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462平成18年5月10日発行

[座談会]三溪園を語る ― 開園から100周年

東京農業大学教授/進士五十八
東京大学教授/鈴木博之
三溪園保勝会/青島さくら

左から青島さくら・鈴木博之・進士五十八の各氏

左から青島さくら・鈴木博之・進士五十八の各氏

はじめに

旧燈明寺三重塔

旧燈明寺三重塔
大正3年移築。京都府相楽郡加茂町の燈明寺の遺構。
同寺は現在廃寺。純粋の和様建築。室町初期

編集部横浜市中区本牧にある三溪園は、横浜の生糸貿易商であった原富太郎(三溪)によって創設され、明治39年(1906年)5月1日に一般に公開されました。今年は開園100周年に当ります。

原富太郎は、実業家としてだけでなく、古美術のコレクター、若手日本画家の育成、古建築の収集、さらには、造園、茶道など、多方面に才能を開花させました。17万5,000平方メートル(約5万3,000坪)におよぶ三溪園の宏大な敷地には、重要文化財に指定された十棟の古建築などが程よく配置されております。

本日は、原富太郎が各地から移した建築と、自らがもっこを担いで励んだという庭園を中心にお話を伺いたいと存じます。

ご出席いただきました進士五十八先生は東京農業大学教授で造園学や環境計画、景観政策をご専攻でいらっしゃいます。昨年まで6年間、同大学の学長を務められました。日本造園学会長、日本都市計画学会長などを歴任されました。

鈴木博之先生は東京大学教授で、ハーヴァード大学客員教授や日本建築学会副会長などを歴任されました。近代建築史がご専攻で、最近は、近現代都市史、近代庭園史にも関心を寄せていらっしゃいます。今回、三溪園保勝会が刊行する開園100周年の記念誌に「三溪園と原富太郎」を寄稿されております。

青島さくらさんは財団法人三溪園保勝会にお勤めで、文化財建築物の管理や、活用を中心とした業務のほか、今回の100周年事業を推進していらっしゃいます。

明治39年5月1日に一般に公開

開園当初の三溪園

開園当初の三溪園
左の門柱に「遊覧御随意 三渓園」の看板が掲げられている。

編集部開園100周年ということですが、三溪園が明治39年5月に開園されたという記録はあるんでしょうか。

青島実は最近まで、明治39年5月1日に開園したという根拠がなくて、ずっとそのように言われてきたという話だけだったんです。

それが、平成17年に、三溪と親交のあった跡見学園の創立者の跡見花蹊さんが4月29日に、前もって親しい人だけを招いた園遊会があって、それに行ったと日記に書いていたことがわかり、やっぱり5月1日に開園していたことが改めて確かめられたのです。

編集部根拠がはっきりしたということですね。

青島明治41年2月には「三溪園成るを告ぐ」と、三溪が自筆の手記に書いて、完成したとしています。要は39年に一応開園はしたものの、まだ整備ができていない状態で、41年にやっと外苑のエリアが完了したということです。

進士庭園とはそういうものです。テープカットの開園式をやるのは公園で、庭園は何となくできて、いつが完成かわからない。

鈴木建築も、設計図ができたときに建物ができたともいえるし、工事が終わって、引き渡しがあったときともいえるし、開業したときができた時期だともいえるんです。

進士建築は機能を持っているから、一応完成しないとだめだけれども、庭園は半分でも、三分の一でも開園できますから、今だって、より美しくと改造が続いているとも言える。作庭年代の確定は、難しいんです。

原善三郎の事業を継ぎ、邸宅を野毛山から本牧へ

編集部鈴木先生は、記念誌に新しい資料なども使ってお書きになられましたね。

鈴木今回、三溪園と原富太郎(三溪)のことを読み返してみる機会を与えられたんですが、むしろ自分の勉強として、大変におもしろかったですね。

富太郎の妻・屋寿の祖父である原善三郎は横浜が開港して間もない文久2年(1862年)に横浜に店を出します。弁天通りにあったその店は亀屋という屋号で知られ、住居も兼ねていました。生糸を外国商館に売り込むことで資産を増した彼は、やがて野毛山の老松町に別邸を建設し、週末はそこで過ごすようになります。

そして、善三郎は明治元年(1868年)に、横浜の南に位置する本牧三之谷の土地を購入し、明治20年頃、ここにレンガ造の新しい別邸、松風閣を建てます。松風閣と名付けたのは、伊藤博文だったといわれています。

