Web版 有鄰

449平成17年4月10日発行

[座談会]神奈川県立金沢文庫75周年 金沢文庫と称名寺

東北大学名誉教授/有賀祥隆
日本女子大学文学部教授/永村 眞
神奈川県立金沢文庫長/高橋秀榮
神奈川県立金沢文庫学芸課長/鈴木良明
有隣堂社長/松信 裕

右から鈴木良明・永村眞・有賀祥隆・高橋秀榮の各氏と松信裕

右から鈴木良明・永村眞・有賀祥隆・高橋秀榮の各氏と松信裕

※は称名寺蔵・神奈川県立金沢文庫保管

はじめに

称名寺境内

称名寺境内

松信横浜市金沢区には、鎌倉時代の中頃にこの地に別業(別荘)を設けた北条実時によって開創され、現在も広大な伽藍と庭園をそなえる称名寺があります。北条氏は邸内に膨大な量の書物を収集した文庫を設け、北条氏滅亡後も、それらは長く称名寺に伝えられてきました。昭和5年(1930年)、神奈川県立金沢文庫が、称名寺に伝来した蔵書や文化遺産を保管し、整理・研究するための施設として、境内の一画に復興されました。

本日は、神奈川県立金沢文庫が開館して、ことしで75周年を迎えたことにちなんで、金沢文庫を創設した北条実時とその一族、菩提寺である称名寺、あるいは現在に至るまで700年以上にわたって伝えられてきた仏教関係の文化遺産や古文書についてお話しいただければと思います。

ご出席いただきました有賀祥隆先生は、東北大学名誉教授でいらっしゃいます。奈良国立博物館仏教美術研究センター、文化庁美術工芸課に勤務された後、東北大学に移られました。平安期の仏画を中心に、仏教美術がご専門です。

永村眞先生は東京大学史料編纂所助教授などを経て、現在、日本女子大学文学部教授でいらっしゃいます。奈良東大寺や京都醍醐寺、また関東の諸寺院に伝来する資料の調査に当たられ、寺院の組織についても研究しておられます。

高橋秀榮先生は神奈川県立金沢文庫長で、中世仏教史、特に仏教典籍がご専門です。金沢文庫に残された古文書を長年にわたり研究しておられます。

鈴木良明先生は神奈川県立金沢文庫学芸課長で、長く神奈川県立歴史博物館で近世史を担当され、神奈川の街道や社寺参詣などにご造詣が深くていらっしゃいます。

北条実時が六浦に居館と文庫をつくる

松信まず金沢、当時の六浦の地と北条氏の関係からお話いただけますか。

高橋鎌倉幕府の大きな事業として、仁治2年(1241年)に朝比奈の峠に切り通しを開いて六浦とのパイプをつなげました。鎌倉には外国の大きな船が停泊できる港がありませんでしたので、六浦に天然の良港としてあった三艘の湊を使って、物資輸送を往還するということが目的の1つでした。それからもう1つ、鎌倉の東側を固める砦が金沢の場所であったと思うんです。

この2つの柱を、第三代執権の北条泰時が、一番末の弟の実泰に所領を与えて守らせた。実泰の子供の実時が正元元年(1259年)にそこにお寺をつくり、最晩年の建治元年(1275年)ごろ「文庫(ふみくら)」と称する私設書庫を建て、合わせて自分の住まいである居館をつくった。「別業」と言われる別宅ですが、ここから金沢の中世の歴史が始まると私は理解しています。

松信鎌倉に本宅があり、金沢は別宅だったんですね。

金沢氏は一族存続の拠り所を学問に求める

高橋北条実時は京都とのつながりもあった人物で、非常に学識豊かといいますか、いわゆるの武将とはちょっと違うイメージがあります。

幼いときから本を読むことが大好きだったようで、日本の書物だけでなく、中国の漢文の書物を読むことを自分の任務にもしていたようです。鎌倉の歴代執権の中では、特にすぐれて人徳もある北条泰時が、自分の後の執権になるべき経時に、学問の友だちとして実時と水魚の交わりぐらい昵懇になって、鎌倉幕府を治める上でのノウハウを学び合いなさいと諭している。そのぐらい泰時も実時に対しては子供のときから目をかけていたんでしょうね。

