Web版 有鄰

445平成16年12月10日発行

[座談会]鯨捕りと漂流民 ――ペリー来航前夜――

財団法人日本鯨類研究所顧問/大隅清治
ニューベッドフォード捕鯨博物館学術顧問/川澄哲夫
作家・歴史研究者/春名 徹
有隣堂社長/松信 裕

右から、春名徹・大隅清治・川澄哲夫の各氏と松信裕

右から、春名徹・大隅清治・川澄哲夫の各氏と松信裕

はじめに

松信ことしは、ペリー艦隊が横浜に来航してから150周年に当たり、各所でさまざまな展覧会が開催されました。ただ、ペリーが来航することになった背景にまでさかのぼって紹介されることはほとんどなかったように思います。

日本が鎖国制度のもとで外国との交易を拒んでいた1800年代前半、日本の近海には、アメリカやイギリスの捕鯨船が出没するようになりました。一方、それらの捕鯨船によって救助された日本人の漂流民たちが、日本の開国に果たした役割も大きいと言われております。本日は、捕鯨業の発展と、救助された漂流民の足跡についてご紹介いただきながら、日本の開国に至る経過をお話しいただければと存じます。

ご出席いただきました大隅清治先生は、財団法人日本鯨類研究所で、この1月まで理事長などをお務めになられ、現在は、同研究所顧問でいらっしゃいます。ご専攻は鯨類資源生物学で『クジラと日本人』などをご執筆になられました。

川澄哲夫先生は、慶応大学教授などを歴任され、ニューベッドフォード捕鯨博物館学術顧問でいらっしゃいます。『中浜万次郎集成』『資料日本英学史』などのご著書がございますが、12月には有隣堂から『黒船異聞−日本を開国したのは捕鯨船だ』を出版いただく予定です。

春名徹先生は、東アジア海域史をご専攻で、ご研究の中で、アメリカ西海岸に漂着したものの帰国できず、上海にいた漂流民の生涯に関心を持たれ、『にっぽん音吉漂流記』を出版していらっしゃいます。

日本は網取式、アメリカは帆船を母船にして捕獲

松信まず最初に、当時の捕鯨の、日本と欧米のやり方の違いからお話しいただけますか。

大隅去年がペリー来航150周年、ことしは日米和親条約締結150年ということで、日本鯨類研究所は横浜市とタイアップしまして、去年、「横浜開港150周年プレ・イベント」の一環として、「何が日本を開国させたか?」というシンポジウムをパシフィコ横浜で行いました。そのとき「黒船来航当時の日本近海捕鯨の日米比較」のテーマで、私も講演をいたしました。

日本の捕鯨、いわゆる古式捕鯨は、初めは、座礁したり岸に近づいてきたクジラを利用していただけだったんですが、次第に技術を発展させて17世紀初頭には、産業規模にまで拡大・発展しました。

それに伴って捕鯨文化も随分盛んになりました。天保3年(1832年)の長崎県平戸での鯨捕りの様子を描いた彩色の『勇魚取繪詞』という史料が北海道大学大学院水産科学研究科図書館に残されており、我々の研究所で今年、復刻版をつくりましたが、そのあたりが実によく描かれています。

日本の捕鯨は、徳川幕府の鎖国政策によって海外に進出することはもちろん、沖合へ行くことも禁じられていたために、日本の近くに接近してくるクジラを利用するという極めて受け身的な操業でしかなかったんです。

日本の網取式捕鯨

日本の網取式捕鯨
(『勇魚取繪詞』から 生月御崎沖背美鯨一銛二銛突印立図)
北海道大学大学院水産科学研究科図書館蔵

日本独特の技法としましては、1675年に開発された網取式捕鯨というのがあります。これは、クジラの前のほうに仕掛けた網まで、勢子舟といわれる小舟でクジラを追い立てて網に絡ませ、行動を鈍らせてから、もりを投げてクジラを弱らせてしとめるという方法です。

それに対して、アメリカ式捕鯨は、帆船を母船にして、クジラを発見すると、それに搭載した数隻のボートをおろしてクジラに近づいて捕獲するというやり方で、基地にとらわれずに操業ができる。