善三郎は明治32年に亡くなりますが、事業と邸宅を引き継いだ富太郎はそれまでの事業を原合名会社に改組し、事業の内容に則して生糸部、輸出部、製糸部に整備し、さらに地所部を設けて土地経営にも積極的に乗り出していきます。同時に野毛山から、本牧三之谷に本邸を移しています。

伝統的庭園・建築を通じて自己表現をした近代主義者たち

鈴木原三溪はもとは青木富太郎といい、原家のお嬢さんと結婚して原家の人になった。そして、本牧に極めて大規模な庭園と建物群を造営していく。ある意味では、まさに近代日本の申し子であるという感じがするけれども、単なる成り金ではない。その懐の深さみたいなところを知りたいと思ったんです。

原善三郎は関東平野の北端、群馬との県境の埼玉県児玉郡渡瀬の出身です。それから青木富太郎は、岐阜県厚見郡佐波村で代々加納藩の名主を務めた旧家の出身です。現在の岐阜市柳津町で、すぐ脇を、境川という、美濃と尾張の境の川が流れる、豊かな土地から出た人です。

そういう原風景を背負いながら、日本の近代をつくっていった人たちは、何を自分の自己実現にしたんだろうと。

大師会茶会での原富太郎

大師会茶会での原富太郎
大正12年4月21日

経営者としての原富太郎、あるいは広く政治家、実業家たちは、事実、近代主義者であったと思うんですが、そうした人たちが、最終的に自己実現としてつくった庭とか建築には、意外に日本の伝統に根差したものが多いんです。近代化を進めた人たちが、日本の文化的表現を、伝統的な庭園や建築を通じて外に出していく。そこにすごくおもしろさを感じましたね。

例えば渋沢栄一は、東京の飛鳥山に大きなお屋敷と庭園をつくるわけですし、三井物産をつくった益田孝も、近代の数寄者の代表という仕事をしていきます。ですから私自身としては、日本の近代の表現という目で三溪園を大変興味深く思いました。

三溪の心象風景を形成した濃尾平野の田園地帯

編集部原風景を背負うと言うのは、どういうことなんでしょうか。

鈴木例えば萩に行くと、維新の志士たちの生まれ故郷とか、その風景があって、山縣有朋も、伊藤博文も、ものすごい下級の武士で、伊藤博文の家なんて見て悪かったかなと思うぐらいの家です。山縣も同じぐらい貧しい出なんだけれども、萩の辺りは極めて水が豊かで、こういう風景を見て、山縣有朋はものすごく庭好きになっていくわけです。山縣の水に対する執着というのは、こういうものだったのかなと思いました。

彼らが日本を変えていったわけですが、帰っていく場所は、彼らの出自の風景とどこか関係しているんだろうなという感じがしたんです。

原善三郎の出身地の渡瀬のあたりは、今でも、驚くほど豪勢な塗屋造の家が点在していて、明治から大正にかけて絹糸の集散地であり、横浜は貿易マーケットの基地で、連携した位置関係にあった。近代化が単に年表だけではなくて地図の上でも出てくるような感じがしますし、富太郎の母親の琴の実家が岐阜県安八郡の神戸という所ですが、濃尾平野の豊かな田園地帯で、そこに育ったことが三溪の心象風景を形成しているという感じがしました。

刑事もののドラマなどで、現場100回とよく言いますね。地理的に歩いていく中で見えてくる部分は随分あるんだなと思いました。

編集部原善三郎の出身地は、庭石としてよく使われる三波石の産地だそうですね。

鈴木あの辺に行くと、道路沿いに石屋さんがたくさんある。だから、そういうところで育てば、「よし、そのうち庭をつくるぞ」と思うだろうなというのはわかります。それと富太郎の母親の実家のある神戸のあたりは、日本では数少ない大理石の産地なんです。

進士三波石は江戸では使われていないんです。鉄道が開通するまでは、群馬県鬼石から東京まで運ぶのは大変だった。明治神宮で使った筑波石もそうで、筑波鉄道が通ったから運べた。ですから大規模な造園は、水利とか交通の発達と深く関わっているのです。

