Web版 有鄰

437平成16年4月10日発行

[座談会]横浜は「昭和」をどう歩んできたか
――『横浜市史Ⅱ』の完結――

東京都立大学名誉教授/石塚裕道
フェリス女学院大学教授・東京大学名誉教授/高村直助
横浜市史資料室嘱託・早稲田大学講師/大西比呂志

左から大西比呂志・高村直助・石塚裕道の各氏

左から大西比呂志・高村直助・石塚裕道の各氏

※資料写真は横浜市史資料室提供

はじめに

吉田橋をパレードする米軍(1946年7月)

吉田橋をパレードする米軍(1946年7月)

編集部横浜市は開港130年、市制施行100周年(平成元年・1989)の記念事業として、昭和60年(1985)に、3度目の横浜市史の編集事業を開始しました。

この『横浜市史Ⅱ』は、本編が3巻・各上下巻全6冊、資料編が8巻9冊の刊行を終え、この3月末に刊行されました16冊目の索引編をもって、19年に及ぶ編集事業が完結しました。

『横浜市史Ⅱ』は昭和5年(1930)から戦争、敗戦、それに続く米軍による占領の時期を経て高度経済成長のもと、1975年に至って、戦後の都市づくりがようやく軌道に乗るまでの約45年間にわたる時期を対象に編集されたものです。

「激動の昭和」とよばれているこの時代を、都市横浜、あるいは横浜の市民がどのように歩んできたかについて、市史編集に伴う資料収集、あるいは研究の成果などをご紹介いただきながら、お話しいただきたいと思います。

ご出席いただきました石塚裕道先生は東京都立大学名誉教授でいらっしゃいます。首都圏形成史研究会の会員(前会長)としてもご活躍のほか『東京百年史』や『川崎市史』なども執筆されました。

高村直助先生は『横浜市史Ⅱ』の代表編集委員でいらっしゃいます。東京大学名誉教授、フェリス女学院大学教授でいらっしゃいます。この4月からは横浜市歴史博物館館長も務めておられます。

大西比呂志さんは横浜市史編集室に長く勤められ、現在は同資料室嘱託、早稲田大学講師でいらっしゃいます。『横浜市史Ⅱ』には「敗戦と横浜市民」(第2巻上)などを執筆されております。

市制100周年を記念して3度目の市史を編集

編集部まず『横浜市史Ⅱ』(以下『市史Ⅱ』)の編集事業についてお願いします。

高村私たちが手がけました『市史Ⅱ』は、横浜市としては3度目の市史編集事業です。

1度目は、1920年(大正9)に発足したのですが、関東大震災で資料が散逸したため、その後急遽、再度資料の収集をした上で、不完全という意味だと思いますが、『横浜市史稿』という表題で、1931年から3年にかけて、全11冊が刊行されました。これは政治編、風俗編など分野別の構成になっています。

1929年ごろの横浜市中心部

1929年ごろの横浜市中心部

次は、1958年(昭和33)の開港100年を前に、新しい市史編纂の動きが始まりました。編集に28年間を要したこの『横浜市史』は、1958年から81年まで、通史編9冊を含めた全34冊が刊行されました。扱った時期は、原始・古代から1920年代あたりまででした。

この『横浜市史』は、貿易商工業都市としての横浜を、経済史を中心に解明するという編集方針でした。その意味で大変特徴のある市史で、非常に水準の高い研究論文も収められており、日本経済史の発展にも大きく寄与した成果であったと思います。

市制100周年を前に、その続編を出したいということになり、今回の編集委員会が発足したのが1985年(昭和60)です。市制100周年の1989年から刊行を開始し、平成15年度、完結しました。

重化学工業化と都市化の2本の柱で編集

高村『市史Ⅱ』を始めるに当たって、高い学問的レベルを維持することは継承しながらも、横浜市自体の歴史的な展開も踏まえて、より広く解明したいと考えました。その場合、重化学工業化が大きな柱になりますが、もう一つ都市化ということを柱に、この2本の柱を軸に、できるだけ広い視野から横浜市の現代の様子を解明したいというのがねらいでした。

