Web版 有鄰

482平成20年1月1日発行

[座談会]『吾妻鏡』の謎をさぐる – 2面

放送大学教授・東京大学名誉教授・五味文彦
作家・高橋直樹
神奈川県立金沢文庫主任学芸員・永井 晋

左から、高橋直樹氏・五味文彦氏・永井晋氏

左から、高橋直樹氏・五味文彦氏・永井 晋氏

はじめに

編集部源氏3代、あるいは中世の鎌倉を知る上でまず第1に挙げられる基本史料は、『吾妻鏡[あずまかがみ]』であると申し上げても異論はないと思います。ところが『吾妻鏡』の原文は、和風漢文で記されているために読みにくく、近づきがたいものでした。

昨年10月末、『現代語訳吾妻鏡』全16巻の刊行が、吉川弘文館の創業150周年を記念して開始されました。誰でも読めるように編集されたこの現代語訳は、鎌倉時代の出来事をじかに理解したいという読者の要望をかなえると同時に、最新の研究成果も盛り込まれているとうかがっております。

本日は、『吾妻鏡』はいつ、どこで、誰が、何の目的で編纂したのかといった、いくつかの謎について、また現代語訳の編纂に際しての苦心談などもご紹介いただければと思います。

ご出席いただきました五味文彦先生は、今回の『現代語訳吾妻鏡』の編者のお1人で、ご著書『吾妻鏡の方法』では、『吾妻鏡』の編纂に使われた原史料や武家政権誕生の秘密などを明らかにしていらっしゃいます。

高橋直樹さんは『霊鬼頼朝』『鎌倉擾乱』など、鎌倉時代をテーマに作品を発表していらっしゃいます。また『吾妻鏡』と関係が深い『曾我物語』を題材にした『天皇の刺客』も書かれております。

永井晋さんは、日本中世史がご専攻で、ご著書の『鎌倉幕府の転換点—『吾妻鏡』を読みなおす』で、鎌倉幕府の政治的事件を、『吾妻鏡』を読み込みながら再検討していらっしゃいます。

頼朝挙兵から宗尊親王追放までの87年間の記録

編集部まず『吾妻鏡』とはどんな本なのでしょうか。

五味『吾妻鏡』は、簡単に言えば、鎌倉幕府の歴史を描いた歴史書です。治承4年(1180年)に頼朝が挙兵して鎌倉幕府が形成され、文永3年(1266年)に将軍として招いた宗尊[むねたか]親王を京都に追い出して終わるまでを描いているわけですが、その87年間にわたる事績を将軍の代ごとに記録した将軍年代記です。

最初から、文永3年で終わることを考えていたのか、その後まで続くものだったのか、はっきりしておりませんが、恐らく未完であったと考えられています。日記の形をとりながら、年代順に和風漢文で記されています。

律令国家では『日本書紀』に始まる歴史書である「六国史[りっこくし]」を、基本的には国が編んできた。これは中国の例にならったものですけれども、やがて古代国家が衰退して、国の手ではやらなくなった。

では、どういう形で歴史を知っていたかというと、いろいろな貴族の日記などを読みながら、あるいは、私的に編まれた歴史書がつくられてきたんですけれども、鎌倉幕府が生まれると、鎌倉幕府は自らの立場、政権なりを考えるに当たって、公的な歴史と言うとちょっと問題もあるんですが、歴史を探ることになり、幕府関係者の手によって『吾妻鏡』が編まれたと考えられています。

鎌倉幕府、あるいは鎌倉時代の歴史を知るためにはどうしても欠くべからざる史料になっていると考えています。

以仁王の令旨と頼朝、時政の結びつきに象徴される編集意図

編集部『吾妻鏡』は、どういう意図で編纂されたのでしょうか。

五味編纂の意図については、序文があるわけではないので、『吾妻鏡』のなかには書かれてはいませんから、全体の構成から眺めて考えざるを得ないんです。そうしますと、以仁王[もちひとおう]の令旨[りょうじ]が都で出されて、それを伊豆にいた頼朝と北条時政が披[ひら]いた。令旨に象徴される朝廷の権威、頼朝という武士の長者、時政に代表される東国武士団の結びつきから『吾妻鏡』が始まっている。そこに、かなり象徴的な意味を持たせているのではないか。この3つの動きから幕府の歴史を描こうとした、と考えています。

鎌倉幕府はある程度成熟してきたけれど、どこか先が見えない状況となってきた。歴史を考えるのは大体、時代状況が悪くなってくるときなんですね。したがって、「かつての時代はこんなに素晴らしかった」という意味ももちろんありますが、歴史を振り返りながら、今後、幕府をどういうふうにやっていくのか、もう1度考えてみようという反省材料にする意味合いもあったのではないかと考えています。

