Web版 有鄰

440平成16年7月10日発行

[座談会]横浜の空襲、そして占領の街

評論家・中部大学名誉教授/赤塚行雄
横浜市立大学名誉教授/今井清一
俳人・横浜文芸懇話会会長/諸角せつ子
有隣堂社長/松信 裕

右から、諸角せつ子・赤塚行雄・今井清一の各氏と松信裕

右から、諸角せつ子・赤塚行雄・今井清一の各氏と松信裕

はじめに

松信第二次世界大戦末期の昭和20年、米軍のB29爆撃機による都市市街地への焼夷弾爆撃が激しくなりました。すでに60年近くがたち、人々の記憶は薄らいできていますが、横浜にも空襲が頻々と続き、5月29日の大空襲では市街地の大半が焼け、多くの犠牲者が出ました。また敗戦後、横浜は日本全国の占領の拠点として広い範囲が接収され、市民生活にも大きな影響を与えました。

イラクの戦争も泥沼化しつつあるように見えますが、ご出席いただきました赤塚行雄先生は、イラクやアフガニスタンで戦火に傷ついた子供たちの姿に、空襲・戦時下の記憶が重なり、「戦争の無残さだけは忘れてはいけない。そして、伝え続けなければならない」との思いから、県立横浜二中(現・県立横浜翠嵐高校)の生徒だった当時のことを自伝的に書かれた『昭和二十年の青空――横浜の空襲、そして占領の街』を、当社から出版されました。先生は昭和5年、神奈川区斎藤分町のお生まれで、現在もそこにお住まいです。

本日は、横浜の戦時下の様子、空襲、占領とはどんなものだったのか、また、若者たちはどのように考え、生きていたのかなどを、お話しいただければと思います。

今井清一先生はご専門の政治史のお立場から、日米両方の資料を駆使し、第二次世界大戦における空襲をご研究で、当社からも『大空襲5月29日』を出版されております。

諸角せつ子先生は俳人で、横浜文芸懇話会の会長を務めておられます。昭和6年、南区睦町のお生まれで、現在もそこにお住まいです。当時、山下町の横浜市立女子専修学校に通っておられました。中区・南区は空襲の被害もひどく、敗戦後は至るところに占領軍のカマボコ兵舎が建ち並んでいました。諸角先生は、この一部始終をご覧になっておられます。

「生きることは戦うこと」という時代

紀元二千六百年を祝う伊勢佐木町(1940年)

紀元二千六百年を祝う伊勢佐木町(1940年)
撮影/中野武正

松信まず、戦時下はどのような感じだったのでしょうか。

赤塚私は昭和5年生まれです。翌6年に満州事変が起り、太平洋戦争へと拡大していく過程で少年になっていくわけで、生きることは戦うことという時代でした。

私が栗田谷小学校の3年生ぐらい、昭和15年ごろですが、「スパイ」という言葉がはやりました。横浜には結構外国人がいましたでしょう。当時、野毛山の剣道の道場に通っていたんですが、外国人を見て、「スパイじゃないの」って話してたのがご本人に聞こえて、「スパイじゃないぞ」と言って追いかけられたことがあった。紀元二千六百年のお祝いのころです。

松信伊勢佐木町に「防諜強化」のスローガンが掲げられている写真がありますね。

今井身近にも敵がいるんだと警戒心を持たせ、国民をお互いに監視させる。

赤塚本牧の海岸あたりに「撮影を禁ずる」といった立て札がありましたね。木に墨で書いた札だったことを覚えています。

今井要塞地帯になるんです。横須賀と横浜の南部、今の金沢区あたりは前から東京湾要塞地帯なんですが、戦争になると横浜の中心部も加えられ、写真を撮るには要塞司令部の検閲が必要になるんです。地図も、ざっとしか描けない。

諸角私は子供のころ、ちょっと日本的な顔じゃなかったので「アメリカ人の子じゃないの」と後ろで言うのが聞こえたりしましたよ。

松信諸角先生は、南区のお生まれですよね。

諸角そうです。私は共進国民学校だったのですが、授業の前に、「海行かば」を歌わされたんです。万葉集の歌に、非常に美しいメロディーがつけられていて、とても印象に残っています。

赤塚私たちも授業で万葉集や和歌を教わりましたが、自分の人生なんて、源実朝の歌の「大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」だと思ってましたね。

