Web版 有鄰

587令和5年7月10日発行

明治大磯ロマン – 1面

宮本昌孝

日本初の海水浴場の開設

海辺の景色というのは、四季折々どころか一日のうちで刻々と変化する。毎日同じところを散歩しても見飽きることがない。

わけても湘南である。

この地の心地よさの理由は、風光明媚だけではあるまい。明治維新後の早い時期にサナトリウム(結核療養所)と別荘の文化が相乗効果で発展したことにより、いったん事故が起これば人体に深刻なダメージを与えるような公害工業の進出を、今日に至るまで拒んできたからだ。海浜の安全性の高さでは日本有数ではないか。そういう歴史に疎くても、何やら特別感みたいなものは伝わるに相違なく、それゆえに人々は湘南に遊び、憩う。

松本順

松本順
(大磯町郷土資料館提供)

海水浴場の開設も湘南の大磯が日本初とされる。明治18年(1885)のことで、軍医・松本順の尽力による。

松本は、幾つもの候補地を視察し、先進的な西洋医学をもとに転地療養と海水浴の効用を説いてまわったが、いっかな埒が明かなかった。好適地の小田原でも理解を得られず、肩を落として帰京する途次、立ち寄った大磯で松本は確信する。最適地を得た、と。

その頃の大磯は、維新後の社会変革で東海道における宿場機能を失い、町の財政も破綻しかけていた。海水浴場という新事業に、一か八か賭けてみたのかもしれない。

ちなみに、増潮時に波濤の勢いが激烈なところで行うのが、松本の推奨する海水浴だった。当時の風景画にも、大磯照ヶ崎海岸の荒い波間の鉄杭にしがみつく海水浴者が描かれている。大真面目の療法だったのだろうが、命懸けにしか見えない。

翌年に退官した松本と大磯の有力者らは鉄道局に陳情し、翌々年の東海道鉄道停車場誘致にこぎつける。鉄道局の当初の計画では大磯町は通過地域だった。幕末には将軍家侍医、維新政府でも初代陸軍軍医総監をつとめた松本の豊富な人脈が、この成功をもたらしたことは想像に難くない。

各界著名人が名を列ねる別荘地に

大磯海水浴浜辺景 禱龍館繁栄之図

大磯海水浴浜辺景 禱龍館繁栄之図
(大磯町郷土資料館提供)

駅の開業をきっかけに、東京や横浜からセレブが押し寄せ、海水浴のためだけでなく、長期の避暑、避寒用に別荘を建てる人々が急増していく。大磯の地価は数十倍に跳ね上がったという。

ピーク時には200軒を数えた大磯の別荘だが、文献を渉猟してみて、多士済々の所有者に目を瞠った。別荘を明治期に構えた著名人に限定して、その一部だけでも以下に列挙しよう。

政界では伊藤博文、山県有朋、大隈重信、西園寺公望、加藤高明、原敬。いずれも総理大臣となった。

実業界の大物は岩崎弥之助、浅野総一郎、三井高棟、大倉喜八郎、古河市兵衛。それぞれが財閥の総帥である。三井などは、別荘の落成披露の賓客として皇太子(のちの大正天皇)を迎えている。

医学界なら、わが国初の医学博士で初代海軍軍医総監の高木兼寛に、日本赤十字社初代院長の橋本綱常。

旧徳川御三家から尾張の徳川義禮に紀伊の徳川茂承。旧大大名の土佐の山内豊景、佐賀の鍋島直大も名を列ねる。将軍慶喜より幕政改革を託されながら、鳥羽・伏見の戦が起こるやいなや官軍側に寝返った幕府最後の老中・稲葉正邦も大磯に別荘を持ったらしい。

尾上菊五郎に片岡仁左衛門という歌舞伎界の大スターも別荘族だった。NHK大河ドラマで綾瀬はるかが演じて有名になった新島八重も土地だけは購入している。

また、医院と旅館を兼ねる禱龍館を、照ヶ崎海岸に建設するにあたっての出資者の顔触れにも驚く。実業界のトップ・ランナー渋沢栄一、銀行王と称ばれて安田財閥を創始する安田善次郎、明治天皇の一等侍補として信任の厚かった吉井友実、函館の五稜郭に籠もって最後まで官軍に抵抗した旧幕府海軍副総裁の榎本武揚など、こちらも名士だらけなのだ。安田は大正期に別荘を建て、大磯町民のための公園もつくっている。

他にも維新の元勲、閣僚、陸海軍の将軍、教育界や宗教界の泰斗など、枚挙に遑がない。その気になれば大磯の別荘族と関係者だけで日本を動かせただろう。

現在の大磯にて華やかな時代に思いを馳せる

かくも豊穣の地を小説家として見過ごしにはできないから、大磯を歩いてみた。

明治の日本で最も華やかな別荘地だったのが嘘のような、穏やかな町である。駅もその周辺もこじんまりとして、町を東西に貫く国道1号線沿いの商店の数も決して多くない。昭和の芸能人水泳大会で全国に名を轟かせたリゾート・ホテルも、失礼ながら、その活気は失せて久しいという印象だった。

