Web版 有鄰

531平成26年3月4日発行

北条氏規と徳川家康との熱い関係 – 2面

下山治久

三崎城主として江戸湾の海防を担う

今度、私は『戦国大名北条氏-合戦・外交・領国支配の実像』(3月末刊)と題する本を有隣新書で書かせていただいた。そこでは北条氏の広大な分国を形成し支配するのには、北条氏一門の武将たちがいかに努力して支配体制を構築していったかを述べたつもりである。中でも第4代小田原当主北条氏政の兄弟になる北条氏照・氏邦の活躍にはとても全てを記すには無理なほど、激烈な戦闘があった。その兄弟衆の弟である北条氏規の活躍ぶりも見逃がせない顕著なものであった。ここでは徳川家康と特に親しく交流しつづけた氏規について紹介してみよう。

氏規を取りあげることには2つの理由がある。その第1は氏規が三浦半島突端の三崎城(三浦市)の城主であり、対岸の房総半島を支配した里見氏と抗争した北条氏から江戸湾(東京湾)の海上防備を任されていたため、横浜市域の神奈川や金沢の港をその勢力範囲としていたことによる。永禄9年(1566)6月に氏規は三崎城主として江戸湾に臨む金沢湊(横浜市金沢区)の船を海賊から守った山本正直を賞している。翌10年には対岸の里見方の野中修理亮に金沢・神奈川(横浜市神奈川区)で商売をすることを許可しており、氏規が江戸湾海上での交易権を掌握していたとわかる。年未詳の4月の命令書では氏規が神奈川湊の領主矢野右馬助を氏規軍の指揮官に任命している。

第2には氏規は徳川家康を通して中央政権と連絡を持っていたことである。

北条氏規は今川義元・武田信玄・北条氏康との駿甲相三国同盟の証人として若くして今川義元の駿府館(静岡市葵区)に送られていた。そこには氏規の母方の祖母である寿桂尼がいて幼少の氏規を養育してくれていた。その頃の氏規は賀永という名前で山科言継の『言継卿記』に出てくる。

家康と人質同士として出会う

この駿府館での人質生活で北条氏規はその将来を左右する人物と出会うことになる。松平元康、のちの徳川家康との出会いであった。元康も氏規同様に今川義元の人質として駿府館の城下に住んでおり、しかも氏規の屋敷の隣家であったのである。二人は何か気が合って親しく交友する仲となったという。のちのことではあるが、天正11年(1583)3月にはすでに三河・遠江国の大名になっていた家康から伊豆の韮山城(静岡県伊豆の国市)城将になった氏規へ書状を出して伊豆の近くに出陣したので、ぜひ会って少年の頃の思い出話しをしたいと記しているのである。二人は相当に親しかったとわかる。氏規は今川義元が永禄3年(1560)5月に桶狭間の合戦で討死にしたあと、人質を解かれて相模に帰国し、家康も三河に帰国していくが、二人の仲は親友同志としての間柄が続いた。

北条氏規と徳川家康が戦国大名の外交交渉の相手として出くわすのは、甲斐の武田信玄が駿甲相三国同盟を破棄して今川領の駿河に侵攻した翌年の永禄12年5月末であった。氏規が家康の側近の酒井忠次に書状を出して北条氏と徳川氏が和睦同盟して共に信玄に当ろうともちかけたのである。同盟は成就し、共に今川氏を支えて信玄と戦うことになった。

元亀元年(1570)8月中旬には武田信玄が武田勝頼・山県昌景を大将として八千人で北条氏規の韮山城に猛襲をかけ、北条勢と激戦を展開した。氏規は仲々の作戦上手であったらしい。武田勢は城下に攻め込んだだけで退却している。この間に、氏規の兼務する相模の三崎城の方はどうなっていたのであろうか。房総の里見勢が信玄と協調して動きだしたため、江戸湾を北条水軍が渡海して里見勢と戦っていた。この水軍には横浜の神奈川湊や金沢湊の人々が三崎水軍と共に出撃していた。強敵の武田・里見勢を相手に氏規も大忙しであった。

氏規を信頼し全面支援する家康

天正10年6月に織田政権が崩潰すると徳川家康は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)との敵対関係に入り、北条氏との同盟を強化していった。翌11年正月には氏規が家康の重臣の本多重次に外交交渉の謝礼として名馬を贈り、ぜひ面会して若い日の思い出話しを語りたいとの書状を出すにいたった。