日本がクジラの処理場を中心にした操業であったのに対し、アメリカは、帆船を母船として、自由に動ける外洋で操業するという、大きな違いがあったわけです。

アメリカの捕鯨は17世紀後半に東部で始まる

川澄捕鯨は、アメリカよりも日本のほうがはるかに早くからやっていたわけです。1606年に和歌山県の太地浦で和田忠衛門が突取式捕鯨を始めたということが史料に出てきます。

アメリカでは、捕鯨は1660〜70年ごろ、東部にあるナンタケットという島で始まるんですが、最初は、小型のボートで、海岸近くにいるセミクジラを捕っていた。そして1690年に、ケープコッドからイカボッド・パダックという鯨捕りの名人を呼んで捕鯨技術に改良を加える。

そのころの日本は、もう太地では捕鯨が盛んになっていて、『日本永代蔵』にあるように、天狗源内という鯨捕りが大金持ちになっている。

アメリカの場合、決定的なのは、1712年に、ハセイという人がマッコウクジラを捕って帰ってくるんです。そのマッコウクジラがセミクジラよりもはるかに価値があって、「油一升金一升」というものだったので、それからナンタケットの人たちはマッコウクジラに特化していく。

大隅捕鯨ボートがシケで沖に流されて、そこで偶然、マッコウクジラを見つけて、捕ったということです。

川澄沿岸でセミクジラを追っていた小舟が、嵐で沖に流されて、今までとは違ったクジラに出会うわけです。そして、もりを打ち込むと、そこから流れ出た血で波が静まったといった伝説的な話が伝えられています。

春名ナンタケット島が舞台の、フィルブリックの『復讐する海−捕鯨船エセックス号の悲劇』はおもしろい本ですね。メルヴィルの『モービィ・ディック(白鯨)』の基になったといわれるものです。

アメリカ式捕鯨は油とヒゲ以外はほとんど海に投棄

欧米における鯨の利用法

欧米における鯨の利用法
照明用の燃料や傘の骨、農業用の肥料などに使われた
日本鯨類研究所提供

大隅日本の捕鯨が、岸に近づくどんな種類のクジラでも捕獲でき、体のすべての部分を利用するのに対して、アメリカの捕鯨は、泳ぐ速度が遅く、しかも死んだ後、浮くクジラでないと利用できなかった。さらに、皮を利用して油をとるだけで、骨とか、肉とか、内臓はすべて海洋に投棄していたので、利用の面でも大分違っていたということがいえると思います。

春名鯨骨をペティコートなんかに利用したと聞いていますけれど、量から言うとどうなんですか。

大隅鯨骨と言ってますがヒゲなんです。セミクジラとホッキョククジラのヒゲにはバネのような性質がありますから、それを利用して、ペティコートの芯に使ったわけです。ですから、アメリカ式クジラの利用の形態としては、油とヒゲの2つが主な用途です。

川澄ヒゲはウエールボーンとかベリーンと言い、縄とかコルセット、乗馬用の鞭、傘の骨などに加工される。西洋社会の必需品ですね。

春名文楽の人形とか日本のからくり物のゼンマイに使われたのは何クジラのヒゲですか。

大隅主としてセミクジラです。日本の江戸時代の捕鯨の主なクジラの種類はセミクジラでして、そのヒゲが非常に良質なんです。

ところが、アメリカの捕鯨船が日本近海まで進出してきて、セミクジラを沖のほうで捕るようになった。日本の沿岸に近づく前に捕られてしまうので、日本の古式捕鯨は、大きな打撃を受けました。アメリカ式捕鯨が原因で日本の古式捕鯨は衰退していったんです。

春名セミクジラのことを英語ではright whaleというのだそうですね。正統的クジラですか?正統的とはおもしろいなと思いました。

川澄ライトウエールのライト(right)は、「人間に都合のよい」という意味でつけられたものです。比較的おとなしくて、捕え易いし、しとめても沈まない。

アメリカが捕るのは、大体マッコウクジラとセミクジラで、マッコウクジラからとれるマッコウ油が照明用、あるいは灯台に使われるんです。当時は、照明用に使われる油はほかにはなかったんです。アメリカから帰ったジョン万次郎も、日本のような種子油ではなくてクジラの油が用いられていると話しています。

もう一つはマッコウクジラの頭部からくみ出す鯨蠟(スペルマセティ)という油で、ロウソクになるんです。これが上流社会で使われます。

それから、シェークスピアの『ヘンリー四世』に、「うちみの傷には鯨の脳みそからとった鯨蠟にまさる妙薬はない」と出てきますが、鯨蠟は薬としても重んじられていたんですね。

