Web版 有鄰

453平成17年8月10日発行

[座談会]ドン・ブラウンと昭和の日本
コレクションで見るアメリカの戦時・占領政策

横浜市立大学名誉教授/山極 晃
放送大学教授/天川 晃
早稲田大学教授/北河賢三
横浜開港資料館調査研究員/中武香奈美
有隣堂社長/松信 裕

左から、中武香奈美・天川 晃・山極 晃・北河賢三の各氏と松信 裕

左から、中武香奈美・天川 晃・山極 晃・北河賢三の各氏と松信 裕

※は横浜開港資料館蔵ドン・ブラウン・コレクションから

はじめに

ケア物資の図書を国会図書館へ贈呈するブラウン(右端)

ケア物資の図書を国会図書館へ贈呈するブラウン(右端)※
中央は金森徳次郎国会図書館長

松信横浜開港資料館の個人コレクションの1つに「ドン・ブラウン・コレクション」があります。約1万点にのぼる日本関係図書や戦時中の対日宣伝ビラ、占領軍の内部文書などが収められております。旧所蔵者のドン・ブラウンは1930年に来日したジャーナリストで、戦後は、連合国総司令部(GHQ)の一員として再来日し、対日メディア政策に深く関わりました。

今年は終戦60年という節目の年に当たりますが、昭和20年は戦後の日本の歩みを大きく左右した「日本占領」が始まった年でもあります。そこで本日は、ドン・ブラウンの足跡をご紹介いただきながらコレクションの概要や、アメリカの戦時・占領政策などについてうかがいたいと思います。

ご出席いただきました山極晃先生は、国際政治史をご専攻でいらっしゃいます。第二次世界大戦中にアメリカが原子爆弾製造のため行なったマンハッタン計画や、戦中・戦後の米中関係などを研究していらっしゃいます。

天川晃先生は政治学および占領期の政治過程がご専門で、『神奈川県史』や『横浜市史II』では占領期を担当され、『GHQ 日本占領史』の編纂にも携わっていらっしゃいます。

北河賢三先生は、日本近現代史をご専攻で、戦時下の地方の文化活動を調査され、言論統制が行なわれていた時代の知識人のあり方なども研究されていらっしゃいます。

中武香奈美さんは、横浜開港資料館で対外関係史を専門とされております。同館で8月3日から開催されている「ドン・ブラウンと戦後の日本」展を担当されていらっしゃいます。

また、皆さまには、時期を同じくして有隣堂から刊行します『ドン・ブラウンと昭和の日本—コレクションで見る戦時・占領政策』の編集もお願いしております。

英字紙の記者となり、50年にわたって日本と関わる

東京・丸の内 1930年代

東京・丸の内 1930年代※

松信まずドン・ブラウンの経歴をご紹介いただけますか。

中武一般には全く知られていないドン・ブラウンですが、1905年にアメリカのオハイオ州に生まれ、アメリカ東部にあるピッツバーグ大学に学びます。その後、昭和5年(1930)、25歳のときに初来日をしました。来日の目的は、イギリス留学の途中で日本に寄ったと述べていますが、はっきりしたことはわかりません。

彼は、『ジャパン・アドヴァタイザー』という、当時は極東で一番有名だった東京の英字新聞社に入社して、帰国するまでの10年間を、国際ジャーナリストとして過ごします。1940年10月に『ジャパン・アドヴァタイザー』が、日本外務省寄りの『ジャパン・タイムズ』に買収されると、ブラウンは間もなくアメリカに帰ります。

そして、41年に日米開戦になる。帰国したブラウンは42年にアメリカ政府の情報機関である戦時情報局(OWI)に入り、主に日本に対する宣伝ビラの作成に携わります。

戦後は、早くも45年12月にGHQの一員として再来日し、民間情報教育局(CIE)で、占領終了の52年まで、情報課長としての重責を担いました。その後、アメリカ極東軍司令部に移り、退職後も日本にとどまります。

また仕事以外でも日本との関わりを深めました。外国人を中心とする民間の日本研究団体である日本アジア協会に1947年の活動再開時から関わり、亡くなるまで紀要の編集に携わっています。日本アジア協会は明治5年に横浜で設立され、初期の会員にはイギリス人外交官で日本学者のアーネスト・サトウやB・H・チェンバレンらが名を連ねる由緒ある団体です。