時期的には、1930年(昭和5)、昭和恐慌と呼ばれた出来事があり、政治的には、市会議員選挙が初めて普通選挙で行われた年を始点に、そこから戦時にいたる時期を第1巻で扱う。そして、占領から戦後復興にかけての時期が第2巻。1955年(昭和30)ごろからの高度経済成長期の区切りのよい年として、1975年あたりまでを第3巻で扱うことにしました。

また視野をできるだけ広くということで、各分野の当時の若手の方々に編集委員をお願いしました。多くは30代の方で、延べにして13名で進めてまいりました。

資料編は、しばしば見られるような、通史編成に対応させた資料のダイジェスト版ではなく、収集した貴重な資料をなるべくまとまった形で収録することを心がけました。

当初は10年計画だったのですが、予想以上に豊富な資料が集まったこともあり、2度計画を延長し、通史編・資料編ともにかなり拡大して、結局19年間をかけて編集、刊行を進めてきたわけです。

国際化・工業化・都市化の3つの局面をどう組み立てるか

石塚私は出身は東京なのですが、横浜に転入して40年経過しましたから、横浜での居住期間のほうが長い。しかし研究では東京の都市史をやってきましたので、いわば「横浜都民」です。ですから東京と横浜の両方の立場で見ることができるわけですが、まずそれに先立って、ほぼ20年間の長期にわたり、この重要、そして困難な事業を完結させた関係者の方々に横浜市民の一としてお礼を申し上げたい。

私は、研究の中心が19世紀なので、多少的外れなことを申し上げるかもしれませんが、私がもっとも興味がありましたのは、とくに通史編について、どういう組み立てで横浜の都市像または歴史像、つまり都市のイメージが描けるかという点です。

前回の『横浜市史』では、生糸貿易の分析が主要な柱の一つになっていた。横浜は港町ですし、日本で最大の外貨獲得商品として生糸貿易が続いていたわけですから当然ですが、今度は重化学工業化と都市化の2本の柱でまとめられたことには賛成です。

ただ、横浜は19世紀半ばに開港した後も、さまざまな形で国際都市としての側面を持っていたと思います。つまり国際化ということですね。そこには外交史や貿易史、また、多数の中国人も含めて外国人の問題、それから戦争と占領の問題も入りますね。

もう一つは重化学工業化、言い換えれば京浜工業地帯がどのような形で形成・発展してきたのか。中小企業も含めた工業化があります。

さらに都市化の問題では、住宅地などの拡大、また第二次世界大戦後、横浜は東京の首都圏に含まれる。

要約すれば、国際化・工業化・都市化という3つの局面があって、それらが段階的に移行して、お互いが影響し合い、しかも各時期で比重を変えながら重層化し、横浜市という都市ができ上がってくる。

重層的な都市を広い視野で解きほぐす

高村今、横浜の都市としての性格を重層的とおっしゃいましたが、まさにそのとおりで、まず貿易都市という性格があって、それに工業都市が乗っかり、さらに住宅都市という要素が加わり、簡単に言えば三層構造が混在している都市だと思うのです。それをどう解きほぐしていくか。都市史はまだ非常に若い研究分野ですので、私どもは方法論とか議論とかではなく、とりあえず手探りでやってみようということで、かなりトレンチを入れたつもりです。

ハード面で言いますと、都市計画とか港湾設備の問題を正面から問題にした。ソフト面で言うと、市民生活を立てたということが言えます。

「大横浜」建設と工業都市への脱皮をめざした昭和前期

子安・生麦地先の埋め立て 1937年ごろ

子安・生麦地先の埋め立て 1937年ごろ

編集部『市史Ⅱ』は横浜市が関東大震災の壊滅状態から復興した時期から始まりますね。

高村1929年(昭和4)に、震災復興事業としていろいろな記念式典が行われます。通史編の第1巻はそこを踏まえて次の時期から始まります。そこでは「大横浜」の建設ということが大きな課題になってくる。

当時の有吉忠一市長が、三大事業ということを言った。一つは市域拡張によってより大きな横浜をつくる。

産業的には、横浜港の大堤防の建設と市営の埋立事業があります。この埋め立てで、恵比須、宝、大黒の3つの町ができる。3つをセットにして従来の横浜の規模をより広げたうえで、そこを中心に、本格的な重工業・大港湾都市につくり直していく。