セミクジラからとった油は「鯨油」という日本語がついていまして、ウエールオイルと言うんですが、これが一般的な照明や、あるいは、当時勃興しつつあった産業革命で機械油として利用されるわけです。

一種のふんのようなものが珍重される香料に

松信油やヒゲ以外に利用されたものはなかったんですか。

川澄竜涎香、アンバーグリスというのがあります。これはマッコウクジラの腸が腐ったものなんです。

大隅腐ったものではなくて、一種のふん詰まりのふんみたいなものですね。

川澄それが香水とか、薬品だとか、媚薬に使われたんです。『モービィ・ディック(白鯨)』に、「アンバーグリス」という章があり、クジラの油でつくったロウソクのそばで、竜涎香の香水を、ご婦人方や紳士たちが喜んでつけているということが出てきます。

松信実際ににおいをかがれたことがありますか。

大隅すごくいいにおいです。今でもアラビアあたりでは売っています。海にぷかぷか浮いて、それがだんだんにさらされて白くなって、岸に寄ったものが本当のアンバーグリスなんです。それはすごくいいにおいです。

川澄もう一つは、マッコウクジラの歯を、鯨捕りたちが捕鯨船に乗っている間、とりわけ帰りの長い時間をかけて、彫刻を施すんです。これをスクリムショーといいますが、19世紀のものは、今、1千万円もする鑑賞価値の高いものです。

1819年、マロー号がマッコウクジラを追って日本沖へ

松信なぜ、日本近海にアメリカの捕鯨船が来るようになったのですか。

大隅アメリカ式捕鯨は、川澄さんが言われたように、1712年から勃興し、次々に漁場を拡大して世界を制覇した。クジラが少なくなったからというよりも、アメリカ式捕鯨の船の拡大のほうが大きいんじゃないかと思います。クジラのいるところをフロンティア精神で開拓していったんだと思います。

川澄大西洋でマッコウクジラをほとんど捕り尽くしてしまって、正確には1819年の10月26日にマロー号という船がナンタケットを出て、アメリカ大陸の最南端のホーン岬を回って日本のほうに近づいてくる。三陸沖あたりに来たんじゃないかとも言われていたんですが、実際にマロー号がマッコウクジラを捕ったのは、北緯36度、東経160度から170度だったと言うんです。3か月で1,100バレル(1バレル=約120リットル)も捕った。

ハワイ・小笠原・北海道を結んだ中がジャパングラウンド

アメリカ式捕鯨によるマッコウクジラの捕獲位置と2種の「ジャパングラウンド」の範囲

アメリカ式捕鯨によるマッコウクジラの捕獲位置と2種の「ジャパングラウンド」の範囲
『何が日本を開国させたか?』(日本鯨類研究所)から

川澄このとき、「on the coast of Japan」という言葉を使っている。アメリカの捕鯨船は、日本漁場と言って「towards Japan」とか「at Japan」、「on the Japan grounds」など、さまざまな表現を使うんです。これは日本沖と訳しがちですが、最初のうちは日本が見えるところじゃなくて、日本とハワイの中間地点ぐらいなんですね。

大隅ジャパングラウンドといわれる場所は、長方形のと三角形のと2種類ありますが、ハワイと小笠原と北海道を結んだ三角形の中で、マッコウクジラがたくさん捕れたので、そう称された。

川澄ですから、日本沖というのは、日本に近いというよりも、最初のうちは大体の目標という意味だったんですね。それがだんだん日本沖に近づいてくる。

マッコウクジラが一番多かったのは小笠原から房総あたりまでですから、捕鯨船が鳥島に立ち寄って、ジョン万次郎を始め、たくさんの漂流民が救助されることになる。鳥島は小笠原と伊豆半島との中間あたりにありますので。

ひどかった捕鯨船の食糧事情

川澄ペリーが日本に開国を求めた大きな原因は、嵐に遭ったときに避難所がないということと、食糧の供給です。捕鯨船の食糧は非常にひどいわけです。最初に積んだものが腐ってしまったり、例えば砂糖壺にはゴキブリが何インチもたまったり、肉やパンにウジがわいたり、とても食べられるような状態じゃない。