膨大な収集資料を遺産管財人を通じて譲り受ける

松信彼のコレクションはどのようないきさつで開港資料館に収蔵されたのですか。

中武1980年5月にブラウンは74歳で名古屋で亡くなります。家族がいなかったので、図書1万点と新聞・雑誌、文書類を、遺産管財人のブレイクモアという弁護士を通じて譲り受けました。この人もGHQの一員だった人です。

横浜開港資料館は81年に開館しますが、その準備段階で最初に収集したのがブルーム・コレクションで、その旧蔵者のポール・C・ブルームさんが、自分の古い友人であるブラウンのコレクションを「自分のコレクションよりは落ちるけれども、日本関係の新聞、雑誌はとてもいいものがある」と教えて下さったと聞いています。

ただ、コレクションの大半が1930年代から占領・戦後期にかけての資料で、専門スタッフがおりませんでしたので、なかなか整理がつきませんでした。でも、貴重だというのはわかっておりましたので、横浜国際関係史研究会にその研究をお願いすることになりました。

北河私たちがドン・ブラウンにかかわったのは、99年度からです。ブラウン・コレクションは、新聞・雑誌については整理がほぼ済んでいたのですが、それ以外の文書類について、内容が、ブラウン自身が活躍した同時代の資料なので、その検討を本格的に始める必要があるという趣旨で、横浜開港資料館から、私たち横浜国際関係史研究会(通称ドン・ブラウン研究会)が研究委託を受けました。それ以後、今日の3人のほか、赤澤史朗、今井清一、枝松栄、大西比呂志、吉良芳恵、寺嵜弘康、山本礼子の10人のメンバーで、ことしの3月まで調査研究を重ねてきました。また、担当の中武さんの協力もえました。

研究会では、日記、書簡、ビラ、写真等の検討を進め、あわせてブラウンと直接かかわりのある事柄やブラウンが所属した組織、関係のある人物について調査をしました。

アメリカではナショナル・アーカイブス(国立公文書館)ほか、いくつかの大学と、国内の各関係機関を中心に調査を進め、関係者へのインタビューもおこないました。そこでは、これまでのブラウン像とはやや違った印象もありました。

日本の英字紙記者と外国の新聞の特派員を兼ねる

松信最初の来日では、新聞社に勤めたんですね。

天川彼の仕事は、記事を書くことが中心だったと思いますが、署名記事ではないので、どんな記事を書いたのかはわからないんです。

後年、『ジャパン・アドヴァタイザー』にいたジョセフ・ニューマンという人が書いた『グッバイ・ジャパン』という本には、ブラウンは編集長みたいに書かれています。当時『ジャパン・アドヴァタイザー』の経営者であり編集長だったウィルフレッド・フライシャーの代理的なこともやっていたんじゃないかと思われます。いずれにしても、比較的若手の記者として活動していたんでしょう。

中武『ジャパン・アドヴァタイザー』は、1890年に横浜で始まった英字紙ですが、経営が危なくなったときに、アメリカ人のベンジャミン・フライシャーが買い取り、大きな新聞社に育て上げたんです。

その息子がウィルフレッド・フライシャーで、この当時、編集長をしていました。

天川当時『ジャパン・アドヴァタイザー』に記事を書いていた記者たちは、同時に外国の新聞の特派員もやっていたんです。ブラウンも、『クリスチャン・サイエンス・モニター』と『シカゴ・デイリー・ニューズ』の特派員でもありました。

ウィルフレッド・フライシャーは『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』、編集長のヒュー・バイアスは『ニューヨーク・タイムズ』の特派員をやっており、日本で記事を書くだけでなく外国へも情報を送るという、二重の看板を持って活動をしていたようです。

ジャーナリスト活動が絶望的になり帰国

松信日米開戦前ですが、日本政府との情報のやりとりはいろいろあったんでしょうね。

天川1931年の満州事変以降、日本は中国との関係で軍事的な行動をとり始め、アメリカが非常に神経をとがらせていった。日本としても、国際的な問題について、外国に対していろいろ説明をしなければならなくなって、外務省に情報担当者を置いたんです。

