Web版 有鄰

452平成17年7月10日発行

[座談会]ファンタジーの世界
佐藤さとると「コロボックル」たち

児童文学作家/佐藤さとる
文芸評論家/野上 暁
有隣堂社長/松信 裕

左から野上暁氏、佐藤さとる氏と松信裕

左から野上暁氏、佐藤さとる氏と松信裕

はじめに

colobocle

『コロボックル物語』シリーズ(全6巻)
講談社

松信現代日本児童文学界の重鎮として創作活動を続けていらっしゃる佐藤さとる(本名・佐藤暁)先生は、日本のファンタジー童話の第一人者で、長年にわたって数多くの童話をつくられ、その作品は、たくさんの人々に愛読されてきました。

なかでも、1959年に、最初は私家版で出版された『だれも知らない小さな国』は、日本初の本格的ファンタジー作品として高く評価され、毎日出版文化賞、国際アンデルセン賞国内賞、日本児童文学者協会新人賞などを受賞されました。以後、第5巻の『小さな国のつづきの話』、別巻『小さな人のむかしの話』まで、小人たちが織りなす「コロボックル物語」全6巻(ジャンプ書籍リスト)として、長く読み継がれてきました。

また最近、「コロボックル物語」の誕生45周年を記念して、『コロボックル絵童話』シリーズの新装版(全4巻)も刊行されました。

本日は、佐藤さとる先生と、児童図書などの編集長を長く務められ、評論家としても活躍されている野上暁(上野明雄)さん(小学館取締役・小学館クリエイティブ社長)にご出席いただき、佐藤先生の作品への思いや、童話を書かれるようになったきっかけ、横須賀生まれ・横浜育ちで、現在も横浜・戸塚にお住まいの先生の、小さいころの思い出などを伺いながら、今も、多くの人々に愛され続けている作品の魅力などについて、ご紹介いただければと思います。

童話を読み尽し、読みたい話を自分の手で

野上「コロボックル物語」は、美しい小山が舞台になっていますが、これは実体験なんですか。

佐藤小さいころの体験が原型になっているでしょうね。どこにでもあるような小山ですが……。私が生まれたのは横須賀の逸見町、現在の西逸見です。家の裏山が三浦按針(ウィリアム・アダムス)のお墓がある塚山公園で、按針塚と呼んでいました。そこが子供のころの遊び場だったんです。それで、昭和13年、5年生の1学期の末に鎌倉郡戸塚町、現在の横浜市戸塚区に引っ越したんです。

野上小さいころから随分本を読まれたそうですが、当時、どんな本を読まれていたのですか。昭和の初めごろはアルスの『日本児童文庫』や文藝春秋社の『小学生全集』などが出ていましたが……。

佐藤菊池寛編集の『小学生全集』80数巻が家にありましたね。母親が小学校の先生だったためか、買ってあったんです。僕には2学年上に双子の姉がいまして、学校から帰ると、教わったことをいろいろやるんです。その仲間に入っているうちに片仮名だけ読めるようになった。それで母親に、「読める本はないか」と言ったら、押入れの奥に並んでいた全集を見せられて、好きなのを読みなさいといわれた。それで、初めて自分で読んだのが『イソップ童話集』だったんです。後になって気がついたんだけど『イソップ童話集』は半分片仮名、半分平仮名なんです。だからきっと片仮名だけ読んだんでしょうね。5歳ぐらいのときです。

それで小学生の間は『小学生全集』にどっぷりはまりました。その中で忘れられないおもしろさがあったのは童話だったんです。

松信どういう童話が入っていたのですか。

佐藤イソップの他にアンデルセンやグリムの童話集、世界と日本の文芸童話集や、アラビア夜話集(アラビアン・ナイト)、ギリシャ神話。アリス物語(不思議の国のアリス)やピーター・パン、ロビンソン漂流記などもありましたね。

こういう童話に引きずられて、いわゆる児童文学の本を片っ端からあさって読むようになって、中学生になっても童話を読んでいたんです。

でも、当時、児童文学の本はそんなになかったですからね。講談社の本はかなりありましたけれど。伊勢佐木町の有隣堂に寄りますと、子供の本の棚があるんですよ。2つか3つあったかな。棚の前に行くと、全部欲しいんだけれど、うちでは1冊しか買ってくれない。読みたくてしようがなかったんです。

