Web版 有鄰

584令和5年1月1日発行

徳川家康の関東転封――相模国との関わり – 1面

安藤優一郎

敵地に乗り込んだ家康

天正18年(1590)7月13日、三河など5か国を支配していた徳川家康が、関東の太守だった北条氏の旧領に国替えとなることが公表された。

家康にとり、北条氏旧領への転封は大きな試練であった。このピンチを乗り切れるかどうかが、天下取りへの大きな試金石となる。

家康は豊臣秀吉の命により、この年の4月初めに北条(小田原)攻めの先鋒として関東に攻め込む。小田原城の攻城戦に参加するとともに、関東各地の北条氏の支城も次々と陥落させていったが、その心境は複雑だった。直前まで北条氏とは同盟関係にあり、娘の督姫も当主氏直に嫁がせていたからである。

家康と北条氏は、かつては天下統一を進める秀吉に対して共同戦線を張った間柄だったが、家康が秀吉に屈したことで状況が一変する。家康はその意を受け、秀吉への服属を求める役回りとなった。北条氏からしてみると、困惑というよりも裏切られた気持ちが強かっただろう。家康にしても引け目があったことは想像するにたやすい。

結局、北条氏は服属を拒否して秀吉と対決することになったため、家康は北条氏と断交し、敵として戦場で相見えることになる。北条氏が降伏して改易されると、その旧領を秀吉から与えられた。

だが、家康からしてみると敵地に乗り込む形であり、やりにくかったことは言うまでもない。その統治は前途多難が予想された。

そもそも、北条氏旧臣たちが家康の支配に反発して蜂起することは充分に予測できた。仮に鎮圧できなければ、その責任を秀吉から問われ、今度は自身が改易となる可能性もゼロではなかった。

実際、転封された大名が新領地での蜂起を抑え込めなかったことを理由に、改易に追い込まれた事例は既にあった。先の九州平定に伴い、肥後に国替えとなった佐々(さっさ)成政の事例である。成政は改易にとどまらず、秀吉から切腹を命じられた。家康にしてみると、明日は我が身であった。

家康は関東転封に際し、新領地の支配にたいへん神経を使う。北条氏旧臣を召し抱えるなどしてその反発を極力を抑え込む一方で、領民に対しては硬軟取り混ぜた手法を駆使する。家康みずから領地に赴くことで新領主としての威厳を示すとともに、民心の掌握も試みた。いわば「飴と鞭」だが、国別でみれば、北条氏の本拠地である相模国がその眼目だったことは間違いない。

相模などに御殿を造営した理由

家康は秀吉の指示を受けて武蔵国の江戸城を居城に定める一方で、北条氏の支城が置かれた関東各地の要衝には一万石以上の家臣を配置した。城主とすることで、その所領の支配を任せたが、江戸城を取り囲むように相模や武蔵、上総など関東各地に御殿を新たに設けている。神奈川県域でみると、相模国では現在の平塚市に中原御殿、藤沢市に藤沢御殿、武蔵国では川崎市に小杉御殿などが置かれた。

関東各地に設けられた御殿は別荘としても用いられただろうが、何よりも統治上の理由で活用された。その際には、家康がたいへん好んだ趣味として知られる鷹狩との関係は外せない。

馬に乗って野山を駆け巡りながら鷹をもって狩猟をすることは、良い運動にもなった。そのため、鷹狩は武士の間では人気があったが、領主にとっては領内視察の目的もそこには秘められていた。すなわち、鷹狩に名を借りて新領地を視察し、民情の把握に努めたのである。

家康にとって、関東とはそれまで何のゆかりもなかった土地であり、自分の眼で現地を視察したかったはずだ。合わせて、新領主としての威厳を領民に示さなければ、自分に帰服しようとはしないとも考えただろう。とりわけ北条氏の本拠地であった相模の場合、その危機感は強かった。

よって、その拠点として御殿を設ける。それも単なる休憩所ではなく、宿泊施設として新造した。宿泊となると、当然ながら警備も厳重にしなければならない。周囲の地形も考慮しながら、城郭のような造りとする必要があった。新造された御殿とは、家康にとってもう一つの「居城」に他ならなかった。

