北上次郎
小野不由美の「十二国記シリーズ」の最終編である『白銀の墟 玄の月』全4巻が刊行された。長編で言うならば、18年ぶりの刊行である。待ち望んでいたファンがどっと押し寄せ、ただいまベストセラーになっている。これを契機に、このシリーズを紹介せよ、というのが私に与えられたお題だが、実は私、ファンタジーが苦手である。
どのくらい苦手なのかというと、これはこれまでに何度も書いてきたことだが、この例を出すとわかりやすい。ずいぶん昔、もう作家名も小説の題名も忘れてしまったが、全米の郵便物がアメリカの中央にある街に一度集められ、それからまた全米に配付されていくという小説を読んだことがある。面白そうでしょ。ここからどんな物語が始まるのか、と胸をわくわくさせていたら、次の章でいきなり天使が登場してきたのであわてて本をぱたんと閉じてしまった。なんだよ、ファンタジーかよ。
そのくらい、ファンタジーを苦手とする私がこの「十二国記シリーズ」にはまってしまったのには訳がある。もともとこのシリーズは、講談社のX文庫ホワイトハートという叢書で刊行されたもので、つまりは年少読者向けの叢書であったから、大人の読者が滅多に近寄らない棚にあった。評判は聞いていたのだが、そういう棚には近寄らないし、しかも中身がファンタジーというのでは縁がない。
ところが1996年のある日、講談社の営業の人から、5部8巻がどかんと送られてきた。ちょうど第5部『図南の翼』が刊行されたときで、それまでの作品と合わせて送ってくれたのである。その方は業界の集まりなどで数回会ったことがある知り合いだが、そこに手紙が入っていた。それが「ちょっと面白いですから読んでみてください」と言うのだ。あとで聞いてみると、そのとき「十二国記シリーズ」は8巻合計で100万部出ていたという。「ちょっと」どころではない。「大ベストセラー」である。そのとき「うちのベストセラーを送ります」という手紙が付いていたら、たぶん私は読まなかっただろう。そんなに売れているのなら、私が読むまでもない、と考えるからだ。売れているものよりも、いま売れていないものを読者にすすめたい、と思うのが書評家の人情というものだ。それにファンタジーということだし。
ところが「ちょっと面白いですから読んでみてください」と、あくまでも控えめなのである。この言い方が気になって、とりあえず新刊の『図南の翼』を手に取った。なあに、天使とか魔法とかが出てきたらすぐに本をぱたんと閉じればいいのだ。
いやあ、びっくりした。世の中にこんな小説があるのか。『図南の翼』で、主人公の少女が「大馬鹿者!」と怒鳴るラストを読み終えると感動がこみあげてきて、もうダメだ。仕事なんてやっている場合ではない。今度は1巻に戻って読み始め、翌日の昼にはすべて読破。それからが大変だった。まず本の雑誌に書評を書きたいと思ったが、もうすでに何度も紹介されているという。SF担当者の大森望が、それまでの「十二国記」の既刊本をすべて本の雑誌のガイドのページで紹介しているという。私は当時、発行人であったからその紹介書評の原稿を読み、ゲラも読んでいたのに、興味がないものは体に全然入ってこないのである。原稿を書かせてほしいと業界の知り合いに次々に電話して、週刊現代の当時の担当者が「それでは2ページあけます」と言ってくれたときは嬉しかった。私はこの業界で仕事をするようになってから、40年以上になるが、書評の売り込みをしたのはそのときだけである。その前もなければ、それ以降もない。
では、ファンタジーを苦手とする私が、なぜそれほどこの「十二国記シリーズ」にはまってしまったのか。そのとき週刊現代に書いた書評の一部をここに引く。これが最初に私が書いた「十二国記」評なので、読後の興奮がいちばんよく出ていると思う。
「しかし、ファンタジーを苦手とする私がぐいぐい読まされたのは、それらのファンタジックな設定がこの物語の衣装にすぎないからだ。そういう状況設定と巧みなストーリーの背後に、実は力強く太いテーマが隠されている。だから、読んでいるとごんごん脈打ってくるのだ」
