周平の作品

後藤ほかに影響を受けた作家はいらっしゃいますか。

逢坂山手樹一郎さん、村上元三さんは親父が絵をかいていたせいで、子供のころに読んだ。山手さんは『夢介千両みやげ』が面白かったですね。村上さんは『次郎長三国志』。この二つは今でも覚えています。司馬遼太郎さんの新撰組物はよく読んだ。あとは藤沢周平さんがいくつか。でもあまり忠実な読者じゃなくて、むしろ池波さんのほうをたくさん読んでいるかもしれない。人情物はあんまり得意じゃなかったし、時代物は系統的にたくさん読んだということはない。

後藤諸田さんが影響を受けた時代小説作家には、どんな方がいらっしゃいますか。

諸田杉本苑子さん、永井路子さん、平岩弓枝さん、もちろん池波さんも読んでいました。藤沢さんは、山田洋次先生の脚本を手伝っていたことがあって、全部読んだんです。『たそがれ清兵衛』の映画化より前のことです。面白かったですね。私は用心棒シリーズが好きなんです。『蝉しぐれ』もいいですね。

西部劇の「シェーン」はいわば股旅物

逢坂 剛さん

逢坂 剛さん

逢坂藤沢さんはアメリカのハードボイルド小説とか、西部劇が好きだったんです。

諸田逢坂先生もそうですよね。そういうところがすごく似ていらっしゃる。

逢坂「シェーン」なんかは、言ってみれば股旅物だよね。西部劇と時代劇はやっぱりよく似ていて、黒澤明はジョン・フォードの影響を受けたし、ジョン・フォードの後のアメリカの監督は、黒澤明に影響を受けて「七人の侍」を「荒野の七人」にした。お互いに影響し合っている。

後藤逢坂さんも西部劇を書かれますよね。

逢坂あまり血みどろではないんです。西部劇だけじゃなくて時代物もミステリーもそうだけれども、年を取ってくると血を見るのがだんだんいやになってくる。(笑)

殺し屋が正義の味方に殺されるシーンも随分書いたけれど、その殺し屋にも、もしかすると妻や子がいて、父と母もいてと思うと、簡単に殺しちゃいけないんじゃないか。葬式の場面も書くべきでは、とかいろいろ考える。通行人Aであろうが、死ぬにも死ぬだけの理由を、ちゃんとつけなきゃいけない。長いこと小説を書いていると、だんだんそうなってくる。

時代の流れに翻弄される人間を描く

諸田世の中が混沌としていて、悪人も善人も分けられないんだけれど、孤独を背負っているみたいなところが、今の時代と違う。ああいうものが好きな人はやっぱり時代物にいくんだと思います。

北方謙三先生とか宮城谷昌光先生とか、中国物を書く方は時代物でもまた違う感じがします。大きな歴史の流れをとらえる。でも、逢坂先生は人間そのものを追求していらっしゃるでしょう。歴史的、政治的な人間関係とかいうよりも、人間の謎というのか。

逢坂大きな流れをつかもうという作家と、それに翻弄される人間に焦点を当てようという作家と二つあるなら、私は明らかに後者かもしれない。

いま、スペインを舞台にした第二次大戦物を書いているんです。壮大な歴史の話なんですけど、戦争の成り行きよりも、登場人物個々人の考えとか、そういうものを書いている。

諸田私は逢坂先生といえばスペインというイメージがあります。スペインって独特のどろどろとした血の匂いみたいなものがしますよね。

逢坂明治維新とか終戦直後とか、混乱した時代の日本を彷彿させるものがあって、それが魅力的だった。最初に私が行ったのは70年代前半でしたので。

史料の解釈や、書くときのルールを自分で決めたらそれでやるしかない

後藤時代小説を書いているうえでの約束事や、ご自身の中で決められていることはどんなことでしょう。

逢坂小説観やスタイルというのは、誰が正しいということはないわけです。誰も江戸時代を見たことがないわけだから、史料の解釈にしても自分で決め、書くときのルールを自分で決めます。それを自分はしているけれど、しない人はけしからんという意味では全然ない。それは誤解のないように言っておきます。