天羽英二外務省情報部長の外国人記者会見 1933-37年

天羽英二外務省情報部長の外国人記者会見 1933-37年※

ですから、外国人記者を対象とした記者会見には、ブラウンとかフライシャー、バイアスらは、当然出ています。

当時のアメリカ駐日大使のグルーの日記を見ますと、フライシャーとグルーは非常に密接なコンタクトをとっていて、フライシャーは、記者会見等での日本政府の話をグルーに伝えてますし、グルーもアメリカの基本的な考えを教えるようなこともあって、ジャーナリストとアメリカ大使館は、かなり接触があったと考えられます。

特に、彼らは、アメリカの新聞の特派員でもありますから、グルーが、本国の新聞にどういう記事を書いているのかを聞き出したり、あるいはそれについてコメントを求めたりということをやっている様が、グルーの日記からうかがえます。

時代がしだいに緊張をはらみ、日米関係が悪くなっていく時代でもありますので、大使館としては、そういった外国人ジャーナリストからいろいろ情報を得る努力をしていたと言えるんじゃないでしょうか。

北河例えば神戸の『ジャパン・クロニクル』は、小さな新聞ですから、余り問題にされなかったようですけれども、満州事変段階から、随分批判的な論調を一貫して示しています。それに比べて『ジャパン・アドヴァタイザー』はどういう姿勢だったんでしょうか。

天川日本政府は、外国新聞が非常に批判的なことを書くと、発行停止にする。現に『ジャパン・アドヴァタイザー』は何度か発行停止になっていて、ワイオミング大学にあるフライシャーの文書の中に、内務大臣からの発行停止の書類があります。

グルーは『ジャパン・アドヴァタイザー』は自主規制をしながら発行を続けていたということを書いていますね。そこが発行部数の多い『ジャパン・アドヴァタイザー』と神戸の『クロニクル』の違いでもあるということです。

『ジャパン・アドヴァタイザー』が買収される

W・フライシャーのインタビューを受ける松岡洋右

W・フライシャーのインタビューを受ける松岡洋右 1940年
『Volcanic isle』(火山列島)カバーから

松信1940年にブラウンは帰国しますが、その原因は何だったのでしょうか。

天川『ジャパン・アドヴァタイザー』が『ジャパン・タイムズ』と合併したからです。『ジャパン・アドヴァタイザー』の経営が苦しかったことと、日本政府としても、英字新聞は、日本政府の手が入っているような『ジャパン・タイムズ』があったわけですから、一本化できたほうがいいということで、結局、買収されるんです。

中武その前にも、例えばイギリス政府とか、朝日新聞からも買収の話があったんです。でも、フライシャーとしては、アメリカの立場を表明する唯一の新聞だという自負から、経営が苦しいながらもなんとか守ろうとするんですが、だんだん追い詰められていった。父親のフライシャーはグルーに、最後は安く買いたたかれて、没収されたと同じだと語っています。そこでフライシャー一家も帰国しますし、ブラウンも日本にいてもジャーナリスト活動ができないということで、帰国します。

北河ブラウンは、毎日ではないんですが日記をつけていまして、彼は心情的なことを余り表に出さないという印象が強いんですけれども、40年になりますと、大変追い詰められていて、常に偵察されているという状態で、普通にものが書けないということを書いています。

恐らく経営上の問題とともに、もうジャーナリズムとして成り立たないと思ったんでしょう。

中武ウィルフレッド・フライシャーは、アメリカに帰国してすぐに『Volcanic isle(火山列島)』という日本回顧録を出すんです。どこで噴火するかわからないような危険な要因をいっぱい持った日本という意味だと思います。その中で、40年ぐらいになると、記事に抗議して、ドイツ大使館の書記官が家に押しかけてきて、脅迫され、大使館に助けを求めるというようなことが起こって、フライシャーもかなりまいってしまっているということを、具体的に書いているんです。

北河外国人記者は友好関係を保たないと仕事ができないし、外務省側もそれなりの対応をしていますけれども、他方で要注意人物についてはかなり細かく身辺を調べていますね。ロイターの記者が、スパイ容疑で逮捕され、取調べ中に飛び降り自殺している。