それでおもしろいのは、漂流民が捕鯨船に救われたとき、ごちそうを食べたと言うんですが、あれはどういうものですかね。非常に飢えていたからそう思えたんでしょうね。

春名マンハッタン号が鳥島へ寄ったのもカメが捕れるからということでしたね。

川澄はい。ウミガメを捕るために、マンハッタン号も、万次郎を救ったジョン・ハヲラン号も鳥島へ寄りますね。夕食のスープに使う。

大隅リクガメは生きたまま、ずうっと船のデッキに置けるので、新鮮な食糧になりますからね。

川澄小笠原でウミガメを買って船に積んで行くんですね。ただ、『モービィ・ディック』を読んでいますと、鯨捕りたちは食糧にクジラの肉を食べていた気配がある。たとえば、二等航海士のスタッブがsmallという尾の身を食べます。

松信アメリカ人は肉は捨てたと言っているけれども、実際は食べたわけですね。

大隅製品にはしないんですけれども、乗組員の食糧にはしたわけです。

川澄『モービィ・ディック』以外にもたくさん捕鯨の小説はありますが、それらの中で、パイにしたとか、こんなごちそうはない、舌がとりわけごちそうだ、とか言ってるんです。

大隅クジラの舌は本当にうまいんですよ。(笑)

川澄だから、鯨捕りたちは食べているんですね。どうしても食べられないのはホッキョクグマで、においが強すぎると。

それから、ニワトリとか豚とかペットとして連れてきた動物まで食べるんですが、今まで可愛がってきたペットを食べるのは悲しい思いがしたとか、そういったことが出てくるんです。とにかく食糧が悪かったんですね。

イギリスの捕鯨船の事件がきっかけで鎖国が強化される

大津浜に上陸したイギリスの捕鯨船員

大津浜に上陸したイギリスの捕鯨船員
茨城県立図書館蔵

春名文政7年(1824年)に、薩摩の宝島でイギリスの捕鯨船が上陸して牛を略奪したりしたのが一つの契機になって鎖国令を強化するという事件が起きますね。イギリス船が薩摩沖で捕鯨をしたというのは、素人から見ますと、非常に突発的な印象を受けるんですが。

大隅イギリスの捕鯨船もフランスの捕鯨船も日本の近海で随分操業したんです。

春名薩摩の沖あたりは漁場としては、別に不思議はないんでしょうか。

大隅この間、大浦町でマッコウクジラが14頭座礁して、大騒ぎになりましたね。そのことでもわかるように、あの辺はマッコウクジラがいますから、十分操業できたんだと思います。

川澄イギリスの捕鯨船は水戸の沖合でもクジラを捕っているんです。同じ文政7年に、大津浜にイギリスの捕鯨船員12名が上陸して大騒動になる。そして水戸藩では、過去のロシアとの関係もありますが、捕鯨船員が上陸したことをきっかけに攘夷思想が盛り上がってくるわけです。

薩摩の宝島の事件ではカピタンは殺され、塩漬けにされて長崎に送られる。これがきっかけで異国船打払令が出される。

春名文政8年(1825年)の無二念打払令ですね。

川澄そうですね。ですから、アメリカよりも、むしろイギリスのほうが日本に近づいてきているんです。

春名外交政策への影響という意味では、イギリスのほうが大きいインパクトを与えたんですね。

川澄そうです。大津浜では一般市民、とりわけ漁師たちはイギリスの捕鯨船に出向いてごそちうになったり、商品を持っていって売るなどの交流もあった。

大隅イギリスの場合は、インド洋からオーストラリアを回って太平洋にでたわけですけれど、オーストラリアのホバートにかなり大きな捕鯨基地があったようですね。

川澄ただ、だんだんとアメリカの捕鯨船が優勢になってくる。

『白鯨』には「日本を開国するのは捕鯨船だ」と

松信先ほどからお話に出ている『モービィ・ディック(白鯨)』の中に、日本の開国を解く鍵になるような言葉が出てくるそうですね。

川澄『モービィ・ディック』が出版されたのは、1851年(嘉永4年)で、その中には、日本についての言及がたくさんあるんです。たとえば、「日本を開国するのは捕鯨船だ」とか、日本の千石船などに乗っていた漂流民を拾うという話も出てくる。日本の開国を予言しているようで、大変面白いですね。