例えば時代劇のせりふを、今は現代調で書く人が多いでしょう。私は後発の時代小説作家なので、江戸の市井の人たち、武士なら武士がしゃべったように、できるだけ書きたいと思った。それは一つのこだわりで、後発は新工夫をしないと、売り物がなくなるから。

歌舞伎の台本や、式亭三馬とか、十返舎一九の滑稽本で、江戸時代の人がどんなふうにしゃべっていたかということは、ひととおり調べますね。それだって、果たしてしゃべっているとおりに書いているかわからないわけだけど、時代の香りを出すためにはそれにこだわる必要があるんじゃないかと思うんです。

諸田私は今、江戸以外の場所にも舞台を広げて、新聞の連載を書いているんです。それぞれの方言がすごく難しくて、どうしようかと悩むんですよね。でも、言葉をおろそかにして全部統一してしまうと、平板になってしまうので、近江の言葉は現地の人に教えてもらって書きました。今度は博多が出てくるので大変なんです。

先生の重蔵シリーズは、今は長崎が舞台で、長崎弁とか薩摩弁とか、本当に細かくちゃんと区別していらっしゃいますね。

逢坂だから時間がかかるんですよ。九州は似ているようで、微妙に違っててね。私は例えば長崎方言の研究書を買ってきて調べる。ばかばかしいと言えば、ばかばかしいんですよ。苦労して書いているけれど、実際にそうしゃべっていたかはわからない。

長崎弁も、今と江戸時代では多分違うでしょう。「ばってん」と言えば長崎だろうから、「ばってん」を時々入れて、それでいいと言う人もいる。話さえ面白ければ、それでも構わないわけです。長崎弁はうまく書けているが、話はちっとも面白くないというのではどうしようもないんですから。

自分で納得していれば直さなくていい

諸田でも、こだわりますよね。こだわり出すと、できないまでも気になる。それで何時間もかかったりする。

逢坂諸田さんも私のことを笑っていられないね。

諸田だから、密偵であちこち動くからとかエクスキューズをつけて、自分で何とか心をおさめるところはある。それでも、「今だから」ではなく「今やから」ですよと教えてもらったりしたら、あわてて直します。

逢坂証人はいないんだから、直さなくてもいいんですよ。言ったかもしれないと言えば、それで済むことです。そんなことはばかばかしいから、およしなさい。

諸田先生はご自分で全部調べているんですか。

逢坂そうです。出版社にそこ出身の人がいたら、その人に見てもらったらいいと言う人もいる。

でも、自分が納得できないと書けないし、納得したら、間違っていようが、それでいいと思わなければ続かない。自分の中で咀嚼して、いいと思ったら、それでやるしかない。おかしいじゃないかと言われたら、「ああ、そうですか」と言っていればいい。

諸田それはすごい。

暮六つに(午後6時)と注釈は入れたくない

諸田細かい道具や着る物なんかにも、すごくこだわっていらっしゃいますよね。

逢坂物の呼び名がすごく難しいんです。生け垣にしたって、いろんな生け垣があるし、江戸時代から残っている呼称があったり、塀のなまこ壁とか、そういう名称ってわからないでしょう。そういうのは後ろに注釈を入れなきゃいけない。それから髷の形とかね。

諸田江戸時代といっても一つじゃないですものね。

逢坂読者にとってはどうでもいいことかもしれない。でも、そういうものに時間をかけるところにこだわりがあるわけです。

諸田なまこ壁と書いてわかってくれるのか。読者に伝えなきゃならないから、特に新聞連載などは不安になったりする。

逢坂括弧して解説するのは悩むんだ。距離とか時間の単位だって、今の感覚とは違うわけでしょう。時刻なんかも、暮六つと書いて、括弧して(午後6時)というのはいやですね。だって季節によっても変わるでしょう。6時と限っていないわけだ。

諸田入れたくないけど、わからなかったら困る。

逢坂私は単行本にするときに一覧表を入れて、文章中の括弧は全部とっちゃう。

諸田あれはすごく助かっています。持って歩いているんですよ。

江戸時代にもあった「理解」や「世界」という言葉は今とは概念が違う

逢坂それから、明治以降にできた言葉を江戸の小説の中で使うことに抵抗がある。「情報」とか「報告」とか。地の文ならしようがないかなという気もするけれど、会話の中で、与力が同心に向かって、「報告しろ」なんていうのは使いにくい。