ところが、一方では横浜市自体はものすごい財政難を抱えている。極めて矛盾に満ちたなかで動いていったと言えると思います。

震災復興の過程で芝浦製作所(東芝)のような当時の大企業が進出してくるのが顕著になって、市自身がその受け皿として埋立地をつくり、拡大していく。それ以前の横浜はどちらかというと貿易都市で、造船業もありましたが、産業としてはもう一つ見劣りがするというのが正直なところだと思うんです。急速に重化学工業化が進んで、それをさらに市自身が推進する。

編集部工業都市への脱皮ということでしょうか。

高村それを非常に意識したと思います。それから貿易では、1930年の世界恐慌で命綱の生糸貿易がだめになる。レーヨンなどに押されていき、貿易の主軸も、地元の工業化と連動した形の工業港といったものにだんだん脱皮していく。その転換が始まった時期でもあると思います。

震災復興のための米貨公債が市財政のガンに

高村当時、横浜市は震災復興のために大変な借金をしていた。それもほぼ半額がアメリカで、米貨公債、つまりドルを借りた。もともと日本は返すのが困難と見られていたんですが、恐慌の対策で日本は金本位制を離脱したので、1ドルが約2円だったのが5円ぐらいに下がる。輸出貿易にはプラスなんですが、借金はいくら返しても残高はふえていく。

この借金は当時の内務省の指導によったんですが、利子等は面倒を見ると言っていた内務省もそれどころではなくなり、約束違反だと言ってもめる。当時、米貨公債は横浜のガンだと言われていました。市の財政も今の国家財政と似ていて、借金を返す部分がぐっとふえて、一般に使えるお金がどんどんなくなっていく。市営の埋立事業も市債を発行して何とか実現した。当時の半井清市長は官選市長ですが、その手元にあった資料で、米貨公債の借金地獄ぶりがはっきりわかります。

この借金地獄から逃れられるのは、太平洋戦争直前、1941年になってからです。東京が、かねてからの念願で東京開港を主張して、横浜としては絶対反対でもめていたんですが、結局、東京開港を認めるかわりに、横浜市の借金の相当部分を、実質上、政府が肩がわりする。それでようやく身軽になるんです。

都市部だけでなく農村部も併合した第3次市域拡張

横浜市域変遷図

横浜市域変遷図

大西この時期に市域が大きく広がります。とくに昭和2年の第3次市域拡張は規模が大きいんです。横浜が、港湾一帯や関内だけではなく、農村部を都市域のなかに入れたという点で画期的で、都心と周辺部をあわせた大都市の構造の原型があらわれる。

編集部第3次の対象地域は、どの辺ですか。

高村鶴見・保土ヶ谷・神奈川・港北区です。

大西市域の拡張は昭和14年の第6次まで続いて、現在の市域になるわけです。

高村第4次、5次では、文化という要素も考えられていますね。金沢八景、金沢文庫、5次では日吉の慶応大学などがある。合併の前から、市域に入れたいということで水道を供給してサービスもしているんです。文化都市でありたいという願いがあったんじゃないでしょうか。

同時に、4次では横須賀から軍需工場が膨張してくることも意識していますし、住宅地帯として市域の一部を確保したいということもあったと思います。

「大横浜」の建設は国家総力戦に対する工業地造成が目的か

編集部大横浜計画は何のためなんですか。

高村第一次大戦のころから、横浜に限らず、何か説明抜きに大都市はいいことだというのがあったようですね。大阪で『大大阪』という雑誌が出ますし、横浜では『実業之横浜』が『大横浜』に改題する。

石塚東京もそうですね。「大東京」という考え方です。「大きいことはよいことだ」という発想ですね。

高村その場合にはどこを意識しているんですか。

石塚1920年代半ばのアメリカの都市計画なども日本の行政担当者の視野に含まれていたようですが、そのまま実現したわけではない。ただ、「大東京」の誕生(昭和7年)後、拡張された近郊の市域の整備が大変なんです。学校の問題とか、行政組織の再編といった問題をずっと引きずっていく。これらはそう簡単には解決できなかった。

