Web版 有鄰

501平成21年8月10日発行

[座談会]横浜の外国人墓地
—山手・根岸・中華義荘・英連邦戦没者— – 2面

元横浜開港資料館 横浜都市発展記念館調査研究員・斎藤多喜夫
横浜開港資料館主任調査研究員・伊藤泉美
財団法人横浜外国人墓地マネージャー・樋口詩生

左から伊藤泉美氏・斎藤多喜夫氏・樋口詩生氏

左から伊藤泉美氏・斎藤多喜夫氏・樋口詩生氏

はじめに

山手の横浜外国人墓地

山手の横浜外国人墓地

編集部横浜には、港周辺を中心として異国情緒漂う観光名所が数多くありますが、その中でも、山手の丘の上にある横浜外国人墓地はよく知られております。

この墓地の歴史は古く、幕末に来航したペリー艦隊の水兵をこの地に埋葬したのが始まりといわれており、その後は日本の近代化に貢献した数多くの外国人が埋葬されています。

また、後年、中区仲尾台には根岸外国人墓地、同区大芝台には中国人の墓地である中華義荘、さらに保土ヶ谷区狩場町には英連邦戦没者墓地が設けられ、現在、横浜市内には4か所の外国人墓地があります。

本日は、山手の横浜外国人墓地の歴史と、埋葬されている人々のお話を中心に、中国人をはじめとする、外国と日本との埋葬文化の違いなどとともに、横浜にある外国人墓地についてご紹介いただきたいと思います。

ご出席いただきました斎藤多喜夫様は、長年、横浜開港資料館・横浜都市発展記念館の調査研究員として、横浜外国人居留地の研究をされてきました。以前、横浜開港資料館で開催された企画展示「山手外国人墓地に眠る人びと」を担当されました。

伊藤泉美様は、横浜開港資料館の主任調査研究員で、横浜中華街や華僑の歴史について研究されております。

樋口詩生様は、財団法人横浜外国人墓地のマネージャーでいらっしゃいます。

文久元年、外国人墓地の区画が正式に確定

編集部どのような経緯で横浜に外国人墓地がつくられたのでしょうか。

斎藤安政元年(1854年)、ペリーの2度目の来航の時、2月10日に横浜で日米会談が行われます。その会談の冒頭で話題になったのが、横浜沖に停泊中の、アメリカ軍艦ミシシッピ号上で亡くなったロバート・ウィリアムズという水兵の埋葬の問題でした。ウィリアムズは、横浜村の、今の元町1丁目のところにあった増徳院というお寺の境内の墓地に埋葬されることになります。それが外国人墓地のきっかけだと一般には言われています。

その後、日米和親条約によって下田が開港され、郊外の玉泉寺にアメリカ人用の墓地がつくられることになって、ウィリアムズの遺体はそちらに改葬されます。玉泉寺にはペリー艦隊の水兵らアメリカ人5人、プチャーチンのロシア艦隊で亡くなったロシア人3人のお墓もあります。

この改葬によって、横浜には外国人のお墓はいったんなくなりますけれども、開港から間もない安政6年(1859年)7月に、批准書の交換のために横浜に来ていたロシアのムラビヨフ提督の使節団の艦隊乗組員が、横浜の本町通りで攘夷派の武士に襲われ、モフェトとソコロフの2名が殺害されます。彼らがウィリアムズとほぼ同じところに埋葬されてお墓ができました。

その後、横浜で亡くなった外国人たちが次々とそのあたりに埋葬されて、やがて外国人のお墓のエリアみたいなものができ上がっていきます。それが混雑してきたのと、日本人が埋葬されているところとの区別がつきにくくなったことから、文久元年(1861年)に、正式に区画をはっきり決めて、日本人墓地を移動させ、外国人用のお墓のエリアを確定したんです。

来日する外国人が増えるにつれ墓域も広がる

編集部最初のお墓の場所は、現在のどのあたりになるんでしょうか。

樋口丘の下のほうです。墓地の敷地には高低差があって、現在は出入口が山手側と元町側と2か所ありますが、元町側の門から入ってすぐのところです。外からも見えます。そこが一番古い区画として始まっていまして、その後多少出っ張ったり、へこんだりしながら拡張して、今と大体同じ敷地の大きさとアウトラインになっていきます。

異人石塚図

異人石塚図

ただ、一番古いのは一番下の場所ですが、お墓に刻まれた没年月日などの年代を見ると、やはり丘の上のほうを好む人たちが多かったのか、特定の時代からは上から下へとおりていく形で新しいお墓がつくられるようになるという特徴があります。

斎藤来日する外国人が増えれば、亡くなる人も増えていきますから、お墓が必要になります。墓域は、元治元年(1864年)の「横浜居留地覚書」や、慶応2年(1866年)の「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」などの取り決めの節目ごとに拡大していきます。それ以降にも、明治13年(1880年)まで何度かに分けて拡張して、今の墓域が確定するんです。