だが、歴史の栄枯盛衰は想像力をかきたててくれる。栄えていたころの俤がないというところにこそ、ロマンはある。

拙作『天離り果つる国』の舞台となった飛騨の帰雲城と城下町も、戦国末期の大地震で跡形もなく消滅してしまい、以後は現今に至るも山奥の何もない寂しい土地のままである。その場所に立って、足下の地中深くで朽ち果てている人々に思いを馳せたからこそ、物語は滾り立ち、手前味噌を上げると『この時代小説がすごい! 2022年版』(宝島社刊)で単行本部門第1位に選んでいただいた。

右の作品では、ヒロインの姫君が城も町も自然もすべて愛していた。明治の大磯を舞台とする歴史冒険ミステリーの着想が湧いたときも、この地を心より愛する若者を主人公に据えたいと思った。

真っ先に浮かんだのは松本順だが、海水浴場開設の年には天命を知る50歳を超えていたので、主要な脇役に留めることにした。

となると、恰好の人物はひとりしかいない。吉田茂である。

再建前の吉田茂邸

再建前の吉田茂邸
(昭和37年頃/大磯町郷土資料館提供)

太平洋戦争の敗戦後、日本の再建と国際社会復帰に全身全霊を傾けた吉田茂は、昭和の宰相の代表的存在といえるが、大磯には幼少期より親しんでいる。横浜で実業家として成功した養父の健三が大磯別荘族の先駆けだったからだ。土地購入は明治17年という。茂が数え7歳の年である。この養父に伴って、夏は海、冬は山に遊んだ。

5年後に養父が急逝すると、病弱な養母の士子が療養を兼ねて大磯の別荘へ転居した。健三の存生中に現在の横浜の太田小学校から藤沢の耕餘塾へ転校していた茂も、士子の身を案じて、大磯から学舎へ通った歳月があったと察せられる。横浜-藤沢間より大磯-藤沢間のほうが東海道鉄道の乗車時間も短い。

なお、麻生和子著『父 吉田茂』によれば「父自身、自分が養子であることを十七になるまで全然知らなかった」そうだが、他の関連資料から推測すると、茂が事実を知った年齢はそれよりも若かったと思われる。こういう大事が曖昧なところも、かえって茂の少年期を描く面白さにつながる。

そして、昭和の終戦前後から逝去までの20年余り、茂は大磯の別荘を本邸として暮らしている。それほど、この土地と、邸宅から望む雄大な富士山を終生愛した。

日清戦争という最初の対外戦争に勝って帝国主義を加速させた伊藤博文首相も、滄浪閣と名付けた別荘を本邸として大磯に住んだ。最後の対外戦争に破滅的な敗北を喫した国の復興を担って、平和社会をめざした吉田茂首相とは対極にある。だが、伊藤は近代日本の、吉田は現代日本の、それぞれ幕開けを行い、愛してやまない大磯を終の住処に選んだという点で共通する。

大磯小学校の入学児童全員に貯蓄奨励のための十銭入り貯金通帳を配るなどして、地元民から「てえしょう(大将)」と親しまれた伊藤は、散歩好きだった。ひとりの学生にすぎなかった頃の茂とも、大磯町内で出会えば気軽に言葉を交わしただろう。

小説中には、弱年の茂を助けるヒーローも登場する。洋行帰りで何もかも謎めいていて、洗練された長身の美青年である。構想の初めから頭の中に颯爽と出現してくれたキャラクターなのだ。

こうして連載をスタートさせた『松籟邸の隣人』は、夏の大磯において一話ごとの異なる事件に茂と美青年が関わる過程で、様々な謎が徐々に明らかとなり、物語が重層的に展開していくという連作短篇シリーズである。

ただ、歴史的背景も実在の人物も風景も、読者はイメージしづらいのが明治物だ。多様なエンタメで繰り返し表現され続けてきた戦国物や江戸物に比して、馴染みが薄いからだろう。それだけに苦心惨憺なのだが、一方で未知の世界に挑戦する楽しさも感じている。

第一巻を、今秋中にPHP研究所より刊行予定。ひとりでも多く、シリーズ愛読者となっていただけることを願うばかりだ。

と同時に、令和2年秋の第一期開園から、順次公開をめざして整備中の明治記念大磯邸園の完工も心待ちにしている。

宮本昌孝
©宮本遼
宮本昌孝(みやもと まさたか)

1955年静岡県生まれ。時代小説家。『乱丸』で歴史時代作家クラブ賞受賞。文庫判『天離り果つる国』上下巻(PHP文芸文庫)を8月刊行。

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