将来、幕府の仕事にかなりの力を発揮してくれる人物だと見抜いていた。実時は、個人で書物を集めたのではなくて、後ろ盾があって、鎌倉幕府の公的な予算も使いながら蔵書を増やせる環境にあったんじゃないかと思います。

永村北条氏一族の中での職務分担が、この金沢氏の存在にも特徴的に見られると思います。北条氏一族内では、得宗家(北条家の家督を継いだ嫡流の当主)によるさまざまな粛清が行われましたが、その中で大事なく鎌倉末まで存続したのが金沢氏でした。金沢氏は一族存続の拠り所を学問に求め、またそれを受容する能力を十分持っていたと思われます。幕府の中で、金沢氏なりのアイデンティティの持ち方があったんじゃないでしょうか。

高橋同時に、京都から下ってくる将軍とその取り巻きたちと文化的なサロンで情報を交わし合う。それに見合うだけの人物を鎌倉幕府が備えているかどうかということもありました。歌が詠めるか。字は書けるか。和漢の読書の世界に通じているか。教養が人物を評価する1つの判定材料になる。

永村金沢氏一族は、全体として漢籍にたいへん造詣が深く、また和歌や物語にも幅広い教養を持ち、武家社会の中では希有な存在だと思います。御家人の中では、例えば宇都宮氏のように京都の貴族たちと互角に渡り合う教養を持つ一族がいたわけですが、幕府の中でそういう資質をもつことが、重要な意味を持ったはずです。

高橋宇都宮氏と言えば、実時のお父さんの北条実泰が宇都宮の歌壇に交わって歌を詠んでいる。『東撰和歌集』という関東でつくられた和歌集には、実泰も、実時も、主な武将たちも一緒に歌を詠んだものが残っているんです。

実時が叡尊を招き念仏から戒律の寺に

称名寺絵図(部分)

称名寺絵図(部分)※

松信称名寺は、実時が母親の菩提を弔うために建てた阿弥陀堂が前身なんですね。

高橋称名寺は文庫より10年ほど早くできています。金沢区大道にある宝樹院の仏像から称名寺の開山・審海の願文が発見され、称名寺が1259年につくられたことが明らかになりました。翌年が実時のお母さんの7回忌に当たるので、それに合わせて阿弥陀堂がつくられたんです。昼と夜に念仏を唱えながら亡き人の菩提を供養する。そういうことで発足したのが浄土系の称名寺です。

ところが、弘長2年(1262年)に、実時が奈良の西大寺から62歳の叡尊を招いた。鎌倉の宗教界は念仏の声が暇なく騒がしいし、妻帯をする人たちもかなりいた。それで時頼と実時がはかって、宗教政策の軌道修正をしようとしたんでしょうか、戒律をきちんと守っているお坊さんに、もう一度鎌倉の仏教を見直してほしいということで招いた。

そのときに実時は、叡尊にほれ込んで、念仏をしている自分のお寺も戒律のお寺にかえますから、ぜひ住職をしてくださいというお願いまでしているんです。

鎌倉の釈迦堂に叡尊が逗留するんですが、その間、実時は幕府の仕事の暇を見つけては梵網経古迹記[ぼんもうきょうこしゃっき]という戒律の講義をされるのを何度も何度も聞いている。

こうして称名寺は真言律宗に変わっていく。本尊まで弥勒菩薩にかえるんです。

義経の成仏を願う実時の妻の願文が本尊像内に奉納

称名寺本尊の弥勒菩薩立像

称名寺本尊の弥勒菩薩立像
称名寺蔵

高橋その本尊の弥勒菩薩の像内に、現在は別置されていますが、実時の奥さんが、源義経の成仏得道を願って願文を奉納しているんです。今、NHKの大河ドラマで義経をやっていますが、こういうこともあるんだなと不思議に思っています。

松信そういう話は今まで聞いたことがありませんね。

高橋義経に関しては、探せば探すほど、いろんなものが出てきます。義経は名前を変えて逃げるんです。最終的には奥州の平泉まで逃げますが、鎌倉の腰越で源頼朝と兄弟別れした後、義経はどこにもいられなくなって、一たんは京都に帰るんですが、また逃げ回る。その行方をさがし出すようにと、醍醐寺の勝賢が後白河法皇から頼まれて祈禱するんです。