中武40年7月のコックス事件です。ブラウンの日本での日記の最後は、コックス事件を受けて、もうたまらないという気持ちを書いて終わっています。帰るまでまだ3か月ぐらいあるんですけれども、もう絶望的だったんでしょうね。

アメリカ戦時情報局で対日宣伝ビラを作成

対日宣伝ビラを飛行機で撒布

対日宣伝ビラを飛行機で撒布
アメリカ国立公文書館蔵

松信ブラウンは帰国してすぐに、戦時情報局(OWI)に入るんですか。

山極彼がOWIに入りましたのは42年9月です。その前は、1年ほど、UP通信にいました。

当時、アメリカの宣伝情報機関の宣伝方法には、大きく分けて2つありました。1つは公開の宣伝やニュースで、ビラを出す場合でも、アメリカ軍が出したものだということをはっきりさせている「白い宣伝」、ホワイト宣伝です。それに対して、もとがわからないように、例えば日本のグループが出したような形にする謀略的なものをブラック宣伝と呼んで一応区別している。

OWIは、原則としてホワイト宣伝を担当していて、OWIそのものは、アメリカの国内の意思統一、国民の統一を図るための宣伝をする国内部と、対外宣伝をする海外部の二つに分かれていた。彼は海外部に属していました。

OWIの本部はワシントンにありましたけれども、彼が属していたのはニューヨーク事務所です。

彼はそこで、主に宣伝ビラの作成と、その管理・配布をやっていました。アッツ島とかアリューシャン列島、そのほかの太平洋諸島を担当していたので、太平洋の小さな島島についてのビラがかなり残っています。

彼のコレクションは、もちろんアメリカがつくったビラ全体から言うと一部にすぎないんですけれども、それがニューヨークのOWIの事務所で保管されていたものだということと、その現物が日本にあって、見ることができるという点で、たいへん貴重だと思います。

分類しますと、比較的初期のものが多いのが一つの特徴です。42年の後半から44年にかけて、前線でビラをつくれなかった時期に、ニューヨークから送っていたということを物語っています。

松信ビラはどのくらいつくられたんですか。

山極戦争が始まると、それぞれの戦線でもビラをつくるようになりますから、そういうものを含めますと、大変な量になります。種類で言っても、全体で数百になるんじゃないでしょうか。

ビラの作成は日本兵の士気を弱めることが目的

ブリスベーンで作成した宣伝ビラ

ブリスベーンで作成した宣伝ビラ※

松信ビラをつくって、飛行機で撒く。目的は戦意を喪失させるということですか。

山極戦争手段によらずに相手の兵隊の戦う意欲、士気を弱めるという心理作戦ですね。それでうまくいけば投降させるところまでいくんだけれども、実際にはなかなかそこまではいかないんです。

もう一つは、現地の諸民族に対する、日本への非協力とか、反抗とか、できればアメリカ側に協力をさせようというねらいです。大きく分けてこの2つの目的があった。

松信日本向けのビラの文章を見ると、日本側の事情をよく知っていますね。天皇に対する配慮もされていた。

山極そうですね。天皇については、戦争が始まってすぐ、OWIと国務省で討議して、直接攻撃すべきでないという方針を決めます。天皇に対して、非常に気を使っている。ただし、それは天皇のためというよりも、天皇を攻撃したらマイナスしかないという考え方です。

それから、最初のころは、アメリカの軍事力の強さを誇示して、「だから降伏しろ」という論調が強かったんです。しかし日本軍はそんなことでは降伏しない。むしろ、家族のため、新日本建設のために現在アメリカ軍の中にいる日本軍の戦友たちに参加しなさい、という言い方になる。

松信ビラに使ってある日本兵の捕虜の写真も、最初は顔を出していたのを隠すようにしたりしていますね。

山極非常に気を使うようになっていく。降伏する兵隊が持ってきたら通すという安全通過証があって最初は、それに、「I Surrender (私は降伏した)」と書いてあったんですが、途中から「I Cease Fire (戦闘をやめた)」と言葉遣いを変えていくわけです。かなり巧妙になってきています。

それから、ブラウンのビラの中で、もう一つ特徴的なのは、オーストラリアでつくられたビラがかなり入っています。マッカーサーのフィリピン進攻に備えて、心理作戦も強化するということで、彼は44年の7月にオーストラリアに派遣され、パンフレットやビラの作成についてOWIの要員たちと協力、あるいは助言をしたんですね。

