Web版 有鄰

573令和3年3月10日発行

桜の魔法 – 海辺の創造力

東郷なりさ

桜が咲くと、その数日間だけは、通勤、通学や買い物の道すがら足を止め、スマホの画面から顔をあげて花を愛でる。日本中の誰もが、天気に一喜一憂し、そわそわしながら心待ちにする自然現象だ。桜は日本にいる人にとって、春の魔法のような花だと思う。世界を見回しても、毎年その時期になると国中がある生物の話題で持ちきりになるというのは珍しいようだ。そもそも、日本全国にソメイヨシノという品種のクローンが植えられている状況だからこそ、気候条件が同じ土地の桜が一斉に開花して桜前線ができる。桜自体は、種は違うとはいえ海外にもある。しかし、国中に植えられているわけではないし、様々な種や品種があって一斉には咲かないので、日本のように春を象徴する存在ではない。

2012年、わたしは農学部で生態系などを学んだのち、自然科学や環境問題についての絵本を作りたいと思って、イギリスの大学で児童書や絵本のイラストを勉強していた。卒業展を見に来てくれたあるイギリスの編集者から、「日本人で自然の絵本を作りたいなら桜というテーマはどうだろう」と助言された。そのひと言が頭に残っていたので、帰国後に日本の桜の魅力は何だろうといろいろ考えてみた。それから8年を経た2020年2月に『さくらがさくと』を福音館書店から上梓した。

わたしは野生の生き物が好きなので、はじめは多摩・三浦丘陵に自生するヤマザクラやオオシマザクラとその花を訪れる鳥や虫を題材にするつもりだった。ところが2016年の春、たまたま自転車で戸塚の柏尾川沿いを走っていると、ソメイヨシノの桜の下に大きなテーブルセットを持ち出し、大宴会をしている人たちを見つけ、ついスケッチした。桜が咲くと、普段はレストランにしか行かないような人たちも外へと出てきて、まがりなりにも自然観察のイベントに加わる。花鳥風月を愛でるのは日本の文化だと言いつつ、現代の一般的な日本人が唯一、それも盛大に愛でるのは桜かもしれない。そう思ったら、街中のソメイヨシノの並木に興味が湧いた。

桜の魅力を様々な面から描きたいと思い、取材のために戸塚の柏尾川沿いや、弘明寺から関内付近まで続く大岡川沿いの桜並木に何度も出かけた。観光名所の桜と違い、この辺りの桜並木は人々が生活の中で使っている道だ。花開く前は、ただの見慣れた通勤、通学の道であり散歩道だが、桜が咲いたとたんにピンクのベールで覆われ、歩道スペースに所狭しと縁日の屋台が並び、人が溢れかえる。ところが葉桜の時期になると、またすっかり元の見慣れた道に戻ってしまう。生活と地続きの場所だからこそ、桜が持つ街を変える魔法を感じる。

生憎、この絵本が出版された2020年の春から新型コロナウイルスが蔓延し、桜まつりも中止になり、木の下での宴会もできなくなってしまった。しばらくはこんな他愛ない文化も自粛の日々が続きそうだが、また再開できる日まで、せめて絵本で子どもたちに伝えられたらと思っている。

(絵本作家)

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