諸角私の父は南区の蒔田で、男兄弟全員が集まって、パジャマやスリッパをつくる輸出業を、人も使ってかなり大きくやっておりました。

ところが、それが昭和16年ごろでしょうか、第二次世界大戦が始まるころには、すっかりだめになりまして、父の兄弟たちは、それぞれ小さな菓子屋とか乾物屋とか、商店を経営するようになり、一家としては大変だったと思うんです。

昭和13年には外貨不足で輸入が困難に

松信今井先生は、もう少し上の世代でいらっしゃいますよね。

今井皆さんより6歳ぐらい上ですね。

赤塚じゃ、軍隊体験があるわけですね。

今井私は昭和20年1月に特別甲種幹部候補生で、東京小平の陸軍経理学校に入りましたが、卒業しないうちに敗戦になります。

昭和11年に群馬県立前橋中学に入学しますが、二・二六事件の直後で、横浜でも軍需景気が始まったころです。12年7月に日中戦争が始まると、上海では苦戦するが南京を攻略して気勢をあげる。ところが翌13年に入ると、外貨不足で輸入が困難になり綿製品と鉄製品が統制で手に入らなくなる。輸出を伸ばせば外貨ができ、軍需資材を輸入して戦時体制を進めていけると考えていたのですが、そうはいかなかった。

諸角父たちの輸出業がだめになるのもそのころからではないでしょうか。

松信昭和13年に国家総動員法が成立し、戦時体制に入るわけですよね。

今井議会無視の法律だから、議会では表向きに反対できないのですが、不満が強かった。だから最初はいくらか控えめで、昭和16年の改正でひどく露骨になります。

赤塚最初のころは、まだ物がある感じなんですが、質が違う。これは衣類にあらわれるんです。女学生の制服なんかも、木綿の代用品のスフ(人造綿糸)が入り出すと、形にどこか力がない。

今井革靴もなくなる。

赤塚私は布の靴をはかされましたよ。防水剤が塗ってあって、一応編み上げ靴になっているんですが、底は板みたいなゴムでした。

今井その間にサメ革の靴もありました。

諸角ありましたね。覚えています。

どの中学生もカーキ色の制服と戦闘帽に

赤塚私が中学に入るあたりから兵隊のような服装になる。黒い学帽じゃなくなってカーキ色の戦闘帽に校章をつける。制服も、横浜一中(現・県立希望ケ丘高校)とか、二中、それぞれに黒い線が2本入っているとか、形があったんです。それがなくなって、どの中学も同じカーキ色の服と戦闘帽になっていった。

松信食糧事情が非常に悪くなるのはいつごろからなんでしょうか。

赤塚米の飯を食べるために、買い出しは戦中からありましたし、サツマイモとジャガイモを代用食としてよく食べていました。

今井お米は瑞穂の国だから大丈夫と言っていたのに、昭和15年の初めには不足して、16年から配給になります。ヤミ取引も横行しますが、19年には乏しいなりのルートができ、雑炊食堂も始まります。ビールが1杯だけ飲める酒場もできます。東京では国民酒場、川崎で勤労酒場、横浜では市民酒場でした。市民酒場はついこの間まで残っていました。

昭和17年4月米軍機が飛来、戦争が身近に

赤塚まだそのころは、戦いは日本本土ではなくて外国で行われていたので、戦時下とはいえ、非常にのんびりした、平和な日常生活が、ずうっと続いていたわけです。

それが突然、横浜上空にアメリカの飛行機が1機あらわれた。昭和17年4月18日で、私は小学校5年生でした。

自分の部屋の畳の上で腹這いになって『少年倶楽部』を読んでいたら、爆音が聞こえて、家がガタガタ揺れたんです。急いで外をのぞくと、星のマークをつけた、暗緑色の太い飛行機が超低空で飛び去るのが見えた。革の飛行帽をかぶった飛行士の顔も見えましたね。日本の家屋は、あのころ大抵トタン屋根でしょう。ほんとに低空で来ますから、びりびり震えるんですよ。

今井ドゥリットル航空隊による本土初空襲で、空母ホーネットを飛び立ったノースアメリカンB25双発爆撃機16機が東京や横浜、名古屋、大阪などを分散して攻撃したんです。