それでも土地が足りないというので用意されたのが根岸の外国人墓地です。それと、もともとは中国人も一緒に埋葬されていたのが、分離独立したような形で中国人墓地である中華義荘ができる。ですから、山手の外国人墓地と根岸の外国人墓地、中華義荘はある意味では枝分かれしたようなもので、1セットで考えていいと思います。

殺傷事件の賠償として始まり、現在も地代は無償

編集部外国人殺傷事件はちょうどこのころ頻繁に起きていますね。

斎藤開港された安政6年にはロシア人士官のあと、フランス領事館で働いていた中国人が殺されたり、日本人ですが英国通辞の伝吉が殺されています。あの中国人はどうしたんでしょう。

伊藤埋葬の記録はわからないですね。

斎藤翌年の万延元年に、今度はオランダ人の船長デ・フォスとデッケルの2人が横浜の本町通りで殺害されました。彼らのお墓はロシア将兵のお墓の近くに今もあります。

この2つは一種の賠償みたいな意味もあって、日本側の幕府が相当立派なお墓をこしらえております。

編集部今残っている一番古いお墓はその二つですか。

斎藤ええ。ロシア人士官のお墓は関東大震災で壊れて、土台ぐらいしか残っていなかったんですが、今は修復されて少しきれいになっています。デ・フォスとデッケルのお墓は当時のまま残っています。

山手の外国人墓地はただ亡くなった方が埋葬されているというだけでなく、殺害された人が多いことが特徴なんです。日本の攘夷派浪人の犠牲になった外国人の埋葬が発端になっていることから、要するに外交関係を配慮して日本側がつくるという経緯がありまして、それが墓地全体の性格にも影響しているんじゃないかと思うんです。

日本政府はいまだに無償で土地を提供しています。国際親善の意を込めて、地代を一銭も取らないという伝統が続いているんだと思います。

それから、文久2年(1862年)の生麦事件の犠牲者リチャードソンや、文久3年の井戸ヶ谷事件のフランス人士官カミュ、元治元年(1864)の鎌倉事件で殺されたイギリス陸軍士官のボールドウィンとバードも、ここに埋葬されています。

幕末に多いのは駐屯軍兵士

編集部横浜の居留地社会と外国人墓地の関係はどうだったのでしょうか。

斎藤居留外国人の大半は貿易商ですが、彼らには日本に骨を埋めようという気持ちはなくて、日本で仕事をして、儲かったら故郷に錦を飾るというのが本来の生き方なんです。だから外国人墓地に埋葬されている方はそんなに多くはないんです。

特徴というと、当時は幼児の死亡率が高かったようで、子供の埋葬が意外に多い。居留外国人では、貿易商以外の人が多いんです。有名な人も何人かいます。例えば、パン屋ではイギリス人のロバート・クラークやイタリア人のデンティシ、造船所をやっていたアイルランド出身のクックなど。そういう仕事をしていた人たちが比較的多いという印象ですね。

それから航海中に海の上で亡くなった方は、寄港した港で埋葬されるので、船員も相当多いだろう。調べていて身元がよくわからない人は、そういう人が多いのではないかと思います。

時代によっても違いがあります。幕末に埋葬された人で非常に多いのは駐屯軍の兵士ですね。明治時代になると、お雇いの技師が増えてくる。

編集部駐屯軍の兵士の墓標は特徴がありますね。

斎藤英仏駐屯軍は最初は居留地防衛のためということで駐屯を始めたんですが、結局、居留地襲撃事件は起きなかった。ですから割合暇で、それをいいことに、気候が合わなかったのか香港あたりで病気になった兵士が大勢いたのを横浜に送り込んできて、一種の保養地みたいになったんです。それで亡くなった兵士が埋葬された。ですから戦死者ではないんです。

駐屯軍将兵の墓 ローマ数字のⅩが記されている英陸軍第10連隊の墓石。 『ファー・イースト』1871年8月16日号 横浜開港資料館蔵

駐屯軍将兵の墓
ローマ数字のⅩが記されている英陸軍第10連隊の墓石。
『ファー・イースト』1871年8月16日号 横浜開港資料館蔵

特にイギリスの下関記念碑がある一画の、その出張ったところのわきに回ると壁が全部墓標です。「Ⅹ」1つ記されているのが10連隊、2つが20連隊なんですが、墓標で壁ができている。おびただしい数です。