永村ただ、この祈禱に具体的にどのような意図があったのか、よくわからないのです。法皇の幕府に対する政治的な配慮があったのではないかと思います。勝賢は、特に、義経だからということではなく、朝敵調伏のための祈禱が行われたのです。

金沢北条氏四代の肖像画は国宝に指定

松信金沢文庫には国宝の画像が5点ございますね。

有賀実時、顕時、貞顕、貞将の四将像。それと貞顕の兄の顕弁の肖像画が附[つけたり]で国宝になっています。

もう1つ、実時の父の実泰の肖像画、伝北条実泰像があります。これは重要文化財です。国宝の画像に比べると、絵は小さいけれども、肖像画としては見るべきものだろうと思います。描き方は本格的というか、いわゆる似絵風の描き方で、13世紀、実泰が亡くなってすぐぐらいのものです。

高橋美術史家の濱田隆先生も鎌倉中期までと言われてましたから、実泰が亡くなった弘長3年(1263年)ころと合う。

有賀四将像はそれぞれ制作の時期が違うので、描き方も違ってくるんです。実時と顕時は、法体像といって頭を剃った姿で描かれ、貞顕と貞将は俗形と言って、烏帽子に狩衣の装束です。

実時と顕時は寿像か、遺像なのか。つまり描かれたのが生前か、亡くなってからかということなんですが、肖像画の場合、必ずそれが出てくるんです。

北条実時像

北条実時像※

実時は、頭を剃って隠居して、その次の年に亡くなりますから、寿像でもぎりぎり最後か、あるいは一周忌につくった。その辺がちょっと確かめがたい。遺像だとしても亡くなってから非常に近い時期に描かれていて、本当に肖像性があるので、判断が非常に難しい。見る人によって、寿像と遺像とに分かれるんですが、いずれにせよ実時像は絵としては非常にすぐれたものだと思うんです。

高橋実時が六浦に隠居するのが建治元年(1275年)で、その前年に、一度目の蒙古襲来の文永の役があって、心労が重なって病気になったんでしょう。隠居した翌年に亡くなっています。

病気をすると顔立ちが少しずつもろけていきますけど、そういうところのぎりぎり寸前のところで描かれた、恐らく最晩年の寿像ですね。

似絵風の顕時像は宅間派が描いた可能性も

北条顕時像

北条顕時像※

有賀二代目の顕時も頭を丸めた法体像です。彼は1285年の安達泰盛の乱で連座して、下総の埴生荘に蟄居させられる。呼び戻されて、永仁4年(1296年)に出家して1301年に54歳で亡くなるんですが、その間に描かれているので、これは寿像というか、亡くなっても次の年ぐらいですから、実時像に比べると、似絵、つまり本人に似せて描かれた肖像画に一番近い像なんです。

実時像も、後の貞顕、貞将もそうですけど、下書きをして色を塗って描き起こす、普通の絵の描き方なんです。ところが顕時像は最初のタッチが仕上がりの線という描き方で、そういう意味で鎌倉の似絵には一番ふさわしい像だと思います。

四将像すべてについてですが、こういう肖像画を描いたのはどういう絵かきかということが一番最後に関係してくるんですが。

高橋人物は特定はできないけれども、かなり一流の絵師が描いている。

有賀描かれた場所を京都と見るか、関東かということもあるけれど、京都の肖像画とはちょっと違うんです。案外、鎌倉にいた筆の立つ絵師かもしれない。

高橋宮廷絵師に対しては幕府絵師がいるんですか。

有賀鎌倉にいた宅間派の可能性はあるでしょうね。

松信顕時像はひ弱な印象ですね。

高橋それだけにすごく写実的だということなんでしょうね。上目使いで、ちょっと気持ちが病んでいるようなところがある。やっぱり失意の人ですものね。10年も流されていたんですから。

俗形の貞顕・貞将像は追善像か

北条貞顕像

北条貞顕像※

有賀三代目の貞顕は、烏帽子を被って狩衣姿で、上げ畳の上に座っている形で描かれている。1326年に出家するんですが、これも、出家前に描かれたものだというのと、俗形の姿を、一周忌なりに追善供養で使ったという2つの見方がある。私は追善像じゃないかと思っています。貞顕は北条高時と東勝寺で自害しますが、寿像という見方もできるぐらい面貌の描写もしっかりしています。