戦争末期は捕虜となるケースが増える効果も

宣伝ビラ「一歩先は軍部の捨て駒」

宣伝ビラ「一歩先は軍部の捨て駒」※

松信ビラは、実際効果はあったんですか。

山極美味そうなお鮨をカラーで印刷したり、「愈ゝ死に直面する日本兵」「一歩先は軍部の捨て駒」というタイトルのものとか、日本兵の心理をつこうとしたものがたくさんあります。その効果のほどははっきりと証明はできないんですが、アメリカ側が判断基準にしていたのは、1つは、日本政府、日本軍がいかにその問題を気にするかということです。つまり、効果がなければ軍も政府も気にしないでしょう。だけれども非常に気にしている。そういう度合いが強くなればなるほど、アメリカ側としては、やっぱり効果があると考えた。

もう1つは、かなり膨大な日本人捕虜の尋問をやって、どういうビラにどんな感想を持ったかということを詳しく聞いているんです。捕虜になった以上、どうでもいいやというところがあって、そのまま受け取るわけにはいかないんですが、どういうときにどんな気持ちになったかということはある程度わかる。

ただ、実際にビラを見て降伏した人は数えるほどなんです。では効果がなかったかというとそうでもない。本当に食うや食わずでやっている兵隊からすれば、やっぱり何らかの影響は確かにあって、本当なら自殺するところを捕虜になるといったケースがだんだん増えていくわけです。

北河日本軍はもともと無投降主義ですね。捕虜になっても日本に帰れないという感じだったんですが、最末期になると、玉砕というのは実際は文字どおり全滅ではなく、「玉砕した」と中央に連絡して、あとは現地で何をやってもいいという、「玉砕」の次の段階なんです。その段階で捕虜がすごく増える。

フィリピン戦の統計では、初期の捕虜はせいぜい数十人なんですが、戦争末期は1か月で1千人、2千人単位で増える。それは、撒かれたビラの量と正比例しているんです。最後の「生きるため」というか、もう餓死するしかない状況の中で、ビラが意味を持ったという推測はできるかもしれません。

日系二世の藤井周而らがビラづくりに協力

松信OWIでブラウンの周りにいたのはどういう人たちだったんでしょうか。

山極まず、藤井周而という日系二世がいます。彼はいわゆる帰米二世で、父親はジャーナリストで、子供のころ日本で教育を受けてアメリカに帰ってきた。その後『同胞』というロサンゼルスの日本語の新聞の代表を長くやっていて、ジャーナリストとしても非常に有名だったんです。

彼は共産党員だったと思いますが、その新聞を含め、かなり左翼運動もやっていて、戦争が始まると、アメリカ側がマークしていた日系人の有力者の一人と目されて逮捕されます。しかし新聞自体が、もともと日本の軍国主義に反対していた新聞なので、彼はそこで釈放されて、また新たに日系人キャンプに入れられ、42年に釈放されてニューヨークに行くんです。

松信それでOWIに入るわけですか。

山極そうなんです。ブラウンをリクルートしたデニス・マッケヴォイという人が、藤井周而も採用した。彼によれば、一生懸命国中探して、やっと最適な人物を見つけたと言ったほど、確かに優秀だった。彼はブラウンよりもちょっと先にOWIに入っていて、ブラウンの部下になります。ブラウンも、日本人向けのビラをつくる上では彼にはかなわないと言っていて、非常に珍重したようです。

それから石垣綾子(マツイ・ハル)ですね。彼女もブラウンより先に入っています。翻訳の仕事を主としてやっていたようで、彼とは部署が違っていたけれど、戦後、石垣綾子が日本に帰りたいというときにも、ブラウンが尽力したようです。