石や木はもともと地産地消で、地場材が基本なんです。それぞれの地域には風土性豊かな材料があり、そこで育てば、そういうものに関心を持つ。木も石も、花もそうです。わざわざ教育されなくても、子供の頃から遊びながら皮膚感覚で学んでいくものです。そういう感覚が大事だと思います。

原風景には、個人・民族・人類の三段階がある

進士私は、人の行動の根は原風景にあると思っています。どういうものに感動するか、何を見ていいと思うか、その物差しは、幼少期に決まる。故郷での子供のころの環境や人間関係が物差しになっている。これは個人の原風景です。

先日、学生たちと京都の庭園見学に行ったんです。そこでの風景は、マンションで育っている彼らの原風景とはほど遠い。それでも「いいな」と言う。それは日本人のDNAなんです。日本の、アジアモンスーンの気候で培われてきた、柿葺の屋根や庭の苔を見て、美しさ、よさを感じる感性は、今の若い人にもある。それは日本人の原風景で、民族の原風景と言えます。

さらに、緑とか、自然があるとホッとする人類共通の原風景がある。原風景は三段階あるのです。

原三溪は、なつかしい風景を身の回りにつくることによって、安心・安全の拠点「ここが自分の世界」という小宇宙を持とうとしたのではないか。三溪園は、それにはふさわしい場所、立地ですね。

鈴木海に近いけれども谷があって、こういうのは造園上はいい場所ですか。

進士敷地全体は山で包まれて一体感があり、その中に三つの谷と沢があり、変化に富んでいる。周遊すれば、アップダウンがいい。

宋の時代の『洛陽名園記』に書かれているように、名園は、宏大・幽邃、人力・蒼古、水泉・眺望の、まさに兼六が基本。山縣有朋が目白に椿山荘を選んだのも、当時の実業家や文化人は、みんな場所を選ぶ目を持っていた。

鈴木椿山荘は地形が非常にユニークなので、ここにしようと思ったらしいですね。

明治35年頃に建物や古美術の収集が大きく進展

編集部三溪園の移築は、どのように進められたのですか。

鈴木富太郎は、明治35年に三井家から群馬県の富岡製糸所とか、有名な製糸所をいろいろ手に入れている。彼にとって事業の一種飛躍のステップでもあり、目玉として富岡製糸所と一緒にくっついてきた幾つかの製糸所のうちに大嶹製糸所があった。

大嶹製糸所をつくった河村迂叟という人は、江戸以来の豪商で、数寄者としてお茶道具とかいろいろやっていて、建物にも凝っていた人だった。その遺産が蓄積されていて、その敷地内にあった待春軒、寒月庵、皇大神宮を移築したことから世界が開けたという感じがします。

寒月庵はもと河村家江戸邸内にあった茶室で、河村家は赤穂藩出入り商人で、ここには大石内蔵助も訪れたという由緒もあり、待春軒は、明治12年にアメリカのグラント将軍が日光訪問の途上、昼食をとったといわれる豪農の家を移したという建物です。

河村迂叟は江戸以来の豪商が近代化した姿で、彼の場合は明治の中期に力尽きて、次にバトンタッチをしていく。江戸の文化が近代化の過程で次々にバトンタッチされていくというエピソードもかいま見られるんです。

これらの建物は昭和20年6月10日の空襲で焼けて残っていませんが、翌36年には、数寄者としての最大のデビューと目される、有名な孔雀明王像を入手しています。これは井上馨が所持していた画幅を、当時破天荒の1万円で買い取ったんですが、ここから数寄者としての三溪原富太郎が登場する。現在この仏画は東京国立博物館所蔵で国宝に指定されています。

旧天瑞寺寿塔覆堂

旧天瑞寺寿塔覆堂
明治37年に大徳寺黄梅院から移築。
天瑞寺は秀吉が大徳寺内に創建、覆堂は母・大政所の寿塔を覆っていた建物。
天正19年(1591年)

同じく36年には、旧・天瑞寺寿塔覆堂を購入する。この時期の原富太郎の心境がどのようであったか、推測するしかありませんが、明治35年ごろが建物、そして古美術収集にとっても大きな画期であったことは間違いないですね。

建物を「うつす」ことは由緒来歴を含めて移す行為

編集部建物を「うつす」というのは日本の伝統ですね。

鈴木日本のもののつくり方には、いろんな言葉を使います。例えば「好む」は好きというだけではなくて「利休好み」のように彼のテーストでつくり上げるという意味もある。

建物の「うつす」は移建する「移」と写真の「写」と両方の「うつす」で、三溪園は移建されてきた建物が据えられていくわけですが、同じように写すというのもしばしば行われる。