例えば「理解」という言葉は、今は物事がきちんとわかるということだけれど、江戸時代では聞き分けられるように説明するということで、意味が少し変わってくるのもあるしね。

でも、「大都会」という言葉は明治以降かと思ったら、江戸時代にもあるんですよ。昔の随筆などを読んでいると出てくる。「芸術」とか。

諸田私も調べていたら、「未来」とか「世界」とかいう言葉が江戸の中期にあるんですね。

逢坂でも今の概念とはちょっと違うと思う。「世界」と言っても、全地球ということではないだろうとか。そういう言葉が意外にある。

諸田私は、地の文では、いい言葉が見つからない時は使ってしまいます。

逢坂私もどうしても思いつかないと、そうすることがあります。だから自分の、それだけは絶対に使わないボキャブラリーの表をつくって、ワープロで打ち込んであるんですよ。

江戸時代には「です」は使っていなかった

後藤言葉に対してこれほど考えていらっしゃるのには改めて驚きました。言葉以外に禁じ手はありますか。

逢坂やっぱり言葉が一番苦労するでしょう。江戸時代には「です」は使っていなくて、「だ」か「でございます」だった。「です」を使わないで小説を書いてみると、たいへん難しいということがわかったんだけど、『重蔵始末』で初めからそれをやっていったら、今は「です」を使わないで書けるようになった。人間の習慣というのは恐ろしいですね。今は絶対に使っていないと思う。

諸田私は江戸の後期の場合はあえて使うようにしているんです。

逢坂それでもいいんですよ。書き手の好みの問題だから、使って悪いということはない。一々「です」じゃなく「でございます」を使っていたら、煩わしい場合もある。

諸田捕物帳ならこのスタイルとか、人情物なら長屋を出して、それらしいものを書けばいいみたいに、型にはめてしまいたくないというのがありますね。

逢坂それじゃ面白くないですよね。新しいものを書くときには、何らかの枷というか、課題を常に持って書かないと流されてしまう。緊張感が持続しない。

細部のリアリティーが小説全体をリアルにする

諸田私が感心するのは重蔵の細かいところのリアリティー。どこかがもし違っていても、本当だと思わせてしまう。

逢坂時代小説だけじゃなく、小説のリアリティーというのは細部にあるんです。

諸田神は細部に宿る。

逢坂大まかに書いていても、角にたばこ屋があって、古いポストが立っていたと書くだけで、本当にそうだという感じが出るでしょう。そういう一行を怠ったために、リアリティーがなくなることがある。とんでもない話であればあるほど、細かいところにリアリティーをつけると、物語全体がリアルになってくるんです。大きなところをリアルに書こうとして、細かいところのリアリティーをおろそかにすると失敗する。

諸田特に時代物は普段の生活と違うから、キセルだとか、ちょっとしたところのリアリティーで、ああ、江戸だという感じが出ますね。

逢坂そういうコツは、たくさん書くことでだんだん身についてくるものだと思いますね。

史料をうのみにせず、でも1行でも疎かにしないように戒めて書いている

諸田玲子さん

諸田玲子さん

諸田逢坂先生に基本的なことで伺いたいんです。歴史の史料はいろいろあって、うのみにはできない。勝ったほうの歴史だから当てにならない。けれども、噂になるということは、そこには必ず何かの事情がある。それは無視できない。この人はすごく悪い人間と書いてあって、私は絶対そうは思わないけれど、そう言われるということには何かあるわけでしょう。そういう史料との向き合い方はどうされてますか。

私は史料をそのまま信じないようにしようというのと、反対に、裏に何があるか、1行でも疎かにしないようにしようと、両方とも自分に戒めて書いているんです。

逢坂それで全く正しいと思いますね。

近藤重蔵のことは、江戸のあちこちの随筆に出てくる。事件のことが多いんです。息子が抱屋敷の隣のお百姓さんの一家7人を、けんかして皆殺しにした。息子は遠島、親父の重蔵は家事取締不行届きで改易になった。近藤重蔵も一緒に切ったという説もあって、それは間違いなんだけれど、いい噂は一つもない。