高村横浜もそうです。合併されるほうは負担がふえるんじゃないかという不安を持つから、ふやさないと約束する。結局、水道が決め手になることが多かったですね。

大西鶴見など特にそうですね。その後、周辺部の橘樹郡あたりの動きを見ると、編入の要望として道路を整備してほしいといっている。東京と横浜の間にあって、都市化が両方から徐々に押し寄せてくるなかで、都会志向が周辺部にあった時代でしょうね。

高村第6次の拡張はちょっと異色なんです。横浜は、昭和の初めには6大都市で5番目だった市域の広さが、この第6次で、東京の次の第2位になる。かなり異例の合併ですね。なぜというのは明確には言えないんですけどね。

大西国家総力戦に対応する工業地帯の造成ということがよく言われますね。

高村市街地らしいところが余りないのに、市になるというのはどうかと内務省も首を傾けた。ある意味、戦時だから強引にできた。戦争に備えての工場の分散とか、住宅地の確保とか、疎開につながるような論理があったかもしれませんね。

1度は急増した人口も戦時下には疎開などで3分の2に減少

編集部戦時体制のなかでの横浜市は、翼賛選挙など、いろいろ行われている。

大西横浜は、震災後の有吉市長のときもそうでしたが、大きな危機のとき、市内の政争をやめ、結束して市長を支える。これは有吉市長以来の協調体制で、半井市長のときにもそれがあった。戦時下では翼賛体制に移行しますが、横浜の政財界はかなり結束した状態で市政の運営が進みます。

この時代の横浜は、非常に景気がいいんです。伊勢佐木町などは賑わっていますし、戦争が始まったとは思えないような活気があった。

高村1930年代は、人口も急増して、見かけ上、すごく繁栄した時代なんです。

編集部そのころ都市計画はないのですか。

高村米貨公債問題が解決した1941年(昭和16)に都市計画をつくるんです。ところが、お金はできたけれど、今度は統制で資材が手に入らなくなる。絵にかいた餅で終わってしまう。非常に皮肉ですね。年末には太平洋戦争が始まり、翌年になると米軍による本土初空襲がある。

編集部昭和20年になると、市の人口が3分の2ぐらいに減少しますね。

高村1度100万都市になったんですが、途端に疎開などで減って、60数万人になってしまう。5月29日の空襲では、517機のB29が飛来して市の中心部を焼き尽くし、7,000人以上の方が亡くなったと推定されています。

日本占領の拠点となり復興が遅れた戦後期

占領軍のカマボコ兵舎 1950年ごろ

占領軍のカマボコ兵舎 1950年ごろ

編集部第2巻は、敗戦から高度成長が始まる以前の昭和30年ぐらいまでが描かれていますね。

高村占領は日本全体ですけれども、特に横浜は、軍事占領の拠点になったということで、ほかよりも極端に影響が出たと言えるのではないでしょうか。

第8軍司令部がおかれていた横浜税関ビル

第8軍司令部がおかれていた横浜税関ビル

アメリカで第8軍関係の資料を大分集めまして、その組織等が明らかになりました。第8軍の軍事支配地域は当初東日本だけだったんですが、間もなく全国に及び、その司令部は中区の横浜税関ビルにあった。

それもあって終戦連絡横浜事務局が日本側の窓口になるわけで、そういう意味では市が日本全体の占領政策の要の位置になっていましたし、それに伴って接収面積が非常に広かった。特に中心部の中区の3分の1ぐらいが接収され、港湾は大部分が接収という状態が続きます。ですから、沖縄は別として、占領の影響がもろに出た地域だと思います。

石塚横浜は幕末に1度、外国人居留民の警備を名目に外国軍隊の駐留を経験しています。これが英仏の駐屯軍です。その後90年余りを経て、太平洋戦争の直後に進駐という形で米軍に占領される。つまり、2回にわたって外国の軍隊の駐留を経験した。そのような都市は、日本の中でも例がないのではないか。