それから国吉康雄という、当時すでにアメリカの画壇で有名だった人もOWIに関係していましたが、ビラの仕事ではなかったようですね。

松信我々がよく知っている、『菊と刀』を書いたルース・ベネディクトもOWIにいたんですね。

山極はい。でも部署が違うので、余り関係はなかったんじゃないかと思います。

GHQ民間情報教育局で民主化政策を推進

占領初期の東京・日比谷

占領初期の東京・日比谷※

松信1945年8月に日本が敗戦し、その年の12月1日に、ブラウンはGHQの民間情報教育局(CIE)の一員として再来日するわけですね。

中武ブラウンは厚木の飛行場から軍用トラックで、横浜を通って東京へ向かうんですが、その途中の印象を「横浜の郊外までは、すべてが荒廃した状態であるほかは戦争の傷跡はほとんどなかった。しかし横浜に入ると、風景の中に、がれきや、壊れた建物、さびたブリキの簡易避難所、焼き尽くされた車や市街電車が見え、人びともみすぼらしくて生気がなく、痛々しかった。交通量はかなりあったが、その大半はアメリカ軍のものだった。(中略)英語の道路標識がいたるところにあった。横浜の建物の多くには軍の表示板がかかっていた。東京への幹線道路は、かつては日本で一番よい道路だったが、穴だらけだった。店舗と住宅が立ち並ぶ比較的大きな通りは破壊されずそっくりそのまま残っていたが、荒れ果てていた」と、ニューヨークの友人への手紙に書いています。

北河ブラウンは、OWIで準備してきた海外向け映画の配給や、翻訳権の問題にかかわっていたということで、CIEに配置された。OWIでやってきた仕事を、そのままCIEで生かすというつながりですね。

CIEに情報課ができるのが46年の6月で、ブラウンが情報課長になるのは7月です。それから52年の占領終了まで務めますから、占領期、情報課長として一貫して指導し続けました。

日比谷のCIE図書館 左はアーニー・パイル劇場(現東京宝塚劇場)

日比谷のCIE図書館 左はアーニー・パイル劇場(現東京宝塚劇場)※

ブラウンが関与した部署はいくつかあります。46年1月からは、プランズ・アンド・オペレーション・ディビジョン。企画作戦課と訳されることがありますが、初期の婦人参政権の問題、女性団体、労働組合、青年団体等々、初期の民主化政策に対応する啓発宣伝活動をしていたところです。それから、新聞、ラジオ、映画、CIE図書館に関与しています。そういうCIEの初期の民主化政策の宣伝にかかわっていた。

46年の4月からは、プレス・アンド・パブリケーション・ディビジョン。新聞出版課のチーフが更迭され、後任に任命されて新聞出版にかかわっていき、7月頃から、恐らくその一環で用紙割当の認可を行なうようになります。

松信戦後、言論が自由になったと言っても発表するための紙が足りない。その割当にGHQが関与していたんですね。

北河情報課長時代、ブラウンが直接関係したことで一番多いのが、用紙割当問題です。それに続いて外国映画の許可、検閲。それから外国文献の翻訳の認可。これらが主なものだったようです。映画や出版物の検閲を担当したのはCCD(民間検閲支隊)という検閲の部署ですが、CCDと並んでCIEの情報課が検閲の一部を担ったという事実もあるのです。

用紙割当や出版統制では公正であろうと努力

「新聞出版用紙割当制度の概要とその業務実績」

「新聞出版用紙割当制度の概要とその業務実績」※

北河用紙割当、出版統制については、当時のGHQ内部で、CIE対CIS(民間諜報局)、もう一方でESS(経済科学局)との対立がある。それから日本の民間団体の中でも、戦後、日本出版協会ができて、戦争責任問題をめぐり、戦時中、戦争協力がはなはだしかった講談社とか旺文社、主婦之友、家の光協会とかの大手出版社が戦犯出版社として批判される。それらの出版社が日本自由出版協会をつくって、日本出版協会と対立していました。

GHQ内部の対立と、日本の民間団体の対立が相互に結びついた状況で、ブラウンは日本出版協会を支持し、用紙統制の実権を握り、メディア統制を行なったと、今までは言われていたのです。

いろいろな側面で対立があったこと、ブラウンが「統制派」であったことは間違いない。ただ、「鉄の男」などとよばれて、専制的、独裁的なニュアンスで語られる場合があるんですが、必ずしもそうではないのです。

それは、統制によって一定の原則を守り抜くということなんです。いろんな立場に対して公正であろうとした。だから、特定の個人や集団の利益に奉仕するような形はとらない。用紙配給に際して政府の高官や政治家の介入は拒絶する。陳情に対応はするけれども、結局一切認めなかったという証言もありました。