「中原御宮記」中原御殿跡と中原の情景・平塚市博物館所蔵

「中原御宮記」中原御殿跡と中原の情景
平塚市博物館所蔵

鷹狩の宿所として用いられたことから「御鷹野御殿」「雲雀野(ひばりの)御殿」とも呼ばれた中原御殿の事例でみると、その規模は東西78間(約141メートル)、南北56間(約101メートル)であった。四方には土塁とともに、幅6間(約10メートル)の堀が廻らされた。御殿の周辺には敵の侵入を防ぐための「鉤の手」、つまりは御殿には直行できないような道が造られたほか、天然の堀としての役割を果たした川がいくつも流れていた。

中原御殿近辺には、家康が鷹狩の際に立ち寄ったとされる清雲寺がある。その井戸の水で沸かした御茶を飲んだという話も伝えられている。

家康は中原御殿を拠点に鷹狩をおこなうことで、身をもって新領主としての威厳を誇示するとともに、民情の把握に努めた。合わせて、御殿で家臣との謁見も行なったとされており、領民のみならず家臣団を統制する場にもなっていた。

明暦3年(1657)に中原御殿は取り壊され、その跡地は現在では平塚市立中原小学校の敷地となっている。現在も平塚市御殿という町名が中原御殿のゆかりを伝えるが、近くの善徳寺の山門は中原御殿の裏門を移築したものとされる。

なお、藤沢御殿など東海道筋に設けられた御殿は上洛時の宿所にも充てられた。江戸と現在の平塚を結ぶ中原街道筋に設けられた中原御殿についても、家康が上洛する際には宿所として使われている。

相模の寺社を厚く崇敬した家康

家康は北条氏旧領の領民たちを帰服させるため鷹狩を活用したが、寺社も活用している。領民たちの精神的支柱である寺社に帰依する姿勢をアピールすることで、その支持を得ようとはかった。

民心を掌握するための政治的なパフォーマンスだったわけだが、具体的には所領を寄進することで、寺社への厚い信仰心をアピールするのが定番である。

相模国一宮としての由緒を誇る寒川神社は時の権力者からも厚く信仰され、源頼朝や北条氏はもちろん、隣国甲斐の武田信玄も崇敬するほどだった。北条氏の跡を継いで相模国の領主となった家康はそんな寒川神社への厚い信仰心を示すことで、相模の民心掌握を目指す。

家康が関東に国替えとなった翌年にあたる天正19年(1591)に、百石の土地を社領として寄進する旨の朱印状を寒川神社に発給している。家康に限らず、寺社に土地を寄進する際には自身の朱印を捺した朱印状を発給するのが通例である。寄進された土地は朱印地と称され、年貢免除の特権を有した。

家康が寄進した土地は子孫たる歴代将軍からも朱印地として認定された。将軍の代替りごとに新たに発給されたのであり、江戸幕府が続く限り、朱印地であることが保障された。

家康が朱印状を発給して所領を寄進したのは寒川神社だけではない。相模国の各地域で厚い信仰を集める寺社にはまんべんなく寄進している。地域の実情を調査した上で寄進したわけだが、相模国一宮の由緒を持つ寒川神社については所領寄進という形でその庇護者となることで、相模支配の正当性を獲得したい目論見も秘められていただろう。

鎌倉の鶴岡八幡宮は鎌倉幕府初代将軍源頼朝が厚く崇敬した神社であり、社殿の改修などにあたっては北条氏も大いに尽力している。頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮の庇護者たることをアピールしたが、家康も同様のスタンスを取る。その復興を大いにバックアップした。

こうした所領の寄進、場合によっては堂社の修復再建は相模の寺社にとどまるものではない。武蔵をはじめ関東の領国全体に及んだ。新たな領民たちを帰服させたい家康の意図は明瞭だったが、言い換えると、関東の新領主になるに際して家康がいかに気を遣っていたかが確認できる。

『徳川家康「関東国替え」の真実』表紙・有隣堂

『徳川家康「関東国替え」の真実』
有隣堂

そんな家康の関東国替えでの奮闘ぶりを、関東に転封される前の北条氏との歴史にさかのぼって解き明かしたのが、今回新書として刊行した『徳川家康「関東国替え」の真実』である。知られざる家康の姿を読み取っていただければ幸いである。

安藤優一郎
安藤優一郎(あんどう ゆういちろう)

1965年千葉県生まれ。歴史家。著書『賊軍の将・家康』日経ビジネス人文庫 880円(税込)。『幕末の先覚者 赤松小三郎』平凡社新書 990円(税込)ほか多数。

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