今回、太平洋戦争直後の米軍進駐について、外国の資料をたくさん集められた。それを基礎にして自治体史の編集を進めたことは、他に例を見ませんね。

アメリカの国立公文書館から米第8軍の資料を収集

対日空爆目標情報1対日空爆目標情報2

対日空爆目標情報
アメリカ議会図書館蔵

大西海外の資料を積極的に集めましたが、自治体史、地域史で、外国の資料を利用した最初の例になったのではないかと思います。

ワシントンのナショナル・アーカイブス(国立公文書館)には、東京裁判や横浜裁判の資料も随分あります。単に占領期の資料に限らず、直接横浜にかかわらないものも『市史Ⅱ』として収集しました。アメリカ議会図書館には、米軍が1945年、終戦直前に撮った航空写真などもあります。上に掲載した写真です。航空写真や地図は他都市に先駆けて集めた重要な資料だと思います。

高村第8軍関係の地図を本編第2巻(下)の口絵に使いましたが、テキサスアベニューなど、横浜市内の地図に英語の名称が入っているのがあります。

大西国や自治体史では、終戦直後の状況について、改めて調査をする必要がでてきています。当時、日本軍は資料を焼却するなど、かなり処分しましたので、戦時期の状態を明らかにするにはアメリカの資料が非常に有用であると最近認識されております。とりわけ第8軍の資料にはそういったものが含まれていますので、国や他の自治体史からの問い合わせもあります。

高村戦後すぐ、米国戦略爆撃調査団が爆撃の効果を調べるためにやってきて、日本人からいろいろと調査をした膨大な資料もあります。これは国会図書館政治資料課でも集めていますが、全部ではないんです。我々が集めたものの中には、国会図書館にもない部分がありまして、情報提供をしたこともあります。

メリーランド大学のプランゲ文庫にも注目して調査

大西占領期の資料で言えば、メリーランド大学のゴードン・プランゲ文庫が重要です。これは占領直後の日本各地の新聞・雑誌のコレクションとして、最近大分知られるようになりました。

ゴードン・プランゲ氏はGHQの参謀第2部(GⅡ)の歴史セクションの課長で、もともとはメリーランド大学の歴史の先生です。真珠湾攻撃の小説『トラトラトラ』の原作者としても知られてます。彼はGHQで勤務する間に、当時行われていた日本での検閲のために全国各地の新聞や雑誌、壁新聞まで含めて収集した。それをアメリカに持ち帰り、母校のメリーランド大学に寄贈したものがプランゲ文庫です。1945年から48年ぐらいまでの間の、全国のそれこそ同人誌から、カストリ雑誌みたいなものまで、日本には残っていないような貴重なものが保存されています。

その存在は、一部では知られていたんですが、地域の資料として注目して集めたのは『市史Ⅱ』が最初で、それによってメリーランド大学でもその価値を認識するようになったんです。

高村リチャード・デヴェラルという人の資料は、カソリック大学から収集した、普通、記録に残らないような占領期の労働関係の資料です。占領軍の物資の陸揚げなどに港湾労働者が大規模に雇われていて、「組」に支配されていた。組組織があって「組」のボスがいるということを、非常にビビッドに調査していて、横浜の港はずいぶん賑わっていたことがよくわかる。これは日本側の資料では全くわからないんです。資料編の第5巻に収録してあります。

石塚そういう資料のあり方から見ますと、東京にも似た共通点があって、関東大震災と東京大空襲という2回の大災害のなかで、都心にある公共機関などの資料は、ほとんど焼失ないし散逸してしまった。そうした部分を外国の資料から追跡するという調査・研究の突破口を開いてくださったわけですね。

高村1949年には日本貿易博覧会をやって復興の気炎をあげ、翌50年には横浜国際港都建設法が成立しますが、これは実は財政の裏づけがない議員立法で、一種の精神論だったんです。

1941年につくった都市計画は、戦争で実行できなかった。戦後は市街地の中心部が米軍に接収されて麻痺しているのでできない。そういう状態の中で高度経済成長期に入っていくことになる。これは後で非常に大きな問題になっていきます。

重化学工業化が進み、歪みも生じた高度成長期

1959年に埋め立てが開始された根岸湾

1959年に埋め立てが開始された根岸湾

編集部第3巻は、1955年頃から75年まで、新しい都市へ脱皮していく時期ですね。

高村この時期の重化学工業化は、すさまじい勢いで進みます。戦前の埋め立ての発想の延長で、市自体が次々と臨海部を埋め立てる。戦後最初が大黒町地先で、それから根岸湾、本牧埠頭に関連して産業用地をつくる。最後は金沢地先で、結局、自然の海岸線がなくなってしまうわけです。