私たちは、それは全然別の行為だと思いますね。いい建物があるから、それを移築して据え直そうというのと、あの建物に似たのをつくろうというのと。レプリカをつくるのは今ではよろしくないということになっていますが、恐らくそんなにかけ離れていなかったのではないか。

建物は、即物的なあり方だけではなくて、由緒来歴というのもまとわりつかせているのではないか。その由緒来歴を含めて移すということなんです。昆虫採集の標本を系統的に展示するのとは違う。

「写」と「移」は実は似ていて、お茶室などは写しをつくりますね。如庵の写しをつくる。それはまねをして似たもので楽しみたいということではなくて、織田有楽斎が建てた如庵の精神に惹かれて、それを写せるだけの度量を自分も持ったときに成立する行為だと思うんです。

三溪園も、お金があったから買ってきて、建て並べたというのではない。三溪には、例えば臨春閣を手に入れようというとき、建物の背後のものまで全部引き受けるという意識があったのではないか。

青島三溪は明治43年に前田曙山という小説家への返答文の一文に、「本邦歴史上に崇敬す可き国民性の根源を為せる偉人の遺物を蒐集し(中略)無言の間に其国民性を回顧せしむる」と書いています。その建物にまつわる由緒に、すごく意味を見出していたんだろうと思うんです。

一般に公開する外苑から先に整備

編集部その後、次々と建物が移されますが、今の外苑と内苑は、どういう形で造られていったんでしょうか。

青島外苑のほうが先なんです。内苑にある建物自体は早い時期に購入しているのですが、先に一般公開する外苑から整備をしようという考えがあったと思います。

進士外苑・内苑というゾーニングは最初からあったんですか。

青島今は内苑、外苑と言っていますが、昭和28年に三溪園保勝会ができてからの呼び名です。外苑はもともと一般の人に開放していたエリアで、内苑のほうはプライベートな私邸エリアになります。

進士プライベート・エリアのほかに、ひとまとまりのテーマガーデンとして、これに園名をつけ、公開することまで考えていたのですね。

編集部三溪の意識としては、自分たちの居住空間とか茶事をするところが今の内苑に当たるということですね。

進士大庭園のつくり方の知恵なんです。緻密につくるジャルダンの部分と、山とか林とか、池も石組なんかで護岸をしないで、乱杭ぐらいでラフに、ほとんど自然のままに近い部分を、ヴェルサイユなんかではパルクと言うんです。プチパルク、グランパルクと庭園では段階になっている。

クラフトに近いほどていねいに、芝でもはさみで刈るみたいな部分と、機械でざっと刈る部分、刈りもしないでほったからしにする部分といった段階構成にする。

わかりやすく言えば、庭師が毎日手入れをする場所と、月に一回の場所との違いですね。それがまた必要なことなんです。緻密なだけだったらゴルフのグリーンみたいで、風景としては面白くない。自然を感じないわけです。庭園をそういうふうに眺めるとわかりやすいでしょう。

三重塔を移築して庭園の骨格が決まる

臨春閣と池庭

臨春閣と池庭
臨春閣は大正6年移築完了。紀州徳川家の別邸・巖出御殿の遺構と推定される。
三溪園移築以前は、2階造りの第三屋は第一屋の右側に建てられていた。
江戸初期

編集部内苑で最も重要な臨春閣辺りは最初から現在のような地形だったんでしょうか。

青島もともと臨春閣の前は池もなかった場所です。三重塔の移築が終わるのが大正3年で、臨春閣を手に入れているのは、もっと前の明治39年なんですが、三重塔を移築し終わった後に、臨春閣を建て始めています。臨春閣の位置は三重塔がすごく影響したのではないかと思うんです。

編集部三溪の母親の実家のある神戸にも、三重塔があるそうですね。

鈴木日吉神社の三重塔は室町時代後期の建立といわれる檜皮葺のもので、神社に三重塔はちょっと不思議なんですけれども、神仏混淆の名残りです。幼いころの富太郎の心に強く焼き付けられたと思います。三重塔は仏塔ですから、普通、個人の庭に建てるものではないような気もするんです。だから、それは非常なこだわりがあったんだろうと思いました。