中学時代から「童話を書く」と宣言

佐藤それで戦争が始まったでしょう。当時はいわゆる小国民教育ですから、ますます子供の本は少なくなる。そうなると、もうしようがないから、読みたい話を自分で書こうかと思ったわけです。

僕は本牧の横浜三中(現・県立横浜緑ヶ丘高校)に通ってましたが、学校の帰りに、野毛の市立図書館に、ほとんど毎日行っていました。そのときは乱読でしたね。子供の本だけじゃなくて、ありとあらゆる本を、手当たり次第読んだ。それで結局、やっぱり童話が一番おもしろい、それを書くほうへ回ろうと思ったんです。旧制中学の4、5年のころです。

松信それを友達にも宣言されていたそうですね。

佐藤5年生の2学期から川崎にあった日清製粉鶴見工場に勤労動員で行っていたんです。半夜勤とか夜勤があって、昼間は割とぶらぶらする時間があった。桜木町の駅前広場を4、5人で空っ風に吹かれて歩きながら、あんまり大きな声じゃ言えない時期なんですけど、「戦争が終わったら何をする?」という話をして、僕は「童話を書く」と言ったんです。多分、そのころから書きたいと思っていたんでしょう。はっきり自覚はしてないんだけど。

野上実際にお書きになり始めるのはいつごろから?

佐藤戦後ですね。戦争をはさんでいますからね。僕は中学入学が昭和15年、卒業したのが昭和20年の3月、終戦の半年前ですけど、中学時代はむちゃくちゃですね。軍隊に通っているようなものだった。

療養中の旭川で終戦、進駐軍でアルバイト

『だれも知らない小さな話』・表紙

『だれも知らない小さな話』
偕成社

佐藤中学を卒業して昭和20年4月に海軍水路部(海上保安庁水路部の前身、現・海上保安庁海洋情報部)へ入りました。海底測量や気象観測、地図を作成する技術者を育てる教育機関です。ところが健康診断で、肺結核、粟粒結核の疑いありということで療養することになり、北海道の旭川に家族の一部が疎開していたので、7月からそこへ合流したんです。

それで戦争に負けたでしょう。父親は海軍の機関科士官だったんですが、昭和17年にミッドウェー海戦で戦死したんです。特別国債の形で恩給をもらっていたのが、戦争に負けた途端に、それは紙くずになった。

そうすると、お金がないから、働かなくちゃならない。それで、今でもよく覚えているんだけど、きょうで肺病はもうやめたと決心した。決心して治るということはないんですが。(笑)

旭川は第七師団の陸軍の町で、そこに米軍が進駐してきて、ボーイを募集をしていたので行ったんです。キッチンボーイです。僕は英語が大っきらいだったくせに、しゃべると通じる。さすが三中だなと思うんだけど(笑)。簡単な英語ですけどね。キッチンボーイというのは台所の下働きで、食事がついたんです。それで栄養補給ができて、肺病によかったんですね。

関東学院在学中、『童話』に「大男と小人」を投稿

自宅・仕事場で

自宅・仕事場で

野上横浜にはいつ戻られたんですか。

佐藤昭和21年の4月に戸塚に戻ってきました。受験が目的だったんですが、なかなか切符が買えなくて、帰ったのが4月だったからどこの学校も試験は終わっているんです。

そうしたら、関東学院の建築科が補欠募集をするという新聞広告が出たんです。関東学院は戦争中は航空工業専門学校で、それが戦後、機械科と建築科の2つになっていた。それで願書を出して合格したんです。

野上そのころから童話を書かれたんですね。

佐藤ええ。僕は話をつくるのは好きなんですが、作文がきらいなんです(笑)。だから、話をつくったら誰かに話して、それを書いてもらうのが一番いいと思ったんですけれど、誰も書いてくれないから、しようがない、自分で書こうか、と。

昭和21年に後藤楢根さんが日本童話会をつくられた。それを日本放送協会(NHK)のローカルニュースが放送したんです。僕は、当時、東京の八重洲ビルの駐留軍の将校宿舎でルームボーイのアルバイトをしていて、昼休みに銀座の本屋に行ったら、日本童話会の機関誌『童話』の創刊号が並んでいた。B5判の二色刷り表紙で、薄っぺらなものでした。そこに、「原稿募集」とあったので、10枚くらいのものを書いて送ったんです。