巻によって性格が随分異なるので、これは1人ではなくて、かなりいろいろな人が分担してつくっている。それから材料がかなり限られてくるというところから、性格もかなり複雑な面を持っていると思います。

一筋縄ではいかない対決するようなもの

編集部高橋さんは作家として、『吾妻鏡』のどんなところに、興味や関心を持たれましたか。

高橋鎌倉物を書く上で『吾妻鏡』はどうしても外せないものですね。私は新人物往来社の口語訳『全譯吾妻鏡』を使ったんですが、それでもなかなか苦労するところがありました。現代語訳がもう少し早く出ていれば助かったのにというのが、本当に正直なところです。(笑)

私の場合は、題材を見つけるとか、自分にとってピンとくるところを見ているので、多分、学問とはかけ離れたことをやっているのではないかと思います。

例えば、貞応2年(1223年)に鎌倉で下女に3つ子が産まれたという記事があります。3つ子が産まれるとおめでたいということで、幕府から衣服や食料は全部支給されると聞いたときに、ポンと1つ案が浮かんだりとか、そういう本筋とは違うところを見ているんです。本筋については、すぐにストレートには入れないところがある。『吾妻鏡』は一筋縄ではいかないところがかなりありますね。

高橋直樹:著 『天皇の刺客』・表紙

高橋直樹:著 『天皇の刺客』
文藝春秋

例えば、『天皇の刺客』を書いたときに、私がひっかかったのは、建久4年(1193年)に甲斐源氏の安田義資が大倉御所の官女に艶書を送り梟首[きょうしゅ]されたという記事です。要するに女官に付け文をして殺された。でも、普通に考えると、それはないわけですから、恐らく裏を察せよということだと思うんです。

しかし、裏を察せよと言われても、一体何を言っているのか、すぐにはわからない。それが、たまたま何か別のことを調べているときに、これはつながりがあるんじゃないかということが出てくる。普通の人にはなかなか手ごわい史料だと思うんです。

『平家物語』や『太平記』は、読んで素直におもしろい部分が少ないわけではありませんが、『吾妻鏡』はただ読んで楽しいというものではない。鎌倉時代が好きな人が対決するようなものかなと思うんです。ただ、現代語訳が出ると、間違いなく対決しやすくなると思います。

鎌倉の場合古文書はあるが日記は少ない

編集部永井さんは、『吾妻鏡』についてどんな印象をお持ちですか。

永井鎌倉の史料というのは、古文書はあるけれども、日記が少ないんです。京都の場合は、何かあったとき、そこに至る経過を日記で追っていけるんですけれども、鎌倉の場合は日記が少ないものですから、事件の始まりから結末までの流れを『吾妻鏡』で1回組み立ててみて、それでほかの資料と突き合わせてみるという作業が要るので、まず読んでおかないと、というところです。

ただ、『吾妻鏡』は京都の貴族や僧侶の日記のように、当事者がそのときに書き残したものがそのままあるというものではないし、『吾妻鏡』は基本的には鎌倉幕府の公式見解であって、編纂者の手が入り過ぎているという違いがあるので、そこはちょっと難しいところではあるんです。

高橋先生の小説は、鎌倉時代の考えに1回戻って、その上で組み立てられているところがありますが、単に鎌倉時代を舞台にしてという作品も多いですね。

そういう中で、『吾妻鏡』が多くの人が読めるようになることは、鎌倉時代が遠い時代ではなくなるという意味で、非常にいいことだと思いますし、裾野が広がるという点でもいいのかなと思います。

編纂が進んだものとストップしたものと進行段階に違い

編集部『吾妻鏡』は、どういうふうにつくられていったのか、五味先生、いかがでしょうか。

五味私はいろいろ書いていますので、永井さんのお考えをちょっとお聞きしたい。

永井第1印象として、精粗が激しいというか、その落差が相当激しいんですね。

私自身の考え方として、これは多分、編集途中で終わってしまったような本ではないのかなという気がしているんです。1番姿が近いのが、藤原信西[しんぜい]が書いた未完の歴史書『本朝世紀』なのではないかと思います。

その意味では、2代将軍頼家と3代将軍実朝の代の記述は、内容の緻密さはともかく文章としては短く詰まって、練り上げられている。ところが一方では、宗尊親王のところのように綱文に史料をつけただけという状態のところもあります。