ハワイの『フレンド』紙(1848年12月号)でも、日本の開国が迫っていることを問題にしています。有名なラナルド・マクドナルドが、その年の6月にアメリカの捕鯨船プリマス号を離れ、日本に上陸した事件を取り上げ、その冒頭に、アメリカの捕鯨船が日本の開国に一石を投じた、マンハッタン号がそれをやってのけた、とあります。たくさんのアメリカの捕鯨船が、日本近海でクジラを捕っていて、日本の漂流民を救助したり、日本の漁師と歓談していると続けています。メルヴィルは、この記事からヒントを得たのかも知れません。

春名そのマクドナルドについて、僕の友人のフレデリック・ショットという人に、『Native American in The Land of the Shogun』という面白い本があるんです。バックグラウンドを丁寧に見る型の作家で、たとえばハワイにアメリカ中の捕鯨船が集まってくる。もちろんニューベッドフォードからも。そこでアジアについての情報が交錯する中で、マクドナルドが日本に行く手だてをいろいろ考えていくというプロセスを丁寧に追っています。

船乗りたちの新聞や航海記がメルヴィルの情報源

松信『フレンド』紙は、ハワイで発行されていたんですね。

川澄そうです。広東貿易に携わっている商船や捕鯨船がハワイに集まりますから、全国の情報もハワイに集まるわけです。それを『フレンド』紙が収録する。だから『フレンド』紙は世界を知る一つのメディアであったわけです。

春名船乗りたちの教会の機関紙だと思います。

大隅その新聞は今でもあるんですか。

川澄デーマン神父が始めたのが1842年の1月ぐらいですね。それからずっと、今まで続いています。

春名それからメルヴィルは、アメイサ・デラノの航海記を下敷きにして『幽霊船』(ベニート・セラーノ)を書いてますから、そこに含まれる漂流民送還記録も、当然読んでいたと思います。

文化3年(1806年)正月に漂流した大坂の稲若丸(8人乗り)がアメリカ船ティーバー号(コルネリウス・ソル船長)に救助され、ハワイに送られた。デラノ船長は、この日本人たちを預かって中国に向かい、広州で中国人に引き渡そうとしたが拒絶され、やむなくマカオでオランダ人にゆだね、バタビア経由で帰国させたというものです。

白鯨はヨーロッパ人のアメリカ移住を象徴か

春名『モービィ・ディック』自体が、白人である船長があらゆる種族を率いて破滅へ追い込むという読み方もあるようですね。

川澄そういうことを言う人がいますね。ヨーロッパ人がアメリカに移民してくる象徴として、白鯨が姿を現わします。池に棲んでいるとか。このような伝説がナンタケット島や、その周辺の島々に残っています。

春名現代、そういう象徴性が、より現実性をもって感じられる時代ではありませんかね。

松信実際に白鯨というのはいるんですか。

大隅白鯨は、今でもところどころで見かけますね。私もマッコウクジラの白鯨について、以前に『鯨類研究所研究報告』に発表したことがございます。

それから10年ぐらい前に、大西洋のアゾレス島でもマッコウクジラの白子が発見されています。

川澄前にザトウクジラの白鯨がオーストラリアの沖合で発見されましたね。

大隅あれも白子です。それからマッコウクジラは若いときは黒いんですが、だんだん白っぽくなるんです。年を取るにつれて、特にオスは互いに闘争して、歯形で頭部が真っ白いぐらいになる。そういうことで白っぽく見えるので、メルヴィルの白鯨はそういった年を取ったマッコウクジラではないかということも言われていますが、実際は白子もいるということです。

中国貿易の商船が太平洋を航行

松信捕鯨船が日本開国の一つの大きな契機になったということですが、春名先生は、もう少し別な要素もあるとお考えなんですね。

春名太平洋を巡っていろんなものの流れがある。一つは捕鯨という形で日本近海への関心が集まった。もう一方ではアメリカの独立直後に始まった中国貿易がある。これはそもそも、クック船長の艦隊に乗り込んでいた一アメリカ人が、航海の中で、広東で毛皮が高い値段で取引されていることを知るんです。彼は脱走してアメリカに戻り、東部で要人たちを説いて中国貿易をやろうと言い出す。

最初の貿易船はエンプレス・オブ・チャイナ号で、航路もまだよくわからず、スンダ海峡からフランス船に導かれて、広東に行く。積み荷は薬用ニンジンです。アメリカには薬用ニンジンが自生していて、独立以前から中国へ輸出しているんです。