読んでも読んでも終わらない長い話を

佐藤話を書きたいというのが、そのときに刺激されたんですね。僕は以前から、読んでも読んでも終わらない長い話を書きたいと思っていたんです。長編志向だった。当時の児童文学はみんな短編でしたからね。とにかく本を読んでいて、残りが少なくなってくると、「もう終わっちゃうのか」という、寂しいというか、残念という感じがあった。だから、もっと長く続く話を自分で書いてやろうと思ったんです。

それで書いたのが「なくした帽子」です。これは「てのひら島はどこにある」の前身と言っていいかな。「てのひら島はどこにある」は「コロボックル物語」の前身ですから、「コロボックル物語」の習作みたいなものです。

それに夢中になっていたので、童話会に送った原稿のことは忘れていたんです。すると、その年の9月に本屋をちょっとのぞくと、『童話』の9月号が出ていてパラパラッと見たら、自分の書いた主人公の名前が出ている。「あれっ」と思って見直したら、僕の作品が載っていた。積木築という名前で書いたんです。

野上その作品が「大男と小人」ですね。

佐藤そうです。大学生のおじさんと、その甥の「オーちゃん」という男の子が、畳の部屋で寝ころがって空を見ているという話なんです。何ということはない、けったいな話なんですがね。後で後藤先生が「何となくおもしろくてね」と言ってましたけど、何となくだったのか、という感じで。(笑)

うれしかった藤田圭雄さんの励ましのことば

佐藤さとる氏自筆の絵

佐藤さとる氏自筆の絵

野上神奈川新聞に書かれたのもそのころですか。

佐藤山崎さんという絵かきさんが、挿絵を描きたいというので、神奈川新聞に交渉して、僕に話を書かせたんです。3つ書いたんですが、そのうちの「ポケットだらけの服」には、ちょっと愛着があるんです。

松信そのときは何というお名前で書かれたのですか。

佐藤これは「佐藤さとる」で書いていると思います。

松信ペンネームをいろいろお持ちなんですね。別の名前で挿絵も書かれている。

佐藤何となく本名で書くのが気恥ずかしいというか。

野上そのころ、実業之日本社の『赤とんぼ』とか、新潮社の『銀河』、小峰書店の『子供の青空』、新世界社の『子供の広場』といった雑誌がドッと出てきた。

佐藤「なくした帽子」を誰かに読んでもらおうと思っていたら、昭和21年4月に『赤とんぼ』が出たので、一部を編集部に送ったんですよ。そうしたら、編集長の藤田圭雄さんから、「貴方の原稿面白く読みました。この調子でどうぞ最後まで書いて下さい」というはがきが来た。うれしくてね。いちど会社に遊びにいらっしゃいと書いてあったので、実業之日本社に行ったんです。昭和21年の秋でした。

その後も藤田圭雄さんにはかわいがってもらいました。僕の先生の一人です。いろいろと励ましてくれました。

長崎源之助氏といっしょに平塚武二氏に師事

平塚武二(昭和23年頃)

平塚武二(昭和23年頃)
撮影:山本静夫
長崎源之助氏蔵

佐藤僕には先生が3人いるんです。後藤楢根さん、藤田圭雄さんと平塚武二さんです。

平塚先生は、昭和24年の初夏でしたが、長崎源之助さんに誘われて、当時、住んでおられた磯子区の間坂のお宅に2人で訪ねて行って、それから、勝手に師事してきたんです。長崎さんも多分そうだろうと思います。

平塚さんは鈴木三重吉先生の末弟子です。三重吉先生を騙したので破門された、という話もあるくらいで、平塚先生はうそばっかりついているんです(笑)。僕はあまりうそをつかれたことはないですが、人をかついで喜ぶようなところがあって、考えてみれば、たちが悪い。ハマの不良ですよ。(笑)

松信平塚武二さんの『ヨコハマのサギ山』という童話はいいですね。

同人誌『豆の木』を長崎源之助らと創刊

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『豆の木』同人
左から神戸淳吉氏、いぬいとみこ氏、長崎源之助氏、そのうしろ佐藤さとる氏
(昭和25年、長崎源之助氏宅で)