これは考え方ですが、編纂が最後まで進んだものと途中でストップしてしまったものと、かなり進行段階で違うのかなという気がする。多分、冒頭の部分から書き始めているんじゃないだろうという気がするんです。

五味こういうことを言うと、怒られるかもしれませんが、東大の史料編纂所では、1901年から『大日本史料』が編纂されていて、今でも編集、刊行中です。これは「六国史」以後から明治維新までの編年史の史料集ですが、それぞれの担当者ごとにやっているんですけれども、さっと終わっている編もあれば、緻密にやっていて、まだ終わっていない編もある。『吾妻鏡』にもそういう違いがあるでしょう。

ただ、永井さんがおっしゃったように、宗尊親王の部分は記録類をそのまま張りつけたようであり、逆に言うと、あれは稿本であって、もう1度練り直して考えようとしたのかもしれません。そこのあたりはよくわからないところなんです。

重要な時期が欠けているのは編纂者の力の違いか

編集部建久年間の終わりの3年間が欠けていたり、頼朝が亡くなった記事もありませんね。

五味私は、担当者がそこまでやらなかったと考えたわけです。もちろん、いろんなことが考えられるとは思いますけどね。

高橋何か肝心なところが抜けているという感じがありますね。

五味それが肝心かどうかは見方にもよります。たとえば、実朝が殺害されるところはきっちり書いてあります。それなりに重要な部分は記していますけれども、もうちょっと知りたいというところがないのも事実です。

それに頼朝記のところは、概して物語性のあるような叙述があり、地の部分に中国のいろいろな故事も入れてみたりしながらつくってはいますね。

編集部記事が欠けていることをめぐっては、いろいろな考え方があるようですが。

五味私の先生の石井進先生は、寿永2年の記事が養和元年に入っていることなど、錯簡[さっかん]している部分を指摘されています。それと、頼朝の非常に重要な時期とか、弘長年間の重大な時期とか、そこのあたりが欠けているところに注目され、ここには北条氏によるある種の作為があって、執権政治を護持する立場から編纂者への要請があったために書けなかったのではないかともおっしゃっています。

けれども、私は単に編纂者の力とか、そういう違いではないかと思ったのです。

『吾妻鏡』と『曾我物語』は実録と語りの関係

編集部五味先生は、律令国家の『日本書紀』と『古事記』が実録と語りの関係で示されるのと同様に、『吾妻鏡』と『曾我物語』も、同じ歴史の構図で描かれているとおっしゃっています。

一般に『曾我物語』は、頼朝の富士の巻狩のとき、2人の兄弟が父の仇である工藤祐経を討った事件を描いたものとされていますが、高橋さんは頼朝殺害を目的としたものとして『天皇の刺客』を書かれましたね。

高橋私の場合は、あくまでも私にとっての興味とか関心とかというところでしか申し上げられないんです。ですから『曾我物語』が『吾妻鏡』からどれだけ影響を受けたかというのは私には言えないんですが、『曾我物語』は語り物ですから、恐らく市に集まってきたご婦人方に喜ばれるために、変質していったとは思うんです。私が、どうしても見るのは、そのすき間に埋もれているような曾我兄弟の息吹みたいものとか、小さなエピソードみたいなものを探っていくところに、私にとっての史料のよさとか、ありがたみ、うれしさみたいなものがございます。

だから、全体としての統一性がとれていない、矛盾があるからだめとかいうのではなくて、そういうものを見つけるのがすごく大事な作業で、例えば曾我十郎の、仕官をするからちょっと着物を貸してくれと借りてそのまま返さないとか、ちんぴらくさいといいますか、そういうエピソードにリアリティーを感じるわけで、そういうものを見つけながら人物像を描いていくという形です。私にとっての史料の利用の仕方は、あくまでそういう形なんです。

思わせぶりな曾我兄弟の兄「京ノ小次郎」の記事

高橋『吾妻鏡』の建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ち事件に関する記事は、編纂者がどういうつもりで書いたのかすごく悩むんです。意図が統一されていないというか、わからないところが随所にあって、突然、兄十郎の恋人の虎御前が出てきたかと思うと、思わせぶりに、彼の父違いの兄の小次郎が範頼に縁座して殺されるところは、「曾我十郎祐成の一腹の兄弟京ノ小次郎」とさりげなく書かれていたりする。

編集部小次郎のことは、『吾妻鏡』にはわずか1行出てくるだけですね。

高橋この事件は、当時の説話というか、恐らく今で言うワイドショーみたいな感じで、一時期、相当騒がれたという気はするんです。その辺のネタがポンと入っていたりして、ヒントを与えるつもりなのかそれでごまかそうとしているのか、よくわかりません。