G2(参謀第二部)のウィロビーには小規模出版社の存続という考え方はなく、共産党への用紙配給は否定されていた。ところがブラウンはその逆で、小規模出版社を擁護して用紙を配給するし、共産党といえども、それを否定することはできないという考えだった。

ブラウン自身は決して親共産党的ではなく、むしろ反共に近いとも言える面があるんですが、ただ、マッカーシズムのような絶滅的なものではない。さまざまな立場を認めるということだと思います。

国内の出版団体との関係でも、対立する双方の立場を認める。そういう容認論で、ブラウンの立場はかなり一貫しているという印象ですね。

占領の最初から最後まで関わった稀な存在

日本の高校生とCIE音楽担当

日本の高校生とCIE音楽担当※

松信占領軍の一員として見て、ブラウンはどんな存在なんでしょうか。

天川GHQの中にはいろんなセクションがありました。政治関係ではGSと訳される民政局、経済関係はESS。GSは政治関係、憲法問題などいろんなことをやりましたが、実は、せいぜい3、40人の規模なんです。そんなに大きくないんです。ですから、憲法も、10人か15人が書いたというのは、そのころはそのぐらいしか人がいなかったということなんです。

ところがCIEは、かなり大きいセクションで、時期によって違いますけれども、情報課だけでも40人ぐらいいます。ブラウンは、GSよりも大きな課の課長だったということです。

松信大所帯の課長だったんですね。

天川ブラウンは戦後の非常に早い時期に日本に来ていますね。これは、一つは、OWIが戦争が終わったら用がなくなって、国務省に統合される。そして、日本関係の知識のある人が、今度は違った形で占領に必要になってくるということで、彼は再来日した。

彼の場合、戦前に10年もいたわけですね。しかも、占領の最初から最後までずっといた。占領にかかわったいろんな人を見ても、そもそも最初から最後までいた人はそれほど多くないし、その中で、いわんや戦前にかなり長い間いた人は非常に少ない。そういう意味では非常に稀な例だという印象を持ちます。

そういう人なら、もっといろんなことがわかってもいいはずなのにという気がするんですが、彼の行動の根幹のところでよくわからない部分がまだまだ残っていまして、それが彼のパーソナリティーなのか、謎めいたところがたくさんあるんです。

再来日の初期の12月から1月にかけての、友人のE・H・ノーマンについて記した手紙が残っています。彼の戦時中の日記は飛び飛びですが、書簡はほぼ毎日書いている。本当に短い期間しか残っていないので残念なんですが、こうしたものは彼の交友関係や考え方などを知る上で、重要な手がかりだと思います。

占領終了後は米極東軍司令部の情報担当として滞日

中武ブラウンは、占領政策が終わり、情報課長としての任務が終わった後の1952年に、在日アメリカ軍の極東軍司令部の情報担当として日本に残ります。ところが54年に共産主義者との関係が疑われて、国家安全保障審査委員会でひっかかります。ここで潔白が証明されなければ解雇されることになるので、それに対して約40ページにわたる弁明書を用意します。一昨年の夏、その写しのそろいが、友人のブレイクモアの元別荘に残っていたのが出てきたんです。

ブラウンが、真実をすべて語ったとは思えませんが、初めて、戦前からの交友関係について、誰々が共産主義者とは知らなかったとか、自分はそうじゃないということを慎重に、一人一人について具体的に述べていて、ブラウンの交友関係と考え方を知る資料としてはかなり貴重なものです。

北河最初はOWI時代の資料が一番乏しくて、文書がないものですから、年譜をつくる上でも苦労していたんです。そこに今のブレイクモア文書が出てきたので、かなり埋めることができました。

松信極東軍ではどんなことをしていたのですか。

中武パブリック・インフォメーション・オフィスと言いますから、渉外局でしょうか。今度はスタッフは余りいないんですけれども、そこに情報官として入ります。

そこでの仕事は、これまでは余りわからなかったんですが、残した文書を少しずつ見ていきますと、OWIや、GHQの情報課でやっていたのと同じように、新聞をもとに、アメリカに対する日本の世論の動向などを日日チェックし、その情報を司令部の上に伝える。さらに、日本の首相に宛てる司令部からの書簡の草稿を書くとか、そういうこともしていたようです。その写しが随分残っているのが、整理が進むにつれてわかってきました。