北条貞将像

北条貞将像※

四代目の貞将も、鎌倉で新田軍に攻められて、32歳で、討ち死にみたいな形で亡くなる。恐らく亡くなってからすぐではなく、3回忌か、もう少し下ると亡くなって6年ぐらいのものではないかと思うんです。

四将像に共通する銀の使用は供養像の色の感覚

有賀金沢四将像に共通しているのは、衣や狩衣に銀をたくさん使っていることなんです。晴れの場合は金を使うんだけど、銀を意図的に使うのは、供養像という色の感覚があるんじゃないか。京都ではそういうのは余りないんです。だから、私は京都の絵かきじゃなくて、鎌倉の在の腕の立つ絵かき、そういう独特の感覚を持った絵かきではないかと思うんです。

京都では、この時代を前後してたくさんの肖像画がつくられます。最近、東京文化財研究所の米倉迪夫さんが、今我々が言っている神護寺の源頼朝像は足利尊氏の弟の直義で、平重盛像は尊氏、藤原光能像は二代将軍の義詮だといわれた。そうすると、制作年代が150年ぐらい違って、1330年~1340年ぐらいになる。頼朝像は南宋の肖像画の描き方に近いんで、私自身はそこまではという感じがちょっとしているんですが、それが14世紀だとしても、金沢の四将像とは趣が全然違うんです。

北条氏滅亡後は湛睿が称名寺を支える

湛睿和尚像(部分)

湛睿和尚像(部分)※

永村北条氏の滅亡後、一体誰がどういう形で追善のための大きな法要を営んだのでしょうか。

有賀三代目の住持の湛睿が46年ぐらいまで生きて、ぎりぎりかかわるぐらいですね。その後四代実真がいるけど、湛睿ぐらいまでじゃないかなという感じがします。

高橋財源的には湛睿までですね。それから東大寺にある仏画と、称名寺の仏画には共通点があるんですが、その制作を発願できるのは湛睿です。湛睿の肖像を見ると、でっぷり太っていて相撲取りみたいでしょう。相当に財源を持っていたのでしょうね。それでなかったら、あんなに本を書き残せませんよ。

有賀あの肖像はいいですよね。すると、湛睿自身の肖像を描いたのは誰かということなんです。北条氏が滅びた後に誰が供養したのか。

永村常識で考えると、北条氏が滅びたら、経済的な拠り所を失うわけでしょう。荘園もなくなり、経済的な基盤が崩壊するはずなのに、行事は依然として維持されたのはどうしてでしょうか。

高橋足利直義が安堵状を湛睿に下すんです。

有賀その後の室町時代も続いてずっと残っていきますね。何かうまいんですよ。どこかが称名寺を支えていく。

高橋足利氏でしょうね。

湛睿は文庫の管理者を任命し、経典の保存に努力

永村南北朝時代の文書によれば、寺領荘園が幾つか残されているのですが、実際の経営はどうだったのでしょうか。

高橋湛睿という人は、北条氏が滅んだ後、6年後に釼阿の後を継いで三代目に就任するんですが、授戒といって戒律を授けたり、華厳経を講義するんです。称名寺が今で言う会場になって講義しますので、法席が日に盛んになったということで、元禄年間の『本朝高僧伝』という本に、称名寺の歴代の中では湛睿だけが取り上げられています。

称名寺がもっているたくさんの書物は、経蔵という文庫[ふみくら]の中に入れているのですが、毎年7月7日が人事異動の日と定められており、湛睿自身が1340年から1353年の13年間、1年、1年、経典の管理者の人事をかえながら、代々、管理当番させている。

そういうふうに、北条氏が滅んだ後も、経済的にピンチになりながらも守るべきものは守ろうと努力した。それだけの見識ある人だから、画像も残される。湛睿がいなかったら称名寺はもっともっと疲弊していたと思います。