進士塔は、天にそびえてランドマークになるから、造園的には山上が一番いいんです。フォーカスポイント、それで景色を引き締める。逆に言うと、周りが庭園になる。四阿のような平屋ではだめなんです。

鈴木三重塔を建てることで、庭としての大きな骨格が決まって、そこからいよいよ臨春閣に着手する。

進士臨春閣は、三重塔をちょうど見上げる位置で、借景になる。塔の側からは臨春閣が見おろせる。対景と言う中国の庭園の技法です。対で景色をつくっていく。

鈴木フランスではルノートルがそれを始めたと、庭園史では聞きました。それまでは一方から眺める光景としての庭だったのを、こっちから見る、向こうから見返す。

進士それと、臨春閣の池にかかる亭橋(屋根付きの橋)は、岐阜の夢窓国師の永保寺と同じものです。その写しかもしれませんね。亭橋の景を眺めて楽しむということもあるし、橋のベンチから池や臨春閣を見て楽しむということもある。

建物を似合う場所にはめ込んでその周りを修景

進士ふつう作庭は、デザインを図面にしてもしなくても、庭師やオーナーに構想があって、それを工事して、つくる。だから、先に構想があるんだけれど、三溪園は移される建築次第ですね。建築の置き場をつくっていく。今までにあった場所のような、似合う所にはめ込んでいけばいい。

鈴木そうですね。いい場所に建物を置く。

進士フォーカスポイントが欲しい場所、谷間にふさわしい建物、ひなびた田舎家。広々とした目立つ所には、立派なフォーマルスタイルの建物を入れる。入れたら、その周りに建物と環境をつなぐ造作。前栽とか植栽、石組などで修景する。景色をおさめて建物にふさわしい前景と背景をつくる。前の池と後ろの山をくっつけるために、橋を架け、園路をつけ、植裁をするんです。そうやって三溪園はできていったように私には見える。

鈴木ひとつひとつ建物を手に入れては、ふさわしい場所をつくり上げていくんですね。ですから、御霊屋みたいな位牌堂になっている天授院は一番奥の所に置く。

天授院

天授院
大正5年移築。明治末年に買い入れ。
鎌倉・巨福呂坂の旧心平寺地蔵堂と推測される。
慶安4年(1651)

しかも、善三郎もそうだったけれども、富太郎も実際にここに住むわけです。我がものとしながら、広げていっている。そこに私的な質の高さと、公的な広がりの両方が出てくる。

進士記録には庭師が登場しますが、三溪園は庭師がつくったものではない。技術屋が工事はしたけれど、原富太郎が本当の作庭者なんです。彼の世界観と絵心でつくったんだと思うんです。

鈴木日本の文化の中で言う好みというか、原富太郎が好んだ庭になった。

2階に上ってからの眺望は非日常的な体験

聴秋閣

聴秋閣
大正11年移築。
東京・牛込若松町の二条邸にあったともいわれ、徳川家光が佐久間将監真勝に命じて建てた茶亭。
春日局の息子の稲葉家に伝えられた。
元和9年(1623)

編集部大正11年(1922年)に聴秋閣と春草廬を移して、それで建物の移築は終わりますね。

青島大正12年に大師会茶会が開かれますので、それにとにかく間に合うように、急ピッチで庭園づくりが行われたという話を、古くから勤める職員が聞いています。

鈴木大師会というのは、明治29年、益田鈍翁が入手した空海の断簡のお披露目を兼ねて、弘法大師の遺徳を偲ぶという形で、品川の御殿山にあった邸宅で茶会を催したことが始まりです。この茶会は、弘法大師の命日にあたる3月21日に、当時の政財界の第一級の人々を集めて開催されています。秋に京都で開催される光悦会とならぶ伝統的な茶会として、現在まで続いているんです。

進士それにしても聴秋閣は、無理して入れてる感じがしますね。あの場所は狭過ぎる。

青島臨春閣と同じで、聴秋閣の2階からも三重塔がよく見えるんです。裏の山には道がつくってあるんですが、そこから聴秋閣と三重塔をセットで見ると、またすごくいい景色なんです。