宗教を問わずユダヤ教やイスラム教のお墓も

編集部国籍とか宗教は関係なく埋葬されていたのですか。

樋口一般的には外国人の方たちのための墓地ということであって、宗教は特に問われていなかったはずです。現在あるお墓を見ると、実質的にイギリス人などが大多数を占めていた外国人居留地とともにあった墓地ですから、キリスト教の十字架のお墓が特に多く目立ちますけれども、ユダヤ教の人のお墓もあります。それから、恐らく合計で3、4か所ぐらいしかないかもしれませんが、イスラム教のお墓もあります。また日本で宗教的な面で帰化したと思われる人で、日本人とは結婚などの関わりのない例で、仏式の位牌型の墓石を建てているお墓もあります。

斎藤丘の下のほうに「ダヴィデの星」のお墓ばかり集まったエリアがあるので、ユダヤ人だけ隔離されているのかと誤解されやすいんですけれども、全然そういうことではない。それは当時のユダヤ人社会の有力者ウィトコフスキーという人が、自費で造成したんです。

それから明治30年には、市営の久保山墓地の中に回教徒墓地をつくろうという動きがあったんです。手続的にはほぼ決まりかけたのに、実現しなかった。実現したら横浜の外国人墓地は5つになっていた。ですから、イスラム教の人も山手の墓地の中に埋葬されているんです。

編集部中国人の方も最初は外国人墓地に埋葬されていたわけですね。

伊藤山手の墓地内でも一度移転しているんです。最初はイギリス人墓地の中に、はっきりと区画はされずに一緒に埋葬されていたんですが、慶応2年(1866年)に外国人墓地の一角に中国人専用の場所を貸与することになりました。当時の貞秀の「増補再刻御開港横浜之全図」を見ると、「唐墓」と書かれているところがあります。それが慶応2年ぐらいの段階で、一たん中国人専用の部分ができるんです。

「夷墓」(外国人の墓)の上に「唐墓」(中国人の墓)が描かれている。 玉蘭斎橋本謙「増補再刻御開港場横浜之全図」(部分)慶応元年(1865年)〜2年頃 神奈川県立歴史博物館蔵

「夷墓」(外国人の墓)の上に「唐墓」(中国人の墓)が描かれている。
玉蘭斎橋本謙「増補再刻御開港場横浜之全図」(部分)慶応元年(1865年)〜2年頃
神奈川県立歴史博物館蔵

ところが1867年の段階で中国人は660人いて、居留外国人の恐らく半数近くを占めていたので、亡くなる方も結構多くて、墓地がすぐ手狭になってしまうんです。それでもう一度、神奈川県に中国人専用の墓地の貸与を願い出て、移転していくことになります。

多くの宣教師やお雇い技師も

編集部埋葬されている人にはキリスト教の聖職者や宣教師も多いですね。

斎藤本来骨を埋めるつもりでは来ていない貿易商などにくらべると、宣教師たちは結構腰を据えるつもりで来日する人が多いですから、横浜で亡くなっている人が多いですね。宣教師の場合には、ミッションスクールを創設したりもするので、弟子や教え子たちが大勢いて、そういう人たちがちゃんとお守りしているので、お墓の存在はかなり知られていると思います。

メアリ・キダーの墓

メアリ・キダーの墓

フェリス女学院を創立したメアリ・キダー、校長のカイパー、横浜共立学園のピアソンとクロスビー。それから、今で言う雙葉系、カトリックのマティルドや修道女の方たちもたくさんいます。長老派教会のルーミス夫妻、改革派ではバラ夫人など。

編集部あとゴーブル夫人もそうですね。

斎藤捜真学院のカンヴァースのお墓は三ツ沢の墓地にあります。バプテスト系では女性よりも男性です。ネーサン・ブラウン、関東学院のベンネットなど。ヘボンのように長生きして故国へ帰り、横浜には埋葬されていない人もいます。

もう一つは、お雇い技師が多いです。彼らは本当に一時的な助っ人として来日するんですが、特に鉄道関係は非常にたくさん亡くなられています。JRの方々がちゃんとお守りしているから割合有名ですけれども、やっぱり激務だったんだということを思い知らされます。

居留外国人の中では、貿易商であっても日本人と結婚した人は、帰るタイミングを失ってしまったのかどうかわからないですけれども、一族がまとまって埋葬されていますね。スイス人で時計輸入商のファヴルブラントは家族みんないます。クーン&コモル商会のコモルもそうです。さきほど話に出たデンティシとか堀川通りで鉄工所を経営していたキルドイルもそうですけれど、キルドイル本人は根岸の墓地に埋葬されていて、息子さんは山手に埋葬されています。

日本の近代化につくした人のお墓の多くが無縁

編集部身元のわかっている方が多数いる一方で、無縁になってしまっているお墓もたくさんあるわけですね。

樋口縁故者に連絡がつかないお墓は非常に多くて、全体の墓所の数の8割ぐらいです。家族で1つのお墓を持っているとしたら、そこに何人か入っている。お墓に埋葬されている人の記録の件数は4,870を少し超えているんですが、新しい埋葬が現在でもありますから、この数字は基本的には増える方向で常に動いていくわけです。