一時期は、海岸沿いに鉄道ができて、山下公園の手前に高架線が走っていた。これは実現しなかったけれども、山下公園の、氷川丸のあるあたりに埠頭をつくる計画があったんです。もしできていたら、公園はどうなっていたかわからないという状況です。

高度経済成長の初期には公害もすでに出ていたんですけれども、当初は、石炭を燃やすからいけないんだという認識で、市会の全員協議会の記録を見ても、根岸湾埋め立てのときに、公害を心配する人に対して、「今度は石油だから安心だ」などと説明している。市自身が、猛烈に工業化路線に走ったと思います。それに対する批判にも、議員さんが「工業化がなぜ悪いんだかわからない」と非常に頑張っている。

都市計画ができていないところで一挙に発展した。さらに、東京の巨大都市化に伴って住宅地化も進む。いくつもの要因が重なって人口が激増し、たちまち200万人を超えてしまうんです。中学校を何百校もつくらなければだめだという時代に突入していく。

高度経済成長による歪み、ということがよく言われますが、それが横浜では極端にあらわれたと思います。と同時に、それに対する対応策も割に早く出てくるのも特徴で、その意味では、高度経済成長期を見るうえで典型的な都市なのではないでしょうか。

高度成長の歪みとともに始まった飛鳥田市政

新旧市長の引き継ぎ(1963年4月23日) 左・半井清氏から右・飛鳥田一雄氏へ

新旧市長の引き継ぎ(1963年4月23日)
左・半井清氏から右・飛鳥田一雄氏へ

大西その典型が、飛鳥田一雄さんの市政でしょうね。幸い、飛鳥田家からたくさんの資料を寄贈していただきましたし、当時の「飛鳥田ブレーン」と呼ばれたような人たちがお元気で、インタビューもさせていただきました。3巻(下)に収録しました。

高村飛鳥田さんは1963年(昭和38)が初当選です。まさに歪みが出てきたときに飛鳥田市政が始まる。

大西飛鳥田さんは磯子のご出身で、県立神奈川第一中学校(現・希望ヶ丘高校)を卒業して明治大学に進学されました。お父さんの後を継いで弁護士になられ、横浜のBC級裁判の弁護人もなさっています。その後社会党に入り、国会安保三人男と呼ばれる革新の旗手で非常に人気があったのですが、昭和38年に国家議員から転じて市長選挙に立候補した。

高村全国的には1955年に保守合同で、自由民主党が結成されますが、このときの横浜市長選挙は国政の代理戦争のような保守分裂選挙になったんです。

大西その間隙をぬって、社会党の飛鳥田革新市政が誕生した。3巻(下)の飛鳥田市政期の分析によると新住民と呼ばれる市域への転入者層が飛鳥田さんの支持層だったということですから、まさにそういう高度経済成長期の横浜の歪みを象徴するような形での登場だったんです。

さまざまな試みをエネルギッシュに実行し市民がそれを支援

臨海部の大気汚染(神奈川区) 昭和40年代前半

臨海部の大気汚染(神奈川区)
昭和40年代前半

編集部飛鳥田市長は、いろいろな政策を推進されましたね。

高村公害問題には非常に早く手をつけましたね。特に根岸湾埋め立てに伴って、まさに石油を燃やしたことによる公害が発生し、地元の医師会などの尽力もありましたけれども、いち早くそれを取り上げる。当時は法律さえ犯していなければ何をやってもいいという時代で、法律自体が後れていたわけです。そういうなかで個々の企業と市が協定を結ぶ形で規制をかけていくことを始める。それが「横浜方式」と呼ばれて広がっていくことになります。

当時は高度経済成長の真っただ中で、企業が「それじゃ引き揚げる」と言っても、かわりに出てくる企業がある状況だったからできたと、飛鳥田さん自身が言っています。「いやならいいですよ。ほかにもいますよ」と言えたわけですが、今考えても、かなり思い切った規制を企業に承認させているんです。