さきほど申し上げた安田義資の誅殺の記事、あるいは頼朝の弟の範頼の記事も、どういう意図で書いたのかというので結構苦しみました。

範頼の殺害も、ごまかしたいのかどうなのか、『吾妻鏡』は、はっきり書いていないんです。安田親子とか一条忠頼も、殺された理由は書いていないんですけれども、私は絶対理由がないはずはないと思うんです。頼朝の立場から見て、理由もなしに粛清なんかやったらえらいことになる。それを書かない理由はあったんでしょうけど、何か方向性がはっきりしてくると、もう少し推理もしやすいのにと私は思います。

仇討ちの背後には伊豆国内の北条と工藤の勢力争いも

永井私は、頼朝挙兵以来引きずっていた伊豆国の中の問題が噴出したのかなという気がするんです。

というのは、『曾我物語』は工藤一族の物語なんです。頼朝挙兵以前に源頼政の家人として伊豆国を治めていた工藤介茂光[もちみつ]と、頼朝を婿に迎えた北条氏という2つの勢力が頼朝挙兵に入ってくるわけですが、石橋山の合戦で工藤介茂光の一族は家の中枢が討たれ、頼朝は、その子供の狩野介[かのうのすけ]宗茂に全部それを安堵[あんど]してしまう。つまり頼朝挙兵のときの工藤と北条と頼朝の関係がそのまま続いているんです。兄弟の仇討ちの背後には、北条と工藤の伊豆国内の勢力争いという問題がありそうですし、それが曾我兄弟の事件で清算されたんじゃないのか。

この事件は源範頼に波及しますが、『吾妻鏡』では範頼の言っていることが正しいと、彼の右筆[ゆうひつ]の中原重能[しげよし]が頼朝に対してきつく言っていて、その文章がそのまま載ってしまう。そのあたりを見ると、範頼誅殺は無理があったんじゃないかと考えたくなります。

それから『吾妻鏡』には書いていないんですが、範頼は高倉家を通じて後鳥羽天皇とつながっていますので、そういう意味で、頼朝にとって、義経同様やっかいな面があったわけです。範頼にはそれを知っていて避ける、ある意味での賢さみたいなものがあるので、義経のような暴走をしないということもあります。頼朝と範頼との間にあるいろいろな矛盾もあそこで噴出しているけれども、ただ、対外的には曾我兄弟の仇討ちという形で処理されているというような、かなり無理のある枠組みをはめた事件なんじゃないのかなと思いますね。

東国武士のメンタリティーが浮かび上がる

五味『吾妻鏡』は、一元的にこうだということで書かれているわけではないから、ある意味で生の史料がそのまま出てしまったりしている。そこにおもしろさが結構あるんですね。

例えば北条だったら「北条殿」とか敬語を使っているから、北条の主観だけで書かれているかというとそうではなくて、そう書いていても、どこかいろいろな史料がそのまま出てきてしまっている。

編集部破綻があったり、ということですね。

五味そうそう。どちらかというと日本人の思考の特徴かな。あんまりきっちり書くタイプではない。書いているのは幕府の奉行人と考えられますが、徹底的に史料を収集し、調査して書くタイプではない。概して言うと、『吾妻鏡』には、さまざまなものがかなり生のまま載っている部分があって、曾我事件のあたりもあまりよくまとまってはいないですね。

永井さんがおっしゃるように、伊豆にいたとき、頼朝は伊東祐親のほうから北条側に移ったわけです。ですからそこには、武士間の対立の問題が脈々と残っていて、『吾妻鏡』の中で簡単に書かれていても、その背後にはそれぞれの武士団の持っているいろんなものがある。それが時々変な形で、ふと『吾妻鏡』の中に出てきたりするわけです。それをさらに読み解いていくと、その背後にある東国の武士が持っているメンタリティーみたいなものとかが浮かび上がってくるように思う。そういう意味では非常にいい史料になるということですね。

「王殺し」は新しい秩序をつくるのに不可欠

編集部曾我兄弟の仇討ちが、実際は頼朝を殺そうとしたクーデターであったという考え方がありますが、五味先生は鎌倉の王権を象徴的に「王殺し」としてとらえ、『曾我物語』もそのモチーフで貫かれていると言っておられますね。

五味難しいんですが、ただ、基本的には王というのはある種の秩序を代表するものです。その秩序にかえて、新しい秩序をどうつくっていくかということになれば、それは自然に、その秩序の中心になるものを退けなければいけない。それがいわば王殺しということで、これは洋の東西を問わず言えることであって、今で言えば、選挙制度という合理的な形になっている。