埋葬の記録の通し番号がある中で、今、墓地から年に1回お知らせの手紙を出したとして、それがちゃんと届いているのは400ちょっとぐらいしかないんです。

編集部音信がつくのはそれだけですか。大変ですね。

樋口そもそも攘夷の犠牲になった人に対する賠償のような形で始まったわけですから、原則としてお墓が存続し続けるための義務的な料金とか、手続というものを継続させなければいけないということがなかった。それも連絡が途絶えがちになる理由だったのかもしれません。

ただ、身元はわかっていても、実際にはご遺族に連絡がとれずに無縁になっているお墓には、日本で初めて何かをつくった、紹介したという、文化や技術の面で日本の近代化に貢献した人のものが多いんです。それらは手続などが継続されることが義務として要求されている墓地であったら、ほとんどは今なくなっていたかもしれません。

こういう状況は墓地の運営といった現実的な面、経済的な面で重荷みたいなものになっていることは確かですけれども、そのためにお墓も残ることができた。

それが現在の山手の外国人墓地の、歴史の中における意味というか、価値につながっているんだと思います。

編集部埋葬記録はいつからのものですか。

樋口関東大震災で墓地に備わっていた書類が焼けてしまい、それ以前のものが部分的に後でみつかったりしているんですが、正確にはわからないんです。

中華義荘――明治7年に山手から分離独立

編集部中国人の墓地は山手から分離してできるんですね。

伊藤華僑社会の中でも、中華会館で募金を集めて墓地を整えようという動きが1868年ぐらいからあったんですが、明治6年(1873年)に、現在の中区大芝台、当時としてはかなり僻地の久良岐郡根岸村字大尻というところに神奈川県から土地を貸与されて専用の区画を持つというのがそもそもの起こりです。その翌年に周辺ももう少し借りて中国人墓地として独立し、中華義荘がつくられます。

編集部埋葬文化の違いなどの関係もあったんですか。

伊藤そうですね。当時の中国人にとっては、自分の故郷以外で亡くなって埋葬されるのはとても不幸なことなんです。生きて故郷に帰って、錦を飾るのが一番いいんですが、それができないと死んででも帰るということで、亡くなった遺体を送り帰すのが一般的な当時の風習です。それは横浜だけではなくて、サンフランシスコもそうですが、広東人でしたら香港、上海地方の人なら上海を中心に、全世界に運棺ネットワークがあったんです。亡くなった人の遺体を柩に入れて送り帰すというシステムができ上がっていて、横浜でも、山手に埋葬しても、あくまでも仮の埋葬で、後で掘り起こす。それが周りの西洋人から見ると奇異な風習と思われたようで、それもあって独立することになったんだと思います。

編集部一度は埋葬するんですか。

伊藤ええ。上海と広東では風習が違うのですが、埋葬して数年後に掘り起こして、洗骨して帰す場合もありますし、そのままの遺体で帰す場合もあります。広東の場合、香港に東華医院という慈善団体が運営している東華義荘というのがあって、そこに全世界から柩が集まってくるんです。そこからまた、広東省の自分の村に戻していくというシステムです。横浜でそれを管理していたのが中華会館です。

時代の変遷とともに仮の墓地から永眠する場所へ

編集部柩船が来るというのはいつごろですか。

伊藤最初、いつ来たという記録は何もないんですよ。ただ、唯一中国人墓地に関する外務省記録があって、明治期は3年から5年に一度迎えの船が来たとなっていますので、専用の船が来たんでしょうね。もしかしたらサンフランシスコからずうっと来ているのかもしれない。

西洋の人は改葬することはないんでしょうか。一度埋葬したらそのままですか。

樋口いろいろな国と宗教がありますが、その時代で言えば、一つの場所で土葬したら、それが最後の形になっていたと思います。

掘り起こしたりするのはとんでもないことだという感覚は、今でも、とくに年配の方などにはあるように見受けられますね。

伊藤それぞれの社会で持つ墓地の意味は、時代によって変わってきますよね。居留民にとって、墓地とは何なのか。横浜の華僑にとっても最初は仮の墓地だったんですが、だんだんと永眠する場所へと変わっていく。

明治、大正になると、横浜生まれの人も増えて、故郷が横浜である人にとっては、ここが永眠の場所ですから、帰葬というか、本国に帰すという習慣がだんだんなくなってきて、墓地も整備されていくわけです。

関東大震災のときは非常に多くの方が亡くなったので、故郷へ戻せないということもあったと思います。墓地台帳も、中華会館はおそらく持っていたと思うんですが、中華会館自体も関東大震災で焼けてしまったので、詳しい記録は残っていないです。