1万点におよぶ日本関係図書のコレクション

松信ブラウンのコレクションには、ほかにもいろいろな資料がありますね。

中武コレクションの中の主な資料については、今までのお話の中で出てきましたけれども、それ以外の珍しいものとして、占領初期の1946年に亀井文夫監督が製作した「日本の悲劇」という、問題となった記録映画があるんです。天皇の扱い方をめぐって、検閲をパスして上映中だったのにストップがかかり、全部のフィルムが没収された作品です。その没収されたうちの1本のプリントがブラウンの手元に残ったままになっていたんです。そういう問題のプリントを扱う部署の責任者の一人であったことがわかります。

それから1万点の図書がありますが、これは去年、横浜開港資料館で分類目録をつくって、全面公開しました。

その中に寄贈のサイン入りの図書が130冊ぐらいあります。それを見ると、彼の交友関係が見えてくる部分があります。研究者も、外国人も日本人も、先ほど話題に出たOWIのころに出会った石垣綾子とか、八島太郎という絵本画家もいます。

戦前や終戦直後の日本各地の写真も

松信写真も、かなり珍しいものがたくさんあるようですね。

中武はい。ブラウンが撮ったわけではありませんが、1930年代の日本各地の風景を撮ったものや、戦時中にOWIで宣伝ビラを作成するときの資料として集めた戦場写真や捕虜の写真、戦後すぐの日本各地の写真が、全部で800枚ぐらいあります。

横浜駅西口の石油集積場

横浜駅西口の石油集積場※
戦前はスタンダード石油の所有地だった

戦後の写真の中には、終戦直後の横浜駅西口とか、バラックの裏庭の畑を耕している写真もあります。文書だけではなく、ビジュアルな資料として、日本と日本人分析の助けとなったんだろうと思います。

横浜開港資料館では、8月3日から10月30日まで「ドン・ブラウンと戦後の日本」という展示をいたします。とにかく膨大な資料ですから、全部は展示できませんが、このような写真もたくさん使って、占領期を中心に紹介しました。

山極ブラウンは、いつごろから本や資料を集めていたんですか。

中武いつ、どこで入手したかと書いてある本があり、一番古いのは、来日した1930年に神戸で入手しています。1930年代の彼の日記には、「きょうは神田で何を買って幾らだった」という記述もあります。いつからというのはなかなか難しいんですが、多分、来日してすぐにコレクションを始めたんだと思います。

コレクションの価値を見いだすのは利用者自身

山極この1万点の本の特徴というと、何ですか。

中武資料館で持っていますブルーム・コレクションとよく比較するんですが、5千点あるブルーム・コレクションには、大変高価な稀覯本、16世紀のイエズス会の日本報告書とか、初版本がそろっていて、最初から、ある程度価値がわかっている。

ブラウンはその倍の1万点ですが、ブルームさんが言ったように、本当に雑多です。けれども、それは、ブラウンがその時々に関心を寄せた、あるいは仕事上の関係で手元に集まった、彼のやってきた仕事とともにある図書コレクションであるわけです。日本理解を仕事としつづけた一外国人が残したこのコレクションは、時代時代のさまざまな日本の姿をとらえているはずで、利用もそれにあわせて、さまざまだと思います。

ですから、その価値を見つけるのは、利用者自身であって、いろいろな関心をもった人たちに利用してもらって活かされるコレクションではないかと思っています。

松信どうもありがとうございました。

山極 晃 (やまぎわ あきら)

1929年宮城県生れ。
著書『米戦時情報局の『延安報告』と日本人民解放連盟』大月書店 5,200円+税、ほか。

天川 晃 (あまかわ あきら)

1940年大阪府生れ。
共著『日本政治史−20世紀の日本政治』放送大学教育振興会 1,900円+税、ほか。

北河賢三 (きたがわ けんぞう)

1948年愛知県生れ。
著書『戦後の出発』青木書店 2,200円+税、ほか。

中武香奈美 (なかたけ かなみ)

1956年宮崎県生れ。
共著『横浜英仏駐屯軍と外国人居留地』東京堂出版 (品切)ほか。

※「有鄰」453号本紙では1~3ページに掲載されています。

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