だから、「王」であるというのは、かなりつらいものがある。自分を中心にみんなが集まってきたけれど、そのうち世事がうまくいかなくなれば、排斥されざるを得ない。

だから、『曾我物語』にもそういう意味合いがあったかもしれない、と考えたわけです。さらに、民俗的なものから分析していけば、もっと明解な答えが出てくるかもしれない。

しかし、事実がどうなのかという点になると、そのあたりの問題が難しいことにはなるでしょうし、それぞれが何を考えていたのかとなると、個々の意図や、全体の流れはまたちょっと違います。主君を殺害するのはけしからんという人間もいるでしょう。しかし全体としては、殺害されたら、それはやむを得ないというふうに考えることになっていきました。秩序と暴力が絶えない限りは、王殺しみたいな問題は、常にあるんじゃないかなと思いますね。

頼朝は右大将、弟の範頼とは大きな落差

源範頼画像 鎌倉国宝館蔵

源範頼画像鎌倉国宝館蔵

高橋範頼は頼朝に不満を持っていなかったのかというのを、私はすごく思うんですよ。範頼は三河守から官位が上がっていませんね。

五味ええ。

高橋頼朝は自分1人だけ右大将にまでなっている。一門ということを考えたら、間がすぽんとあいているというか、随分すごい差をつけられています。平家にならっているならば、恐らく頼朝は範頼を一門とはみなしていないという形になりますね。

平家の昇進のスピードになぞらえるならば、清盛は統帥[とうすい]の立場まで行っていますけれども、範頼は、一ノ谷の合戦に勝利した功で三河守に任じられたままで、侍大将扱いになっている。そのあたりをどうお考えになっているのか、伺ってみたい気がします。

五味平家は結局、清盛がいなくなったらつぶれちゃうわけですね。だから、一門の結びつきでもって果たして武家が形成されていけるのか。一門では、兄弟にはそれぞれ家人がいるので分裂し、結局うまくいかないだろう。恐らく頼朝はそう思ったと思いますよ。だから兄弟はだめだ。もう自分中心であると。

一門の存在は、それなりには認める。何かあったときには義経にしても認める。しかし、ほうっておけば朝廷とくっついて覆されてしまうわけですから。そういうことを考えていくと、やはり源氏一門の体制というよりは、将軍と御家人との主従関係、そこを基軸にきちんとやっていこうと思ったんじゃないですか。だから、冷たいかもしれないけれども、基本的には兄弟はいずれは滅ぼされるということになるから、反乱を起こすしかなかったと思うんですけどね。

京都で、武家が貴族の一員として一緒に政治を進めていく限りは、一門がいないとだめでしょうけれども、関東にいて何かやろうとしたときには、平家みたいな体制はとれなかったと思います。

実朝の記述に感じられる編纂者の温かい目

編集部実朝殺害の事件は、きちんと書かれているそうですが、これは編纂者によるものでしょうか。

五味どうですかね。おそらくそうだと思いますが、いろいろな記述がありますし、実朝記の場合には、藤原定家の『明月記』なんかも利用しているんです。ですからそれなりに史料を拾ってはいますので、違った書き方もあったかもしれません。総じて頼朝のときよりはちょっと淡白です。

ただ、いろいろなエピソードが入っていますし、実朝への思いというのは編纂者にはあったのかなと思いますね。

高橋私もそれをすごく感じるんです。実朝に対する目は、まったくの主観で理由はありませんが、温かいという感じがあります。だから、私はそういうところを見ていても、北条が実朝を殺したんじゃないと確信しているんです。

それから、実朝を殺害した公暁[くぎょう]をあやつったのは三浦氏だという説があります。これは個人的にはどうかと思うんです。それは、三浦はあの段階で何の準備もしていません。

もし、実朝を殺して公暁を将軍にしようとするのであれば、要するに大粛清みたいなことをしない限りは、納得させられないじゃないですか。だけど、そういう準備をしていた気配がないので、三浦が動いていたとは考えられないなと私は思います。殺されたと聞いて、びっくりしたんじゃないかというぐらいに私は思っています。

将軍頼経以降は官僚制的な書き方に変わる

源実朝坐像 甲府・善光寺蔵 鎌倉国宝館提供

源実朝坐像 甲府・善光寺蔵
鎌倉国宝館提供

永井実朝に関して言いますと、4代将軍の頼経以降、がらっと変わるんですが、急激に官僚制的なにおいのする記事が多くなるんですね。実朝まではかなりエピソードが多いんです。結局、源氏3代と御家人の関係は主従制があるわけですが、実朝が亡くなった後、摂関家出身の将軍に総大将を務めろと言っても務められない。そこで多分、将軍と御家人の関係が源氏3代と、それ以降は変わってしまうと思うので、それで書き方が変わるのかなという気がするんです。