資金は、維持費を集めるという形ではなくて、中国人の社会はお金に余裕のある人が寄付をして学校なども維持しているので、中華会館も寄付によって成り立っていたと思います。戦後は、現在の中華会館が管理しています。

横浜に現存する最古の煉瓦造建築

編集部中華義荘にある地蔵王廟は古い建築ですね。

伊藤明治25年(1892)になって地蔵王廟をつくります。当時の記録を見ると、その前年に横浜に赴任した黎汝謙[れいじょけん]という領事が、墓地としては荒れていたので少し修理しようと、横浜の華僑120人ぐらいから寄付を集めるんです。今も地蔵王廟の中にその石碑があるんですが、1年ほどかけて立派な廟を建てます。

地蔵王廟

地蔵王廟

横浜に現存する煉瓦造建築としては最古で、市の有形文化財に指定されています。平成元年ころから整備して、昔は土葬でしたから一人ひとりが場所をとっていたので、それを整備して、今、無縁仏はまとめられています。

編集部瓦はジェラールですね。

伊藤そうなんです。ジェラール瓦を葺いていた。平成5年(1993年)から2年間かけて行われた改修工事で全部解体したんですが、明治のころに小菅集治監でつくられていた「桜」マークの煉瓦も使われていました。

それから、中国の建築様式で、煉瓦が崩れないための鉄の釘みたいな、ヤモリが登っているような形の、螞蝗攀[まこうはん]というものがあるんです。その螞蝗攀に地蔵王廟で気がついてから、震災前の絵葉書を見ると、中華街にある煉瓦の建物はちゃんと螞蝗攀でとめている。そういう建築的な意味も大きいですね。

編集部御本尊の地蔵王菩薩坐像は、当時の日本ではつくられていなかった脱活乾漆という技法ですね。

伊藤像が安置してある厨子と前机も非常に精緻な彫物で、つくった人の名前が書いてあるんです。許三友[きょさんゆう]という彫師で、住所が省都広州の聯興街[れんこうがい]とある。実は数年前にバンクーバーに行ったとき、そこの中華会館の祭壇でも、許三友という名前が出てきた。全く同じ人がつくっているんですね。つまり明治26年(1893年)の段階で、恐らく広東系の一番腕のよい彫師に頼んだのではないか。そういうネットワークでバンクーバーと横浜がつながっているというのがおもしろい。それで中国から運んできたのがわかるんです。

地蔵王菩薩坐像 財団法人中華会館提供

地蔵王菩薩坐像
財団法人中華会館提供

地蔵王菩薩坐像と厨子、前机も、横浜市の有形文化財に指定されています。

関東大震災で亡くなった中国人の碑が立つ

関東大震災で亡くなった中国人の記念碑 中華義荘 昭和60年(1985年)頃

関東大震災で亡くなった中国人の記念碑
中華義荘 昭和60年(1985年)頃

編集部中華義荘には、関東大震災で亡くなられた人のお墓がちょっと特徴的に残っていますね。

伊藤一番奥ですね。震災で、中華街では人口の3分の1ぐらいが亡くなりますし、また虐殺事件も起こります。主には東京ですが、横浜華僑の方も亡くなったので、その方たちの霊を慰めるために何基か碑が建っていて、毎年9月1日に供養の会をしています。

編集部地蔵王廟は震災では崩れなかった。

伊藤王廟自体は崩れなかったんです。螞蝗攀が効いたのかもしれません。

斎藤都心でなかったのもよかったんでしょうね。土地の地盤が違いますし、火災の被害もなかったでしょう。

伊藤関東大震災では、山手の外国人墓地はかなりの被害を受けていますからね。

編集部平成5年の地蔵王廟の修復事業のときにも寄付金で賄われたのですか。

伊藤そうですね。かなりの寄付と、あと横浜市のほうからも出ているんだと思うんです。本当に大規模で何年もかけてやっていました。

根岸外国人墓地――疫病対策が発端

編集部根岸の外国人墓地は、山手が手狭になってつくられたということですか。

斎藤基本的には疫病対策のほうが最初は大きかった。当時は土葬でしたから伝染病で亡くなった人のためなんです。病院だと、伝染病院のことを避病院と言いますけど、言ってみれば避墓地みたいな形で別に必要になったというのが発端なんです。

それで、明治13年(1880年)に土地は既に確保されていたんですが、山手のほうで下水が完備したり、火葬が普及したりして、衛生状態が改善されていったために、すぐには利用されなかったんです。

もう一つ、日本側の法律がいろいろあって、管理方法がなかなか決まらなかった。結局、共同墓地は基本的に地方自治体が管理をするということで根岸は横浜市が管理することが確定して、やっと利用が始まったんです。それが明治35年(1902年)ですから、10数年間ほうっておかれたことになります。