赤塚これは反撃ののろしのようなもので、それから戦況がだんだん変わっていくわけですが、遠かった戦争が急に神話的に拡大して、真上に出てきたという感じでした。

今井4月18日は日本軍の厄日で、翌年のこの日には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死します。

昭和19年末から勤労動員で昭和電工に通う

松信そのころ、学校の授業はどうだったんですか。

赤塚昭和18年の1年生のころは授業をやっていて、最初は英語も、漢文もちゃんと習いました。

19年の末ごろからは、毎日、新子安の昭和電工に勤労動員で通っていました。そこには横浜高等工専(現・横浜国立大学工学部)の学生とか旧制早稲田大学予科生の早稲田高等学院の学生なども動員されていました。

年上の学生さんたちと、しょっちゅうおしゃべりをしまして、それはそれで勉強になったという気がするんです。女学生は来ていなかったように思います。

あるとき、勤労動員の帰りに、東神奈川駅の近くの慶運寺のあたりで、瑞穂埠頭のほうからアメリカ兵の捕虜の一隊が行進してくるのを見たんです。みんな背が高くて、体格がよくて堂々としている。先導している日本の憲兵のほうが背中を丸めて、なんだか小さく見えましたね。

雨が降っていて、アメリカ兵は戦闘帽みたいなものをかぶっていたりするんですが、レインコートがなくて、蓑をつけさせられているんです。

松信田んぼで使うような蓑ですか。

赤塚そうです。だけど、それでもすごく格好よく見えて、思わず「こういうのが敵なのか」と、たじろぐというか、びっくりした。恐らく瑞穂埠頭で働かされていたんじゃないでしょうか。

松信諸角先生と赤塚先生とは大体同年代でいらっしゃいますよね。

諸角1学年下ですが、私は非常に目が悪いうえに、病気をしたりで1年おくれて入っていますので、結局、2学年下だと思います。1年生で終戦でした。

赤塚そうですね。私は3年生でしたから。

諸角20年の4月に女子専修学校に入ったばかりで勤労動員にも行かなかったし、2つ年下の弟は箱根へ学童疎開していましたが、私は疎開もしなかったという、ちょうどはざまの学年なんです。

授業も、空襲と言ってはやめていましたけれど、英語がなかったぐらいで、あとは普通でしたね。

松信学校は山下町のどの辺にあったのですか。

諸角中華街の入り口の、今の港高校の場所です。

捜真女学校の丘でアメリカ兵の死体と遭遇

赤塚勤労動員の途中で、警戒警報だから帰れと言われたことがあるんです。海辺にある工場から、新子安の駅の方へ歩いていたら、超低空でふいに艦載機が1機、下りてきた。そして一直線に、ダダダッと機銃掃射したんです。地面に、まっすぐに1列に穴があくんです。

松信追いかけられたんですか。

赤塚そうなんです。さっと横に飛びのいたので無事だったんですが、ああいう経験をした人は結構いるんじゃないですか。

今井機銃掃射は艦載機によるもので、20年2月には米軍の機動部隊がやってきて艦載機が1日中、各地を飛び回って波状攻撃をしました。

赤塚非常に低空でした。低空のほうが安全だったんじゃないかな。

松信低空だと、高射砲にはやられないですからね。

赤塚神奈川区の捜真女学校の近くの丘に、高射砲陣地があったんです。われわれ近隣の住民は、撃ってくれないかと、その高射砲に期待しているんですが、なかなか撃たないし、撃っても黒い煙がポッポッと出るばかりで、敵機は悠々と通って行く。

それからもう一つ、すごくよく覚えているのは、4月16日の朝のことです。私はいつも、中丸の捜真女学校の脇を通って三ツ沢の横浜二中へ通っていたのですが、ふいにそこで、アメリカ兵の死体を見たんです。

飛行機は撃ち落とされて、女学校の礼拝堂の屋根に、折れた翼がひっかかっていたんです。神がその翼をそっと支えているようで、「神 天にしろしめす」という感じでした。戦争中ですけれども、何か春の日の、やさしい感じを受けたのは確かです。

その先にアメリカ兵が、両腕を頭のほうに回して、死んでいるんですけれど、穏やかに眠っているようで、血なんか全然見えなかった。

軍需工場から大都市市街地攻撃に戦術が転換

松信日本はどういう経過で空襲を受けるようになったのでしょうか。

今井日本の都市は木造ですから、関東大震災の例もあるように、空襲には弱い。しかし、アメリカの基地からは遠く離れているし、海軍もしっかりしているから、空襲されないだろうと考えていました。いっぽう、日本は中国に対しては随分激しい都市爆撃をして、国際的な非難を受けていました。