野上同人誌『豆の木』を始められたのも、平塚さんのすすめだそうですね。

佐藤そうです。昭和24年のクリスマスに、平塚さんが、まだ小さかった息子さんのためにパーティをやるというので、4人、5人でお宅に行ったんです。

そのとき平塚さんが、「同人誌でもやれ」と言われて、源ちゃん(長崎源之助)も「やりましょう」なんて言って、それで平塚さんが、『豆の木』という題はどうだと言ったんですよ。

松信長崎源之助さんも横浜の方ですね。『向こう横町のおいなりさん』とか『私のよこはま物語』とか書かれている。

佐藤源ちゃんのことは、後藤楢根先生が紹介してくださったんです。昭和22年からのおつきあいだから、もう長いんです。

野上『豆の木』は、長崎源之助さん、いぬいとみこさん、神戸淳吉さんと4人で始められた。

佐藤創刊号を出したのが昭和25年です。

僕は一番若くて生意気で、文句ばかり言っていた覚えがあるんですよ。よくみんなが仲間に入れてくれたなと思うんだけど。

長崎源之助さんは僕の兄弟子で、僕のことをよく理解してくれていて、無理なことは言わなかったけど、ほかの人はわからないから、いぬいさんにはよく叱られた。怖いお姉さんで、僕より4つ上なんだけど、頭の上がらない人でしたね。

野上そのころは中学の先生をされていたんですね。

佐藤関東学院を卒業して横浜市役所に入ったのですが、半年で辞めてうちで童話を書いていたんです。そうしたら、横浜市の教育委員会から、新制中学が発足したばかりで先生が足りない。僕は教員免状を持っていたので、「先生をやらないか」と呼び出しがあった。それで中学校の先生を3年ぐらいやったんです。数学を教えてました。

僕はよく思うんだけど、1回は人に物を教える立場に立つと、いろいろなことがわかる。先生をやらされたことが随分プラスになっています。だけど、学校の先生がいやでいやでしようがなくて、平塚さんから、広島図書の『銀の鈴』という学年別雑誌の編集を紹介されて、そこに行ったんです。

野上学習研究社の前身のような会社ですね。それから約20年間、児童図書の編集に携わられた。

佐藤そうです。広島図書には2年半ぐらいいたかな。オフセット印刷で、簡単に字を動かせないから、書き写しながら割り付けをする。毎月1冊分書き写すんです。僕は高学年向きのをやっていました。それを2年半やっていたら、文がうまくなった。

野上作文がきらいな少年が、にわかに文章がうまくなった。その後、実業之日本社に移られたんですね。

佐藤昭和29年の秋です。最初は『少女の友』という、明治37年創刊の日本で一番古い少女雑誌の編集部にいたんですが、教科書部に移って、技術家庭の教科書を担当して、原稿を全部リライトした。そしたら編集長が、「リライトは佐藤君、君が一番うまいね」と言ってくれたんですよ。これは大変な自信になりましたね。

日本の妖精を生み出した『だれも知らない小さな国』

野上そのころ『だれも知らない小さな国』を書き始められたんですね。

佐藤そうです。書き上がったのは昭和33年の末ごろでした。

本当は、1年前に書き上がったのを、平塚先生のところに持っていったんです。そうしたらある日、平塚さんが原稿を持ってうちに来て、「赤鉛筆を持ってきてそこへ座れ」と言って、初めの1枚目から、「ここは下手」「ここはダメ」なんて言って直し始めるわけです。10枚もやるとくたびれるよね。

野上直している平塚先生のほうも。

佐藤「こういう調子で書き直さなきゃだめだ」と言われて、「そんなこと」と思いながら書き直した。そしたら10枚ぐらいから確かに話が変わってくる。明らかによくなってくるんですよ。

それで最初の原稿はさっさと捨てて、また半年以上かかって書き直した。それを持っていったら、「もう1回書き直すともっとよくなる」と言われ、少しは修正しましたが、「もういいや」と思って。

私家版で出した本がすぐに講談社から出版される

佐藤友人がタイプ印刷屋をやっていたので、私家版で120部ぐらいつくった。

野上34年の3月ですね。奥付は娘さんの誕生日の11日にしてある。

佐藤そうなんです。せめて自分の子供には読んでほしいと思っていたので。そしたら、平塚さんが自分で出版社を回れと言う。勤めていた僕にはそんな暇はないので、送ることにしたんです。