山手のほうは条約改正のときに「旧慣を重んじる」という言い方をしていますね。現状は大きく変えないということで、かなり例外的な措置として従来の管理方法を踏襲することにした。ただし、管理委員会を財団法人化することで、一応日本側の法制に合わせたんですね。だから、日本の法律から言うと市営にするのが普通なんだけれども、これは特別な扱いということです。中華義荘も市営じゃないんですね。

伊藤財団法人が管理しています。

斎藤それも旧慣を重んじたんでしょうね。恐らく山手と同じだと思うんです。要するに今あるシステムは急には変えない。

日本では、納骨堂は宗教法人でなければやってはいけないんだけれども、中華義荘の場合、中華会館は財団法人ですから、日本の法律に照らすと本当はおかしいんですよ。でもそこは一種の「旧慣を重んじる」という例外的な措置なんでしょうね。山手の外国人墓地のほうは今、納骨堂はないでしょう。

樋口ないですね。

斎藤今から納骨堂をつくろうとすると、財団法人だからつくってはいけないと言われるらしいです。中華義荘は先につくってあった。

伊藤法律ができる前につくっていました。

近所の住人や震災の犠牲者が埋葬された

震災の犠牲者を埋葬する一団 根岸外国人墓地 『古き横浜の壊滅』 O.M.プール氏提供

震災の犠牲者を埋葬する一団
根岸外国人墓地
『古き横浜の壊滅』 O.M.プール氏提供

斎藤根岸の墓地に埋葬されている方はたまたま近所に住んでいた人が多いですね。居留地時代でも奥さんが日本人の外国人は居留地外に住んでいましたし、土地が利用されるようになってからすぐに条約改正になりますね。ですから、たまたま根岸に住んでいた人が埋葬されている。鉄工所をやっていたキルドイルがそうですね。

それからイギリス人のオーストンという貿易商は、ヨットマンで海洋生物の研究家でもあった人ですが、竹之丸に住んでいたんです。そういう方が埋葬されているという特徴が一つあります。

もう一つは、関東大震災で亡くなった多くの方が根岸に埋葬された。墓地の中に横浜市が建てた「外国人震災慰霊碑」があります。

編集部O・M・プールの『古き横浜の壊滅』の中に、そのときの埋葬の写真がありますね。

斎藤震災の犠牲者を全部は山手に埋葬できなくて、土地がある根岸に埋葬したんでしょう。その後も、昭和17年(1942年)に、横浜港に停泊中のドイツの軍艦が爆発したウッカーマルク号事件の犠牲者ですとか、まとまった数の死者が出ると根岸に埋葬する傾向があるようです。第二次大戦後の米軍占領下で生まれた混血児たちも埋葬されています。

伊藤山崎洋子さんが『天使はブルースを歌う』に書かれていますね。

斎藤山手の墓地でも幼くして亡くなった人は、わざと墓石(オベリスク)を折ったような形のものがあって、それも大きさはまちまちなんです。恐らく幼ければ幼いほど小さいんですかね。根岸のほうにもいかにも子供のという感じのものがまとまっているところがあります。

あそこは一応横浜市の健康福祉局が管理していますが、すぐそばにある仲尾台中学校の生徒が一生懸命お世話しているようですね。

第二次世界大戦の賠償としてつくられた英連邦戦没者墓地

英連邦戦没者墓地

英連邦戦没者墓地

編集部横浜にはもう1つ外国人墓地がありますね。

斎藤保土ヶ谷区にある英連邦戦没者墓地です。これは、第二次世界大戦のときの賠償金を、お金で払うかわりに、英連邦の戦死者のためのお墓を日本政府が用意したようなもので、昭和21年(1946年)に設置されました。日本にある外国人墓地としては最も新しいものです。現在でも日本政府が管理して整備もしています。

編集部墓地には捕虜だった方も埋葬されている。

斎藤ええ。タイやビルマなどの戦地で日本軍の捕虜になって、日本各地の収容所に送られて亡くなった人たちですね。イギリスをはじめ当時の英連邦の国々、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、インド、パキスタンの他、アメリカ、オランダの戦没者も埋葬されています。性格的には他の外国人墓地とは違いますね。

その後、朝鮮戦争やベトナム戦争で亡くなったイギリス人兵士も埋葬されているようですが、こちらは今後の埋葬が増えることは余りないと思うんです。

以前、横浜開港資料館で外国人墓地の特別展をやったときに横浜の外国人墓地を全部回りましたが、一番きれいに整備されているのが英連邦戦没者墓地でした。これは政府が年々ちゃんと予算をとっているので、草刈りをしている人の数が一番多い。