アメリカは、当時の長距離爆撃機の2倍以上の航続距離をもつ超長距離爆撃機の開発を進め、1944年(昭和19年)初頭にB29の生産が軌道に乗ります。これだと基地を進めると、日本も空襲できる。

同じ昭和19年の初頭に日本軍は孤立した中国を屈服させようと大陸打通作戦を開始し、これに対してアメリカは中国奥地の成都にB29の基地をつくります。

この年6月6日に連合軍がフランスのノルマンディーに上陸します。その15日には米軍がサイパン島に上陸し、その日の深夜には成都基地のB29が八幡製鉄所を爆撃します。これがB29による最初の日本本土空襲で、世界戦略の一環です。

11月になるとサイパン、グアム、テニアンのマリアナ基地がつくられ、東京も爆撃圏内に入ります。

最初の目標は、日本の航空機、特に発動機工場で、東京の中島飛行機、名古屋の三菱重工を爆撃しますが、高空から、しかも冬の強風の中の爆撃は当たらない。そこで大都市の密集市街地に対する焼夷弾攻撃に戦術転換をします。

この戦術は、実はもっと前から計画され、焼夷弾も開発されていました。ただ大都市の目標を一気に焼くにはある程度の兵力が必要で、300機になったところで、3月10日の東京大空襲になります。

赤塚そのころは、横浜はまだ大きな空襲も受けてませんでしたし、不謹慎ですが、東京の空襲を見るとすごくきれいなんです。こちらは安全だという安心感があって、夜なんか、探照灯の光芒の中に魚のように黒くB29が浮くんです。それで高射砲がバンバンと飛ぶけれど、なかなか当たらない。B29は悠々と飛び去っていく。腹立つぐらい。

3月は下町、4月は工場周辺の市街地を爆撃

今井日本の大都市市街地への焼夷弾空襲は3月中旬、4月中旬、5月中旬から6月上旬の3期に分けられます。

3月中旬には東京大空襲に続いて名古屋、大阪、神戸が夜間焼夷弾空襲を受け、下町の密集市街地が焼き払われます。そのときには横浜は目標に入っていません。横浜にはまとまった人口密集区域がなかったためです。

4月には労働者の多い工場周辺の市街地が目標になります。

13日に東京造兵廠があった北区、板橋区から赤羽にかけて、15日は蒲田と川崎、鶴見の工業地帯の周辺です。

諸角15日には、私が住んでいた睦町の近くの堀ノ内の火薬庫を目がけて、空襲がありました。今考えると、火薬庫はそのころはもう空だったんですが、これが私が最初に遭った空襲です。堀ノ内のほうは焼けず、山を越した反対側の睦町2丁目が焼け、私の家も焼けてしまいました。

赤塚私がB29の残骸と米兵の死体を見たのは、このときの空襲ですね。

5月には目標を選んで狙える昼間爆撃を開始

松信5月に入ると、どのように変わってくるんでしょうか。

今井5月8日にはドイツが降伏します。沖縄戦もほぼ大勢が決します。それで、アメリカ空軍は全力を挙げて日本を空襲し、上陸作戦をせずに、空軍の力で日本を降伏させようと、空襲を激化させます。

B29もどんどん増産され、日本軍の抵抗は弱まる。それを押し切って、中高度で爆撃しようということで、目標地域を選んで狙うことができる昼間の爆撃が始まります。

横浜大空襲はB29・500機による昼間空襲で、硫黄島基地の戦闘機P51・100機が護衛に加わります。いくつもの丘で区切られた各区域を狙って短時間に集中攻撃を行います。