生意気な傲岸なやつで、貸した金は返さないとか、借りた本は返さないで古本屋に売ってしまったとか、悪い噂ばかりなんです。でも、それはそれでいいわけです。だから書きがいもある。いい人なんか書いても面白くないからね。ただ、こっちでは悪いことを言われていても、こっちではほめられていることもある。だから一つのものをうのみにしたら絶対にいけない。

時代考証は多角的に見る目が大切

逢坂時代考証を勉強するときは、三田村鳶魚[えんぎょ]の書いたものを大体読むんだけれど、100%は信じていない。親父もそう言ってます。三田村鳶魚は、出典を書かないんです。昔の自身番はこうだったと書くけれども、当人から聞いたわけじゃないんだから。彼だって明治に生まれた人ですからね。古老から聞いたかもしれないし、古文書を読んだかもしれない。参考にはなるけれど、うのみにしてはいけない。

林美一さんも、三田村鳶魚の功績は認めつつも、怪しいと書いている。林美一さんが一番信頼できるんじゃないかと、私は個人的には思っています。

後藤いろんな資料を読むことによって、多角的に物事を見られるようにしておくことが大事なんですね。

逢坂江戸時代は史料を探すと無限にありますからね。

後藤多角的に見つつも、自分なりの見方を確立していかないと、小説として面白いものにならない。

逢坂一つ勉強したのは、『徳川禁令考』という町触[まちぶれ]とか法律を集めた本を見ると、いろんなことを禁じている。木戸は午後10時になったら必ず閉めろとか、女と年寄りはいいけれども一般の町人は病気でもないのに駕籠に乗るなとか。厳しかったんだなと思うのがふつうだけれど、実はそれだけ守られていなかったんじゃないかという見方もあるわけです。

諸田何度も取り締まるということは、いくら言っても守られていないということですものね。

後からわかった井伊直弼の暗殺前日の行動

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左:『其の一日』 右:『奸婦にあらず』
講談社文庫  日本経済新聞社

後藤思わずやってしまった失敗などはありますか。

逢坂いろいろあります。例えば『重蔵始末』の中で、「長崎から江戸へ、どのぐらいの頻度で出てくるんだ」と聞かれて、「せいぜい月に一度でございます」と返事をした。でもそれだと、大急ぎで行って、すぐ帰ってこないと無理なんですよ。新幹線とか飛行機というイメージがあって、つい書いてしまって、校閲も見逃した。それで本になってから友だちに、「これはおかしいんじゃないか」と言われて初めて気がついた。

後藤盲点ですね。諸田さんは、何かございますか。

諸田井伊直弼の女、村山たかのことを書いた『其の一日』で、桜田門外の変の一日前の日の井伊直弼の登城のことを書いたんです。そのときには史料がないなりに書いたんですけど、今回『奸婦にあらず』で、また村山たかのことを書いていたら、その日は井伊直弼は登城していなかったという史料が出てきて、ショックでした。

それは井伊家の史料にもなくて別の江戸時代の文献に、原則として大老は毎日登城するんだけれど、病気か何かで前の日は行かなかったと出ていたんです。

『奸婦にあらず』では直したんですけど、『其の一日』は直さない。その日は安全に登城して、次の日に殺されちゃうという話だったので。

逢坂それは変えるわけにはいかないよね。でも、それはいいんですよ。もしそうだったらばこうだったという話なんだから、別に気にすることはないでしょう。

諸田史料は調べ切れないし、後から出てきたりする。後に書く人のほうが、先の人の史料も読みながら書けるから、少しずつ得をしているんですね。それはしようがないなと思います。

後藤ただ、先に出された作品のほうが、読者にとって新鮮ということになる。

逢坂小説は面白いか、面白くないかが大事でね。時代考証なんかなくてもいいとは言わないが、そんなに凝ることはないと思いますよ。

文化の華が咲いていた江戸時代中・後期の人物を発見したい

『道連れ彦輔』・表紙

『道連れ彦輔』
文藝春秋

後藤このたび逢坂さんは『道連れ彦輔』シリーズを上梓されました。物語の舞台は江戸後期ですか。

逢坂「彦輔」は時代物では二つ目のシリーズで、私の現代物で言うと、御茶ノ水警察シリーズみたいなスラップスティック風のものを書こうと思ったんです。重蔵で苦労したから、時代考証にあまりこだわらずにすむように、時代を設定しなかったんですけど、やっぱり、こだわっちゃう。大体文化・文政あたりを想定しています。