埋葬されている人の出身国ごとのまとまりで区分けされていて、公園のように美しいですね。

墓地の歴史と埋葬者を紹介する資料館

横浜外国人墓地の山手側の門と横浜外国人墓地資料館

横浜外国人墓地の山手側の門と
横浜外国人墓地資料館

編集部山手の外国人墓地には、平成6年に資料館ができましたね。

樋口それ以前にあった事務所が、非常に傷んで古くなって、危険を伴う状態になっていたので、建て替えることになったんです。その費用を考えたときに、当時の管理委員会は財団法人でしたけれども、墓地を管理する組織としてそれを十分に行える資金力は持ち合わせていませんでした。

それで、県や市、一般の市民の方たちからの寄付とか、助成金、補助金などといった形での協力も求めた上での建て替えを考えたわけです。

その際にそのような周りからの支援を得ながら行う計画であると踏まえた上で、墓地の歴史などを紹介する、そういったものを皆さんに見ていただく場所を備えたものにつくり替えることになったわけです。

資料館は入場無料で、月曜日以外は自由に入って観ていただけるという形で開館しています。正確な集計ではないんですが、去年は、大体年間に4万から5万人ぐらいの人にご覧いただいているようです。年間を通して土日と祝日には墓地の公開も行っています。

展示は、墓地が形成された経緯や歴史と、埋葬されている中から選んだ何人かの代表的な人たちの事績を紹介するという形で、たとえば、日本で初めて何をした人とか、日本に何を持ち込んだ人とか、特に江戸時代の末から明治・大正にかけて、日本のいろいろな方面にかかわりが深かった外国人たちのことを紹介する内容になっています。斎藤先生にも大変お世話になりました。

斎藤それまではどうしてもお雇い外国人と宣教師にばかり光が当てられていたんです。あとはワーグマンやコープランドのような、墓前祭が行われている有名な人たちでした。

ウィリアム・コープランドの墓

ウィリアム・コープランドの墓

それで、もう少し範囲を広くして、商人、貿易商人というコーナーをつくりました。そのほか居留地の公共の仕事に活躍した人とか、その中にスポーツ団体など、今まで余り知られていなかった人たちにも光を当てました。

また苦労したのは、ここは展望台を兼ねているので、日がさんさんと入り込んでくるんです。そういう場所で展示をするのは、本当は矛盾している。意に反したことをやらなければいけないので、いろいろと工夫をしたりしたのですが、やはり、特にカラー写真が色あせてしまっているんです。そろそろ献金を呼びかけて、リニューアルしたほうがいいと思います。

「ブルック」など外国人の表記を改める

斎藤展示でもう一つ注意したことは、墓地の性格上、全部英文で表記しましょうということで、ネイティヴの方とディスカッションを何度も重ねました。

その中で一つ、特にこだわったのは、外国人の呼び名なんです。明白におかしい人についてはこの際改めましょうということになりました。

たとえば、昔は「ブルーク松」と言っていた、山手のお墓のわきにある、今はすごく大きくなったヒマラヤ杉があります。ブルークというのは「ジャパン・ヘラルド」の社主であり編集者でもあった人の名前なんです。あれは絶対ブルークとは読まない。それで「ブルーク」でなく「ブルック」と表記したんです。これは割合普及しまして、今では「ブルック」が浸透しています。

ポトマック河畔に日本の桜を移植したアメリカ人女性のシドモア。シドモアとして知られていますが、本当は「スキッドモア」じゃないかということで、そう表記したんですが、こちらはだめでした。「ウォーターズ」が「ウォートルス」、「コンダー」が「コンドル」というような、定着している人は直らないですね。残念でした。

樋口一般公開のときに配っている案内図では、「スキッドモア(シドモア)」と、両方を表記しています。

横浜に生きた外国人の息吹が感じられる場所

編集部今年は横浜開港150年で、外国人墓地もほぼ同じ歴史があるわけですね。

樋口横浜が今の横浜らしい特色を持つようになったのは、幕末のころからの歴史が大きく影響していると思うんです。たくさんの人たちが横浜にやってきて、野心を持って、あるいは期せずして何かのかかわりや功績、影響をこの街に残した。

横浜の特色や歴史というものを考えるとき、記録資料などでそれらの人たちが残したこと、やったことを知ることのほかに、彼らが埋葬されている墓地というのは、また違う意味を持っていると思うんです。

これは私の個人的な感覚なんですけれども、そこに並んでいる墓石があって、特に、土葬が主流だったような初期の時代には、たくさんの人たちの遺体が、そこに直に埋葬されていったわけですね。

そういうことに多少想像力をめぐらしてみると、墓地というのは、そういった人たちが残した記録や今に伝わっている仕事の成果といったことだけではなくて、彼らが実際にここに生きていたといいますか、横浜という街で、泣いたり笑ったり、息をしたり、寝たりとか、生身の人間として存在していたんだということの実感が得られる場所でもあると思います。