松信米軍は、軍需工場の位置や、市街地の攻撃目標などは、どのようにして事前に調べていたんですか。

今井直前には航空写真で計画的に偵察しています。緻密です。

都市市街地の爆撃については、昭和15年の国勢調査を使って都市の人口変化などまで調べ、目標を決めています。この国勢調査を一番よく研究したのはアメリカ軍でしょう。

横浜大空襲――青空に爆撃機の大編成

平均弾着点を示す写真

平均弾着点を示す写真
米国立公文書館

今井5月29日の横浜大空襲では丘で区切られたそれぞれの地域を焼き払うために、5つの目標地点を決めます。

第1目標が東神奈川駅、第2目標が平沼橋、第3目標が市役所のそばの港橋、第4目標はお三の宮(日枝神社)の近くの吉野橋、第5目標が本牧の大鳥国民学校でした。

海側から風が吹いてくるので、目標が煙で隠れないように一番奥の東神奈川からこの順序で、ほぼ9機4列の各編隊が輪番で、4回りほど焼夷弾を投下し、午前9時20分過ぎから1時間ちょっとで投弾を終えます。住民に逃げる暇を与えずに焼き尽くそうとしたのです。

松信赤塚先生は、その日はどうされていたんですか。

赤塚明け方から警戒警報が鳴ったので、勤労動員へは行かず自宅にいました。午前8時前に、けたたましい空襲警報がほうぼうから響いたんです。ふだんは縁の下の防空壕に入るんですが、いつもとは違う、ただならぬ気配を感じて家族で横浜専門学校(現・神奈川大学)近くの高台の窪地に避難したんです。

間もなく、晴れた空に爆撃機の大編隊が現われ、まず栗田谷付近に黒煙があがり、東神奈川駅の向こう辺りが火に包まれ、横浜の中心街から立ち上った煙で空が暗くなった。その暗い空を呆然と眺めていると、爆風で煙の中に一筋の穴が空いて、そこからのぞく青空に向かって爆撃機が飛び去って行くのが見えたんです。

私の家のあたりは、直接は大きな被害は受けませんでしたが、逃げるのに必死でした。空襲の後、横浜駅の方から防空団員に誘導されて、女性や子供が命からがら丘を上ってくる姿が目に焼き付いてますね。

4月の空襲で焼かれ、引っ越した翌日にまた焼かれる

松信諸角先生は、この空襲が2度目ですよね。

諸角そうです。29日は家にいました。4月15日の空襲で家が焼けてしまったので、近くの、人に貸していた家をあけてもらって、残った荷物を集めて越した次の日が、5月29日でした。

逃げようとしたときは、もう焼夷弾が落ちてきたので、そばの土盛りの防空壕に入ったら、その中、私のすぐ後ろに、焼夷弾が落ちてきたんです。あわてて外に出たんですが、あちこちが燃えていて、「怖い、怖い」で夢中で走って、堀割川のそばの丘まで、靴もはかずに逃げました。

その丘も山火事になりそうだったので、母親と2人で根岸のほうまで行って、夜遅くまでそこにいたんですけれども、町内会では「あの2人は死んじゃったんじゃないか」と、一生懸命焼け跡を探してくださったそうで、怒られました。とにかく、怖くて怖くて、遠くまで逃げたんです。

そのとき、19年に南京で戦病死した兄の遺骨が帰ってきていて、家だけででもお葬式をやろうと、父親が田舎に買い出しに行った後だったんですが、結局、お葬式もできず、家の荷物もほとんど焼けて、何にもなくなりました。

それ以後は、焼けた家の跡に、ご近所の3世帯が一緒になって、焼けトタンでバラックを建てまして、戦後しばらくまで、穴のあいた空の見える焼けトタンの中に住んでいました。

松信諸角先生の学校も焼けたのですか。

諸角いいえ。学校は焼けませんでした。

白い煙が上がった後、横に揺れて真っ黒い煙が

今井私は5月29日の空襲を東京から見ました。弘前の連隊から汽車で戻り、新大久保駅で空襲警報が出て、降りたら、先のほうに、B29の攻撃で火の手がまっすぐ、円筒状に上がっている。最初は白い煙が上がる。しばらくすると、中に激しい風が起きて、横に揺れて真っ黒い煙が出てくる。