ただ、薬用ニンジンがたちまち値段が下がって儲からなくなり、毛皮の取引になる。初めは東部の船がホーン岬を回って、太平洋岸でネイティブ・アメリカンと毛皮を交易し、それを持っていくという格好でしたが、だんだん自分でアザラシなどの毛皮を採取して広東に行くようになる。だから、航海も2年とか3年とか延びるわけです。

太平洋貿易のネットワークが漂流民を救う

春名毛皮貿易は直接には日本とは関係なかったんですが、結果として、アメリカ貿易船が太平洋を通るようになる。それで漂流民が西欧の船に救助されるようになるんです。日本の漂流民は、それまでは太平洋岸の救助例は余りない。中国沿岸への漂着の例が多いんです。漂流民の存在を我々が知るのは、救われた人間がいるからで、救われなければわからない。だから、それまでは太平洋岸の例はなかったのが救助される例が出てきた。

摂津のジョセフ・ヒコの乗っていた栄力丸がいい例ですね。太平洋の真ん中に流れ出したところ、たまたま北上する船に拾われた。それから長期漂流の例として有名な尾張の督乗丸が、漂流484日で、アメリカの沿岸で拾われる。拾った船のことが最近わかってきまして、イギリス東インド会社のチャーター船だった。つまり、日本の漂流民が救われるようになった契機は、太平洋を結ぶ貿易のネットワークと関係がある。

毛皮取引については、木村和男さんの『毛皮交易が創る世界』が最近出ました。

川澄商船貿易とクジラとの関係は、確かに大きいんです。というのは、商船の船長から日本近海でマッコウクジラの群れが泳いでいるという情報がナンタケットに入り、それがきっかけで太平洋に捕鯨船を送り出す。ですから、商船が根本にあるわけです。

上海にいた漂流民「音吉」の足跡を追う

松信漂流民について、春名先生は、天保3年(1832年)に愛知県知多半島の音吉たちの乗る宝順丸が14か月間漂流して、北米に漂着した『にっぽん音吉漂流記』をご執筆されましたね。

春名僕はもともと中国の近代史専攻で、日本と中国との関係に興味があったんです。それで学生のころから、上海にいた音吉という日本人に関心を持っていて、いろいろ調べ始めたんです。

ところが漂流という概念は非常にあいまいなんです。日本人の漂流は、江戸時代には対外認識の問題として幕府がきちんと全部把握していた。それが明治になって制度が崩れた途端に意味がわからなくなってしまった。

それで、背景には漂流民送還制度があって、中国を中心にした東アジア全体に関する漂流民の送還のシステムが成り立っているということを実証した。音吉をきっかけにして僕の研究もいろいろ広がったわけなんです。

7人の漂流民を乗せモリソン号が江戸湾に入る

嘉永2年に中国人・林阿多と名のって日本へ来た音吉

嘉永2年に中国人・林阿多と名のって日本へ来た音吉
(「海防彙議補」から)
国立公文書館蔵

松信音吉は漂着したアメリカからロンドンに送られ、マカオからモリソン号で浦賀に来るんですね。

春名アメリカの商人、C・W・キングという人が、マカオにいた7人の漂流民を日本へ送り返そうと計画した。宝順丸の岩吉、音吉、久吉の3人。それから九州の庄蔵、寿三郎、力松、熊太郎の4人。彼らは、ルソン島に漂着し、その後でマカオへ送られてきた。その2組の漂流民がたまたまマカオにいたんです。

キングはオリファント商会の共同経営者なんですが、当時のヨーロッパ商人はほとんどアヘンを扱って利益を貪っていた中で、自分たちはアヘンを扱わないということを明言して、アヘン戦争のとき、キングは林則徐のアヘン廃棄に立ち会っている。そういう理想主義的な人でした。

モリソン号という船を彼らはゴスペルシップ(福音の船)と呼んでいて、当時のアメリカの海外伝道会の宣教師たちがアジアへ来るときはほとんどその船で来ているんです。その船に7人を乗せて、1837年の7月4日、アメリカの独立記念日にマカオを離れた。キングはロシアの使節団レザーノフが長崎で官僚主義的な扱いをされたことを知っているので、長崎は忌避したい。江戸湾へ直航する。さらに理想主義的立場から非武装で来るわけです。