重蔵はライフテーマみたいになってきたから、これは書き続けるつもりでいる。

後藤これからどんな小説をお書きになる予定ですか。

逢坂私は人を見つけるのが好きなんです。平賀源内は諸田さんも書いているけれど、結構興味のある人物です。多才な人で、エレキをやったり、『神霊矢口渡』も書いたり非常に面白い。

新撰組と忠臣蔵と宮本武蔵は時代作家が書きたい三大テーマだってよく言う。私が言っているんだけど(笑)。書きたいけれど、先人の偉大なる業績が既にあるわけでね。でも、みんなが既に知っていて、評価が定まっている人物について書くのは、新機軸を提示できる自信がないと、あまり面白くない。

江戸時代の中・後期で誰か発見できればと思うんですけどね。文化の華が咲いていた時代だからすごく面白い。

『先哲叢談』とか『近世畸人伝』なんかを見ると、とんでもない人がたくさんいる。そういう人は幾らでも話を膨らますことができます。

後藤どんな人物を発掘されるのか、楽しみですね。

古代から現代まで時代に縛られず女性を書きたい

逢坂諸田さんはどの時代に一番興味がありますか。

諸田全部です。

逢坂一番古いところはどこまで書きましたか。

諸田平安朝です。平安は結構好きなんです。平安の官能小説を書きたいなと思っています。まずは和泉式部ですね。でも、平安は売れないから、なかなか書かせてもらえないんです。江戸物にしてくださいと言われるんです。

逢坂私も西部劇はやめてくださいとよく言われる。読んでくれた人は面白いと言ってくれるんだけど。

私は今のところ、江戸時代中期以降しか、あまり興味がないですね。

諸田もっと時代物を書いていただきたいなと思います。

逢坂時代考証に凝り過ぎるんです。すごくエネルギーを使う。書くのに現代物の倍ぐらい時間がかかる。原稿料は同じなのに(笑)。調べるのは好きだから時代物は楽しいけれど、調べたのに書いてないことは膨大にあります。

諸田私が書きたいのは人間だから、時代に縛られず古代から現代まで、どの時代でもいいから、もっと女を書きたい。男でも興味のある人はいるんですけれど、とりあえずは女性。だって「女」で片づけられちゃって知られていない人が多いんですもの。

意外に自由で旅もしていた江戸時代の女性たち

逢坂私も今、女性の日記と紀行文を集めている。江戸の女性が面白いんだ。

諸田女性は動いていないように見えるけど、案外旅をしているんです。

逢坂入鉄砲に出女とか言われて、女は旅ができなかったかと思うと、そうじゃないんですよ。

諸田私も箱根の関所まで行って見てきましたけど、いろんな事例があって、関所破りをやって殺された人は、江戸時代300年で6人と、意外に少ないんですね。

逢坂関所破りと関所抜けは違う。関所に押し入って行くのが関所破り、関所を避けるのが関所抜けで、山の中を通れば幾らでも抜けられる。

諸田割と簡単に行き来していたみたいですね。

逢坂禁令があるということは、破るやつがたくさんいたということなんです。

関所の手形なんて宿屋さんに行って簡単にもらってきたりできたらしいし。

諸田江戸の女の子なんかも御蔭参[おかげまい]りについて伊勢に行っちゃって、帰ってきたらお腹が大きくなっていても、町の人はそれをとがめないで、これは神様から授かった子だと言って、町で育てたという記述がありますね。

逢坂江戸時代はそういうタブーはほとんどなかったんですよね。結婚するときのバージニティーを重んじるのは西洋人で、江戸時代はそんなことはなかった。

諸田何回も結婚した女性のほうが喜ばれたりした。

明るく親切な江戸の人たちを描く『逝きし世の面影』

『逝きし世の面影』・表紙

渡辺京二
『逝きし世の面影』
平凡社ライブラリー

逢坂明治以降に西洋思想が入ってきてから、江戸時代は悪いと言われたけれど、そうじゃない。渡辺京二さんの『逝きし世の面影』を知っていますか。幕末・明治初期に来た外国人が書いた日本の紀行文とかを丹念に読み解いている。江戸時代は暗い時代ではなくて、当時の外国人の目に映った江戸の人たちは、明るくて、無邪気で親切でいい人たちばかりなんですよ。