東大寺とのネットワークが濃厚だった称名寺

高橋湛睿が住職になったときに東大寺と称名寺はネットワークがすごく濃厚だったと思うんです。

永村東大寺戒壇院住持の凝然が撰述した聖教の紙背文書から、関東との盛んな交流を知ることができます。

高橋凝然が著わした『声明源流記』という音楽の資料に、称名寺の二代住持の釼阿の名前がでてくる。

釼阿は10代のときから、声が良くて声明を学んでいた。それで仏教音楽関係資料は釼阿が自ら書き残したりしたものが称名寺に残っていて、その数は相当なものです。

芸能僧として活躍できるはずだったんだけれど、貞顕のめがねにかなって、審海亡き後に入寺する。釼阿はそういう意味で、鎌倉幕府の中枢の仕事にもすこし参画するようなところがあったようです。貞顕の耳目と言われて、政治的な、黒幕的な働きをしていたようです。貞顕から釼阿宛に送られた手紙の中には「絶対他人に見せてはいけない、すぐ火の中にくべろ」と書いた文書もあるぐらいです。

紙背文書が語る幕府の動きや武士の信仰

松信金沢文庫には膨大な数の古文書が残されているんですね。

高橋4,149点が重要文化財に指定されています。

永村寺には経営にかかわる文書が伝わるものです。しかしそういう表向きの文書からは、日常的な仏教行事とか、人の動きなど、生活に密着したものは意外に見えないことが多い。

審海上人書状 文永4年(1267年)頃

審海上人書状 文永4年(1267年)頃※
『首楞厳経大意』紙背

ところで、金沢文庫には紙背文書という形で膨大な書状が残されている。もとは書状だったものを裏返しにして綴じ、仏教経典を書き写したものです。これらは住持の周辺で授受されたもので、しかも、発給者としては金沢北条氏歴代のものが多いのです。

これらは政治の具体的な様子とか、幕府内の動きなどを非常によく語ってくれます。また、日常的に武士たちがどのような信仰生活を送っていたのかがうかがわれます。これらは非常に珍しい研究素材ですね。

私が特に興味を持ったのは北条氏一門の願文なんです。それを見ますと、自らが救われるための、阿弥陀如来と弥勒菩薩の役割をきちんとわきまえている。最終的には弥勒菩薩に救われたい。でも、弥勒菩薩が下生して衆生を救うまでにはまだ時間がある。その間は阿弥陀如来に帰依しようという内容があっさりと書かれている。

松信弥勒菩薩に救ってもらえるのは、56億7千万年後ですからね。

永村僧侶の書いた願文はよく見られるのですが、教えを受け信心を持つ側の心情を語る史料は意外に少ない。ところが、それが金沢文庫文書には少なからず見られ、これは、たいへん注目すべき特徴だと思います。

そういう意味で、金沢文庫文書の、特に紙背文書の中から、表向きの文書にあらわれない世界、本来ならば忘れ去られる世界が、数多く掘り出されることになります。

高橋北条氏歴代の人たちの追善供養のための仏様へ捧げる諷誦文とかが多い。

京都の名刹のテキストを底本に多数の書物を写す

高橋文庫には仏教関係の書物が多く残っているんですが、平安時代の仏教も学び取れる残し方をしている。鎌倉には、京都から下ってくる人たちがたくさん書物を運んできます。釼阿なんかは「写させてください」と、うまく近づいていって写させてもらったものがかなり残っている。その原本を見ると、京都では仁和寺、醍醐寺、和歌山の高野山、女人高野の室生山、そういうところのテキストを底本にして写したというのがあるんです。

ですから、称名寺の本は鎌倉仏教のエリアだけじゃなくて、さかのぼって平安仏教の一こまも垣間見ることができるという意味で、重要なんです。権威のある関西方面の名刹のものが残っているのが強みですね。

平安仏教・鎌倉仏教の仏典を伝える希有なライブラリー

永村私は、諸宗にわたる仏典を万遍なく伝えてきたのは東大寺だと思います。また東国で、八宗のほか浄土教や禅宗など幅広い経巻や聖教を伝えるのが称名寺なのです。例えば南都六宗の律や華厳、さらに、天台、真言、浄土、禅、これらは平安仏教、鎌倉仏教の姿を示す貴重な仏典であり、それらが伝えられている。これは、東国では希有なライブラリーといえます。

称名寺に残されている史料を見る限り、鎌倉の諸寺にも同じようなライブラリーがあったと思われますが、それらはすべてなくなっており、称名寺だけに残ったわけです。

高橋東大寺の八宗兼学の要素が、審海、釼阿、湛睿、この三代に継承されて、称名寺が東国のミニ八宗兼学のお寺になっていたんだろうと思いますね。

永村例えば、下野薬師寺は鎌倉時代に再興されましたが、その寺僧が称名寺に来て仏典を書写している。一方、称名寺にない仏典は、下野薬師寺で写される。そのような寺僧の往来が、仏典の奥書に記されており、平安仏教、鎌倉仏教が、実際にどのように修学されたかを知ることができます。