進士京都の詩仙堂でも飛雲閣でも、みんな望楼があるんです。こういう場所は眺望をすごく重視していますね。

鈴木そうですね。楼閣の建築なんだと思うんですが、昔の人にとっては、2階に上るということ自体、ほとんどあり得ない体験だったんだと思うんです。

春草廬

春草廬
大正11年移築。三室戸金蔵院客殿(現在の月華殿)に付属する茶室。
客殿とともに移築。「九窓亭」が本来の名称で、織田有楽斎の作と伝える。
江戸時代

御殿はみんな平屋ですし、三重塔も人が上るわけではなくて眺めるだけです。2階に上ってそこからの眺望を得るのは、今の超高層の上の展望台に上る以上の非日常的体験だったんでしょうね。ですから、そういう建物を建てるときは、そこから何を見せるかというのが、大事なポイントだったんでしょうね。

関東大震災がなければコレクションのための美術館の構想も

進士5万坪をこえる敷地に何棟あったんですか。

青島今、なくなったのも含めると30近いです。

進士聴秋閣は最後の移築で、あそこしか入れるところがなかったんでしょうか。

鈴木いや、それは結果的に最後ということで、大震災がなくて、原合名もさらに伸びていったら、また次なる構想があったかもしれない。

青島古美術のコレクションのための美術館を建てたいということで、模型までつくられていたそうです。

編集部大師会の後、その年の9月に関東大震災があったわけですね。

鈴木私は、むしろ原富太郎の予知能力みたいなことを感じるんです。大師会をここでやることを引き受けるわけです。益田鈍翁が「俺の次はおまえだ」と言って、「じゃあ、やりましょう」と大正12年の春先にやる。秋には大震災ですから、その後は富太郎としても、自分の事業の再建とか横浜市の復興にかかりっきりになってしまう。これで打ちどめだと考えざるを得なくなった。

これが半年遅れていたら、大師会は成立しなかった。その意味では、原富太郎にとって、あるいは横浜全体にとって関東大震災はものすごい悲劇だけれども、その中でわずか半年前であれ、三溪園がピークを迎えられたというのはすばらしいことで、何か虫の知らせがあったんじゃないかという気がするんですね。

山縣有朋と庭造りをめぐって虚々実々の駆け引き

編集部原三溪は、山縣有朋の庭を見ているんですね。

鈴木小田原の古稀庵を見に行った、有名なエピソードですね。益田孝が三溪を連れて行って、「山縣の古稀庵はどうですか」と聞くと、三溪は「最初の滝の辺はいいけれども、下のほうに行っておとなしくかわいらしくなる。ちょっとこの辺がいけませんな」みたいなことを言う。すると益田孝は山縣に「ご注進ご注進、原三溪がこんなことを言っていました」と言うわけです。山縣有朋は、椿山荘の本邸に箒庵高橋義雄を呼んだときも、同じように案内の庭師にスパイをさせているんです。高橋箒庵が「この辺にカキの木があるのはどうも田舎臭くていけない」と言ったのが山縣に筒抜けになる。

あの人たちは虚々実々の駆け引きがいろいろあったようで、三溪が古稀庵についてちょっと批判めいたことを言うと、「じゃあ、おまえならどうする」、三溪は「口でお答えするよりも、私の庭ができましたら、ぜひそれを見ていただきたい」と言う。

亭橋と臨春閣

亭橋と臨春閣

だから、大正12年に大師会が開かれたときまで山縣が生きていたら、山縣はお茶は全然しない人だけれど、原三溪は、無理やりにでも彼を絶対連れてきて、「いかがでしょう」と見せたでしょうね。

いかに庭というのが自分のビジョンであるか。庭を見せたいし、見た人が何と言うかが、ものすごく気になるんだろうと思うんです。その辺のゲーム感覚みたいな世界は、いやみと言えばいやみだけれども、面白いですね。

建築と場所、仕上がりの庭園のイメージを統合

編集部山縣有朋は庭師の小川治兵衛の意見を入れて、京都の無鄰庵を作庭していますが、三溪園にはそういう作庭家はいなかったんですか。

青島和田浪蔵さんと亀二郎さんという方の名前は出てはいるんですけれども、庭師の方の作品というよりは、多分、三溪さんの指示を受けてということだと思います。

鈴木庭師には「奈良に行ったら、あれとあれを見ておけ」と言って、奈良の人には「庭師が行ったら、あの辺を案内して勉強させてやってくれ」みたいな手紙を書いているわけです。