野上送り先も平塚先生が決められたのですか。

佐藤そう。平塚さんが汚い、よれよれのバラバラになりそうな手帳を出して、出版社は誰々がいいとか、全部言ってくれて、そのとおりに九十数冊送ったんです。

松信それがすぐに講談社の目にとまった。

佐藤そうなんですね。講談社の曾我四郎さんという児童出版部長から、「うちで本にしたらどうか」って速達が来たんですよ。これもありがたかったですね。当時、児童図書なんかどこも出してくれないときでしたからね。

野上そうですね。講談社や理論社が創作シリーズを出し始めたころです。

松信その年の7月に講談社から出たんですね。

日本に妖精がいないのならつくればいい

松信『だれも知らない小さな国』は、「ぼく」が小学校のころ、よく遊んだ小山にだれも知らない小さな三角の空き地があり、ある日、そこで小指ほどしかない小さな人を見てしまう。やがて少し離れた町に引っ越し、長い戦争が始まる。戦争が終わり、大人になった「ぼく」は以前のままの小山を訪れ、姿を現わした小人たちとの交流が始まるというお話ですね。

野上これを発想されたのはいつごろなんですか。

佐藤17、8歳ですね。肺病で旭川でうっ屈しているころです。

野上旭川にいらしたことと、コロボックルとの出会いみたいなものは……。

佐藤あると思います。アイヌの伝説にある小人のコロボックルとの出会いは、宇野浩二の『ふきの下の神さま』が最初でした。小さな神様「コロボックンクル」と書いているんです。『小学生全集』に入っていて、僕は大好きだった。アイヌの伝説とかコロボックルの話は、母親もいろいろしてくれましたけど。

野上それまでもコロボックルの話は結構書かれていますが、残っているのは『ふきの下の神さま』だけですね。

佐藤あれは最高のものだし、まねをしようという人もいなかったんじゃないかな。コロボックルを扱ってあれ以上のものは書けない。

僕は最初、イギリスの話によくある、妖精が活躍する話を書いてみたいと思ったんです。ところが日本に妖精はいないんです。小泉八雲の『ちんちん小袴』とか相馬御風の『きんぷくりんの柿ばかま』という教訓話があって、小さいのが出てくるんだけど、いわゆる小人族とはちょっと違う。いないんなら、つくればいい。これがとってもいいアイデアだったと自分で思うんです。日本の妖精をつくろうと思ったわけ。

それで「小さ子族」というのもつくったんですよ。「小さ子」というのは日本の神話に出てきますし、伝説もあるんですけれども、やっぱり違う。そうすると、コロボックルしかない。

日本人とアイヌ人はもとは同じじゃないか。アイヌ語で神のことは「カムイ」と言うし、数詞もよく似ている。魂とか、神とか、そういう基本的なものをよその国から借りてくるということはあり得ないから、分かれたのは随分古いだろうけれども、もとは同じじゃないのかと。

松信それをヤマト民族が駆逐していった。

野上そして忘れられ、彼らのほうも隠れていったわけですね。

佐藤でも、それが生きていたとするなら、どういうふうに生きているかを誰かが見つける話をまず書いて、存在するということを証明しなきゃいけない。そういう話をとにかく最初に書かなきゃいけない。妖精が活躍する話はその後だという思いがあって、それで書いたのが『だれも知らない小さな国』で、コロボックル発見の話です。

最初は、わからないまま書いていったんですけど、調べてみたら、日本の神話の神様で、「小さ子」の少彦名命とコロボックルは根が同じだということがわかった。縄文時代の先住民族が持っていた神様なんです。ということは、絶対に共通する神。それがわかったから、安心してコロボックルを使わせてもらった。

いい話って、いろんな意味で偶然が重なるんです。現実のほうがついてきたりする。後で資料を調べてみると、ぴったりだったりして、「何だ合っていたじゃないか」と。いい話ってそうですよ。

小人たちの世界が広がる日本初のファンタジー

松信当時、児童図書はどんな状況だったんでしょうか。

野上あまり子供の本が出ていなかった時期なんです。昭和29年ごろに新潮社が長編シリーズを出し始めて、国分一太郎の『鉄の町の少年』、住井すゑの『夜あけ朝あけ』とか何点か出たけれど、発表の場は同人誌が中心でした。