日本の状況を知らず浦賀で砲撃され追い返される

天保8年に浦賀で追い返されたモリソン号

天保8年に浦賀で追い返されたモリソン号
(「浦賀奉行異船打払ノ始末届書」から)
国立公文書館蔵

春名江戸時代は、外国船が来たら渡航目的を聞いて、たまたまコースを失った船だったら、水や食糧を供給して退去させろというのが原則的な幕府の方針でした。ところがそのときは、ちょうど文政8年(1825年)の無二念打払令で、いわば問答無用に外国船を攻撃して打ち払えという政策の時期です。これは江戸時代では極めて異例なことなんです。

だから、キングの予想と、日本側の態度に、冷酷なまでに違いが出てくる。日本側には、キングの意図や国籍に関心がありません。外国船が近づいてきたので命令どおりに打ち払っただけです。だから、キング自身が本当に日本人を帰したかったのかどうか、わからない。彼は福音という目的は捨てたと言っていますが、日本を開国させることによって、日本にキリスト教を広めたいという抱負は持っていたに違いない。

とにかくキングという人は善意の人で、平和的に日本を開こうと思って江戸湾へ行った。ただ、彼は状況を全然認識していなかったために砲撃されて追い返された。ほんとに漂流民を帰す気ならば、長崎港へ入れば漂流民だけは受け取られます。主観的な善意ほど人迷惑なものはない、というのが僕の考えですが、なまじのキングの理想主義が、7人の漂流民を一生日本へ帰れなくさせてしまった。

マンハッタン号で帰国した漂流民

春名1845年のマンハッタン号のときと対比するとよくわかるんですが、アメリカ捕鯨船のマンハッタン号が鳥島で日本人の一グループを拾い、さらに日本への航海中の海上で別の船をピックアップして、合計22人の漂流民を乗せて江戸湾に来た。公式な長崎、千島以外で、外国船が日本人の漂流民の身柄を引き取らせたという例です。

なぜそれが可能になったかというと、時の浦賀奉行が極めて有能だったこと、それから時代の変化が日本にも伝わってきている時期です。それと、たまたま逆風で江戸湾になかなか近づけなくて、本船が入る前に一部の漂流民を上陸させて事情を伝えさせている。日本の国内で状況を把握して検討する時間があった。

しかも、浦賀奉行が、日本の漂流民が日本の国内で外国船に拾われて帰ってきたんだからと幕府の上層部に対して言う。その中で老中筆頭の阿部正弘が、臨機応変の策で、あえて受け取ると決断する。

松信この時期に、無二念打払令が薪水給与令に緩和されているんですね。

春名マンハッタン号に日本人が乗船して細部を写生したものがたくさん残っているんです。それはまるで『白鯨』の絵解きを見るようです。日本人がアメリカの捕鯨の実態を知った、多分最初の例でしょう。

2人の漂流民から世界情勢を学んだ福沢諭吉

川澄音吉と福沢諭吉の接点はシンガポールですか。

春名そうです。その前に長崎でも会っていることは会っていますが。日本人がヨーロッパ認識を深めていく非常に大きな流れの中の一環として、福沢はたまたまシンガポールで音吉に出会うことになる。でも、その前に、万次郎と福沢が、咸臨丸でアメリカに行っていますね。2人がサンフランシスコでウェブスターの辞書を買ったことは話題になった。

川澄万次郎は、天保12年(1841年)に土佐清水の沖に出た船が漂流し、鳥島に漂着していたところをアメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカの学校で学んだり、ゴールドラッシュの西部で金鉱掘りをしたりして、10年後に琉球に上陸し、日本に返ってくるんです。

福沢諭吉は、万次郎と音吉という2人の漂流民から、アメリカや中国のことを聞き出しているんです。

咸臨丸では、ほかの士官たちは万次郎を軽蔑して虐待するんですが、福沢だけが万次郎といろいろ話している。当時、世界について知っているのは漂流民だけですから。福沢の偉さはそんなところにあるような気がするんです。

春名この時代の日本にとって、漂流民の果たした役割は大きかった。音吉は嘉永2年(1849年)にイギリス船マリナー号が浦賀に来たときに通訳をしています。ペリー艦隊の日本語通訳のウイリアムズは音吉たちから習っていたんです。