実朝に関しての記述は、頼朝とは別な形で神話化され、物語性が強くなっている部分と、幕府の儀式の記録を書いているなという部分とが混じり合っているので、頼家記から見るとボリュームは膨らんでいるんですが、そういう意味では変わり目になるので、難しいところを書いているのかなという気がしますね。

頼朝と実朝の時代はいい時代だったと神話化して描く

鶴岡八幡宮 鎌倉市

鶴岡八幡宮鎌倉市

五味実朝の暗殺は非常に興味深くて、源氏の棟梁が、御家人の結集の場である鶴岡八幡宮で殺されるという衝撃的な事件ですね。ですから、それを『吾妻鏡』が踏み込んで書いたというのは大事なところだと思います。

もし、この記事がなかったら、『吾妻鏡』は石井進先生の言うとおりに、肝心な部分は全部削り落としてしまうんだということになったかもしれません。そして、あそこでは、実朝の個人的な悩みみたいなものまで書いていますので、恐らく『吾妻鏡』の中では、頼朝と実朝の記事とが非常におもしろいんだろうと思います。

ただ、そのこととともに大事なのは、実朝の時期は朝廷との関係がかなり緊密になった時代であって、鎌倉幕府にとってみても非常に重要な時期であると、後々から見て思われていたことではないでしょうか。

ですから、源氏3代とおっしゃったように、頼朝と実朝の時期は、幕府の現実は別にしても、それなりに神話化することによって、あの時代はよかったというふうに捉えることによって、幕府というもののその後の発展の基礎が築かれた、いい時代であった。そういうふうな形で描こうとしたのかと思いますね。

実朝は殺害されますけれども、その殺害された後、多くの人間がわっと出家しちゃうわけですよ。北条だけが出家しないのですが、そういうところなんかを見ましても、将軍とともにあったあの時代はいい時代だったなと、そうした時代像を描こうとしていたように思いますけれどね。

編纂が始められたのは13世紀末の永仁年間

編集部『吾妻鏡』はいつごろつくられたんでしょうか。

五味私の考えで言えば、13世紀の末ぐらいには編纂は明らかに始まっている。ただ、もうちょっと前に『原吾妻鏡』みたいなのが別にあったということは考えられますが。13世紀の末の永仁から14世紀の初頭にかけての時期がかなり重要な時期でしょう。『吾妻鏡』に載っている文書などを調べていくと、大体、永仁の徳政令を契機にして、幕府に提出されたような偽文書っぽいものがかなり載っていることがあるので、その頃かなと思います。ただ、恐らく編纂を途中でやめてしまったので、その点、どうかなというところですね。永井さんはどうお考えですか。

永井仕事を始めたのは、少なくとも13世紀の終わりぐらいからと思うんです。宗尊親王記の書き方を見ていくと、親王将軍の1年間の儀式のスタイルがつかめて、いつの時期何をやっていればいいのかということがわかるようなつくりになっています。そういう意味では、このあたりで止めるということで、つくり始めたのかなという気はするんです。

もう1つは、通して読んだ人がいるんだろうかと思うと(笑)、多分編纂段階で冒頭から最後まで、通して編集するところまで行っていない本なのではないのかなという気がするんです。

五味そう思いますね。ですから、誰かがつくろうと言ったんだけれども、その人間が果たして見たかどうか。

頼朝将軍記などの原型は、1235年ごろ著わされたか

五味『書物の中世史』の中で書いたんですが、朝廷の歴史を記した『百練抄[ひゃくれんしょう]』が12〜13世紀の後半ぐらいに京都でできており、それを京都で金沢貞顕[かねさわさだあき]が書写したものが残っています。

その影響を受けつつ、幕府でも「じゃ、やろうか」というところとなったが、ある時期になると、両方でそういう機運が一気に衰退してしまった。なぜかということは、またおもしろい問題なんですけれども、歴史を振り返るよりも現実の歴史のほうがどんどん急動して、もう振り返って見ているどころではなくなったからではないでしょうか。

ただ、これだけの大部の本ですから、一時期に編纂されたわけではなく、やはりその前提になる『原吾妻鏡』と呼べるような歴史書が成立していたとも考えています。嘉禎のころ、1235年のあたりに、頼朝将軍記などは、その原型ができていて、そして同じころに、京都では『原平家物語』が著され、また東国では『原曾我物語』がつくられたのではないかと推定しています。