最初は渋谷かと思ったんですが、はるかかなたの横浜が燃えていたわけです。横浜の空襲は、私自身は体験はしていないけれど、遠くから見て非常に印象に残っています。

医者の手当てを十分受けられないまま妹が病死

松信赤塚先生の妹さんが6歳で亡くなられたのは、ご病気だったんですか。

赤塚医者の手当てを十分に受けられなかったということだったように思います。お医者さんたちもみんな兵隊にとられていましたから。

松信5月29日の空襲の後ですね。

赤塚直後でした。父親が病院をあっちこっち連れて回ったんですが、高熱にうなされながら死んだんです。

病名も、よくわからないんです。ちゃんとした治療を受けてないから、多分、腸チフスだろうという感じですね。

松信直接の戦闘や空襲以外に、病気で亡くなった方も多かったんですね。

諸角私の家の隣の小学生の男の子も、腹痛がひどくて「痛いよ、痛いよ」と言いながら、その晩のうちに亡くなりました。お医者さんがいれば何でもないのにね。

赤塚医者さえいたらということはありましたね。若い先生は戦地に行ってしまい、年をとったお医者さんしかいないという感じでした。

今井それで各地に軍医を養成する医専ができた。横浜市立大学の医学部も、それが前身です。

占領下、ソフトな米兵、堂々としていた日本女性

厚木飛行場に降りたマッカーサー(1945年8月30日)

厚木飛行場に降りたマッカーサー(1945年8月30日)
マッカーサー記念館蔵

松信8月30日にマッカーサーが厚木飛行場に進駐して、その日のうちに横浜のホテル・ニューグランドに入ります。

占領軍が入ってくるので、神奈川県の藤原孝夫知事が「婦女子退避令」を出しますが、諸角先生はどうされていましたか。

諸角うちはとぼけていまして、田舎が山梨の南巨摩郡の富士川のほとりなんですが、終戦の日にそこに疎開したんです。終戦のラジオは甲府の親戚の家で聞いて、それから田舎に行きました。横浜は占領軍が入ってきて危ないというので一月半ぐらいそこにいました。

赤塚一般には空襲を避けて疎開と考えますが、横浜は戦争が終わってから疎開という人がいましたね。

今井「婦女子退避令」は敗戦の翌日ぐらいに、市の代表も出て県庁で相談会をしたときに、占領経験のある県の部長が、早く疎開させたほうがいいと言い出して、その場で決まった。県は藤原孝夫知事、横浜市は半井清市長がそれを信じて退避令を出すわけです。浜口内閣の書記官長をつとめたこともある鈴木富士弥鎌倉市長は、これを抑えています。

松信マッカーサーが来た日に、もう強姦事件が起こっているんですね。

赤塚終戦連絡横浜事務局に勤めていた北林余志子さんは、「敗戦の代償としてヨコハマの女性が辱めを受けたかのような事件がたくさんあった」と語っていますね。

怖いという感じはなかった占領軍

馬車道(1945年9月20日)

馬車道(1945年9月20日)
米国防総省蔵

赤塚進駐軍が来て、私の家のあたりでは六角橋の町が急に変わった。子供たちが一番注目したのは交通整理のアメリカ兵じゃないでしょうか。踊るように交通整理をする。非常に愛想がよくて、子供好きという感じで、それで多くの市民はほっとするんですね。そして子供に、チョコレートやガムをばらまく。子供たちは、「チューインガム、チューインガム」と騒いだ。子供にとっては、怖いという感じはなかったですね。

松信9月末ころの馬車道の写真などを見ても、米兵が丸腰で闊歩してますよね。

長者町周辺の米軍のカマボコ兵舎(1946年)

長者町周辺の米軍のカマボコ兵舎(1946年)
浪江康夫氏蔵

南区あたりは、カマボコ兵舎が随分つくられてますね。

諸角たくさん建ちましたね。私が通っていた女子専修は、戦後、六・三・三制の実施とともに横浜市立港高校となり、またすぐに横浜市立商業高校(Y校)に統合されて男女共学になったのですが、私は学校を卒業すると同時に学校の事務員に残らないかと言われて、Y校へ勤めるようになったんです。

私の家から南太田のY校までは、まっすぐ行けばすぐなんですが、ずっとカマボコ兵舎が建っていて通れなかったんです。それで吉野町、前里町と、ぐるっと回ってY校へ通っていました。それがかなり長く続きましたね。

松信アメリカ兵の印象はどうでしたか。

諸角進駐軍の外国人はみんなソフトな感じでしたね。日本人の兵隊さんのほうが、よっぽど怖かった。

赤塚不思議なくらい穏やかだった。誰かがそういう方策を立てたんでしょうかね。

今井占領するときには、どこの国でも、市街地には限定して兵隊を入れるんです。部隊全部が飛び込むような形にはしない。特に、いら立ってカッカしている兵隊たちは入れないのが原則なんだそうです。南京占領の日本軍はそうじゃなかった。