称名寺では真言、浄土、禅が併存しており、今日のような縦割りではない、諸宗が一体となった中世仏教のあり方がありました。それを当時の武家社会、東国社会はどういう形で受け入れていたのかを具体的に示す経巻・聖教が、ある時期を区切って称名寺には残されているのです。

しかも、それらの裏には紙背文書があるわけで、称名寺の史料は表と裏で2倍、3倍に楽しめると言いますか、数千点のものが実は1万点の内容を持っているんです。

書物を守ったのは中国からお経と一緒に来た「金沢猫」

仏涅槃図(部分)

仏涅槃図(部分)※

高橋称名寺の聖教を守ったのは、実は猫なんです。実時が、西大寺へ寄進するお経と、称名寺へ寄進するお経と合わせて1万4千冊を中国に求めた。それを運んできた船が三艘湊に着くんですが、そのとき船底に中国の猫を飼っていた。金沢に着いたものだから金沢猫と言って、その後「かな」と呼ばれるんです。それが代々子孫をふやして、室町時代には六浦の千光寺に猫塚がつくられています。

経蔵でもどこでも、ちょろちょろして書物をかじるネズミを捕まえてくれたのは金沢猫なんです。なでると背が低くなる。そんなことまで書かれている記事があります。

文化財を守ったのは人間だけじゃなくて猫も(笑)。金沢猫は称名寺の涅槃図にも描かれているんです。

関東でつくられた涅槃図や、中国伝来の十王図なども

有賀仏画では戦後、称名寺の天井裏から三千仏図が発見されました。三千仏図は、年末に、過去・現在・未来の各千の声明をあげて1年間の罪業を償う仏名会の本尊としてつくられたものです。この三千仏図は、称名寺の子院の海岸尼寺にもともと伝来していたんですが、軸(内面)から「澤間長祐」の銘が出てきた。

それから、茨城の法雲寺に、もと六浦の蔵福寺に伝えられたという長祐の同じような図柄の涅槃図があるんですが、これが、京都や全国的につくられるものと違う。お釈迦さんが亡くなって、母である摩耶夫人が阿那律を先頭にして兜率天からおりて来る。その一行が、お釈迦さんの足元に到達した場面を描き入れてある。そういう1つのストーリーを持った涅槃図なんです。これは手本が中国にあるかないかは別にして、京都にはない図像なんです。鎌倉というか、関東でつくられた涅槃図という意味でおもしろい。

高橋十六羅漢とか、十王図とか、セット物が多く残っていますね。

有賀十六羅漢図は「羅漢供」という年中行事に用いられたものです。十王図は、死んだ後に地獄に行って裁断を受けるときの本尊で、称名寺には、今五幅しか残っていないんですが、有名な陸信忠という中国の画家が寧波[ニンポー]で描いた絵が入ってきている。十三仏は信仰的にはそんなに古くはなくて、いろいろな仏さんを13体描くんですが、称名寺の十三仏の特色は、中尊が虚空蔵菩薩ではなく、弥勒菩薩なんです。十二神将像は描写もしっかりしている。尊像もさることながら、草花とか波とかの描写が準国宝級です。

高橋国宝に匹敵する。

有賀それと顔料がものすごくいいんですよ。これは京都のあの時期の顔料に比べたら上じゃないでしょうか。

松信仏像彫刻もすばらしいものがありますね。

高橋清涼寺式釈迦如来や十大弟子などもあります。

家康が集めた紅葉山文庫の目玉は金沢文庫本

松信称名寺の文化遺産は、近世、近代とずっと伝えられてきたんですね。

鈴木伝来している金沢文庫本の文化的価値の高さは、戦国大名なども認めてます。小田原の北条氏康は、文庫にあった鎌倉幕府の記録である『東鑑』を蔵書にしていますし、北条氏政は、今、国宝に指定されている『文選』を足利学校に寄進しています。