三善氏らが政治の動きや社会を憂えて編纂か

称名寺 横浜市金沢区

称名寺横浜市金沢区

編集部編纂は、どこで、誰がという点ではいかがですか。金沢文庫や称名寺に関係が深いようですが。

永井金沢文庫には写本があったわけで、未定稿であるにしろ、それなりに揃っていたとは思うんです。

『金澤文庫本東鑑』影写本 応永11年の奥書がある。神奈川県立金沢文庫蔵

『金澤文庫本東鑑』影写本
応永11年の奥書がある。神奈川県立金沢文庫蔵

では、金沢北条氏がやったのかというと、どうもあの時期の状況では、金沢貞顕はそこまでやっているゆとりはないんです。とくに六波羅探題を2回やっていますし、2回目はかなり難しい時期に行っていますので、金沢北条氏が歴史書を読んでいたとか、あるいは政権の中枢にいて生々しい政治をやっていて幕府の内情を理解していたのは事実であっても、編纂総裁になれるほど鎌倉に腰を落ちつけて仕事をやっていられたかというと、それはちょっと違うんじゃないかなという気がしています。

五味私も、最初は金沢氏を非常に重要視しましたが、『増補吾妻鏡の方法』ではむしろ幕府の吏僚だった三善氏をかなり重視するようになったんです。ただ、三善氏に収斂するかというと、それもどうかなと思っていまして、はっきり言えばわからない。三善氏は奉行人ですし、編纂のもとになる史料を持っているんですが、金沢氏関係のものもそれなりに利用されていますので、明確な形で編纂しようとしたのではなくて、関係者が政治の動きや社会を憂えて、集まってやってみたらということぐらいで始まったのではないかとも思います。

利用された史料の基本は奉行人の日記

長井貞秀書状(鎌倉治記の文言が記されている) 称名寺蔵・神奈川県立金沢文庫保管

長井貞秀書状
(鎌倉治記の文言が記されている)
称名寺蔵・神奈川県立金沢文庫保管

永井使われた史料から編纂の関係者を推測すると、金沢文庫に、「鎌倉治記[じき]」の借り出しについての長井貞秀の書状が残っています。

五味何か原形になるようなものはあるはずですね。文永の頃、そういう先例集みたいなのがちょうどつくられるので、それがもとになって、さらに進められていったのではないか。

使われた史料は、時期によって軸になるものがありますが、基本は奉行人の日記でしょう。ただ、奉行人と言ってもさまざまなタイプがあり、初期の段階では、奉行人にはあまり役割の分担はなかったわけです。政所[まんどころ]とか侍所とあっても両方を兼ねたりする。でも、恐らく初期の段階は政所つまり頼朝の家政にかかわるところが中心で、とくに頼朝、頼家、実朝の時期は基本的にはそうと考えられます。

ところがその次の時期になると、記事の性格がちょっと違うんです。頼経とか頼嗣[よりつぐ]の時期は、将軍とのかかわり合いをそれなりに書きながら、例えば頼経の時期だと、いわゆる恩賞奉行とか、将軍とつながるとともに、執権ともつながるようなところの日記が使われたのではないか。

宗尊将軍記のところでは、宗尊将軍にかかわる記事がほとんど羅列的に並べられていて、御所にかかわるような奉行人の日記が、恐らくそれぞれ中心になったんでしょう。

ですから、意図的に『吾妻鏡』を全体的に構成しようとしても、史料の性格によってどうしても限られてしまうんです。どういう史料に基づいて書くかで歴史像が変わりますから、それによって規制されるところは随分多かったのではないか。『吾妻鏡』はちょうどそういう意味で、鎌倉時代の人が歴史をこういう形で編んだという結果になってます。

彼らはどういう意図でこれを編んできたのかということを、我々がもう1度きっちり探ることによって、そこからもう1つ新しい歴史像をつくっていければとも考えているんです。

江戸幕府が先例を探したときに再評価される

編集部『吾妻鏡』は江戸時代に版本として一般に流布するわけですね。

永井南北朝の内乱で社会そのものが変わってしまいますので、『吾妻鏡』のようなものは、中世前期には必要な本であっても、中世後期には必要ないんじゃないか。江戸時代に再評価されるのは、江戸幕府が先例を探していたときに、鎌倉に戻っていこうとする懐古趣味的なものだったのかなと思います。

五味そうですね。南北朝期になると、武家そのものが京都に行ってしまって、京都の儀式の世界との関係が重要になります。そうすると武家の先例だけではうまくいかない。故実を調べさせると、京都の先例故実が先になってしまいますから『吾妻鏡』はあまり使われなくなる。室町期にはほとんど重視されなくなってしまったんでしょう。