公害センターのような市の組織をつくって、対策を企業の技術者と共同で研究することもされたようですね。

大西米軍の相模補給厰からベトナム戦線に送られる戦車を村雨橋でストップさせたこともありました。

高村接収中のノースピア(瑞穂埠頭)に向かったところを、道路法という法律を利用して、道路については市に規制する権限があるということで、埠頭入り口の村雨橋で戦車を止め、相模補給厰へUターンさせた。

大西公害問題とか反戦問題とか、社会党的な市長で、革新市長会のリーダーでもあったわけです。横浜市政について言えば、福祉行政、子ども重視の行政も進めました。

高村「おぎゃあ植樹」とか「市民の森」とか。「市民の森」は、個人の所有する森を、税金を免除するかわりに市民に提供してもらう。今もそれは生きていますね。

大西また、1万人市民集会という直接民主制みたいなこともやる。いろんな試みをやって、また市民はそれを支援した。非常にエネルギッシュな市政の時代でしたね。

高村その前の半井さんとは、スタイルが全然違ったようです。両方の秘書をした人からお話を聞いたんですが、半井さんは秘書には直接口をきかないんだそうです。紙切れを渡す(笑)。電話に出ないときは手で合図をする。

飛鳥田さんは全く逆で、秘書に「立ってないで座って話しなさい」と言う。市長室のドアもあいている。

飛鳥田市長時代の6大事業で現在の横浜の骨格が決まる

編集部横浜市の都市計画は、ようやく飛鳥田市長のときに、例えば6大事業という形でできてくるということでしょうか。

高村そうですね。都市計画自体はその前からありましたが、専門家を市の幹部に招いて、いろいろな事業を有機的に関連づけながら、福祉の要素も取り込んで仕上げたのは飛鳥田時代、特に1966年(昭和41)の総合計画が打ち出した6大事業です。

戦前の都心は関内、伊勢佐木町だったのが、戦後、特に高度経済成長期に横浜駅周辺が急速に賑わってくる。しかし、その中間に横浜造船所があって分断されている。ここをつなぎたい。市の中心部の強化、これが今の「みなとみらい」(MM21)事業になっていくわけです。

市の南部では金沢の埋め立てです。これも以前からあったんですが、中心部の公害を出しそうな中小企業を移すことを加味して計画を手直しする。根岸、金沢へと拡大していくと物流が問題になって、東京方面への輸送自動車が市の中心部を通ると、大渋滞になりますので、バイパスとしてベイブリッジをつくり、道路網を整備する。行き詰まってきた市電にかわるものとして市営地下鉄をつくる。

もう一つは、住宅の乱開発を避けて、港北ニュータウンという20万都市をつくる。そういうかなり整合性のあるプランにまとめ上げたのが大きい。それがほぼ実現しますが、今の横浜の骨格はそこで決まってきたのではないかと思います。

「五重苦」に立ち向かう市民など歴史の様相を描く

高村編集事業発足当時の市長だった細郷道一さんは横浜の「五重苦」ということをよく言っておられました。大震災、昭和初めの経済恐慌、戦争と空襲、占領と接収、人口爆発の5つです。

大震災を米貨公債問題に置き換えると、この5つはいずれも『市史Ⅱ』が扱った時代の問題でした。そしてこれらの苦難に立ち向かいながら、急速な重化学工業と都市化が進行した。さらに、当初、ようやく普通選挙を実現した市民が、これらに伴う公害や都市問題に対して声を高めてきた。こういった歴史の様相を資料に基づいて描き出すことができたのではないかと考えています。

市民や企業の協力で充実した資料編

編集部資料編は全部で9冊ですね。

高村その資料についてですが、発足当初は非常に厳しい状況にありました。というのは、前の市史で集めた資料は、その後開設された横浜開港資料館に移管されていました。その中には現代の関係の資料もかなりあったんですが、それは私どもの編集室にはない。実際にあったのは、『横浜の空襲と戦災』を以前刊行した「横浜の空襲を記録する会」が集めた資料だけと言ってもよい状態でした。

しかも、震災、戦災を経た横浜市域は、資料の残存状況がよくない。そういうなかで資料を積極的に探索すると同時に、市域の外に向かって、さらには国外にまで資料を求めていこうという方針をとりました。幸い行政当局の支援がありまして、アメリカ等で海外資料を収集しました。これは恐らく地方自治体史としては初めての試みであったと思いますが、その結果、膨大な資料収集ができました。