短編も出てはいましたが、単行本になるのは少なかった。昭和34年は、佐藤先生の『だれも知らない小さな国』をはじめ、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』、早船ちよさんの『キューポラのある街』、柴田道子さんの『谷間の底から』、それから理論社が始めた創作シリーズで斎藤了一さんの『荒野の魂』、塚原健二郎さんの『風と花の輪』が出た。にわかに子供の創作長編読み物がどっと出てくる年なんです。

35年になると、山中恒さんの『とべたら本こ』や、松谷みよ子さんの『龍の子太郎』、今江祥智さんの『山のむこうは青い海だった』が出て、子供の本が売れ始める。

昭和34年は60年安保の前年で、社会的には「政治の季節」だったと思います。そういう目で見ると、『だれも知らない小さな国』は、思想性がない話ということになる。出たときは、余り芳しい評価ではなかったんです。

ただ、藤田圭雄さんと評論家の山室静さんは早くから評価されてましたね。それから児童文学者の鳥越信さんが出版記念会のときに、「日本にも、やっとファンタジーが生まれた」といわれたと。

佐藤子供の文学の本格的な研究が始まったころで、ファンタジー要望論みたいなものがあった。僕はファンタジーが何だか知らなかったんだけど、後で考えればそうなんです。アメリカの作家ロバート・ネイサンが、「ファンタジーとは、起こったことなどなく、起こりうるはずのないこと。だが、起こったかもしれないと思わせるもの」と定義していますが、現実にはいない小人を、あたかも存在するかのように書いていたのですから。それがファンタジーの手法とは全然知らずにね。

野上日本の児童文学の中で、本格的なファンタジーとして位置づけられた最初の作品なんです。

イデオロギーにとらわれない個の尊厳が

野上昭和34年に出たいろんな作品のなかで、『だれも知らない小さな国』は、今でもよく読まれている1冊です。当時の文壇的な評価とは関係なく、しっかり読者をつかむ魅力があったんですね。

松信その魅力というのはどういうところでしょう。

野上当時の児童文学は、割合イデオロギッシュなところがあって、作家たちもそれに敏感に反応していた。だけど、『だれも知らない小さな国』にはそういうものと全然違った、個の尊厳というか、自分の見つけた小さな世界に対するこだわりみたいなものがあったわけです。

それは、小市民的な世界だと否定されかねないものなんですが、小学校3年生のときに出会った小さな不思議をずっと、ずっと温めていて、戦争という時代を過ぎた後に、そこへ行ってもう一度検証する。そういう、心の中に秘めていたものを探り出すことの大切さに、読者の側が気がついたんじゃないでしょうか。

松信キャラクターも魅力的ですよね。

野上それまで子供の本の中では、キャラクターと言われるものはあまり育ってこなかったんです。それを発見され、肉づけしていった。

日本人のDNAの中に埋め込まれている原風景みたいなものと奇妙に結びつく、コロボックルというキャラクターが、読者にはビビッときたんでしょうね。

もう一つ、これは欠かせない要素だと思うんですけれども、ある種のラブストーリーなんですよ。小さいときに小山でちょっと見た女の子。その子の赤いくつの中にいた小人、ちらっと見えたコロボックルが媒介になり、大人になってまた彼女と出会うラブストーリーとして、長く読み継がれてきたんじゃないか。

『小さな国のつづきの話』・表紙

『小さな国のつづきの話』
講談社

「コロボックル物語」書籍リスト

それから、コロボックルの世界を次々と積み上げて、2巻の『豆つぶほどの小さないぬ』以降、『星からおちた小さな人』、『ふしぎな目をした男の子』、『小さな国のつづきの話』、『小さな人のむかしの話』と、巻を追うごとに世界を広げていかれた。

テレビゲームのロールプレイングゲーム的な形で、コロボックルの世界観と合わせるように世界が広がり、物語がまた生まれる。45年以上たっても子供たちに喜ばれているのは、そういうところが大きな魅力と新しさだったんじゃないかと思いますね。

まず作者本人がおもしろがること

佐藤そんなすごいことをやったのかなという感じがあるんだけど(笑)、ファンタジーをつくるときの基本的な姿勢というのは、まず作者本人がおもしろがるということです。自分がおもしろいと思うことが的確に相手に伝わるような方法を考え出すこと。