進士今、みんなが小川治兵衛と言うようになった。しかし、庭師は江戸時代はもちろん、今だって造園屋はいっぱいあるわけで、そういうものの一人だった。ただ、人との出会いというものが大事で、山縣有朋と小川治兵衛は波長が合ったんでしょうね。両方で構想を出しながら庭を育てていく。ただ、これも日本庭園の当たり前の姿なんですよ。足利義政が善阿弥と一緒に銀閣寺をつくる。善阿弥も相当の腕で名人だったから、記録に残った。

庭師は、何十年も庭をつくっていれば、石の動かし方も木の植え方もうまい。構想力は政治家や実業家のほうが大きい。構想と技術で、まさにコラボレーション・協働作業だから、いずれかが有名な場合はその名前が残る。夢窓国師がつくった庭もたくさんありますけれど、夢窓国師自身は指図するだけでしょう。

三溪の場合は、保存すべき建築のイメージと敷地、場所ごとのイメージと仕上がりの庭園イメージを統合していったのですね。多分、今度これを入れるけれども、どこに置くかと、やりとりをしたんじゃないですか。

庭にある一つ一つのものを通して背景と物語を味わう

編集部三溪は、灯籠や蹲踞などの石造物を移すとか、その配置なども細かい神経でやられていますね。

青島内苑にたくさん据えてある石なども、購入の記録を見ると、かなり早い明治35年ぐらいから購入していています。

進士石造物は、日本の庭園ではかなり重要な演出機能を持っているんです。フォーカスポイントになるし、場所性を表わすんです。水のほとり、丘の上、場所によってふさわしいものが決まっている。雪見灯籠は水辺におくもので山の上に上げてはだめです。そういうふうに場所性とものがセットになっている。だから庭は、それを覚えておけば失敗せずにつくれる。

そういう石造品は何度もリユースされてきた。醍醐寺三宝院の藤戸石が有名ですが、庭園は権力や政治と深く関わる。お城一つやるから銘石を一つくれとか。京都の庭づくりは、いい材料はみんな徴発して集めるんです。故事来歴がついて付加価値も加わる。

編集部原三溪は秀吉が好きで、秀吉ゆかりのものを持ってきたりしていますね。

瓢箪手水鉢

瓢箪手水鉢
臨春閣第三屋緑先。豊臣秀吉が愛用したと伝える。

進士名物とも言うし、話題が必要でしょう。社交というのは話題ですからね。だから庭には、これはどういうものだという意味づけ、由来、エピソード、物語が盛られているんです。ワビスケツバキ一本でもツバキ固有の意味に茶道が重なるし、その木があった屋敷の由来もあるから話題が広がる。その話題のイメージで景色に奥行きを与えて庭を見ているんです。

庭を見るというのは、そこにあるものだけを見ているんじゃなくて、建物、橋、石造品、名木名石一つ一つにある背景と物語を味わっているということなんです。イメージ力が大事。

実用性と景観性を考えた明治人たち

進士今の都市再生は、都心居住で六本木ヒルズに住めれば最高、という話ですね。ヒルズ族の価値観はスペースの快適性や利便性で、いい自然風景や歴史的味わいのある環境に住みたいとか雰囲気を楽しむとかいう感性が足りない。

鈴木ただ、六本木ヒルズがおもしろいのは、江戸時代に毛利邸がここにあったということだけを根拠に造った毛利庭園がある。超高層街区を開発するときに、庭がないとうまくないと考えるようにはなっているんですよ。

進士財産家になったとき、明治の人たちには、いい場所を選んで、そこに自分ならではの世界を創るという価値観があった。今はそれがないでしょう。

鈴木明治、大正の人たちには、悠々とそれを使う度量がありましたね。

100年前に庭園を公開した三溪の価値観のすごさ

進士三溪園で一番評価されるべきことは、オープンガーデンを実行したことだと思います。庭園公開が社会的に意味がある。今風に言うと社会貢献ですね。100年前にこの価値観はすごい。

鈴木この辺りは横浜では外れだった。三溪は、周囲に街をつくっていこうという意識もあって、原合名に地所部をつくる。

進士不動産開発ですね。

鈴木都市的スケールも持っていて、一大都市公園をつくって、全体としてすばらしい街をつくろうというビジョンもあったんじゃないか。

編集部横浜の中心部から本牧まで電気鉄道が伸びるのが明治44年です。

進士山縣有朋が、京都の無鄰庵をつくったのは、琵琶湖からの疎水、インクラインの水を引くことができたからで、それは塚本与三次という地元の実業家が東山一帯に土地開発を始めたからです。あの辺りには住友有芳園とか野村碧雲荘などが次々と営まれるようになる。