「シリーズのどの作品にも共通して流れている力強く太いテーマとは、では何か。ええい、もう結論から書いてしまおう。人が人として生きるうえの本分とは何か。信義とは何か。人を信じるとは何か。そういう太いテーマがこのシリーズの底に力強く流れていることに注意。だからこそ、感動と感銘が行間から立ち上がってくるのである。まったくうまい」
我ながらすごい賛辞だ。
何も知らずに読みはじめたのもよかったような気がする。「十二国記シリーズ」の舞台となるのは、人や動物が木の実から生まれる世界である。十二の国にわかれ、それぞれの国を王が治めているが、その王は功績や出自に関係なく、麒麟と呼ばれている慈悲の霊獣が選ぶという独特のシステムを持っている。王に選ばれると不死になるが、政道を誤ると病の床につき、そうなると王も死ぬ。麒麟は王を選び、王に従い、王を補佐する霊獣だ。麒麟が生まれる聖地は、その世界の中央にある人外魔境の地・黄海の真ん中にそびえる蓬山。王たらんとする者はその聖地を訪れて麒麟に会う。それを昇山という。つまり、この世界には12人の王と、12人の麒麟がいる。
そういうすべてを知っていたら、なに、人や動物が木の実から生まれるだと、とヘンな先入観を持ってしまい、手に取らなかったかもしれない。ファンタジー嫌いの人はいまでも多く、私がいくらすすめても「でも、ファンタジーなんでしょ」と手に取ろうとしない。壁は厚いのである。私もそうだったから人のことを言う資格はないのだが。
それともう一つ、大森望・三村美衣『ライトノベル☆めった斬り!』の中で、「無慮数千タイトルに及ぶライトノベル系シリーズからオールタイムベストワンを選ぶなら、最有力候補はたぶんこの〔十二国記〕」と紹介されているように、これはもともと講談社X文庫ホワイトハートで刊行されたものである。つまりは、まぎれもなくライトノベルだ。したがって「ライトノベルでしょ」、という偏見もある。講談社文庫が、X文庫ホワイトハートから一般文庫に入れなおしたあたりから、そういう偏見はなくなっているような気がするが、まだまだ油断はできない。周囲をみまわすと、まだ一部に残っているようなのだ。ホント、もったいない。つまり、ファンタジー嫌いの大人の読者にとっては、ファンタジーで、ライトノベルという二重の壁があるということである。にもかかわらず、この「十二国記」が年少読者から大人までじわじわと読者層をひろげてきたのは、この物語が持つ力にほかならない。
最後に、これからこの「十二国記シリーズ」を読む人のために、どういう順番で読んだらいいのか、というガイドを書いておく。いまは新潮文庫に全作入って、大変読みやすくなった。『魔性の子』がゼロ巻だから、ここから順序よく読んでいくのがもちろんいちばんいいが、新作『白銀の墟 玄の月』全4巻を足すとこのシリーズは全部で15巻になるので、ちょっとためらう人も中にはいるかもしれない。どこから読んでもいいのだが、今度の『白銀の墟 玄の月』は、『黄昏の岸 暁の天』の続編なので、さすがにこれだけは前作からお読みになるのがいい。これがAコース。もう少し余裕がある方は、あと2作遡って、『魔性の子』→『風の海 迷宮の岸』→『黄昏の岸 暁の天』→『白銀の墟 玄の月』と4作続けて読むのもいいかもしれない。これがBコース。この4作はすべて、戴の国の泰麒(蓬莱にいるときは高里)の物語である。その途中で作品集『華胥の幽夢』に収録の短編「冬栄」を読むのもいいかも。ここにも泰麒が登場している。この泰麒以外にも、慶国の王陽子を始め、複数の巻に登場する人物は多い。しかし、妙な言い方になるが、この長大なシリーズの真ん中を貫くのは、泰麒=高里の物語なのだ。
Aコースで5冊、Bコースで7冊(『華胥の幽夢』を足すとこちらは8冊だ)。新作の『白銀の墟 玄の月』が全4冊という長さなので、こうなってしまう。
それでは壁が高すぎる、と言う人には、『図南の翼』をすすめたい。これがCコースだ。私がこれから読んで、十二国記にはまってしまったのだから、シリーズ途中のこの巻から読んでも全然かまわない。この『図南の翼』は別巻的な内容であること、それでもこのシリーズの美点や特徴をきちんと持っているので、入門書にはふさわしい。