あり得ないものを、あり得るように伝えるわけですから、こういうことが起こりましたよとただ出したんでは、信じてくれないことが多い。だから、情報を出していく時期と情報量ですね。夢をさまさないように情報を上手に出していく。いつ、どこで、どのぐらいずつ出すか。読者が信じてくれないで夢がさめてしまったらアウトですから。

ファンタジーを書くときのそういう手法は、やっていくうちにだんだんわかって、後で気がついたことなんです。野上さんをはじめ、古田足日さんとか鳥越信君とか、評論をやっている人たちが、徹底的に分析してくれましたからね。作者が全く知らないところまで(笑)、考えてもないことまでほじくり出してくれましたから、それはそれでとても勉強になりました。

遊び心と子供にとっての夢そのもの

『おばあさんのひこうき』・表紙

『おばあさんのひこうき』
小峰書店

松信『おばあさんのひこうき』も、長く読まれていますね。編み物が大好きなおばあさんが、迷い込んできたチョウチョの羽がとてもきれいなので、なんとかしてその模様を肩掛けに編んでみようと挑戦しているうちに、その編物が空中に浮かぶようになった。それでおばあさんは、竹ざおと椅子にその編み物をくくりつけて飛行機をつくり、満月の晩、それに乗って孫の住んでいる港町の大きな団地を見に飛んで行くというお話ですが、これはどうして思いつかれたのですか。

佐藤読売新聞から4枚童話を頼まれて、母が編み物を好きでよくやっていたのを子供のときから見ていたので、おばあさんが編み物をしている話を書いたんです。

肩掛けを編んでいくうちに天井にくっついてしまうという短い話だったんですが、これだけではもったいないので本格的に書くようにいわれたんです。それで、せっかく浮き上がる編み方を工夫したんだから、飛行機にしたらいいかなと。

野上それもすごい。

佐藤そこまでは誰でも考えると思うんです。問題はどうやって降ろすか。書いているときはまだわからなくて、どうしようかと思いながら書いている。だから、おばあさんが降りられなくてぐるぐる回っているでしょう。

野上作者もぐるぐる回っている。

佐藤作者も回りながら考えて(笑)、「そうだ。ほどけばいいんだ」って。上手に端からほどいていけば、うまく降りられるんじゃないか。「あっ、これでできた」と。ファンタジーってそういうところがあって、探偵小説のトリックみたいに「落ち」がうまく結びついたときに成功する。あれは不思議とそれがうまくいったんです。

野上それがファンタジーのつくり方なんでしょうね。

佐藤ファンタジーは、人によるけれど、筋書きをつくって書いても多分だめです。そのとおりにはならないし、なったらおもしろくない。やっぱり作者がびっくりしないと。書いていて「すごいな」と思ったのは、読者も驚く。

野上今のエンターテインメントのつくり方がそうですね。いかに驚くか。

編み物のようにつくり上げる物語

『おおきなきがほしい』・表紙

『おおきなきがほしい』
偕成社

野上佐藤先生の作品は、物語を編み上げていくプロセスも大きな魅力ですね。

佐藤編み物というのは、物語を書くことの一つの象徴なんです。僕はよく知らないけど、たとえば、長編みを幾つ、ゴム編みを幾つと規則正しく編んでいくと、いつの間にか模様が出来上がる。同じように「てにをは」をきちんとやっていくと、いい文章ができて、いい話ができる。

野上一つ編み目が違うとほつれちゃう。

佐藤一つじゃなくて、全部ほどいてやり直さないといけない。物語もそうです。だから、僕は連載をやらなかった。前のほうに手を入れられないから。

僕は下書きは3Bの鉛筆で書くんです。何度も消しては直して。それをパソコンで打って、最後にまた手書きで清書するんです。その時点で手が動かなくなることがある。それでまた、手直しをする。

野上もう一つは、『おおきなきがほしい』がそうだけど、作者自身が遊んでいるんですね。ミニチュアをいじっているような細かな、小さなものに対する、入れ込みがある。つくり上げていくおもしろさというんでしょうか。

松信大きな木がほしいと思っている男の子が、こんな木があったらいいな、と空想する話ですね。はしごをかけ登ると、テーブルもコンロもある小屋があり、お客さんは、リスや小鳥たち。その小屋で、春・夏・秋・冬を過ごし、動物たちにごちそうも作ってやる。