市電に乗る米兵(1945年9月21日)

市電に乗る米兵(1945年9月21日)
米国防総省蔵

赤塚私の家の近くの横浜専門学校は黒人部隊の宿舎になったんです。そのコンクリートの塀に、黒人兵が赤土で“FUCK”と落書していた。“FUCK”というのは、あのころ辞書にないと思いますが、直感でわかるんですよ。「あんなことを書いている」と、それが非常に印象的でした。

黒人兵は怖いという感じでしたが、バラの花を1本持って、「ママさんいますか」と女性を探していましたね。

パンパン宿の隣で、父に「よく人間を観察しておけ」と

G.I.相手の露天商。 横浜で(1945年9月16日)

G.I.相手の露天商。 横浜で(1945年9月16日)
米国防総省蔵

赤塚昭和21年に入ってからだと思いますが、米兵相手の売春婦、いわゆるパンパン・ガールが横浜に集まってくるんです。

私の家の隣は、戦争中は海軍少佐夫妻が住んでいたのですが、終戦後、引っ越してしまった。その家は、地元の土建業者が家主で、その娘が、30歳ぐらいで夫をなくし、空家にしておくのはもったいないと、パンパン宿の姐御になって、7、8人の女性を連れて、そこに引っ越してきたんです。中には地方の人も女学校を出た人もいましたね。一番上は45歳ぐらいの和服のおばさんで、一番下が、小学校で私の一級下だった、大工の娘でした。

松信1軒だけですか。

赤塚そうなんです。それも住宅地のど真ん中にです。GI同士や女性同士の喧嘩もあって、夜遅くまで騒いでいる。それで父に「うるさくて勉強できない」と言うと、私の父は新聞記者でしたが、すかさず「何を言ってるんだ。千載一遇のチャンスではないか。人間というものを、この際よく観察しておけ」と言われた(笑)。反抗期でしたが、この言葉には参りましたね。その通りだと思いました。それでパンパン宿の隣の少年はじっと見ていた。

あのころの小説家や随筆家たちは、こうした女性たちのことを「生活に困って」と大抵書いている。当時の新聞や雑誌にも「多くは家を焼かれ、食うに職なく、生活に困って仕方なく」と書いてある。

たしかに多くの人はそうだったんでしょうが、必ずしもそれだけじゃないと思ったんです。性的好奇心、あるいは異国人への好奇心なども含めて、新しい時代の中で、解放感にひたりながら「新しく生きている」と感じていた人もいたのではないでしょうか。堂々としている女の人も少なくなかったですからね。

戦中・戦後の転換を納得させた「堕落論」

松信市民の意識は、すぐに変わったんでしょうか。

赤塚徹底抗戦と言っている人も、けんかしていた手をすぐに下ろせないといった感じでしたね。

今井経理学校では新聞も読めず、外界から隔離されていましたが、本土決戦の想定は、昼間は米軍機がいるので、日本軍は多摩の洞窟に隠してある兵器や食糧を夜間に荷車で輸送するしかないというものでした。

それから、敗戦直前に、一期上の見習士官の教官から、日本中が新型爆弾とソ連の参戦で絶望の淵にいるのに、君たちは、このいやな学校を卒業できると喜んでいる、日本中で一番幸福だと皮肉られたのを覚えています。

赤塚先生の言うことが急に変わったのも、おかしかった。昨日まで勇ましいことを言っていたのに、「負けるのはとっくにわかっていた」と。

諸角本当にそうですね。

赤塚小学校の先生は、みんなと一緒に動いているというところがあったけれど、中学の先生はちょっと違った。弁論部の生徒なんか意地悪ですから、朝礼のときなどにわざと突っ込む。「男女同権と言うけれど先生、昨日まで、男女7歳にして席を同じゅうせずと言っていたじゃないですか。あれと男女同権はどうつながるんでしょうか」と言われると先生は下を向いちゃう。誰でも困るでしょうね。

降伏の事実に戸惑う若者たち

今井若者の敗戦の受け入れ方はどうだったんですか。

赤塚ずっと納得できないでいるんですよ。昨日までの一生懸命の毎日と、次の降伏ということが結びつかない。いろいろなやり方で納得させたのでしょうが、私の場合は文章を読むことでした。