音吉の息子は日本に入籍願いを提出

春名音吉については、その後、シンガポールの文書館で、帰化の記録と埋葬記録を見つけました。

川澄音吉の息子は日本に来ているんですね。神奈川県令にあてた日本人民の籍に入りたいという「入籍願い」の記録が残っていますね。

春名マレー人の奥さんとの間に生まれた息子のオトソンについて、私の著作では、恐らく市民権は得られなかったと書いたんですが、外務省の記録を調べたら、1864年12月20日付で、日本の国籍に入っている。

彼を受け入れた人はどういう人かわからないけれども、横浜あたりで彼のことを利用しようとしたのではないか。しかし、彼は、日本に来たものの、日本語もできないし、次第に嫌気がさしたのでしょうか。その後、日本の国籍を脱してイギリス籍に戻りたいと願い出ているんですが、それが拒絶されている。

父親の音吉は、日本には帰れなかった。息子は、逆に日本から出られなくなってしまった。そうなると、音吉の後日談と息子の後日談が、何か二重になってきてしまう感じなんです。

捕鯨を中心に結ばれた和親条約

日本に向けて出向するペリー艦隊

日本に向けて出向するペリー艦隊
( “Gleason´s Pictorial” 1853年2月12日号)

大隅ペリーが来航したのは1853年、その翌年の1854年に「日米和親条約」が結ばれますが、その内容は、ほとんどが捕鯨に関連したものだった。それで、下田と箱館が開港になったんですが、なぜ箱館かというと、アメリカの強い希望があったんです。といいますのは日本海がセミクジラの主要な漁場になっていて、箱館は日本海への入り口に位置していて捕鯨船の補給に重要だったわけです。それで下田と箱館の開港も捕鯨につながる。そういう意味で私たちは、和親条約は捕鯨を中心にして結ばれたと考えているんです。

春名和親条約では、そのほかに、漂流民の救助費用の分担問題があり、救助送還は「両国互に同様の事ゆえ」相手国に請求しないという明文(第三条)があります。

川澄ペリーが来る前年に津軽海峡を200隻の捕鯨船が行き来した、という情報があってペリーの耳にも入っている。だから箱館開港にはすぐ賛成するわけです。

それから、ペリーが日本にやってくるきっかけになったラゴダ号の鯨捕りのことと、日本に幽閉されたロシアのゴロヴニンのことがあります。ペリーは多分、ゴロヴニンについての翻訳書を読んで、日本人をもっと知りたいということが箱館に行きたい理由の一つじゃなかったか。

ペリーは来航前に捕鯨船に協力を依頼

川澄ペリーが横浜での会談の前に、もし日本がこちらの要求を入れなければ20日ぐらいの間に100隻の軍艦を連れてくると脅かしますね。ペリーは日本に来る前にニューベッドフォードに行って、鯨捕りのデラノ船長に、ペリーの艦隊が江戸湾にいる間に、日本近海で操業している捕鯨船に、江戸湾にやってきて薪水・食糧を要求してほしいと言ってるんです。歴史学者は日本近海にアメリカの軍艦が100隻もいるわけがないと言うんですが、ペリーは捕鯨船のことを考えているわけです。

これは下田での話ですが、林大学頭がペリーに「祝砲ばかり撃たれると漁業に影響する。」と言うんです。するとペリーは、漁師のためならと、下田にいる間、祝砲を撃つのをやめるんです。ペリーは、版画などでは赤鬼のように描かれていますが、実は、あの憎憎しげな表情からは想像できない、細心で、ユーモアがあり、ときには、日本の庶民に思いやりあるところを示すという、すぐれた軍人・外交官であったと思います。

松信どうもありがとうございました。

大隅清治 (おおすみ せいじ)

1930年群馬県生れ。
著書『クジラと日本人』 岩波新書 700円+税、『クジラのはなし』 技報堂出版 1,800円+税。

川澄哲夫 (かわすみ てつお)

1930年愛知県生れ。
著書『日本英学史』全3巻 大修館書店 12,000円+税~24,000円+税、『黒船異聞』 有隣堂 1,700円+税。

春名徹 (はるな あきら)

1935年東京生れ。
著書『にっぽん音吉漂流記』 晶文社 1,301円+税、共訳書『紫禁城の黄昏』 岩波文庫 1,100円+税。

※「有鄰」445号本紙では1~3ページに掲載されています。

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