戦国期あたりから金沢文庫本が非常に注目を集め、逆に言うと、それが称名寺から流出する結果をたどるわけです。

流出を考えるときに、特に大きかったのは徳川家康と言われています。家康はたいへん好学の将軍で、江戸城の富士見亭に紅葉山文庫という文庫をつくり、諸国から古典を集める。その目玉になったのが金沢文庫本だと言われています。「慶長年録」に、慶長7年(1602年)に金沢文庫を移し、「御文庫」を建てたという記事が出てきます。

この解釈をめぐっていろいろ議論がされるんですけれども、文字通りに読むと、金沢文庫をそっくり持って行ったんじゃないか。そんな解説もあるんですが、そこまではいかないとしても、現在残されている徳川家の紅葉山文庫に収まっている金沢文庫の旧蔵本を見ますと、たいへん数が多い。これは現在は内閣文庫とか、宮内庁書陵部に引き継がれていますが、27部、1,700巻余と、非常に膨大なものが移されている。

これが金沢文庫の旧蔵本であったことは、そこに記されている印記、つまり判こによってわかるわけです。この事実と、先ほどの「慶長年録」を照らし合わせると、家康はかなりの量のものを持って行ったと考えられます。

家康のほかにも、加賀前田家の尊経閣文庫にも金沢文庫本が入っています。前田家は大分苦労して交渉して、やっと手に入れたという記録もあります。

このように戦国期から近世にかけて大名たちは金沢文庫本に注目をして自分の手元に置いた。皮肉な結果なんですけれども、こういった散逸があったからこそ逆に金沢文庫本がさらに注目され、今日まで伝わってきたのかなという感じがしますね。

金沢八景の1つに数えられ広重の浮世絵にも

松信江戸時代の称名寺の規模はどれくらいだったんですか。

鈴木家康が江戸に入って天正19年(1581年)に朱印状を発給しますが、称名寺は百石を寄進されています。神奈川県内の寺院では、大山、大磯の高麗寺、時宗の大本山清浄光寺が同じ百石です。鎌倉の建長寺や円覚寺などは中世以来の貫高制がそのまま続きますので、比較しにくいんですが、近隣の寺社に比べますと、称名寺はかなりいい待遇であったと思います。

広重 「称名晩鐘」

広重 「称名晩鐘」
神奈川県立金沢文庫蔵

また、ご承知のように、金沢八景の1つに数えられて、「称名晩鐘」として広重の浮世絵にも描かれていますし、名だたる景勝地として江戸の人々が数多く訪れており、名所案内の地図もつくられています。

高橋称名寺が金沢八景の景勝地の見どころとして観光客が大勢来るようになったころ、四将像などは、もう毎日のように称名寺の本堂で閲覧させていたようです。

鈴木近代以降も、金沢文庫の資料の保存や再興は熱心に行われています。伊藤博文は夏島に別荘を構えていて、そこで憲法の起草をしている。この地に因縁のある方でしたので文庫の再興には大分尽力しています。明治30年には、横浜商人の平沼専蔵も協力して、境内の子院の大宝院に文庫を再興し、書見所という木造の建物もつくられました。

関東大震災で大打撃、神奈川県が維持することに

松信関東大震災では、かなり痛手をこうむっていますね。

高橋鐘楼が壊れるほどの被害で、仏像もかなり倒れたようです。かろうじて聖教類だけは助かった。

昭和3年に称名寺のご本尊が修理されて、納入品が発見されたということもありますが、幸運だったのは、称名寺の近くに子院の海岸尼寺があったんですが、その跡地に大橋新太郎という人が別荘を構えていて、称名寺と往き来していた。それで当時の称名寺の小林憲住住職が、本堂にたくさんある文化財を何とか後世に伝えていきたいと、大橋さんに懇願した。そうしたら、大橋さんが5万円寄付された。神奈川県も昭和3年に議会を開いて、同額の予算をということになりました。

鈴木大橋新太郎という方は博文館日記で知られた博文館の社主で、金沢文庫の再興に大変力を尽くした方です。

昭和3年に御大典記念事業として神奈川県が金沢文庫をつくるときに、大橋さんと当時の池田宏知事との間に取り交わされた契約書には、建物は今建てるんだけれども、永久に維持するために、神奈川県が維持すべきだという文言が入っているんです。非常に卓見といいますか、文化財はこういうご時世、社会が変わると転変をするものですけれども、それを見越した契約ですね。これは金沢文庫にとっては大変ありがたいことだと思います。