野上遊び心の解放というか、子供にとっての夢そのものみたいな部分がある。小さい子供が何度も何度も同じものを読みたがるのは、そこだと思うんですね。

幾つかある佐藤先生の作品の魅力を象徴的にあらわしている作品だと思います。

ミッドウェー海戦で戦死した父の伝記を

父・佐藤完一氏(昭和11年頃)

父・佐藤完一氏(昭和11年頃)
左・弟、中・佐藤さとる氏、右・姉

松信先生のお父様は海軍の軍人でいらしたんですね。

佐藤父は、明治の末に岐阜から北海道へ行った屯田兵の子で、17歳で海軍志願兵に応募して横須賀に来たんです。機関兵で、専門は電気でした。

そこから選抜されて舞鶴にあった機関学校の専修学生になる。そこを卒業して特務少尉になり、特務大尉でミッドウェー海戦で戦死して、故海軍機関少佐・佐藤完一になった。

野上印象的な別れをされたそうですね。

佐藤父との別れは昭和17年の5月末、僕は旧制中学3年でした。

戸塚駅は、当時は島式ホームが1本あって、両側に横須賀線が着くだけでした。どういうわけか、その日は父親と一緒に出かけたんです。私は横浜に行きますから上り、父は横須賀軍港に行くので下りを待っていた。上りが先に来たので乗って敬礼した。昔の中学生は帽子をかぶっているときは、友だち同士でも全部敬礼ですから、何ということはないんです。

そうしたらガラスの向こうで、いつもはうなずくだけの父が、さっと靴を引きつけ、白い手袋で、海軍式の敬礼を返してくれた。でも、あれ、珍しいな、と思っただけでした。それがミッドウェー海戦出撃の朝で、航空母艦「蒼龍」に乗艦し、それっきり帰らなかった。父は海軍が特に好きだったんじゃないんだろうけど、縁あって海軍で過ごし、日本帝国海軍の滅亡と一緒に沈んだんですから、本人は本望だと思いますよ。

歌人として『昭和萬葉集』に17首収録

松信短歌を詠まれていたんですね。

佐藤はい。「全機無事帰還の報あり通風孔に耳を済ませば爆音聞こゆ」。これはハワイ攻撃時のもので、『アララギ』の昭和17年2月号の巻頭に載ってます。

松信真珠湾攻撃にも参加されたんですね。

佐藤はい。あのときは、択捉島の単冠湾へ行き、千島列島に集結して、真珠湾攻撃に向かったんです。

「今はしも東京の沖を航過むとす心をただして左舷に向ふ」という歌もあります。左舷は船の左側でしょう。横須賀を出航し、東京湾を出て、千葉の沖を北上して千島に向かっている。だから左舷に向かって皇居を遥拝するんです。

松信『昭和萬葉集』(講談社)に17首も載っているそうですね。

佐藤講談社の僕の担当だった女性が、たまたま、創業70周年記念出版の『昭和萬葉集』編集部に異動になりましたと言って、パンフレットを持ってきた。見たら父の歌が載っているんです。

「載っているね」と言ったら、「何がですか」と言う。「これ、親父の短歌だ」と言ったら、彼女は知らなくて、「えっ!?」って、その場で絶句していました。

調べてもわからなかったんだそうです。父の先生は土屋文明さんで、先生は訳があって『昭和萬葉集』の編者を退いていました。編者でおられたら、わかったんでしょうけれどね。

松信これから、先生はどういうものをお書きになりたいんでしょうか。

佐藤70になったときに隠居を宣言したんですよ。書きたいことはみんな書いちゃったからもういいと。でも、変なもので、物書きは業みたいなもので、本にするしないに関係なく書くんですよ。

野上お父様のことを書くと、随分前からおっしゃってますが……。

佐藤父の伝記ですね。つまり、普通の人の伝記を書いてみたいなと思って。資料は集まっているんですが、フィクションにしないとやっぱりまずいと思うんです。

野上ぜひまとめていただければと思います。

松信楽しいお話をありがとうございました。

佐藤さとる (さとう さとる)

1928年横須賀市生れ。

野上 暁 (のがみ あきら)

1943年長野県生れ。
著書『日本児童文学の現代へ』 パロル社 1,800円+税、
共著『ファンタジービジネスのしかけかた』講談社 880円+税、ほか。

※「有鄰」452号本紙では1~3ページに掲載されています。

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