諸田学校で教わったときには、士農工商で縛られた堅苦しい時代だと思った。でも俳諧や絵暦の交換会などいろんな集まりがある。武士も町人も一緒に集まってね。武士といっても、後期にはそんなにいばってはいなかった。

逢坂侍は基本的には芝居は見に行っちゃいけなかったんだけど、みんな行っているしね。禁令が多いために窮屈な時代だと思われがちだけれど、実際にはそうじゃないということが逆に読めてくる。そしたら目からうろこが落ちたように、江戸時代はいい時代だったと思えてくる。

諸田史料の記述は公式記録と、何かの事件だけで、普通に暮らしている人の記録は残っていません。平安朝だと、おどろおどろしい世界と貴族社会だけで、普通の人々がどんな暮らしをしていたかわからないし……。そうしたところを小説で埋めていきたいですね。

文明は変わったけれど日本人はどの時代でも同じようなことをしている

青木藤沢周平が今改めて人気ですし、時代小説に根強く多くのファンがいる。どうしてこんなに長く、江戸を中心に求められるのでしょう。

逢坂江戸時代はそんなに悪くはなかったということがみんなにわかってきたんじゃないのかと思う。藤沢周平さんが書いているような、当時の人情の機微に触れたものを読むと、現代の日本人と変わらないじゃないか。つまり、日本人の考え方は変わっていないように思える。文明は変わったけど、人間性というかDNAはずっと残っている。そういうことを再確認する意味で江戸時代を舞台にした小説を読む。また、そういう小説を書きたいなと思います。

諸田現代のことじゃないけれど、現代人の目で書いているというのが、みんなが入りやすいのかなと思います。

逢坂当時もそうだったろうと思わせるものがあるんだよね。

諸田どの時代でも人間は変わらないと思う。同じようなことをして生きていて、たかが人間がすることですからと思うのね。

江戸時代にはみんなが自分の周りを見られた

諸田今はいじめが問題になったり、親が子を捨てたりとかがあるけれども、すべてのことがいつの時代にもあった。子を捨てる親は江戸時代にもいたし、犯罪もあった。かと思うと、いいこともいっぱいあった。

だからどうしたらいいのかなんて、口で簡単に言えるようなことじゃないけれども、そういう、変わらないということでは、時代小説はすごく救いで、今も昔も人間は同じなんだと思うとなぐさめられるし、そこから少しずつ良い方へ持ってゆけるのではないかなと感じます。だから今は時代小説を書いてよかったとすごく思っています。

逢坂確かに失われたものがたくさんある。先程の『逝きし世の面影』は、失われたものがどんなにいいものだったかを検証する労作です。

藤沢さんの小説を読んでいると、ああ、今の時代が失ったものが、そこに描かれているなという感じがするんですよね。そういうところに、時代小説のよさが一つあると思いますね。

諸田これだけはしてはいけないというようなこだわりが、今は取り払われてしまったような気がします。自分の中ではこれは守りたいものですね。

逢坂日本は確かに悪くなった。江戸時代は南と北の奉行所を合わせたって、与力がたかだか50人ですね。それと240、50人の同心がいて、治安が守られたわけでしょう。火盗改[かとうあらため]もいたけれど、1人当たりで何千人も担当していた。そう考えると、犯罪は相対的には少なかったと見るべきじゃないのかな。絶対いい世の中だったと思う。

諸田みんなが自分の周りを見られた時代ですね。あの人に見られるからという良い意味での恥らいがあった。今は誰もそういうのがなくて、何をしてもいいみたいな感じですものね。

逢坂無関心だものね。いじめがあっても止めようとしないとかね。江戸時代は多分そういうことはなかっただろうと思うね。

諸田いじめはあったと思うんだけど、それに対する対処の仕方というのがね。

青木どうもありがとうございました。

逢坂 剛 (おうさか ごう)

1943年東京都生まれ。

諸田玲子 (もろた れいこ)

1954年静岡県生まれ。

後藤恵子 (ごとう けいこ)

1954年東京都生まれ。

※「有鄰」470号本紙では1~3ページに掲載されています。

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