明治人の多面的発想というか、趣味と実益、私は「用と景」と言うんですが、実用性と景観性を考えて、一石何鳥にもなるようなことを自分の楽しみでやる。同時に、社会的に評価されるように公開して社会的信頼を勝ち取るわけです。そういう相乗効果をよく考えていた。それは結果的に、生きるということはみんなのお役に立つべきなんだという人生観で、渋沢栄一なんかもそうですね。

鈴木今はそれが逆になって効率化で、機能を一つにすれば能率は上がります。だけど、都市全体を見ると、高機能で単機能の都市はものすごく寿命が短いんです。多摩ニュータウンも、千里ニュータウンも、一挙に開発して、薄い層の人たちがドッと入ったから、そのまま一挙に高齢化してしまう。本来、街のあり方は複合的であり、なおかつ文化的要素が入っていると一番寿命が長くなるんですね。

三溪園は複合的な顔を持った懐の深い庭

大正12年の三溪園の建物配置図

※画像をクリックして拡大

大正12年の三溪園の建物配置図(*印は新築)
①松風閣* ②待春軒 ③寒月庵 ④皇大神宮 ⑤鶴翔閣*
⑥旧天瑞寺寿塔覆堂⑦旧東慶寺仏殿 ⑧横笛庵 ⑨楠公社 ⑩旧燈明寺三重塔
⑪臨春閣 ⑫蓮華院* ⑬天授院 ⑭月華殿 ⑮金毛窟* ⑯白雲邸*
⑰春草廬 ⑱聴秋閣
<元図は大正12年の大師会茶会の際の平面図>

進士三溪園の場合は古建築のコレクションでしょう。コレクションと言うと自分のものだけれど、保存のために寄与したと言えば社会貢献になる。明治に入って廃仏毀釈はあるし、文明開化だし、古典的文化が否定されていく。お城だって天守閣をお風呂屋の薪として売ってしまうような時代に、三溪は自分たち日本人のアイデンティティである日本文化をわかっていて、漢籍を勉強して、漢詩も書けるような文化人ですよね。

鈴木三溪は跡見女学校の歴史の先生でしたし。

進士一方で横浜の貿易商として、内外を相対化でき、グローバリーな視点を持つ。そういう意味で、彼は非常にトータルにものを見ることができた。

もちろん本当は自分の趣味で、好きだからやっていたとも思うんです。あこがれもあったでしょうしね。しかし、これだけの大庭園が残ったという結果は大変な事ですよ。

鈴木三溪園だって、彼が自分だけの庭として持ち続けていたら、今ごろは完全に宅地開発されて、影も形もなくなっていた可能性が強い。

青島戦後、原家のご子孫から横浜市に寄付したいという願い書が出され、財団法人三溪園保勝会がつくられたんです。

進士保勝会をつくったのは先見の明ですね。イギリスのナショナル・トラストと同じことですから。

鈴木税制でも、そこへ寄託をすれば、それがきちんと守られるというようなシステムにするべきですね。

進士それこそ三溪園開園100周年で強くアピールすべき一つかもしれません。

鈴木きょうのお話でまたイメージが広がりましたが、三溪園は一色の庭ではなくて複合的な顔を持った庭なんですね。伝統を継承したという側面もあるし、近代の大庭園をつくり上げたという所もあるし、建物と庭園との取り合いの妙というのも感じられるし、私的な性格と、公的で都市的な性格の重層性も存在している。見る人によって、いろいろな顔を見せてくれる懐の深い庭だなということを改めて思いました。ぜひ訪れていただきたいですね。

青島6月1日からの100周年の特別展「下村観山展 観山と三溪」では、美術愛好家としての原三溪の姿も見ていただけると思います。

編集部どうもありがとうございました。

進士五十八 (しんじ いそや)

1944年京都生まれ。
著書『日本の庭園』 中公新書 820円+税、ほか。

鈴木博之 (すずき ひろゆき)

1945年東京生まれ。
著書『東京の「地霊」』 文春文庫 467円+税、ほか。

青島さくら (あおしま さくら)

1978年熊本生まれ。

※「有鄰」462号本紙では1~3ページに掲載されています。

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