大西今回、資料編が各巻独自のかなり大部なものを出したことも、一つの大きな特色だと思うんです。市史の編集事業は通史の刊行が一つの柱になりますが、それと同時に資料を収集して保存するという仕事があります。結果として資料編には収録されていない資料が無数にあるんですが、そういう調査もずっと続けてきました。

そういう中で、市民や企業に大変協力していただいたことは幸運だったと思います。

石塚私もいくつかの自治体史を手がけましたが、『東京百年史』全6巻は1972年から73年の編纂で、資料編を刊行していないで、通史編を執筆するように指示された。

また、『川崎市史』のときは、川崎市も震災と戦災に遭っていますから、企業も行政も、資料を余り保管していない。大手の企業にも調査に行きましたが、結局、断片的な資料しかない。経営資料などはまったくないのです。歴史学は実証科学ですから、どうしても資料がなくてはできないのです。

横浜も川崎も、一方で資料を集めながら、片方で歴史像を組み立てる。これは辛いことだと思いますね。

半井市長の日記や企業・港湾関係など豊富な資料を収集

高村今回、資料はいろいろ自発的に提供していただきましたね。

大西はい。六角橋の山室さんや綱島の飯田家などの地域の有力者、さらに市会議員や、歴代市長のお宅、市役所のOBの方々も非常に協力してくださいました。

市長については、有吉忠一さんの資料は開港資料館に収蔵されてますが、その後の大西一郎、青木周三、半井清、とくに半井さんのお宅からは大変多くの資料をご提供いただき、「半井日記」は、今回の政治関係資料の大きな柱になりました。そして戦後の石河京市、平沼亮三、飛鳥田一雄。皆さんがご協力くださいました。飛鳥田さんからは市長の公務の日録です。市会議員では赤尾彦作さん、小串靖夫さんから随分協力していただきました。

また企業関係では、日本鋼管の副社長だった松下長久氏の夫人のお宅から大量の資料をいただきました。

高村港湾関係では鮫島茂さん、OBの河合光栄さん。

大西港湾関係では、大変貴重なコレクションを『市史Ⅱ』にいただくことができました。そういった資料は、通史、資料編ではごく一部しか活用されていませんので、今後の利用が期待されます。

膨大な収集資料を保管・公開する資料館の開設に期待

『横浜市史Ⅱ』

『横浜市史Ⅱ』

編集部集められた資料は今後どうなるんでしょうか。

高村今回の事業を始めるとき、当時、横浜開港資料館の館長でいらした遠山茂樹先生のところにごあいさつに行ったんです。そこで、「資料を集めるに当たっては、ただ市史を書くためだけを意識して、つまみ食い的に集めるのではなくて、将来、資料館的なものができるんだということを信じて集めなさい」という助言をいただきました。そのとおりと思って、それを極力実行してきました結果、膨大な蓄積になりました。

実は、前回のように、受け皿として何らかの資料館的な施設ができるということは、現在、何も決まっておりません。今、決まっておりますのは、当面、収集した資料の公開のための整理を進めることを、3か年間やってもよろしい。その間順次、一部であれ公開していくというところまでなんです。

これらの資料は市民にとっても貴重な財産だと思いますので、整理したうえで、しかるべき機関を設けて、広く活用されるべきものと考えておりますし、その点について、大変心配もしているのですけれども、ぜひ市民の方々のご支援も得たいと思っております。

石塚市民に対する責任もあるし、後世のことを考えると、どうしてもそれはやっていただかないと困ります。50年ぐらい将来を見て、ぜひお願いしたい。

編集部いろいろとご意見をありがとうございました。

石塚裕道(いしづか ひろみち)

1929年東京生れ。
共著『東京都の百年』山川出版社 1,903円+税、ほか。

高村直助(たかむら なおすけ)

1936年大阪市生れ。
代表編集『図説・横浜の歴史』 横浜市市民局 3,107円+税、ほか。

大西比呂志(おおにし ひろし)

1955年香川県生れ。
著書『横浜市政史の研究』有隣堂 5,200円+税、ほか。

※「有鄰」437号本紙では1~3ページに掲載されています。

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