華僑にとってどれだけ横浜が故郷になったか

伊藤横浜という街は決して日本人だけがつくってきたわけではなくて、今回お名前が出た有名な人も、無名な人も含めて、いろんな人がつくってきたわけです。中国人墓地にも本当に大勢の中国の方が埋葬されているんですが、そういう人たちを顕彰するという意味でも、外国人墓地をもう一度見つめ直すのは大切なことだと思います。

中国系の移民の横浜への定着度を見ていくと、埋葬される方の変化によって違ってくるところがあるんです。横浜開港資料館では、この夏に特別展「横浜中華街150年」を開催します。副題が「落地生根[せいこん]の歳月」と言います。落地は地に落ちて根を生やす。華僑が、故郷以外の地で定着していく様をあらわす言葉です。移民社会にとって、どれだけ横浜が故郷になったかをはかる上で、墓地とか埋葬という問題はかなり大切なものだと思います。

斎藤会期はいつですか。

伊藤7月29日から10月25日までです。「落地生根」の一方には、「落葉帰根」という、故郷に錦を飾るために帰ってしまうという言葉があるんですけれど、そうではなくて横浜の土地で次の世代を育む。150年の間に華僑の人となったという意味でも、墓地は象徴的な存在だと思っています。

お盆に十字架のお墓にお参りする人も

伊藤日本には、お盆にお墓参りをする習慣がありますね。中国では4月5日の「清明節」という年中行事になっているものがあって、中華義荘にもたくさんの人がお参りに行くんですが、欧米系の人たちにはそういうことはあるんでしょうか。山手の外国人墓地ではいかがですか。

キリスト教の方が多いと思いますけれども、何月何日にみんなでそろって行くというような風習はないように思うんです。形としての墓地はきちんとしていないといけないというのはあるのかもしれないけれども、この日に一族そろってとか、祖先崇拝ということとは違いますよね。

樋口お墓参りをするタイミングとして、山手の墓地で多く見かけるのは、亡くなった方の誕生日と命日、それからクリスマスとイースターですね。あとは宗教的には全くつながりがないにもかかわらず、お盆に、十字架のお墓にお参りをされる方もあるんです。日本でのお盆の意味などは余り気にしていなくて、一般的なお墓参りのシーズンであるという意識なのかもしれません。

編集部山手の墓地では、年間を通して墓前祭みたいなものがありますね。

樋口墓地で主催する行事とは違うんですけれども、お参りをされる方たちがそういった行事を行うことはいくつかあります。日本で最初期のビール醸造所の一つをつくったコープランドや、落語家になったブラック、鉄道技師のモレルの時にはJRの方が墓参されます。命日よりも鉄道記念日のほうを基準にしてお参りに来られるようですね。あとは先ほど話が出た、紀行作家で『日本・人力車旅情』の著者のスキッドモア(シドモア)とか、『ジャパン・パンチ』を創刊した画家のワーグマンとかですね。

居留地時代を今に伝える外国人墓地

樋口横浜に外国人居留地があった時代のことを伝える場所とか、物というものは、長い年月の間にダメージを受けたり、いろいろ変容してきてはいますけれども、外国人墓地のように一定以上の規模を持って今も残り続けている場所というのは、決して多くはないと思います。

山手の横浜外国人墓地

山手の横浜外国人墓地

山手の外国人墓地の場合、管理にも限界があるものですから、常にオープンに、誰でも自由に入っていただけるように開放することは、いまだかなわないでいます。公開する機会は今日では限られていますけれども、そういった中で、横浜の歴史形成にかかわった人たちが、生きていた人としてそこにいたということの実感が得られる場所として、特に今年は、開港150周年という区切りになる年でもありますので、多くの人に、見て感じ取るという機会を持っていただけたらうれしいと思っています。

斎藤墓地として150周年記念事業として何かやるというのは、どうでしょうね。最初に建てられたロシア人士官のお墓などをみんなでお参りするとか。近くにはデ・フォスたちやリチャードソンのお墓があるでしょう。途中にカミュのお墓もある。この機会にみんなでお参りしてみてはどうでしょう。

外国人墓地資料館もリニューアルの時期にそろそろ来ているので、ここでもう一回、外国人墓地の存在をアピールしたいと思います。

編集部この時期に皆で顧みるということですね。きょうはどうもありがとうございました。

斎藤多喜夫 (さいとう たきお)

1947年横浜生まれ。
著書『幕末明治 横浜写真館物語』 吉川弘文館 1,700円+税、『東京横浜今昔』 学習研究社 743円+税、ほか。

伊藤泉美 (いとう いずみ)

1962年横浜生まれ。
共著『開国日本と横浜中華街』 大修館書店 1,700円+税、ほか。

樋口詩生 (ひぐち しせい)

1962年吹田市生まれ。

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