塔頭の須弥壇下から大量の古文書類が発見される

高橋称名寺の仁王門のすぐわきの塔頭の、光明院の須弥壇の下の長持ちから、古文書、聖教類がごっそり出てきたんです。それが昭和5年開館と同時に文庫に移されて、初代文庫長の関靖先生が、その山を崩し、1枚、1枚ほぐしながら、書名目録をとる作業をされた。ネズミも巣くっていて、古書を整理していると、ネズミがふところに入ってきて、背中もおなかもかじられたそうです。(笑)

でも、古書の山を崩すと、その中に日蓮の自筆の聖教があったり、兼好法師自筆の懸紙が出てきたり、書状が出てきたり、崩すたびに発見、発見だったそうです。ですから昭和5年から10年までの間は新聞記者も「金沢文庫詰め」がおかれるぐらい記事をたくさん残してくれています。

永村あの時代に『金沢文庫古文書』をお出しになったというのは卓見ですね。このような例は少ないのですよ。

高橋そういう意味では関先生の功績は大きいですね。

そのほかにも昭和29年ごろに、神奈川県の文化財調査で、称名寺金堂の壁画が発見されたんです。昭和32年には十四幅の画像が、さらに昭和36年には称名寺の天井裏から、さきほど有賀先生からお話があった涅槃図だとか、三千仏図といった大幅の仏画が相次いで発見されました。

「祈りの美」展では源範頼ゆかりの十二神将像が里帰り

松信75周年を迎えられ、今、特別展が開催されていますね。

高橋国宝の四将像や創建当初の阿弥陀堂に祀られていた観音・勢至菩薩像など、称名寺からの寄託品をもとに、「仏教美術の華」展を開催しております。その後、4月21日から6月5日までは、「祈りの美−奈良国立博物館の名宝」展を開催します。

太寧寺旧蔵十二神将像のうち

太寧寺旧蔵十二神将像のうち
奈良国立博物館蔵

この展覧会の1つの見どころは、義経の兄である範頼のゆかりの寺といわれている金沢区の太寧寺にあった十二神将像が、現在、奈良国立博物館の館蔵品になっています。それを里帰りという形で展示します。

そのほかにも奈良国立博物館の国宝、重要文化財を約50点、展示する予定です。

その後、6月8日から、頼朝・範頼・義経の三兄弟についての展示をします。金沢文庫には頼朝像の複製や模写、義経関係の記事も4、5点ありますので、それと範頼ゆかりの太寧寺さんの薬師如来をあわせて展示します。

読めば読むほど新発見がある金沢文庫の資料

kanazawabunko

現在の神奈川県立金沢文庫

高橋今、博物館も美術館も生涯学習の場ということで講座を開いたり、展覧会を通じて教育に寄与しようとしていますが、博物館は学校を兼ねた施設として、将来に大きく飛躍していかなくてはいけないだろうと思います。その模範的なケースになるのが、生の資料をたくさん抱えている施設ではないか。特に金沢文庫は、釼阿の時代に近江から称名寺に遊学した学僧が書写した書物の末尾に「金沢学校」と記しているように、ふるくからそういう学習環境にありましたからね。

金沢文庫は平成2年に、鎌倉時代に文庫があった場所に新館がつくられました。それから15年たちましたけれども、学芸員の英知を結集していけば、100年先も多分進展があるだろうと思っています。称名寺伝来の資料は読めば読むほど、まだまだ新発見がある。そういう施設なんです。

松信きょうはどうもありがとうございました。

有賀祥隆(ありが よしたか)

1940年岐阜県生れ。
著書『仏画の鑑賞基礎知識』至文堂 3,301円+税、ほか。

永村 眞(ながむら まこと)

1948年熊本県生れ。
著書『中世寺院史料論』 吉川弘文館 9,500円+税、ほか。

高橋秀榮(たかはし しゅうえい)

1942年北海道生れ。
著書『道元思想大系3』 同朋舎(品切)。

鈴木良明(すずき よしあき)

1946年藤沢市生れ。
著書『近世仏教と勧化』 岩田書院 7,900円+税。

※「有鄰」449号本紙では1~3ページに掲載されています。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.