この頃には氏規の仲介と思われるが、家康の娘の督姫と北条氏直との婚姻が現実化しており、天正11年8月中旬に督姫が小田原城の氏直に輿入れした。ここに家康と氏規は血縁関係になったのである。この時に家康の家臣で氏規との取次役を務めたのが朝比奈泰勝で、氏規は以後も泰勝を信頼して厚遇した。


徳川家康起請文 天正10年10月24日
神奈川県立歴史博物館蔵

家康の娘督姫が北条氏直に輿入れした前年の天正10年7月から10月に家康は甲斐の武田領の跡をめぐって氏直と一時期抗争していたが結果的に家康が勝利し、氏直と和睦することとなった。この和睦は氏規の仲介が大きくものを言って成立した。その和睦条件には甲斐・信濃両国は家康の分国とすること、家康の娘を氏直の嫁に差出すことが決められていた。ここに家康は駿河・遠江・三河の三か国と甲斐・信濃の計五か国の大大名に成長したのである。同年10月24日には家康は氏規への信頼と感謝の気持を込めて氏規に起請文を出し、今後は何事が起ころうとも氏規の進退については見放さず、家康が守り通すと神かけて誓ったと氏規の将来を保証したのである。この保証は8年後に起こる小田原合戦での北条氏の滅亡後、羽柴秀吉の家臣になった氏規の身分を保証する家康の恩返しとして生きてくるのである。そのことはのちにのべよう。

話しを元にもどすが、天正12年9月末に氏規が某に家康に会って茶の湯の作法を学び昔話をしたいと伝えた。この頃には家康は秀吉と敵対して小牧・長久手の合戦に突入する時期に当っており、氏規が家康の意を承って主君の氏直に家康への加勢を進言していたのである。この戦いは長期に及び家康も秀吉も互いに兵を引く結果となったが、北条氏はいつでも家康に加勢を送る用意をしていた。

その後、家康と秀吉は和睦し、家康は羽柴政権に参加することになるが、北条氏との同盟は持続させていた。

北条氏の滅亡後、秀吉の旗本に

天正14年3月に家康は北条氏直との同盟中でありながら羽柴秀吉の配下に入ったことの説明のために伊豆国三枚橋城(静岡県沼津市)で北条氏政に面会し、るる説明に努めた。その時には家康は莫大な贈答品を北条氏に贈っているが、氏規には三枚橋城に備蓄していた兵糧米を一万俵も贈呈し、取次役の朝比奈泰勝には千俵を贈呈している。それほどに秀吉に従属したことを後めたく思っていたのである。氏規への過分な米贈呈も心からの詫であったと思われる。

羽柴秀吉は北条氏直に家康を介して大坂城に来て臣下の礼をつくせと要求し、まずは北条氏政の兄弟衆の一人を交渉相手として寄こせといってきた。そこで天正16年6月に氏規が家康の推挙で上洛し秀吉に面会し、事なきをえた。しかし北条氏政が秀吉政権への参入に抵抗を示し、翌年には猪俣邦憲が上野国名胡桃城を攻略すると、激怒した秀吉は北条氏に宣戦布告して天正十八年四月の小田原合戦となった。皮肉なことに家康が羽柴軍の先鋒隊となって攻め来った。氏規は韮山城に籠城して6月まで防戦に努めたが降伏。北条氏は7月に降伏して滅亡、氏規は命を赦免されて高野山に追放された。その後、氏直が天正19年に死去すると氏規の息子氏盛が氏直の遺領を継ぎ、氏規は二千石を拝領して秀吉の旗本となった。文禄3年(1594)に七千石を加増され、大坂城下の久宝寺町に屋敷を与えられた。氏規は慶長5年(1600)2月8日に死去し、氏盛が跡を継いだ。その頃には天下は家康の時代に入っており、氏盛は一万一千石を拝領して徳川氏の外様大名となり、子孫は幕末に至った。

下山治久  (しもやま はるひさ)

1942年東京生まれ。津久井町史中世部会委員。
著書『横浜の戦国武士たち』有隣堂 1,000円+税。『戦国北条氏五代の盛衰』東京堂出版 3,400円+税、ほか。

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