21年の4月に『新潮』に坂口安吾の「堕落論」が出たんです。戦中と戦後をどう論理的につないだらいいかわからなかったときに、これを読んで、胸がスッキリしてきた。

「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできない。防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」

そうだ、天皇ももう神じゃない。軍国の妻がきょうは性を売っている。人間は、急にダメになったのではなく、もともとそういうものなのだ。それを自覚し、そこからもう一回人間としてはい上がればいいんだ。中学生としては、そういうところから考え直そうとしていた。

占領軍と交渉、難題を解決した鎌田機関

鎌田銓一氏

鎌田銓一氏
鎌田勇氏提供

松信占領のとき鎌田機関がかなり活躍したということですが。

赤塚占領軍接伴委員会がつくられましたが、委員長が有末精三陸軍中将で、副委員長が、同じ中将の鎌田銓一さんです。鎌田さんはアメリカの大学を出られて、かつては米軍のフォルト・デュポン工兵連隊の大隊長だった。それで英語ができるので引っ張り出されたんです。先遣隊として厚木に来たテンチ大佐は、以前、鎌田さんの部下だったんです。

鎌田さんは、占領軍と具体的な交渉をするためには、第一次占領地区の横浜にいたほうがいいだろうというので、本牧に住まわれて、そこで頑張った。

今井横浜はあまりに悲惨なので、終戦連絡横浜事務局長の鈴木九萬さんも、ある程度きちんと片がつくまでは、横浜に留まろうと考えていたそうです。他にも同じような方がおられたようです。

赤塚中華民国軍が中部地区に進駐するという話があったとき、中国軍は食糧その他の必需品を進駐した現地で調達する方針なのを知って、日本にはそんな余裕はとてもないので、それはやめてくれと鎌田さんが占領軍と交渉したと聞きました。そういうふうに、陰でいろいろ動いてくれた。どこにも文章にはなってないんですが、神奈川県庁の役人として苦労された西田喜七渉外課長が、我々の背後には彼がいて、いろいろやってくれていたという意味のことをよく言われてました。

有末機関については、いろいろ取り上げられていますけど……。

横浜は沖縄を除いて占領面積が一番多かった街

松信横浜は、沖縄を除いて一番占領の面積が多い街だったわけですね。そういった状況が、講和条約が発効する昭和27年4月以降もずっと続いていた。

今井中区の真ん中辺りが解除されるのは、昭和30年ぐらいじゃないですか。伊勢佐木町の不二家が33年。

諸角そのころ急速にほうぼう解除になりましたね。

今井有隣堂が解除されたのは何年ですか。

松信27年と30年、表と裏と半分ずつなんです。

赤塚今、大空襲直後に青木橋から見た焼け野原の方を見ると、みなとみらいの高層ビル群が立ち並んで、豊かになった。それは結構なことなんですが、終戦直後、みんな「二度と戦争はしない」、と叫んだのに、今、また繰り返そうとしている。

私たちは戦争という闇を知っているからこそ、今の豊かな時代を輝かしいと感じられわけで、まぶしい場所にいる今の時代は、戦争の闇を想像力で補うことが必要だと思うんです。『昭和二十年の青空』がその一助になればと思ってます。

諸角本当にそう思いますね。戦後生まれの方々にも、この事実を是非知ってほしいと思っています。平和を願うのみです。

今井私たちは「一億玉砕」を目の前にしました。時の東日本の総軍司令官は、シナ事変は1か月ぐらいで片づけると天皇に言った陸軍大臣です。歴史の皮肉は憶えておきましょう。

松信きょうはどうもありがとうございました。

赤塚行雄 (あかつか ゆきお)

1930年横浜生れ。
著書『昭和二十年の青空』有隣堂 1,400円+税、『人文学のプロレゴーメナ』風媒社 1,800円+税、ほか。

今井清一 (いまい せいいち)

1924年群馬県生れ。
著書『昭和史』(共著) 岩波書店 840円+税、『新版大空襲5月29日』有隣新書 1,000円+税、ほか。

諸角せつ子 (もろずみ せつこ)

1931年横浜生れ。
句集『権太坂』本阿弥書店 2,900円+税、『網膜の花』 本阿弥書店 2,600円+税、ほか。

※「有鄰」440号本紙では1~3ページに掲載されています。

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