戦国期になって、戦国大名たちが、それぞれに武家を興そうとして、では、新しく生まれた武家がどういうふうにつくられたのかを考えたときに『吾妻鏡』があるということに気が付いたんでしょう。だから、北条氏とか、島津とか毛利氏などが集めてきた。とくに江戸になって、家康が『吾妻鏡』を愛読した。よくよく見ると、政治なんていつも変わらないなと思ったのではないでしょうか。そういう中で広く江戸幕府の中で流布したというふうには考えています。

いろいろな分野の人に読んでほしい

五味文彦・本郷和人編
 『現代語訳 吾妻鏡』 吉川弘文館

五味文彦・本郷和人編
『現代語訳吾妻鏡』
吉川弘文館

編集部今回、吉川弘文館から刊行されている『現代語訳吾妻鏡』は、全部で16冊ですね。

五味第1巻「頼朝の挙兵」、第2巻「平氏滅亡」、第3巻が「幕府と朝廷」と、それぞれ時代を象徴するタイトルをつけて刊行します。

実際、『吾妻鏡』を読みたいという要望がたいへん多かったんです。これは小説の材料というだけではなくて、今、鎌倉は世界遺産に登録しようという中で、考古学や美術史とか、いろいろな分野の方から『吾妻鏡』を読みたいと。しかし文献を読むにはそれなりの訓練が必要になるので、きちんとしたわかりやすいものが欲しいという声があり、それにできるだけこたえようと考えました。

このごろは、なんでも電子化されて、ある部分だけ検索をかけると、ぽんぽんと知りたい項目が出てきますね。けれども、それだけでやってしまうと、いろいろ問題が出てくる。とりあえず基礎的なところを知ってもらい、その上で研究を進めていただく。現代語訳はそれなりに意味があると思いました。

頼朝旗揚げの記述は読み物としてもおもしろい

高橋治承4年の頼朝の旗揚げの記述は『吾妻鏡』にしかないですし、非常に生き生きと描かれていて読み物としてもおもしろいと思います。

五味現代語訳への注文がありましたら。

高橋『吾妻鏡』は、なるべくたくさん注をつけていただいて(笑)、それと、どなたかに九条兼実[くじょうかねざね]が書いた『玉葉[ぎょくよう]』もやってもらえればいいなと思います。

五味『吾妻鏡』の原典と言っても、写本なんです。随分間違いも多い。一番困るのは、間違った文章があるのに気づかずに訳してしまうことです。1行とか一部分抜けているということは十分考えられる。名前なんかもかなり危ないですね。

例えば秀高とあるが、探してもない。それなら違う字ではと考えたのは季節の季で、そこで季高[すえたか]で探すと『吉記[きっき]』にすぐ出てきたんです。そういう発見は幾つかあるんですが、それはさりげなく注でちょこっとしか書きません。注をたくさんつけ始めたら、邪魔になるかもしれないので。

高橋いや、邪魔にならないんです。(笑)

行列の表現にも編纂者の意図が見えてくる

高橋『吾妻鏡』には有職故実のような形があるので、人名がたくさん出てくる。それはどうなさったんですか。あれを抜かしたらたいへんなことになるらしいですね。

五味後々の人にとって、あの記事は大事なんですね。あのときに自分の祖先がここにいたということになる。行列そのものが権威とか権力を見せる行為ですから、300人とか400人もの名がずうっと並ぶ。絵巻でも、行列図という形で同じような人間が延々と描かれている。行列は、洋の東西を問わず、すべて描き切ることが重要で、あの部分をなくしてしまうと、権力や権威の自己表現がなくなってしまうわけです。

ですから、基本は全部載せているんですが、時々さらっと削っちゃうんですね。殿上人何人とか記して名前は出ていない。そこから、なぜ削ったのかとか、そのうち誰だけを書いたのか、何を省略したのかということから考えてみてもおもしろいと思います。

そういうところから編纂者の意図も見えてきます。読み込めば読み込むほど、おもしろいんです。

編集部どうもありがとうございました。

五味文彦 (ごみ ふみひこ)

1946年山梨県生まれ。著書『増補 吾妻鏡の方法』 吉川弘文館 2,200円+税、他。

高橋直樹 (たかはし なおき)

1960年東京生まれ。 著書『霊鬼頼朝』 文春文庫 705円+税、他。

永井 晋 (ながい すすむ)

1959年群馬県生まれ。 著書『金沢貞顕』 吉川弘文館 1,800円+税、他。

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